神田上水

神田上水は天正18年(1590)、徳川家康が大久保藤五郎に命じて開削した水
路であり、完成は寛永年間(1624~44)と言われている。
井の頭池をはじめとして善福寺池、妙正寺池などの湧水を水源とし、現在の大
滝橋付近に堰(大洗堰)を設け、川の水位をあげて上水として流した。
上水は水戸徳川家上屋敷(現小石川後楽園)を通り、水道橋で神田川を懸樋で
渡し、神田・日本橋へと給水した。
神田川は古くは平川と言ったが、江戸時代には大洗堰より上流も神田上水と称
され、大洗堰から船河原橋(飯田橋付近)までの区間を江戸川、船河原橋から
下流の区間を神田川と言った。
江戸川へは余水を流していたとされ、神田上水が本流扱いだったようだ。
長い間、江戸そして東京市民の生活用水として大きな役割を果たしていたが、
明治34年(1901)、飲用水としての給水を停止し、その使命を終えた。

江戸川公園の中に大洗堰の取水口の石柱が保存されている。
取水口には上水の流水口を調節するため、「角落」と呼ばれる板をはめ込むた
めの石柱が設けられた。
ここにある石柱は昭和8年大洗堰の撤去に伴い、移設・保存されたものである。
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こちらは江戸名所図会に描かれた大洗堰の様子。
大洗堰2
江戸名所図会『目白下大洗堰』   (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

江戸川公園を出て目白通りを横断すると、その先から神田上水の流路跡の道
路(巻石通り)が続く。
巻石通りはまたの名を「水道通り」といい、この道路の右側、神田川までの間
に文京区水道という町名を残している。
元々。この区間は開渠であったが、明治初期には暗渠化され道路とされた。
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道路に沿って400mほど歩くと、左手に服部坂という坂が北側の台地に続く。
江戸時代、坂の上には服部権太夫の屋敷があり、それが坂の名の由来となっ
ている。
坂の下には、かつて黒田小学校があり、永井荷風、黒澤明などが卒業生とし
て名を連ねる。
黒田小学校は昭和20年(1945)の空襲により全焼し、廃校となった。
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写真は服部坂の上から見た光景で、坂下の信号がある場所が神田上水跡、そ
の先の高速道路の下には神田川が流れている。

服部坂の坂上には小日向神社が鎮座する。
平貞盛がこの地を平定して天慶3年(940)に建立した氷川神社(現水道2丁目)
と、貞観3年(860)建立の八幡神社(現音羽1丁目に鎮座)を合祀して、明治2
年(1869)にこの地に小日向神社として建立したのが始まりである。
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巻石通りを歩いていくと、道沿いに清光院、善仁寺、称名寺などの多くの寺院
がある。
全てを紹介するとキリがないので、その中から浄土真宗大谷派の随自院本法
を紹介しよう。
文明3年(1471)、本願寺第八代蓮如上人により、近江国堅田(現滋賀県大津
市)に創建され本法院称徳寺と号したのが始まりで、その後、寛永4年(1627)
三河国大塚に移し、本法寺と称した。
宝永2年(1705)にこの地に移転し、現在に至っている。
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本法寺はまた、夏目漱石の菩提寺であった。
夏目家は、代々江戸の名主をつとめる家系であり、明治以降、漱石の母、長兄
そして次兄が本法寺に葬られ、漱石はしばしば訪れたという。
(漱石自身の墓所は雑司ヶ谷霊園である)

金富小学校の脇に立てられている神田上水の説明板。
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巻石通りは牛天神下交差点で都道434号線に突き当たって終わるが、神田上
水はその先も小石川後楽園に向かって続いていたようだ。
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その交差点名となっている牛天神北野神社は、交差点の手前を北に向かい、
急な階段を上った丘の上にある。
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境内に掲示されている由緒の掲示には、以下のような記載がある。
源頼朝が東国追討の際、風波のおさまるのを待つため、船を入江の松に繋ぎ
とめ、当地でまどろんでいた、
すると、夢の中に牛に乗った菅原道真が現れ、2つの幸福を授けると告げた。
夢から覚めると、そこには道真の乗った牛に似た岩があった。
かくして神託が叶うがごとく、長男頼家が誕生し、翌年には平家を追いやった。
そして頼朝は元暦元年(1184)、この地に勧請したという。

