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松葉用水・北前堀

六郷用水の能登川堀(逆川)は、JRと京急線の中間地点であるあやめ橋付近
で吞川に水を落とすが、吞川を400mほど行くと水は再び用水へと取り込まれる。
松葉用水といい、その先は北前堀に通じて、東京湾(現在は海老取川)へと注
いでいた。
今回はその松葉用水・北前堀を辿ってみたので、紹介することにしよう。

京急蒲田駅の東口、第一京浜が呑川に架かる夫婦橋の下流側の右岸に、南
へと曲がっていく道がある。
この道路が松葉用水の水路跡である。
(写真は夫婦橋から吞川の下流を撮影したもの)
2015-02-21_62.jpg
松葉用水を取水した堰は、夫婦橋の上流にあったという。
夫婦橋という橋名も、吞川に架かる橋と松葉用水に架かる橋があったことに由
来する。

こちらが松葉用水跡の道路。
2015-02-21_64.jpg

道の右側に本門仏立宗の天声山久遠寺がある。
創建は昭和5年(1930)と比較的新しい。
戦災後、昭和22年(1947)に寺号を久遠寺とし、昭和25年に再建した。
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その先にあるのが、天台宗の熊野山安泰寺
貞観年間(859~876)、 慈覚円仁により芝高輪に開創されたと伝えられる。
明治28年(1895)に現地に移転、東海三十三観音霊場の32番札所となっている。
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その先で道は2本に分かれるが、ここは左の道へと進む。
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その道を辿っていくと、さらに日蓮宗寺院の清光山妙幸寺が道沿いに建つ。
貞享元年(1684)、清光院日仁の開基と伝えられる。
日仁は眼病治癒の法力を修得し、諸国修行の途中、此の地に至り、眼病に悩
む人々を救うためにここの留まった。
日仁の没後、その法徳を残すために一庵を建立したのが、寺院の始まりという。
清光教会と称していたが、平成6年、妙幸寺と改称した。
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蛇行する道路、写真に写る渡商店の前にはかつて石橋が架かっており、石橋屋
と呼ばれていたという。
2015-02-21_78.jpg

その先、更に蛇行しながら進む。
この辺り、すぐ北に吞川が流れ、並行しながら東進する。
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ただし宝来橋から先の吞川は昭和10年(1935)、新しく開削されたルートだ。
元々、吞川は北東方向へ向きを変えて流れていた(現在は旧吞川緑地となって
いる)が、下流の低地はしばしば水害に悩まされていた。
そこで新吞川を開削、洪水・氾濫を防止させた。

西糀谷二丁目交差点で、一旦、松葉用水を離れ、呑川の北にある小泉家墓所
を紹介しておこう。
六郷用水を開削した小泉次太夫は、その功績により下袋村(現:北糀谷)に領
地を得た。
次太夫の墓は川崎の妙遠寺(二ヶ領用水大師堀参照)にあるが、小泉一族の
墓は下袋村の円龍寺に設けられた。
その円龍寺が廃寺となったため、現在は北糀谷1丁目の住宅地の一画にひっ
そりと残る。
月極駐車場の奥にあるなんともいえない空間である。
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松葉用水に戻り、産業道路を越えて300ほど行くと、道路脇に北前堀緑地
現われる。
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ここには昭和23年(1948)、北前堀排水場が造られ、水害防止対策として地
域住民に貢献していた。
下水道の普及により昭和46年(1971)に廃止、同55年(1980)に埋め立て
られて緑地内となった。

緑地内には散策道や児童遊具が設置されている。
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中ほどには北前橋が架かり、一般道を横断することなく緑地の東西を行き来
することができる。
橋そのものは昭和59年と、埋め立て後のものだ。
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緑地の先は北前堀の水路となる、
こちらは堀の先端にある船揚用のレール。
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さらには昭和41年に造られた北前堀水門
水門の内側はモーターボートや小型漁船の船溜まりとなっている。
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北前堀の水路は200mほどで。多摩川から分岐した海老取川(海老取運河)
に合流する。
合流地点の対岸は羽田空港であり、行き来するモノレールを望むことができる。
2015-02-21_108.jpg

