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森厳寺川・だいだらぼっち川

森厳寺川は、世田谷区北沢5丁目付近を水源とし、下北沢の東を流れて代沢
で北沢川に合流する2kmほどの暗渠河川である。
北沢川下北沢東支流とも称する。
途中、代田6丁目方面からの支流を下北沢の南で合わせる。
支流はだいだらぼっち川という通称名で呼ばれている。(下北沢西支流)
今回は、だいだらぼっち川を含めて森厳寺川を辿っていくこととしよう。

森厳寺川 (北沢川下北沢東支流)
京王線の笹塚駅から数百メートルほど歩いていくと、小さな窪地がある。
ここが森厳寺川の水源とされる。
その窪地から、更に南方向へ暗渠道が通じている。
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暗渠道を辿っていくと、北沢中学校に行く手を遮られる。
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中学校の南には井の頭通りが通っており、その南から遊歩道が始まる。
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遊歩道は北沢4丁目の住宅街を蛇行しながら進む。
遊歩道沿いには、もみじ広場、もくせい広場、あおぞら公園などの児童遊園が
点在し、また道路には傘のあるユニークな街灯が設置されている。
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もう一本、北沢小学校沿いには、三田用水から分水された水路跡の暗渠道がある。
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その先にはにはかつて暗渠ファンには有名な銭湯があり、水路沿いには薪が
積まれていた。
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残念ながら銭湯は廃業、取り壊されてしまった。
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森厳寺川の本流を進み北沢3丁目に入ると、緑地帯のある道路が出現する。
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地下化された小田急線を越えると、森厳寺川は下北沢の東側を南下していく。
水路跡は駅に近いこともあって、駐輪場に利用されている。
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京王井の頭線の手前には、草地となっている区間もある。
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井の頭線の築堤の先、こちらも駐輪場となっている。
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その駐輪場の南から緑道が始まる。
駅から近いこともあって人通りも多く、代沢方面への通路として利用されている
ようだ。
また、遊歩道の左手は、高い崖となっている。
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代沢三叉路交差点の東側で、だいだらぼっち川(後述)と合流する。
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遊歩道は500メートルほど進み、川の名ともなっている森厳寺の脇に出てくる。
浄土宗の八幡山森厳寺は、慶長13年(1608)、徳川家康の次男である結城
秀康(1574~1607)の位牌所として孫公和尚により建立された。
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江戸時代には灸、針供養および富士講で知られ、特に灸については「淡島の灸」
として名を馳せた。
その灸については、次のようないわれがあるという。
開山した紀州出身の孫公和尚は腰痛に悩み、ある夜、故郷の淡島明神が夢
枕に立って灸をすることを霊示し、その灸により腰病から救われた。
それにより、紀州の淡島明神を森厳寺に勧請し、以来、灸を始め、遠くから訪
れる人も多くいた。
門前には淡島大明神と書かれた道標や、常夜灯が保存されている。
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森厳寺の南、数百メートルほどの地点で森厳寺川は北沢川へと合流する。
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だいだらぼっち川 (北沢川下北沢西支流)
京王井の頭線の新代田駅の北東、守山小学校付近に窪地がある。
この窪地には、日本各地に残る巨人伝説「だいだらぼっち」の一つが残っている。
ある夜、大男が代田の丘と荒地を歩き回って畑や田を作り、一夜明けると、大き
な窪地が出来て、水も湧き出る田圃ができたというものだ。
代田という地名もこのだいだらぼっち伝説から由来するものという。

また、この付近では寛文年間(1661~72)の頃から開拓が始まり、谷沿いに
水田が作られたが、湧水が豊富で凶作に見舞われることは少なかったと伝え
られる。

川の名前は特にないが、いつしかだいだらぼっち川と呼ばれるように
なり、本項でもその名称を使用することとする。

守山小学校の北、代田6丁目16付近から、南へと深い谷の底を一般
道が続いている。
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道路は緩やかに蛇行しており、川跡を感じさせる。
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井の頭線の下北沢~新代田間で、だいだらぼっち川は線路と交差する。
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線路を踏切で越えた先、なおも代田5丁目の住宅街を進んでいく。
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更に小田急線を越え、下北沢の南側を進む。
ここも窪地となっており、そのためか駅至近ながらも静かな住宅街となっている。
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やがて下北沢駅南口から続く商店街へと達する。
だいだらぼっち川は商店街沿いに進み、代沢三叉路の先で森厳寺川と合流し
ていたようだ。
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《参考文献》
『ふるさと世田谷を語る 代田・北沢・代沢・大原・羽根木』 世田谷区