こちらがその岩とされる「ねがい牛」、石を撫でると願いが叶うとされている。
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牛天神下交差点より、道路を廻りこんで小石川後楽園へ向かう。
小石川後楽園は前述の通り、徳川御三家の1つ、水戸家の上屋敷である。
寛永6年(1629)に水戸徳川家の祖である頼房が、三代将軍家光よりこの地
を与えられて回遊式築山泉水庭園として造ったもので、二代藩主光圀が明の
儒学者である朱舜水の意見を取り入れて完成させた。
都心の日本庭園ということもあり、国内外の多くの観光客が訪れる。
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後楽園の中には神田上水の水路が残されている。
築園に際しては神田上水の分流を引き入れたという。
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上水の上流側には円月橋という橋が架けられており、説明板には次のように記
されている。
朱舜水の設計と指導により名工「駒橋嘉兵衛」が造った。
橋が水面に写る形が満月になることからこの名がつけられた。
後に八代将軍吉宗が江戸城吹上の庭に造ろうとしたが遂に果たせなかったと
言われている。

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上水は後楽園を出た後、現在の東京ドームを横切る形で東進し、白山通りに沿
って神田川方向へと南下する。

水道橋の下流側で、神田川に木製の樋を架け、上水の水を対岸へと渡していた。
現在、その地には「神田上水懸樋(掛樋)跡」の記念碑が設置されている。
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そして、上水地下に埋められた石樋や木樋で、江戸市中へと送水されていった。

こちらは東京都水道歴史館にある懸樋の再現模型。
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江戸名所図会に描かれた『お茶の水 水道橋
水道橋
                      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

もう1つ、東京都水道歴史館に保存・展示されている石樋を紹介しておこう。
昭和62年から平成元年にかけて発掘された神田上水幹線水路の一部を移築
復原したものであり、内部寸法は、上幅150cm、下幅120cm、石垣の高さ120
~150cmで、長さ約180cm、幅60cm、厚さ30cm前後の蓋石がのせられて
いる。
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水道歴史館は、懸樋跡からお茶の水方向へ歩いて10分ほどの距離、神田上水
や玉川上水の説明展示が多くあるので、是非、訪れることをお勧めしたい。