《参考文献》
『六郷用水聞き書き』 六郷用水の会編


 
目次
   
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六郷用水 能登川堀(逆川)

大田区東矢口3丁目付近で六郷用水南堀から分かれ、蒲田駅前付近を通って
呑川へ水を落とす能登川堀を追った。
(能登川堀という名称は、大田区立郷土資料館に展示されている地図に基づく)
蒲田駅東口付近では逆川という名前で呼ばれているので、逆川と言ったほうが
ピンと来る方も多いであろう。(川名の由来は後述)

六郷用水南堀と能登川堀の分岐点は、南堀が東急多摩川線と交差する手前
である。
写真手前の広い道路が南堀跡(右手は線路のために行き止まり)、能登川堀
は多摩川線沿いに東へと進む。
2015-02-21_5.jpg

その道路を辿っていく。
蛇行するわけでもなく、数百メートルを直進する。
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やがて道は多摩川線の踏切に差し掛かる。
水路の痕跡は皆無であるが、僅かに道路上に埋められた「六郷用水物語」の
タイルが水路であることを教えてくれる。
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踏切を渡って線路の南側に出てさらに東進、前方には東急の蒲田駅が見えて
くる。
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そのまま進むと、蒲田駅の南で東海道線や京浜東北線の線路に遮られる。
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蒲田駅の東に出ると、大田区役所付近を通り、北に流れる呑川を目指して方
向を変える。
前述の通り、蒲田駅東口では逆川と呼ばれるため、以降、この名称を使って
紹介することにしよう。
逆川という名前は、地形や潮位などの影響により、しばしば逆流したことから
名付けられたという。
昭和40年頃、下水道の普及に伴い、逆川は埋め立てられた。

逆川はアロマスクエアの敷地の脇を通っていたようだ。

そのアロマスクエア内にある区民ホール・アプリコの入口にはかつて逆川に
架かっていた松竹橋の親柱が保存されている。
説明板によると、戦中・戦後の混乱期を経て、現存しないものと思われてい
たが、地元の思いを知った鎌倉在住の方から寄贈されたものだという。
2015-02-21_23.jpg

アロマスクエアの敷地はかつて松竹キネマ蒲田撮影所であった。
大正9年(1920)、松竹キネマ合名社は、この地に焼く3万㎡(約9千坪)の撮
影所を開設した。
昭和11年(1926)、大船へ移転するまでの間の12年間に1200本余の作品
が作られたという。

アプリコの地下には、撮影所のジオラマが設置されている。
撮影所脇には逆川が流れ、入口に松竹橋が架けられているのが再現されている。
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ちなみにアロマスクエア前庭にも松竹橋があるが、こちらはイミテーション。
映画『キネマの新地』(1986年公開)に使用されたセットを設置して、松竹映画
発祥の地の記念碑としている。
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アロマスクエアから、その名も「さかさ川通り」と名付けられた区道を辿っていく。
平成26年、地域住民の方々が中心となって、川をイメージしたデザインの新
しい通りとなった。
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この通りの地中送電化(共同溝設置工事)を施工している段階で、地中に埋
まっていたかつての逆川のコンクリート護岸が姿を現した。
下の写真は、逆川跡見学会に参加した際に撮影した写真である。
その時の説明では、川幅は3.4m、護岸の高さは2mほどということであった。
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その先、商店街(旧多摩堤通り)との交差点にはかつて蒲田橋の親柱が存在
していた。
(写真は交差点からアロマスクエア方面を望む)
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その親柱は、さらに50mほど行った呑川沿いに移設・保存され、六郷用水や
逆川のことを記した説明板が設置されている。
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こちらは説明板に掲載されている蒲田橋の写真。
2015-02-21_56.jpg
前述した見学会の際には親柱は上記交差点の位置にあり、今後の処遇につ
いて未定とのことだったが、数多くの親柱が消えていく中で、このように保存さ
れたことは嬉しい。
ただ、元々の位置から数十メートルも移動しているのは少し残念だ。