目次
  
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吉野川

麻布十番付近を流れて、一之橋へ合流する吉野川を辿ってみた。
(東京都建設局の資料には赤羽川とも記載されている。)
場所柄、暗渠の痕跡など吉野川が存在していたことを示すものは殆どない。
但し、六本木から麻布にかけての谷地形にその面影を見出し、堪能することは
充分可能である。
今回は、川跡を追うというよりも、麻布周辺の寺社・史跡巡りという様相に
なってしまうが、ご容赦いただきたい。

吉野川のかつての水源は、六本木交差点の南、法典寺付近と言われている。
その高林山法典寺は、万治元年(1658)利生院日幸上人によって開創された
日蓮宗の寺院である。
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法典寺に隣接して、朝日神社が鎮座する。
天慶年中(940)の草創と伝えられ、当初は市杵島姫大神(弁財天)を祀り、広
く庶民に尊信されていた。
筒井順慶の姪で、のちに織田信長の侍女となった朝日姫(清心尼)が、渋谷か
ら長者ヶ丸(現青山付近)を過ぎる途中、草むらに稲荷の神像と観音像を見つけ、
稲荷の神像と弁財天を合祀して日ヶ窪稲荷と呼ばれるようになった。
その後、明和年間(1764~72)に朝日稲荷と改称され、更には明治28年(1895)
朝日神社と改称、現在に至る。
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吉野川の水源とおぼしき場所は確認できないが、水神である弁財天を祀った
神社であることは興味深い。

この先、芋洗坂を麻布方面へと下る。
坂の左右は高台となっており、谷地の地形がかつての吉野川を彷彿とさせる。
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外苑東通りを渡り、麻布十番商店街へと通じる道へと向かう。
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その先、道の右手に曹洞宗の祥雲山龍澤寺がある。
龍澤寺は寛永3年(1626)、太田原備前守が開基、白容伝清和尚が開山とし
て飯倉片町に創建された寺院である。
明暦の大火(1656)で焼失し、寛文元年(1662)当地に移った。
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龍澤寺はまた旧麻布区役所の跡でもある。
明治11年(1878)に郡区町村編制法が施工され、港区の前身である麻布区
役所が、龍澤寺内に設置された。
港区教育委員会による説明板には「近代地方自治の発祥」として紹介されている。

この龍澤寺の脇で、がま池からの流れ(がま池支流(仮)と称することにしよう)
が合流していたようだ。
ここで一旦、がま池支流に立ち寄ることとする。

元麻布2丁目のマンション街の一画の窪地にがま池という池がある。
NHK『ブラタモリ 三田・麻布編』でも紹介され、有名となった。

番組内でも紹介されたが、がま池には次のような伝説が残っている。
この辺りは旗本、山崎主税助治正の屋敷であった。
同家の家来が夜回りに出た時、大ガマに殺された。
治正は、ガマ退治を決意するが、ガマは白衣の老人となって夢枕に立ち、その
罪を詫び、山崎家の防火に尽くすことを誓った。
文政4年(1821)、麻布の古川岸に起こった大火で、一帯は焼けてしまったが、
山崎家だけは類焼を免れた。
これは、ガマが池の水を吹き付けて火を防いだものと言われている。
(港区教育委員会の説明板より抜粋・編集)
なお、池の近くに住む長者が、いじめられているガマを助け、長者の屋敷をガ
マが類焼から守ったという他の伝説も残っているという。

