松葉用水・北前堀
六郷用水の能登川堀(逆川)は、JRと京急線の中間地点であるあやめ橋付近
で吞川に水を落とすが、吞川を400mほど行くと水は再び用水へと取り込まれる。
松葉用水といい、その先は北前堀に通じて、東京湾(現在は海老取川)へと注
いでいた。
今回はその松葉用水・北前堀を辿ってみたので、紹介することにしよう。
京急蒲田駅の東口、第一京浜が呑川に架かる夫婦橋の下流側の右岸に、南
へと曲がっていく道がある。
この道路が松葉用水の水路跡である。
(写真は夫婦橋から吞川の下流を撮影したもの)

松葉用水を取水した堰は、夫婦橋の上流にあったという。
夫婦橋という橋名も、吞川に架かる橋と松葉用水に架かる橋があったことに由
来する。
こちらが松葉用水跡の道路。

道の右側に本門仏立宗の天声山久遠寺がある。
創建は昭和5年(1930)と比較的新しい。
戦災後、昭和22年(1947)に寺号を久遠寺とし、昭和25年に再建した。

その先にあるのが、天台宗の熊野山安泰寺。
貞観年間(859~876)、 慈覚円仁により芝高輪に開創されたと伝えられる。
明治28年(1895)に現地に移転、東海三十三観音霊場の32番札所となっている。

その先で道は2本に分かれるが、ここは左の道へと進む。

その道を辿っていくと、さらに日蓮宗寺院の清光山妙幸寺が道沿いに建つ。
貞享元年(1684)、清光院日仁の開基と伝えられる。
日仁は眼病治癒の法力を修得し、諸国修行の途中、此の地に至り、眼病に悩
む人々を救うためにここの留まった。
日仁の没後、その法徳を残すために一庵を建立したのが、寺院の始まりという。
清光教会と称していたが、平成6年、妙幸寺と改称した。

蛇行する道路、写真に写る渡商店の前にはかつて石橋が架かっており、石橋屋
と呼ばれていたという。

その先、更に蛇行しながら進む。
この辺り、すぐ北に吞川が流れ、並行しながら東進する。

ただし宝来橋から先の吞川は昭和10年(1935)、新しく開削されたルートだ。
元々、吞川は北東方向へ向きを変えて流れていた(現在は旧吞川緑地となって
いる)が、下流の低地はしばしば水害に悩まされていた。
そこで新吞川を開削、洪水・氾濫を防止させた。
西糀谷二丁目交差点で、一旦、松葉用水を離れ、呑川の北にある小泉家墓所
を紹介しておこう。
六郷用水を開削した小泉次太夫は、その功績により下袋村(現:北糀谷)に領
地を得た。
次太夫の墓は川崎の妙遠寺(二ヶ領用水大師堀参照)にあるが、小泉一族の
墓は下袋村の円龍寺に設けられた。
その円龍寺が廃寺となったため、現在は北糀谷1丁目の住宅地の一画にひっ
そりと残る。
月極駐車場の奥にあるなんともいえない空間である。

松葉用水に戻り、産業道路を越えて300ほど行くと、道路脇に北前堀緑地が
現われる。

ここには昭和23年(1948)、北前堀排水場が造られ、水害防止対策として地
域住民に貢献していた。
下水道の普及により昭和46年(1971)に廃止、同55年(1980)に埋め立て
られて緑地内となった。
緑地内には散策道や児童遊具が設置されている。