その親柱がある場所で逆川は呑川と合流していたが、今はその痕跡をみる
ことはできない。

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目次
  

砂川用水 3

砂川用水は府中街道を越え、数百メートルほど先の上水本町ビオトープ公園
で北へと向きを変える。
こちらがその上水本町ビオトープ公園、冬場だったせいか水はない。
ビオトープと名をうっているので、季節に関わらず親水公園として機能するこ
とを期待したい。
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この辺りの地下にはJR武蔵野線が小平トンネルで突き抜けている。
水路は1ブロック東へ移り、上鈴木稲荷神社に突き当たる。
二ツ塚緑道が西側の府中街道から二百メートルほど続き、ここで合流する。
神社脇には緑道の説明板があり、そこには「緑道は砂川用水の用水路敷地を
整備したもの」という記載がある。
さらには、府中街道の西側の住宅街の中の上鈴木緑道という百メートルにも
満たない通路があり、その杭にも「砂川用水」の文字が書かれている。
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ここで1つの疑問に突き当たった。
砂川用水はこれまで辿ってきた通り、五日市街道から北上してきたルートでは
ないのかということである。(記事末尾のGoogleMap参照)
稲荷神社の地で砂川用水は上鈴木分水(詳細は後述)へとつながり、以降、
上鈴木分水のルートを流れていく。

分水口改正以前の上鈴木分水は、鷹の台付近に設けられた分水口から、玉
川上水の水を取り込み、緑道のルートを通って稲荷神社へと達していた。
緑道はこの上鈴木分水の流路上であることは確認できたが、小平市による説
明板や杭には砂川用水とはっきりと記載されている。
小平の図書館(津田図書館)に資料を求めたが、記載している資料を探すこと
はできなかった。
(砂川用水から分かれた小さな用水路があったのではないかとも考えた)

歩く際に参考とさせて頂いたimakenpressさんのブログには、上鈴木分水
であるとのコメントが寄せられている。

また前項の記事を書いた後、tokyoriverさんからTwitterで「野中新田分水
の北堀と南堀は西武国分寺線の踏切近辺で合流したのではなく(前項参照)、
分水口改正以降、北堀は北上して上鈴木分水に繋げられた」という旨のご助
言を頂戴した。

tokyoriverさんの説は当初の自分の仮説に近いものがあり、大いに参考に
なるが、国分寺市の説明板に記載された地図(前項、並木図書館近くにあるも
の)やその他の資料では、当該付近で北堀と南堀が合流していると記載されて
いることも確かである。
この件は謎であり、今後、機会があれば調査をしていきたい。

話を先に進めよう。
先ほど記した上鈴木稲荷神社は享保8年(1723)、新田開発の際に貫井村
(現小金井市貫井町)から稲荷神社を勧請し、鎮守として遷祀した。
明治41年(1908)、下鈴木(現小平市鈴木町)の稲荷神社に合祀されるが、
地元の強い要望により、昭和27年(1952)に再び上鈴木の氏神として遷座し
たという。
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上鈴木稲荷からは再び東へ進む。
住宅街では道路に沿って暗渠化されているが、その先は林の中に入ってしまう。
そのため玉川上水沿いの道に大きく迂回する必要がある。
2015-02-14_55.jpg
上鈴木稲荷から下流の区間は、元は上鈴木分水として造られたルートとなる。
貫井村の鈴木利左衛門が中心となって鈴木新田を開発したが、水利が悪く開
発は失敗する。
享保11年(1726)、鈴木新田はの野中屋善左衛門の手に渡り、開発が進み、
享保19年(1734)に分水が開通した。
前項で記載した野中新田と同じく、享保17年(1732)に村分けが行われ、
鈴木利左衛門の息子の利左衛門春昌が再び名主となり、鈴木新田として独立
したという。
なお、鈴木新田は玉川上水の北にも広がり、北側を下鈴木・堀鈴木、南側を
上鈴木と称した。