がま池はマンションに囲まれており、番組では周囲のマンションの一室に入っ
てがま池が紹介されたが、さすがに個人では立ち入ることはできない。
ただ、池の南側にあるコインパーキングから、竹林を通して、僅かに池の水面
を望むことはできる。
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がま池の東方に麻布総鎮守の麻布氷川神社がある。
天慶5年(942)、源経基が平将門の乱を平定のため東征した折、武蔵国豊島
郡谷盛庄浅布冠の松(現:麻布一本松)の地に二千余坪を創建したと伝えられる。
一本松をご神木としていたが、万治2年(1659)、方位の関係などで現在へ遷
座した。
江戸時代には江戸氷川七社の一社にも数えられた。
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がま池支流は北にある宮村児童遊園の谷へと向っていたようだ。
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その先にある細い暗渠道、殆ど川跡が残っていない吉野川において、唯一、
痕跡が確認できる場所である。
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その暗渠道を抜けた地の左には、法華宗の明見山本光寺がある。
寛永元年(1624)、日要上人が麻布今井村(現:アークヒルズ付近)に開山、
その後、西久保四辻(麻布飯倉町)、麻布宮村町を経て、天命2年(1782)、
現在地に移築された。
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西側に坂を上っていくと、浄土宗の市谷山長玄寺、こちらは武田信玄の軍師と
して知られる山本勘助の孫の観利(喜助)が寛永5年(1628)、市ヶ谷に創建、
享保3年(1718)に当地へ移転したという。
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先ほどの本光寺の近くに元麻布三丁目緑地という小さな公園があり、宮村池
というビオトープが設けられている。
池には小さな水流が流れ込むが、これは排水管から流れ出たもの。
崖に湧き出た水を集めて、排水管へと流しているのであろうか。
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麻布十番商店街へと歩いていくと、道脇には光隆寺(正保2年(1645)創建)、
広称寺(慶長4年(1599)創建)、安全寺(寛永元年(1624)創建)という寺が並ぶ。(下記写真は光隆寺)
今でこそ麻布は、十番商店街を中心としてインターナショナルで、且つファッショ
ナブルな街として知られるが、もともとは寺院の街であることを再認識できる一
帯でもある。
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さて、再び麻布十番商店街に戻り、一之橋方面へと進む。
商店街の北に並行する外苑東通りとの間には僅かな高低差を見出すことができる。
商店街の通りが吉野川の川跡であることを感じさせる。
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商店街には洒落た店舗が並び、人通りも多い。
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その右側には、一本松へと上る暗闇坂がある。
樹木が生い茂り暗かったことから名付けられたという。
宮村町を通るため、宮村坂ともいった。
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商店街の北側、外苑東通り沿いには十番稲荷神社が鎮座する。
麻布坂下町にあった末広神社(慶長年間(1596~1615)創建)と、麻布永坂町
にあった竹長稲荷神社(創建年代不明、和銅5年(712年)とも、弘仁13年(822)
とも言われる)が、昭和25年(1950)に復興土地区画整理により現在地に換地、
その後、合祀して十番稲荷神社となった。
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境内には蛙の像があり、水をかけて参拝するようになっている。
これは前述のがま池の伝説に由来するもの。
火事の後、山崎家では「上」の一字が書かれた御札を万人に授けるようになり、
「上の字様」として防火・火傷のお守りとして信仰を集めた。
その後、「上の字様」は十番稲荷神社の前身である末広神社に引き継がれた。
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商店街を抜け、都道を渡ると古川に架かる一之橋がある。
一之橋の下には大きな排出口を確認することができる。
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根川

立川市南部、多摩川に並行して流れる根川を紹介しよう。

元々、根川は立川段丘の湧水を集めて多摩川に注ぐ小河川であったという。
明治41年(1908)、それまで玉川上水の助水として利用されていた残堀川
を改修、玉川上水を越えて根川(現在の残堀川大滝付近)に接続する改修工
事が施された。
しかしながら残堀川からの水が度々、氾濫を起こすようになったため、下流部
において昭和47年(1972)、多摩川への短絡する水路が開削され、根川の
一部は埋め立てられることとなった。
昭和48~49年、根川緑道として整備、人工水路として小川が再現されている。

こちらが根川の湧出口、整備当初は井戸水と下水道砂濾過水を混合して1日
250立方メートルの水を流していたが、平成4年から8年にかけて立川市錦町
下水処理場より日2700立方メートルの高度処理水を流すようにしたという。
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水路を流れた水は、緑地の中を流れていく。
緑道の説明板によると、荒木田粘土の上に玉石や砂利を敷き、瀬や淵を設け、
岸辺には水草を植栽しており、また草地の土手や蛇籠を使った護岸により、自
然の川岸の復元や、水生生物が棲みやすい環境づくりに配慮しているという。
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緑道沿いには桜の木が植えられ、残堀川沿いとともにこの地域の桜の名所と
して知られる。
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根川緑道は、交差する道路によってAからDの4つのゾーンに分かれている。
(自転車や歩行者は、道路の下の通路により、往来が可能)
下の写真はCゾーンにある池。
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日野橋の東側で、玉川上水から分かれた柴崎分水が合流する。
柴崎分水は元文2年(1737)に開削された玉川上水の分水で、西武立川駅の
近く、松中橋で玉川上水から取水され、昭和記念公園内を抜け、立川市富士見
町や柴崎を通って、当地に至る用水路である。
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柴崎分水を合流後、多摩川の河川敷に広がる立川公園の北側を流れる。
川幅がだいぶ広がっている。
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立川公園の東に貝殻坂橋という吊り橋が架かり、その説明板には下記のよう
に記されている。
甲州街道が多摩川を渡る「渡し」は何度か移動され、それにともなって甲州
街道の道筋も変わったことが知られている。
そのうち慶安年間(1648~1651)から貞享元年(1684)まで使われていた
のが「万願寺の渡し」である。台地の上をたどってきた甲州街道は、国立の
青柳で段丘を下り、多摩川の河原に下りた。この段丘を下る坂を「貝殻坂」
と呼んでいた。(中略)
文政11年(1848)に完成された「新編武蔵風土記稿」の柴崎村の項には
「貝殻坂、青柳村と当村の界にあり、土中をうがてば蛤の殻夥しく出づ。
 土人(ところのもの)の話に古へはこの辺も海なりしと伝ふ。」
と記されている。

