玉川上水の分水である
砂川用水を追ってみた。
最初に、砂川用水について簡単に説明しておこう。
砂川用水はその途中で国分寺分水や小金井分水を分けるが、元々はそれ
ぞれ独立した分水であり、各々、玉川上水に分水口を持っていた。
砂川用水に関連する主な分水と開削時期は次の通りである。
砂川分水 明暦3年(1657)
平兵衛分水 享保17年(1732)
中藤分水 享保14年(1729)
野中新田分水 享保14年(1729)
国分寺分水 明暦3年(1657)
上鈴木分水 享保19年(1734)
小金井分水 元禄9年(1696)頃
下小金井新田分水 享保17年(1732)
梶野分水 享保19年(1734)
上記分水の中で享保年間に設立されたものが多いのは、徳川吉宗が主導
した享保の改革において、享保7年(1722)、新田開発奨励の高札が日本
橋に掲げられた結果である。
明治3年(1870)、玉川上水の通船を目的とした分水口改正(統合)により
上記の分水は統合され、砂川・野中新田・上鈴木を繋げて砂川用水とし、
国分寺・小金井などの各分水は砂川用水から取水するように改められた。
(通船事業は水の汚染により僅か2年で終了してしまう)
今回は明治以降に繋がった区間を通した砂川用水として、梶野分水の手前
までの十数キロの区間を3回に分けて紹介していくことにする。
砂川分水の開削は、前述の通り明暦3年と早い。
玉川上水が完成したのが承応2年(1653)であるから、その4年後のことで
ある。
玉川上水開削以前の砂川村は残堀川を中心とした小集落であったようだが、
残堀川が玉川上水の助水として使用されるようになった経緯から、砂川分水
は早期に開削が許可されたらしい。
上水記によると、元々の砂川分水は一里ほどの水路であったという。
分水が五日市街道沿いに敷設されると、その水路沿いに村が発展していっ
たようだ。
なお、砂川分水は田用水というよりも、飲料水として使用されたようだ。
さて砂川用水を辿っていくことにしよう。
西武拝島線の西武立川駅の東方、
玉川上水に架かる松中橋に砂川用水の
取水口がある。
手前が砂川用水、奥が柴崎分水の取水口である。

柴崎分水はすぐに南東方向へと分かれていくが、砂川用水は天王橋まで玉川
上水と並行して流れる。
上水脇の遊歩道に、玉川上水から取り入れられた水が流れていく。

しかしながら、開渠区間は二百メートルほどで、その先は暗渠となってしまう。

暗渠となった先も、五日市街道の天王橋まで玉川上水と並行する。
実は、元々、砂川用水の取水口は天王橋の下流付近にあったようだ。
分水口が松中橋に移ったのは、おそらく前述の分水口統合の際であろう。
松中橋の脇にあった柴崎分水も統合されたが、後に再び単独の分水口が設け
られたからだ、

こちらは天王橋の脇にある
八雲神社、由緒は不明。

天王橋から五日市街道沿いを歩くことになる。
残念ながら一部区間を除いて、この先、立川・国分寺市境まで、砂川用水の痕
跡は見当たらない。
延々と五日市街道を歩くことになり、用水(暗渠)歩きというよりは、街道歩きと
いう感覚になる。

五日市街道を歩いていくと、砂川一番、二番・・・という地名を目にする。
(旧地名・通称名であり、現在の住所は一番町、砂川町、上砂町などとなる)
これはかつて、砂川村における年貢の徴収単位の小集落の名残で、集落単位
に小名主が置かれていたという。
一番~四番を「上郷」、五番~八番を「下郷」と称し、享保の改革以降はさらに
開墾が進み、九番、十番と広がっていたという。
五日市街道は
残堀橋で
残堀川を渡る。
道路橋の脇には水路橋があり、ここを砂川用水が流れている。
残念ながら上部はコンクリート蓋で覆われているが、水音が聞こえる。

砂川という地名は、この残堀川に由来するものという。
前述のように砂川分水開削以前は、残堀川の水に依存する集落であった。
残堀川は水量が少なく砂底が見えることから「砂の川」と呼ばれ、それが砂川
に転じたらしい。
なお、玉川上水開削以降、残堀川は幾度となく流路変更されており(
残堀川2参照)、旧残堀川は更に東側の立川断層沿いを流れていた。
五日市街道を歩いていると、土蔵などをもつ旧家を所々に見ることもできる。
道路の下を用水が流れているとはいえ、痕跡が殆どない区間では、このような
光景を見ながら歩くというのも面白い。

砂川三番の手前で、道路の北側に200メートルほど、砂川用水が顔を出す。

清らかな流れを見ると、用水が暗渠化されているのは惜しい気がする。
同じ松中橋から流れている柴崎分水は開渠区間が多く残り、水流を見ながら
散策を楽しめるのに対し、こちらは五日市街道に沿って流れるというロケーシ
ョンのため、暗渠化されてしまったのは仕方がないのかもしれない。
そして、街道から少し反れたこの区間が開渠として残されたのであろう。
短い区間であるが、交差する道路に架けられた橋などから水の流れを楽しむ。

そして再び暗渠となって街道の下へと潜り込んでいってしまう。

その開渠区間から街道を挟んで反対側に、
天竜山流泉寺がある。
臨済宗建長寺派の寺院で、慶安3年(1650)、砂川新田を開発する人々の菩
提寺として創建された。

砂川四番まで進むと、左手に
阿豆佐味天神杜が鎮座する。
寛永6年(1629)、こちらも新田開発に携わった人々の鎮守として、村山郷殿
ヶ谷(現瑞穂町)の阿豆佐味天神杜から勧請された。
本殿(拝殿後方の覆殿に収納)は元文3年(1738)の建築とされ、立川市の有
形文化財に指定されている。

またこの神社は猫返し神社としても知られる。
これはジャズピアニストの山下洋輔氏のエッセイによるもので、失踪した愛猫の
祈願をしたところ、無事戻ってきたという話から有名になったという。
更に歩いていくと、砂川七番で多摩モノレールと交差する。

その先も五日市街道を歩き続ける。
街道沿いには、所々に「東京ウド」と書かれた生産農家を見かける。
砂川付近はウドの生産地として知られている。

「古民家園入口」の交差点から北へ数百メートルいくと、小林家住宅を展示した
川越道緑地 古民家園がある。
嘉永5年(1852)に建てられた民家で、武家屋敷に匹敵するほど高い格式を持
ったものだ。
砂川九番にあった民家を平成5年に当地に移転・復元したものだという。

砂川十番の街道沿いには寛保元年(1741)に設置された地蔵尊がある。
説明板によると、享保の新田開発の頃、全国行脚をする修行僧の遺言に基づ
き、建立されたものだという。
初めは道路南側の府中道の角にあり、台座には「右ハ府中・左ハ江戸」と刻
まれ、道標も兼ねていた。
残念ながら昭和20年代に盗難に逢い、現在の地蔵は再建されたものである。

砂川を抜けると、立川から国分寺へと入っていく。
《参考文献》
『玉川上水の分水の沿革と概要』 小坂克信
『玉川上水系の用水の地域に果した役割に関する調査
-砂川用水の水利用を中心に-』 小坂克信