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谷戸川 2

谷戸川は、世田谷通りを越えた先で一時的に暗渠となる。
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この暗渠は100mほどで終わって再び開渠となり、マンション脇を南下する。
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東側は高台となっており、その高台の上に横根稲荷神社が鎮座している。
創建年代は不明、社殿記念碑には「往古より三本杉横根のお稲荷様として尊
称され、稲荷講を中心として篤い崇敬と深い信仰を集めてきました」と記載され
ている。
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谷戸川は都立砧公園の中を流れていく。
公園内の上流側には吊り橋があり、その近くには仙川から導水管を通して送水
された水の流出口がある。
この付近では、渓谷のような雰囲気を味わうこともできる。
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砧公園は昭和15年(1940)、紀元2600年記念事業として都市計画された大
緑地として誕生、しかしながら折りしも太平洋戦争が開戦され、戦中は防空用
地として軍事訓練場などが建設された。
戦後は一時期、乳牛やヤギなども放牧されていたようだが、昭和30年(1955)、
『東京都砧ゴルフ場』として都立のゴルフ場が開設された。
しかしながら、緑地の開放を要求する声が多く、昭和41年(1966)に廃止、そ
の後、公園として緑地整備が行われた。
現在でも、砧公園内の緑地は、ゴルフコースの面影が残る。
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砧公園の中を蛇行しながら流れていく谷戸川。
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公園の南側には「見えない貯水池」という説明板が立っている。
谷戸川脇の一画には土手で囲まれた区画があり、通常の降雨時には雨水は
浸透枡や浸透管を通して谷戸川へ流れるが、大雨時には浸透しきれず、土手
の内側に一時的に貯水されるという。
雨が止むと次第に浸透して池がなくなるので、「見えない貯水池」というわけだ。
(この説明板には、谷戸川は谷頭川として表記されている)
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公園を出ると谷戸川は、東名高速道路の下を通り南側へと抜ける。。
川を追うには、東名高速を越えるために公園西口まで行かなければならず、大
迂回を強いられる。
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岡本の住宅街を進む谷戸川、所々に段差があり台地を下っていく。
この付近の橋名には、一之橋、二之橋・・・という名前が付けられ、八之橋まで
続く。
この辺りでは川と並行して一般道があるので、川沿いに歩くことができる。
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聖ドミニコ学園の脇を通る谷戸川。
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七之橋では東屋風の休憩所があるが、ここはバス停でもある。
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八之橋の先で谷戸川は道路から外れ、静嘉堂文庫の高台の裾を流れていく。
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また八之橋西側の崖下には湧水があり、そこから湧き出た水も谷戸川へ流れ
込んでいる。
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その高台にある静嘉堂文庫は、三菱財閥の第四代総帥である岩崎小弥太(
1879~1945)が、その父、弥之助(創始者弥太郎の弟、第二代総帥)が収集
した日本や中国の古典籍を保存し、また研究者へ公開することを目的として、
大正13年(1924)に建設したものである。
隣接して静嘉堂文庫美術館が併設されている。
(2015年秋までリニューアル工事のため、休館中)
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また近くには、弥之助の霊廟として建てられた岩崎家廟堂があり、弥之助、小
弥太をはじめとする岩崎家代々の墓である。
青緑色のドームを戴く白亜の廟堂は、鹿鳴館やニコライ堂などを設計したジョ
サイア・コンドルによって建てられた。
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静嘉堂文庫と廟堂はともに、平成11年に東京都の歴史的建造物に選定され
ている。

谷戸川は静嘉堂緑地の脇を抜け、その先で六郷用水丸子川)に合流している。
六郷用水はここで谷戸川を受けて水量を増加させ、下流に向かって流れていく。
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谷戸川 1

谷戸川は、世田谷区千歳台付近を水源とし、砧公園を経て岡本静嘉堂緑地の
脇で六郷用水(この場合、丸子川と称したほうが適しているかも知れない)に合
流する4.5kmほどの河川である。
谷川や谷頭川といった表記もみられる。

その源流は環状八号線脇の成城警察署付近とされる。
谷戸川は、その昔、東山野という旧小字の丘から湧出する泉を水源とする流れ
であったという。(笠森公園にある説明板より)
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環八を東側に横断すると、道路脇から水路敷が伸びているのを確認すること
ができる。
さすがに水路敷の中に入っていくことは出来ないので、迂回を繰り返しながら
谷戸川を追うことになる。
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千歳通りと交差した後も、水路敷は東京都水道局の世田谷営業所の脇を通り
抜けている。
千歳通りには、玉川上水から分水した品川用水が流れていたので、そこから
の漏水もあったのかもしれない。
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千歳通りを千歳船橋駅方向へ100mほど歩くと、浄土真宗本願寺派の高輪山
浄立寺
がある。
釈念西法師を開基として慶長年間(1596~1615)に高輪に創建されたとされ、
その後、築地本願寺の地中寺院(末寺)を経て、関東大震災後の昭和4年
(1929)、当地へ移転した。
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再び環八を横断して西へ向い、笠森公園を通り抜ける。
写真に見える説明板は、谷戸川について記されたもの。
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笠森公園から先、谷戸川は住宅街の道路沿いにコンクリート蓋暗渠として続い
ていく。
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その先、左折すると小田急線の高架が見えてくる。
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小田急線とそれに並行する道路を越えると、山野小学校の脇から谷戸川は開
渠となり、水面が顔を出す。
水量はさほど多くはない。
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谷川橋の橋詰で、西側から暗渠の支流が合流する。
小田急線の北、祖師谷1丁目付近から祖師谷大蔵駅の下を通り、ここに至る。
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更に歩いていくと、荒玉水道道路と交差する。
荒玉水道道路とは、この上流側でも、千歳台付近、笠森公園付近で交差して
おり、ここは3箇所目の交差である。
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ここでこの付近の神社を2社、訪ねることにしよう。