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その先、府中用水のために導水された多摩川の水と合流し、根川は青柳段丘
沿いを流れていく。
多摩川の河川敷には草木が生い茂り、川沿いを歩くことはできない。
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仕方なく段丘の上の道路を歩いて行くと、東京都旧跡に指定されている伊藤
単朴
(1680~1758)の墓がある。
私自身は談義には疎いが、「教訓雑長持」「銭湯新話」などの談義本を著した
江戸時代中期の談義作者であるという。
江戸市中から青柳に移り住み、堀江権次郎を養子として、堀江氏の屋敷内で
医を生業とするかたわら、執筆活動に取り組んだとされる。
一般住宅の庭先に、旧跡に指定される墓があるのが興味深い。
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西国立から続くみのわ通りが多摩川河川敷で終わる場所で、根川は多摩川
本流へと向きを変える。
その場所には、府中用水の取水門がある。
府中用水は、根川や多摩川(貝殻坂橋からここまでの間に多摩川本流から
分かれた水路が合流する)を取り込んで、谷保方面の水田を潤す農業用水
であるが、農閑期は水門が閉じられて取水はされない。
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更には、みのわ通りの下を流れる緑川幹線という下水道雨水幹線の吐口も
ある。(普段は水は放出されていない)
緑川は昭和18年(1943)から21年にかけて旧陸軍立川飛行場の排水を処
理するために造られた人工河川であり、昭和29年(1954)に下水道として暗
渠化された。
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この先、根川は多摩川との合流部に向かって流れていくが、写真で判るように、
草薮が生い茂り、合流部まで辿ることは危険かつ困難である。



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残堀川 2

残堀川は、伊那平橋から都道59号線(多摩大橋通り)に沿って南下する。
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人工的に開削された区間であり、直線の水路が1kmほど続く。
川には水が流れておらず、川沿いの歩道をひたすら真っ直ぐ進むしかない。
左岸の広大な空き地は、平成16年(2004)に閉鎖された日産自動車の旧村山
工場である。
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直線区間の後、残堀川はS字カーブを描き、その先で西武拝島線と交差する。
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ここで残堀川の流路変更について紹介しておこう。
残堀5
元々、残堀川は立川断層に沿って流れていた河川であり、愛宕松と呼ばれた
地(本記事冒頭の伊那平橋)から南東へ向かって流れ、立川駅の東を通って
流末は現在の矢川へと接続されていた。(上図、紫線)
江戸期、玉川上水が開削された際、残堀川の水を助水として利用するために、
流路の付け替えが行われ、玉川上水の天王橋付近へ接続された。(上図、赤線)
なお、明治時代の地形図を見ると、その後、現在の玉川上水との交差部付近
に改められているようだ。
明治期に入ると、残堀川上流域周辺地域で養蚕や織物等の産業が盛んにな
った結果、残堀川の水質悪化が進み、明治36年(1903)から明治41年(1908)
にかけて、玉川上水への合流が中止され、玉川上水を伏せ越して根川へ至る
流路が開削された。
昭和37年(1962)、日産自動車の工場が誘致されるにあたって伊那平橋から
下流の水路が、現在のように直線の流路に改められた。

残堀川から1kmほど東へ行った農地に、『残堀川旧水路跡』の説明板が立て
られている。
立川断層に沿った当初の水路を紹介したものであり、「昔は、この付近から、
現在の立川市役所付近を経て国立市青柳方面に流れていました。江戸時代
初めの砂川の新田開発は、残堀川の水を頼りに、その流域から始められた
のです。
」と記載されている。
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西武拝島線の橋梁の北側には江戸期からの水路跡と思われる旧河道が残っ
ている。
上流部は工場跡地に入ってしまうため、数百メートルほどの短い区間であるが、
途中にはなんと素堀の部分も見られる。
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その近くには新残堀橋の旧欄干が残っており、「昭和41年4月竣工」の文字
が見える。
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これは、昭和49年(1974)から着手された改修工事(時間雨量30mmから
50mmへの対応)によって流路変更されたものによるもので、カーブが緩和
された結果であろう。
なお。この河川整備事業は、昭和41年の台風4号による被害を受けて、翌
年に策定された「東京都中小河川緊急整備計画」に基づくものある。