林の中から出てきた砂川用水は、玉川上水沿いへと向かう五日市街道とクロ
スする。
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五日市街道の先は空堀に沿って道路が続く。(但し一箇所だけ通行不能の区
間があるため、注意が必要)
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北に並行する五日市街道は交通量が多いわりに歩道がないため、堀沿いの
道路は生活道路として利用されているようで人通りもある。
西武国分寺線付近で水流が失われてから1.5kmほどの位置に当たるが、仮
にこの辺りまで水が流れていれば、親水性が高まったと思われ、少し残念な
気がする。
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用水沿いの道路は西武多摩湖線まで続く。
その西武多摩湖線との交差部分では、小さな鉄橋を目にすることもできる。
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西武線の東側には、上水南町稲荷神社が鎮座する。
ここは野中新田の中でも善左衛門組に属し、堀端野中と呼ばれた地区である。
元文元年(1736)に組頭の六左衛門などが、堀端野中の産土神として稲荷神
社を勧請遷祀したと伝えられている。
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西武線より先は再び水路沿いの道は無くなり、迂回の連続を強いられる。
2015-02-14_86.jpg

国分寺街道と交わる箇所では、用水脇に火の見櫓が立っている。
用水と櫓、なかなか面白い光景だ。
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その先も水路は住宅街の中を抜けていく。
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新小金井街道の先では、小金井分水の分水口の水門が残されている。
小金井分水は南へと分かれ、仙川を築樋で越えて国分寺崖線を下り、野川に
落とす用水で。元禄年間(1688~1704)頃に造られた分水だ。
2015-02-14_103.jpg

小金井分水を分けた後も、更にクネクネと空堀は東へと延びていく。
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その先に水車跡の説明板がある。
ここには享和3年(1803)に造られた島崎水車と呼ばれる水車があり、製粉用
として使われていたようだ。
大正3年に島崎橘之助が買い取り、島崎エボナイト工場としてエボナイトの分
粉加工を行っていたという。
水路の南側には「く」の字の形状をした、廻し堀と呼ばれる水吐用の補助水路
があったという。
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砂川用水に架かる橋、橋の前後は数メートルの道幅がある一般道だが、なぜ
か橋の部分だけ狭くなり歩行者専用橋となってしまっている。
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桜町1丁目付近で砂川用水は、いったん南へと振れ、その後、北へと向きを転じる。
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玉川上水沿いへと達し、道路を挟んで玉川上水と並行する。
上水と出会うのは、上流の取水口~天王橋以来のことである。
ただ、玉川上水は名所として注目されているのに対し、砂川用水は目立たない
存在であることを再認識させられる。
2015-02-14_148.jpg

この先、砂川用水は梶野新田分水・境分水へと繋がる。
砂川用水としての項は、関野橋付近で結ぶこととする。
2015-02-14_156.jpg

《参考文献》
『玉川上水系の用水の地域に果した役割に関する調査
             -砂川用水の水利用を中心に-』 小坂克信



目次
  

砂川用水 2

国分寺市に入ると、砂川用水は五日市街道を挟んで南北2つの水路(南堀・
北堀)に分かれる。
そして、砂川三番以来、ようやく用水堀を目にすることができる。
特に南堀には水が流れており、用水らしい姿を今に残している。
2015-02-07_94.jpg

この辺りの水路は、前項で述べたとおり、元々、野中新田分水として開削され
た水路である。
上谷保村(現国立市)の矢沢藤八と円成院(現小平市)を開創した大堅和尚ら
が発起、懇願し、享保9年(1724)に開発が許可され、上総国の野中屋善左衛
門に冥加金の調達を依頼して開発された。
分水自体の開通は享保14年(1729)である。
野中新田は当所だけでなく、玉川上水の北側などにも点在しており、享保
17年(1732)、名主の名をとって「善左衛門組」「与右衛門組」「六左衛門組」
に分けられた。(この辺りは六左衛門組に属する。)
また、榎戸新田も入り組んでいたので、榎戸分水という別称もある。
(野中新田については野中用水1の項においても説明しています。)