谷戸川の西側には、西山野稲荷神社が鎮座する。
創建年代は不明、境内には樹齢200年以上といわれるヤブツバキがあり、世
田谷区の名木百選に指定されている。
そのため、椿稲荷という別称もある。
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川を挟んで東側には砧三峰神社がある。
創建年代が不詳だが、江戸時代、三峰山から分祀されたものらしい。
三峰講中を組織し代参を行い、安政7年(1860)には三峰山に参篭・寄進した
記録があるという。
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荒玉水道道路との交差後、川は住宅の間を通り抜けることが多くなり、迂回を
しながら川の流れを確認することになる。
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こちらは塔之下橋近くにある地蔵尊、写真左の柵の中を谷戸川が流れる。
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砧1-20付近で、左岸から支流が合流する。
支流からは相当の水が流れ込んでいる。
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支流は北へ300mほど辿ることができ、その殆どは暗渠であるが、途中、住宅
の間に細い開渠を確認することもできる。
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やがて谷戸川は世田谷通りへと達する。



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田柄川 2

川越街道を渡り、田柄川は川越街道に並行するように東南東へ向きを変える。
かつて橋が架かっていた箇所には、橋名を記した柱が立てられている。
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田柄川緑道と川越街道の間の住宅は、陸上自衛隊の官舎である。
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田柄川を一旦離れて、北の東武東上線東武練馬駅沿いの商店街へと坂を上る。
線路の南側沿いの商店街の道は、江戸と川越を結んでいた旧川越街道であり、
この付近には下練馬宿が置かれていた。
川越街道を通行する大名は川越藩主のみで宿泊することはなかったが、本陣
と脇本陣、馬継の問屋場などがあったという。

街道沿いには北町観音堂(石観音堂)があり、天和2年(1682)銘の北町聖観
音座像をはじめ、馬頭観音や庚申塔などの石造物がある。
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商店街を東へと進むと、左手に北町浅間神社がある。
創建は明治前後と伝えられるが、下練馬宿には、五代将軍綱吉が将軍就任前
に脚気の療養のために移住していたとされ(後述)、当時から町をあげての祭
礼もあったという。
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社殿の左側には、練馬区の有形民族文化財に指定されている「下練馬の富士
塚」がある。
丸吉講(江戸後期から明治にかけて、現在の新座市周辺で隆盛した富士講の
一講社)によって明治5年(1872)に築かれたものだという。

田柄川緑道に戻ると、北町小学校前に徳川綱吉御殿跡之碑が建てられており、
その碑文には下記のように記載されている。
この付近一帯はかつて「御殿」と呼ばれた土地であった。
後に江戸幕府第五代将軍となる徳川綱吉が寛文年間(17世紀後半)にこの地
を鷹場とし、宿泊所として「鷹狩御殿」を建てたことに由来する。

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後年、生類憐れみの令を発令した綱吉が、この地で鷹狩りを行っていたという
ことは興味深い。