西武線の橋梁の先、玉川上水の伏せ越しを見ることができる。
当初は残堀川が玉川上水を伏せ越す形で造られたが、残堀川が氾濫する
機会が多くなり、溢水が玉川上水に混入しないように、昭和38年(1963)、
玉川上水が伏せ越す形に改修された。
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こちらは玉川上水の上流側、サイホン方式による伏せ越しの説明が掲げられ
ている。
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玉川上水との交差後、河川の両岸には桜並木が続く。
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松風橋の先、左岸は国営昭和記念公園となる。
(川沿いを歩くには公園への入場(有料)が必要)
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川の右岸は立川陸軍航空工廠の跡地である。
現在、一部では立川基地跡地再開発事業により、国際法務総合センターなど
の建設工事が着手されている。
その区画の一部では残堀川の調節池が設置されるようだ。
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工事着手前、ここには三本の煙突が立っていた。
工場の暖房のためのボイラー施設であり、廃墟として有名であった。
歴史的遺構としてなんとか残せなかったものか、残念でならない。
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玉川上水の分水である柴崎分水が、こちらも玉川上水同様に伏せ越しで残堀
川を右岸から交差、公園内の区間では残堀川の左岸に沿って流れていく。
溝蓋(グレーチング)が施されているが、柴崎分水には清らかな水が流れてい
るのを見ることができる。
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公園内に設置されている残堀川の調整池。
普段は水が流れていないのに、大きな調整池とはいささか滑稽な気もするが、
大雨時には大量の水が流れ込むのであろう。
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残堀川は東へと向きを変え公園内を進み、その後、再び南進する。
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昭和記念公園を出ると、残堀川は青梅線と交差する。
(写真は下り連絡線)
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富士塚橋を西へ百メートルほど行くと、富士塚の頂上に浅間神社が祀られて
いる。(橋名もこの富士塚に基づく)
立川市教育委員会の説明板によると、立川市(旧柴崎村)には富士講の話は
残っていないという。
富士がよく見えることから呼ばれた説もあるという。
現在は周囲のビルにより、富士山は見えない。
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更に歩いていくと、奥多摩街道が掛かる滝口橋の先、大滝という落差工があり、
高低差10mの立川段丘を一気に水を落とす。
元々は、勾配30~40度程度の自然斜面だったようだが、昭和43年(1968)
に水害対策の一環として施工されたとのこと。
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完成後、雑排水により直下で洗剤の泡が発生、周囲の環境を悪化したようだ
が、現在は解消、但し、普段は水は流れていない。

大滝の下に迂回してみるが、滝付近は立入禁止区域となっており、残念なが
らその雄志を見ることはできない。
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大滝の直下で残堀川は直角に曲がり、南東方向へと流れを変える。
大滝から先は、立川段丘から流れ出る根川(後述)に接続され、ここから先は
旧根川の流路である。
現在も大滝の下付近から僅かな水流が見られるが、立川段丘の湧水を残堀
川に流しているのだろうか。

その先、右岸から昭和用水が合流、水量が増して、ようやく川らしくなる。
写真奥に中央線の鉄橋が見える。
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中央線の鉄橋の先、左岸の断崖の上には、玄武山普済寺柴崎用水2参照)
が見える。
普済寺は文和2年(1353)、立川宗恒が開基した寺院で、境内には立川氏館
の土塁が残る。
また、国宝の六面石幢は断崖の上にある。
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新奥多摩街道の立川橋手前で、左に根川を分ける。
とは言っても、現在、根川とは直接つながっていない。
かつて、残堀川は根川に接続され、根川を通して多摩川に水を流していた。
しかしながら、大雨時に洪水被害が多発し、昭和47年(1972)、多摩川へ
ショートカットする水路が造られた。
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現在の根川は立川市下水処理場の高度処理水を流す人工水路となり、
川沿いは緑道が整備されている。

多摩モノレールも走る立日橋の先で、残堀川は多摩川へと合流する。
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《参考文献》
『残堀川の成り立ちと大滝の成立』 石原成幸、高崎忠勝
                H24都土木技術支援・人材育成センター年報



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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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