ということで南堀と北堀をそれぞれ、辿ってみることにする。

南堀は五日市街道の南側の数十メートル付近を流れていく。
用水沿いに道は無く、街道への迂回をしつつ、水路を確認しながら進んでいく。
2015-02-07_109.jpg

南堀に沿って、鳳林院がある。
享保13年(1728)、前出の大堅和尚が円成院から引寺して創建した。
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さらに迂回すると、並木図書館の脇では、砂川用水の説明板とともに用水の
親水エリアが整備・設置されている。
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上部にパイプが設置された南堀、今までひたすら五日市街道沿いを歩くだけの
行程であったが、やはり水の流れが心を癒してくれる。
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南堀は所々でカクカクと曲がっている。
こちらはほぼ直角に曲がっている箇所、マンホールが気になる。
2015-02-07_133.jpg

南堀と西武国分寺線との交差箇所、こちらには「榎戸南用水開渠」と記されている。
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西武線との先、南堀は五日市街道に接近し、北堀と合流する。
ただ、水の流れは無く、空堀となってしまっている。
水路は民家の敷地内を抜けていくため、確認する術はないが、線路との交差
する場所の前後で、下水道へと流れこんでしまうのだろうか。

(2017.12修正)
再訪した際、西武線の先も通水されていることを確認した。

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さて、再び立川・国分寺市境に戻り、今度は北堀を追う。
記事の都合上、南堀と北堀を分けて記しているが、2つの堀は五日市街道を
はさんで百余メートルしか離れていないので、両方を交互に見ながら進むこと
は勿論可能である。

北堀は南堀とは異なり、最初から空堀である。
南堀が顔を出す地点の道路の反対側には、北へ数十メートルほど進む空堀
を確認できる。
2015-02-14.jpg

こちらも南堀と同様、迂回を繰り返して辿っていくことになる。
野中新田に限ったことではないが、この周辺の新田は短冊状の区割で分けら
れていた。
その名残が現在の道路の形状にもあらわれており、五日市街道から直交した
形で道路が延びている。
そのため、どうしてもこのような迂回を強いられることになってしまうのである。
2015-02-14_8.jpg

国分寺高校北交差点の北側に曹洞宗の瑞雲山妙法寺がある。
境内には国分寺市指定文化財の「川崎・伊奈両代官謝思塔」が立っている。
2015-02-07_104.jpg
脇に立つ説明板を要約してみる。
新田開発は凶作などにより窮乏していたが、元文4年(1739)に武蔵野新田
開発の世話役となった、押立村(現:府中市押立町)出身の川崎平右衛門は、
養料金制度(凶作に備えて各家がら穀類を集めて売却し、その代金を貸付け
、利息を農民に配当する制度)を推し進め、種、肥料の支給や用水、井戸の
工事を行い、新田の安定を図った。
また後継の伊奈半左衛門も平右衛門の政策を推し進めた。
この謝恩塔は、両名の功績を記念し、感謝する結晶として、寛政11年(1799)、
榎戸新田名主源蔵らにより建立されたものである。

更に進み、五日市街道沿いの北側にあるのは愛宕神社、享保10年(1726)
の創建、榎戸新田の鎮守であった。
2015-02-14_10.jpg

境内には北堀が通っており、参道には小さな橋が架かっている。
2015-02-14_14.jpg

さらに300mほど東へ歩くと、神明宮が鎮座する。
こちらは野中六左衛門組の鎮守で、同じく享保10年の創建、天照皇大神を
祭神とする。
愛宕神社同様、境内には北堀の跡(写真手前の橋)がある。
2015-02-14_19.jpg
かつては古井戸と呼ばれる共同井戸があったそうだが、現在は存在しない。

西武国分寺線の手前で、北堀は五日市街道沿いに出てくる。
2015-02-14_25.jpg

五日市街道の踏切脇で西武線と交差、ここも南堀と同様に「榎戸南用水開渠」
と書かれた標識が立てられている。
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踏切の先で北堀は南堀と合流、再び1本の水路として進みことになる。
合流後、草地の中を進む砂川用水、付近は道路の新設工事中だったので、こ
の光景も変わってしまうかもしれない。
2015-02-07_138.jpg