その先で田柄川緑道は環八と交差し、続けて川越街道を渡って南へと向きを
変える。
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川越街道を渡ったところには、「あやとり」と称する少女の彫像がある。
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その先、右手に100mほど入ったところにあるのが、真言宗豊山派の金乗院
行栄が開山、開基は大木大炊介、文禄年間(1592~96)の創建とされる。
山門は徳川家光使用の門とされ、高さ18mになる境内の銀杏(写真左)
は家光のお手植えと伝えられる。
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更にその先、緑道沿い、瀬戸橋跡の脇に建つ東本村庚申塔は、貞享2年(1685
)に建てられたもの。
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庚申塔から200mほど進むと左手に、同じく真言宗豊山派の円明院西光寺
ある。
開基の賢栄阿闍梨の名を刻した文亀2年(1502)の板碑が裏山の土窟から
発掘され、また寺宝として文亀元年(1501)の弁財天座像を線刻した板碑が
あることから、その頃の開山とされる。
造立当時は田柄川の清流が門前を流れる風景が美しく、村人たちは穴守弁
財天として祀ったという。
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また門前には「血の道地蔵」と刻んだ明治25年(1892)の地蔵菩薩立像がある。
別名「いぼ地蔵」と呼ばれ、この地蔵菩薩に祈るといぼがとれるという。
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緑道の行く手に、城北中央公園の森が見えてくる。
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その手前の南には、氷川台諏訪神社がある。
創建年代は不明だが、江戸期に勧請されたものだという。
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田柄川は城北中央公園の周囲を北から東へと迂回する。
板橋区に入り、緑道の名も桜川緑道へと変わる。
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桜川とは、田柄川合流付近の石神井川の両岸をはさむように多くの桜が
咲き誇ることからつけられたこの辺りの地名であり、田柄川とは直接関係
ない。
私自身も以前は田柄川の別称と誤解していたが、ややこしい緑道名である。

そして、城北中央公園の東南端、桜橋のたもとで田柄川は石神井川へ合流
する。
石神井川の岸壁には大きな流出口が開いており、少量の水が流れ込んで
いた。
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《参考文献》
『ふるさと練馬探訪』 練馬区立石神井公園ふるさと文化館編


 
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田柄川 1

練馬区の光が丘から田柄・北町を経て、桜橋にて石神井川に合流する田柄川
紹介する。
現在は全区間が暗渠であり、田柄川緑道として整備されている。

田柄川は、土支田、光が丘付近の天水(雨水)を集めて流れる自然河川であった。
しかしながら、この付近は武蔵野台地上にあって水利にはあまり恵まれず、上保
谷、下土支田、上練馬、下練馬などの村々の要望により、明治4年(1871)、
玉川上水の分水である田無用水から田無付近で水を分ける田柄用水が開削さ
れた。
田柄用水開削以前の土支田地域には田柄川の源流があり、土支田3丁目付近
の浅い谷まで遡れることができるが、降雨がない時は枯れ川であったという。
用水開削にあたっては、その水路を利用して建設された。
そして光が丘以東では、田柄用水は田柄川の北側を流れ、北町1丁目地内で
田柄川に水を落としていたようだ。

本項では、自然河川としての光が丘以東の田柄川を辿ることとし、田柄用水に
ついては、機会があれば別に取り上げることとする。

川を辿る前に、源流部の光が丘について述べておきたい。
光が丘は戦前まで田柄用水を利用した農村地帯であった。
昭和17年(1942)4月18日、米軍のB25による日本本土初空襲に襲われる
と、帝都防衛のための飛行場建設計画が進められ、光が丘一帯の農家は立
ち退きを強いられた。
翌18年8月までに農家は立ち退き、その後昼夜兼行で工事が行われ10月に
は、成増飛行場として完成した。
千葉県柏の陸軍飛行中隊が移駐し、延長1200mの滑走路のほか、格納庫、
掩体壕、高射砲陣地なども構築されたという。
現在の公園通り付近がかつて滑走路があった場所という。
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戦後は米軍に接収され、軍家族宿舎としてのグランドハイツが造られ。昭和48
年(1973)の全面返還まで続く。
光が丘公園が開園したのは昭和56年(1981)、その後、光が丘パークタウン
が形成され、現在に至る。

光が丘公園にはバードサンクチュアリの池があり、野鳥観察の環境が整備さ
れているが、この池は人工池であり、雨水を貯水(渇水時には工業用水で補
給)しているとのことである。
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前置きが長くなった。
田柄川を下っていくことにしよう。

