麻布十番付近を流れて、一之橋へ合流する
吉野川を辿ってみた。
(東京都建設局の資料には
赤羽川とも記載されている。)
場所柄、暗渠の痕跡など吉野川が存在していたことを示すものは殆どない。
但し、六本木から麻布にかけての谷地形にその面影を見出し、堪能することは
充分可能である。
今回は、川跡を追うというよりも、麻布周辺の寺社・史跡巡りという様相に
なってしまうが、ご容赦いただきたい。
吉野川のかつての水源は、六本木交差点の南、法典寺付近と言われている。
その
高林山法典寺は、万治元年(1658)利生院日幸上人によって開創された
日蓮宗の寺院である。

法典寺に隣接して、
朝日神社が鎮座する。
天慶年中(940)の草創と伝えられ、当初は市杵島姫大神(弁財天)を祀り、広
く庶民に尊信されていた。
筒井順慶の姪で、のちに織田信長の侍女となった朝日姫(清心尼)が、渋谷か
ら長者ヶ丸(現青山付近)を過ぎる途中、草むらに稲荷の神像と観音像を見つけ、
稲荷の神像と弁財天を合祀して日ヶ窪稲荷と呼ばれるようになった。
その後、明和年間(1764~72)に朝日稲荷と改称され、更には明治28年(1895)
朝日神社と改称、現在に至る。

吉野川の水源とおぼしき場所は確認できないが、水神である弁財天を祀った
神社であることは興味深い。
この先、芋洗坂を麻布方面へと下る。
坂の左右は高台となっており、谷地の地形がかつての吉野川を彷彿とさせる。

外苑東通りを渡り、麻布十番商店街へと通じる道へと向かう。

その先、道の右手に曹洞宗の
祥雲山龍澤寺がある。
龍澤寺は寛永3年(1626)、太田原備前守が開基、白容伝清和尚が開山とし
て飯倉片町に創建された寺院である。
明暦の大火(1656)で焼失し、寛文元年(1662)当地に移った。

龍澤寺はまた旧麻布区役所の跡でもある。
明治11年(1878)に郡区町村編制法が施工され、港区の前身である麻布区
役所が、龍澤寺内に設置された。
港区教育委員会による説明板には「近代地方自治の発祥」として紹介されている。
この龍澤寺の脇で、がま池からの流れ(
がま池支流(仮)と称することにしよう)
が合流していたようだ。
ここで一旦、がま池支流に立ち寄ることとする。
元麻布2丁目のマンション街の一画の窪地に
がま池という池がある。
NHK『ブラタモリ 三田・麻布編』でも紹介され、有名となった。
番組内でも紹介されたが、がま池には次のような伝説が残っている。
この辺りは旗本、山崎主税助治正の屋敷であった。
同家の家来が夜回りに出た時、大ガマに殺された。
治正は、ガマ退治を決意するが、ガマは白衣の老人となって夢枕に立ち、その
罪を詫び、山崎家の防火に尽くすことを誓った。
文政4年(1821)、麻布の古川岸に起こった大火で、一帯は焼けてしまったが、
山崎家だけは類焼を免れた。
これは、ガマが池の水を吹き付けて火を防いだものと言われている。
(港区教育委員会の説明板より抜粋・編集)
なお、池の近くに住む長者が、いじめられているガマを助け、長者の屋敷をガ
マが類焼から守ったという他の伝説も残っているという。
がま池はマンションに囲まれており、番組では周囲のマンションの一室に入っ
てがま池が紹介されたが、さすがに個人では立ち入ることはできない。
ただ、池の南側にあるコインパーキングから、竹林を通して、僅かに池の水面
を望むことはできる。

がま池の東方に麻布総鎮守の
麻布氷川神社がある。
天慶5年(942)、源経基が平将門の乱を平定のため東征した折、武蔵国豊島
郡谷盛庄浅布冠の松(現:麻布一本松)の地に二千余坪を創建したと伝えられる。
一本松をご神木としていたが、万治2年(1659)、方位の関係などで現在へ遷
座した。
江戸時代には江戸氷川七社の一社にも数えられた。

がま池支流は北にある
宮村児童遊園の谷へと向っていたようだ。

その先にある細い暗渠道、殆ど川跡が残っていない吉野川において、唯一、
痕跡が確認できる場所である。

その暗渠道を抜けた地の左には、法華宗の
明見山本光寺がある。
寛永元年(1624)、日要上人が麻布今井村(現:アークヒルズ付近)に開山、
その後、西久保四辻(麻布飯倉町)、麻布宮村町を経て、天命2年(1782)、
現在地に移築された。

西側に坂を上っていくと、浄土宗の
市谷山長玄寺、こちらは武田信玄の軍師と
して知られる山本勘助の孫の観利(喜助)が寛永5年(1628)、市ヶ谷に創建、
享保3年(1718)に当地へ移転したという。

先ほどの本光寺の近くに
元麻布三丁目緑地という小さな公園があり、
宮村池というビオトープが設けられている。
池には小さな水流が流れ込むが、これは排水管から流れ出たもの。
崖に湧き出た水を集めて、排水管へと流しているのであろうか。

麻布十番商店街へと歩いていくと、道脇には
光隆寺(正保2年(1645)創建)、
広称寺(慶長4年(1599)創建)、
安全寺(寛永元年(1624)創建)という寺が並ぶ。(下記写真は光隆寺)
今でこそ麻布は、十番商店街を中心としてインターナショナルで、且つファッショ
ナブルな街として知られるが、もともとは寺院の街であることを再認識できる一
帯でもある。

さて、再び麻布十番商店街に戻り、一之橋方面へと進む。
商店街の北に並行する外苑東通りとの間には僅かな高低差を見出すことができる。
商店街の通りが吉野川の川跡であることを感じさせる。

商店街には洒落た店舗が並び、人通りも多い。

その右側には、一本松へと上る
暗闇坂がある。
樹木が生い茂り暗かったことから名付けられたという。
宮村町を通るため、宮村坂ともいった。

商店街の北側、外苑東通り沿いには
十番稲荷神社が鎮座する。
麻布坂下町にあった末広神社(慶長年間(1596~1615)創建)と、麻布永坂町
にあった竹長稲荷神社(創建年代不明、和銅5年(712年)とも、弘仁13年(822)
とも言われる)が、昭和25年(1950)に復興土地区画整理により現在地に換地、
その後、合祀して十番稲荷神社となった。

境内には蛙の像があり、水をかけて参拝するようになっている。
これは前述のがま池の伝説に由来するもの。
火事の後、山崎家では「上」の一字が書かれた御札を万人に授けるようになり、
「上の字様」として防火・火傷のお守りとして信仰を集めた。
その後、「上の字様」は十番稲荷神社の前身である末広神社に引き継がれた。

商店街を抜け、都道を渡ると
古川に架かる
一之橋がある。
一之橋の下には大きな排出口を確認することができる。