府中街道との交差点の手前で、かつては国分寺分水を分けていた。
分水統合以前の時代でも、野中新田分水の流末は国分寺分水に水を落として
いたという。
その先には、砂川用水の空堀を街道の南側沿いに見ることができる。
2015-02-14_31.jpg

《参考文献》
『玉川上水系の用水の地域に果した役割に関する調査
             -砂川用水の水利用を中心に-』 小坂克信
『たんけんマップ 北ブロック』 国分寺市のまちづくりと農業を考える会


 
次へ 目次 
  

砂川用水 1

玉川上水の分水である砂川用水を追ってみた。

最初に、砂川用水について簡単に説明しておこう。
砂川用水はその途中で国分寺分水や小金井分水を分けるが、元々はそれ
ぞれ独立した分水であり、各々、玉川上水に分水口を持っていた。
砂川用水に関連する主な分水と開削時期は次の通りである。

砂川分水       明暦3年(1657)
平兵衛分水      享保17年(1732)
中藤分水       享保14年(1729)
野中新田分水    享保14年(1729)
国分寺分水      明暦3年(1657)
上鈴木分水      享保19年(1734)
小金井分水      元禄9年(1696)頃
下小金井新田分水 享保17年(1732)
梶野分水       享保19年(1734)

上記分水の中で享保年間に設立されたものが多いのは、徳川吉宗が主導
した享保の改革において、享保7年(1722)、新田開発奨励の高札が日本
橋に掲げられた結果である。
明治3年(1870)、玉川上水の通船を目的とした分水口改正(統合)により
上記の分水は統合され、砂川・野中新田・上鈴木を繋げて砂川用水とし、
国分寺・小金井などの各分水は砂川用水から取水するように改められた。
(通船事業は水の汚染により僅か2年で終了してしまう)

今回は明治以降に繋がった区間を通した砂川用水として、梶野分水の手前
までの十数キロの区間を3回に分けて紹介していくことにする。

砂川分水の開削は、前述の通り明暦3年と早い。
玉川上水が完成したのが承応2年(1653)であるから、その4年後のことで
ある。
玉川上水開削以前の砂川村は残堀川を中心とした小集落であったようだが、
残堀川が玉川上水の助水として使用されるようになった経緯から、砂川分水
は早期に開削が許可されたらしい。
上水記によると、元々の砂川分水は一里ほどの水路であったという。
分水が五日市街道沿いに敷設されると、その水路沿いに村が発展していっ
たようだ。
なお、砂川分水は田用水というよりも、飲料水として使用されたようだ。

さて砂川用水を辿っていくことにしよう。
西武拝島線の西武立川駅の東方、玉川上水に架かる松中橋に砂川用水の
取水口がある。
手前が砂川用水、奥が柴崎分水の取水口である。
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柴崎分水はすぐに南東方向へと分かれていくが、砂川用水は天王橋まで玉川
上水と並行して流れる。
上水脇の遊歩道に、玉川上水から取り入れられた水が流れていく。
2015-02-07_9.jpg

しかしながら、開渠区間は二百メートルほどで、その先は暗渠となってしまう。
2015-02-07_13.jpg

暗渠となった先も、五日市街道の天王橋まで玉川上水と並行する。
実は、元々、砂川用水の取水口は天王橋の下流付近にあったようだ。
分水口が松中橋に移ったのは、おそらく前述の分水口統合の際であろう。
松中橋の脇にあった柴崎分水も統合されたが、後に再び単独の分水口が設け
られたからだ、
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こちらは天王橋の脇にある八雲神社、由緒は不明。
2015-02-07_22.jpg