中ほどには北前橋が架かり、一般道を横断することなく緑地の東西を行き来
することができる。
橋そのものは昭和59年と、埋め立て後のものだ。

緑地の先は北前堀の水路となる、
こちらは堀の先端にある船揚用のレール。

さらには昭和41年に造られた北前堀水門。
水門の内側はモーターボートや小型漁船の船溜まりとなっている。

北前堀の水路は200mほどで。多摩川から分岐した海老取川(海老取運河)
に合流する。
合流地点の対岸は羽田空港であり、行き来するモノレールを望むことができる。

《参考文献》
『六郷用水聞き書き』 六郷用水の会編

で吞川に水を落とすが、吞川を400mほど行くと水は再び用水へと取り込まれる。
松葉用水といい、その先は北前堀に通じて、東京湾(現在は海老取川)へと注
いでいた。
今回はその松葉用水・北前堀を辿ってみたので、紹介することにしよう。
京急蒲田駅の東口、第一京浜が呑川に架かる夫婦橋の下流側の右岸に、南
へと曲がっていく道がある。
この道路が松葉用水の水路跡である。
(写真は夫婦橋から吞川の下流を撮影したもの)

松葉用水を取水した堰は、夫婦橋の上流にあったという。
夫婦橋という橋名も、吞川に架かる橋と松葉用水に架かる橋があったことに由
来する。
こちらが松葉用水跡の道路。

道の右側に本門仏立宗の天声山久遠寺がある。
創建は昭和5年(1930)と比較的新しい。
戦災後、昭和22年(1947)に寺号を久遠寺とし、昭和25年に再建した。

その先にあるのが、天台宗の熊野山安泰寺。
貞観年間(859~876)、 慈覚円仁により芝高輪に開創されたと伝えられる。
明治28年(1895)に現地に移転、東海三十三観音霊場の32番札所となっている。

その先で道は2本に分かれるが、ここは左の道へと進む。

その道を辿っていくと、さらに日蓮宗寺院の清光山妙幸寺が道沿いに建つ。
貞享元年(1684)、清光院日仁の開基と伝えられる。
日仁は眼病治癒の法力を修得し、諸国修行の途中、此の地に至り、眼病に悩
む人々を救うためにここの留まった。
日仁の没後、その法徳を残すために一庵を建立したのが、寺院の始まりという。
清光教会と称していたが、平成6年、妙幸寺と改称した。

蛇行する道路、写真に写る渡商店の前にはかつて石橋が架かっており、石橋屋
と呼ばれていたという。

その先、更に蛇行しながら進む。
この辺り、すぐ北に吞川が流れ、並行しながら東進する。

ただし宝来橋から先の吞川は昭和10年(1935)、新しく開削されたルートだ。
元々、吞川は北東方向へ向きを変えて流れていた(現在は旧吞川緑地となって
いる)が、下流の低地はしばしば水害に悩まされていた。
そこで新吞川を開削、洪水・氾濫を防止させた。
西糀谷二丁目交差点で、一旦、松葉用水を離れ、呑川の北にある小泉家墓所
を紹介しておこう。
六郷用水を開削した小泉次太夫は、その功績により下袋村(現:北糀谷)に領
地を得た。
次太夫の墓は川崎の妙遠寺(二ヶ領用水大師堀参照)にあるが、小泉一族の
墓は下袋村の円龍寺に設けられた。
その円龍寺が廃寺となったため、現在は北糀谷1丁目の住宅地の一画にひっ
そりと残る。
月極駐車場の奥にあるなんともいえない空間である。

松葉用水に戻り、産業道路を越えて300ほど行くと、道路脇に北前堀緑地が
現われる。

ここには昭和23年(1948)、北前堀排水場が造られ、水害防止対策として地
域住民に貢献していた。
下水道の普及により昭和46年(1971)に廃止、同55年(1980)に埋め立て
られて緑地内となった。
緑地内には散策道や児童遊具が設置されている。

中ほどには北前橋が架かり、一般道を横断することなく緑地の東西を行き来
することができる。
橋そのものは昭和59年と、埋め立て後のものだ。

緑地の先は北前堀の水路となる、
こちらは堀の先端にある船揚用のレール。

さらには昭和41年に造られた北前堀水門。
水門の内側はモーターボートや小型漁船の船溜まりとなっている。

北前堀の水路は200mほどで。多摩川から分岐した海老取川(海老取運河)
に合流する。
合流地点の対岸は羽田空港であり、行き来するモノレールを望むことができる。

《参考文献》
『六郷用水聞き書き』 六郷用水の会編

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