田柄川の最上流を確認できるのは、光が丘の東側、秋の陽公園である。
公園内には、田柄川をイメージしたと思われる人工の水路があり、子供たちの
よき遊び場となっているほか、水田が設けられて、稲作が行われている。
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公園の東側の田柄高校前交差点から田柄川緑道が始まる。
緑道とはいっても、北町8丁目までの2kmほどの区間は、一般道の歩道として、
整備され、緑地帯が続いている。
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途中、北側から何本かの細い暗渠道(水路敷)が合流する。
田柄用水からの細い用水路の名残であろうか、田柄地区の往年の田園風景
が偲ばれる。
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北側を流れる田柄用水跡の道路脇には、田柄天祖神社がある。
上野伝五右衛門等が慶長3年(1598)伊勢神宮の分霊を勧請し、神明宮とし
て祀ったのが始まりとされる。
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境内には「水神宮」と書かれた田柄用水記念碑がある。
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明治26年(1893)に建てられたもので、用水開削後20余年の歳月がたって
いるが、これは同年に大幅な増水が実り、それを記念して建てられたことによる。
田柄用水開削当初は用水の流量が少なくて思ったほどの成果が得られず、た
びたび、増水願いが出されていたが、石神井川下流の板橋や王子に火薬製作
所や製紙工場が造られ、そこからの請願もあって、増水が認められたのだという。

天祖神社前の田柄用水跡の道路を150mほど進むと、右手に田柄阿弥陀堂
が見えてくる。
創建は不明、練馬春日町にある愛染院に合併されるまで長松山地蔵院泉蔵寺
と言ったという。
豊島八十八ヶ所霊場の第42番札所である。
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更にその先、100mほど行くと左手に田柄愛宕神社がある。
古い社がポツンとあるだけだが、境内は広い。
慶長年間(1596~1615)、吉田家の祖弥五衛翁が京都の愛宕大明神を勧請
して中田柄郷の鎮守としたといわれる。
境内末社には市杵島神社があり、火防の神として水神宮も祀られている。
毎年7月24日には金魚市が開かれるそうだが、これも水に関係があること
から、家の火防として金魚を持ち帰るという意味があるという。
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田柄川緑道に戻ると、やがて道路の真ん中に緑道が続くようになる。
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その先にあるのが田柄川幹線水位状況表示板、下水道の水位を表示してい
るものだが、かつて河川であったこと、更には田柄川が下水道幹線となっても、
脈々と存在していることをを再認識させてくれるものだ。
この表示板は、川越街道を渡った先の自衛隊官舎付近にもある。
また、同様のものは神田川の支流の桃園川でも見ることができる。
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さらに続く田柄川緑道。
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その先で自動車道は途切れ、歩行者専用の遊歩道となる。
遊歩道となって100mほど進んだ先、現在、都市計画道路(放射35号線)の
建設が進んでいる箇所付近では、かつて東武啓志線が交差していたという。
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東武啓志線は、昭和18年上板橋と上板橋と陸軍第一造兵廠(現陸上自衛隊
練馬駐屯地)の間に建設された路線を、戦後の昭和21年、グラントハイツま
で延長させたものである。
建設資材輸送用として敷設されたが、一時期は旅客営業も行われていたが、
昭和34年(1959)に廃線となった。
なお、啓志線の名前は、グラントハイツ建設工事総責任者のケーシー中尉の
名前から採られたものだという。
かつて田柄川を啓志線の列車が渡る風景が展開されていたのであろうが、
川は暗渠に、鉄道は廃線となり、その面影を見出すことは残念ながらできない。

遊歩道を辿っていくと、やがて川越街道に突き当たる。
2014-10-11_66.jpg

《参考文献》
『ふるさと練馬探訪』 練馬区立石神井公園ふるさと文化館編
『ねりまの川 -その水系と人々の生活-』 ねりま区報


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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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