天王橋から五日市街道沿いを歩くことになる。
残念ながら一部区間を除いて、この先、立川・国分寺市境まで、砂川用水の痕
跡は見当たらない。
延々と五日市街道を歩くことになり、用水(暗渠)歩きというよりは、街道歩きと
いう感覚になる。
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五日市街道を歩いていくと、砂川一番、二番・・・という地名を目にする。
(旧地名・通称名であり、現在の住所は一番町、砂川町、上砂町などとなる)
これはかつて、砂川村における年貢の徴収単位の小集落の名残で、集落単位
に小名主が置かれていたという。
一番~四番を「上郷」、五番~八番を「下郷」と称し、享保の改革以降はさらに
開墾が進み、九番、十番と広がっていたという。

五日市街道は残堀橋残堀川を渡る。
道路橋の脇には水路橋があり、ここを砂川用水が流れている。
残念ながら上部はコンクリート蓋で覆われているが、水音が聞こえる。
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砂川という地名は、この残堀川に由来するものという。
前述のように砂川分水開削以前は、残堀川の水に依存する集落であった。
残堀川は水量が少なく砂底が見えることから「砂の川」と呼ばれ、それが砂川
に転じたらしい。
なお、玉川上水開削以降、残堀川は幾度となく流路変更されており(残堀川2
参照)、旧残堀川は更に東側の立川断層沿いを流れていた。

五日市街道を歩いていると、土蔵などをもつ旧家を所々に見ることもできる。
道路の下を用水が流れているとはいえ、痕跡が殆どない区間では、このような
光景を見ながら歩くというのも面白い。
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砂川三番の手前で、道路の北側に200メートルほど、砂川用水が顔を出す。
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清らかな流れを見ると、用水が暗渠化されているのは惜しい気がする。
同じ松中橋から流れている柴崎分水は開渠区間が多く残り、水流を見ながら
散策を楽しめるのに対し、こちらは五日市街道に沿って流れるというロケーシ
ョンのため、暗渠化されてしまったのは仕方がないのかもしれない。
そして、街道から少し反れたこの区間が開渠として残されたのであろう。

短い区間であるが、交差する道路に架けられた橋などから水の流れを楽しむ。
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そして再び暗渠となって街道の下へと潜り込んでいってしまう。
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その開渠区間から街道を挟んで反対側に、天竜山流泉寺がある。
臨済宗建長寺派の寺院で、慶安3年(1650)、砂川新田を開発する人々の菩
提寺として創建された。
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砂川四番まで進むと、左手に阿豆佐味天神杜が鎮座する。
寛永6年(1629)、こちらも新田開発に携わった人々の鎮守として、村山郷殿
ヶ谷(現瑞穂町)の阿豆佐味天神杜から勧請された。
本殿(拝殿後方の覆殿に収納)は元文3年(1738)の建築とされ、立川市の有
形文化財に指定されている。
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またこの神社は猫返し神社としても知られる。
これはジャズピアニストの山下洋輔氏のエッセイによるもので、失踪した愛猫の
祈願をしたところ、無事戻ってきたという話から有名になったという。

更に歩いていくと、砂川七番で多摩モノレールと交差する。
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その先も五日市街道を歩き続ける。
街道沿いには、所々に「東京ウド」と書かれた生産農家を見かける。
砂川付近はウドの生産地として知られている。
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「古民家園入口」の交差点から北へ数百メートルいくと、小林家住宅を展示した
川越道緑地 古民家園がある。
嘉永5年(1852)に建てられた民家で、武家屋敷に匹敵するほど高い格式を持
ったものだ。
砂川九番にあった民家を平成5年に当地に移転・復元したものだという。
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砂川十番の街道沿いには寛保元年(1741)に設置された地蔵尊がある。
説明板によると、享保の新田開発の頃、全国行脚をする修行僧の遺言に基づ
き、建立されたものだという。
初めは道路南側の府中道の角にあり、台座には「右ハ府中・左ハ江戸」と刻
まれ、道標も兼ねていた。
残念ながら昭和20年代に盗難に逢い、現在の地蔵は再建されたものである。
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砂川を抜けると、立川から国分寺へと入っていく。

《参考文献》
『玉川上水の分水の沿革と概要』 小坂克信
『玉川上水系の用水の地域に果した役割に関する調査
               -砂川用水の水利用を中心に-』 小坂克信



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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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