練馬区の光が丘から田柄・北町を経て、桜橋にて石神井川に合流する
田柄川を
紹介する。
現在は全区間が暗渠であり、田柄川緑道として整備されている。
田柄川は、土支田、光が丘付近の天水(雨水)を集めて流れる自然河川であった。
しかしながら、この付近は武蔵野台地上にあって水利にはあまり恵まれず、上保
谷、下土支田、上練馬、下練馬などの村々の要望により、明治4年(1871)、
玉川上水の分水である田無用水から田無付近で水を分ける
田柄用水が開削さ
れた。
田柄用水開削以前の土支田地域には田柄川の源流があり、土支田3丁目付近
の浅い谷まで遡れることができるが、降雨がない時は枯れ川であったという。
用水開削にあたっては、その水路を利用して建設された。
そして光が丘以東では、田柄用水は田柄川の北側を流れ、北町1丁目地内で
田柄川に水を落としていたようだ。
本項では、自然河川としての光が丘以東の田柄川を辿ることとし、田柄用水に
ついては、機会があれば別に取り上げることとする。
川を辿る前に、源流部の
光が丘について述べておきたい。
光が丘は戦前まで田柄用水を利用した農村地帯であった。
昭和17年(1942)4月18日、米軍のB25による日本本土初空襲に襲われる
と、帝都防衛のための飛行場建設計画が進められ、光が丘一帯の農家は立
ち退きを強いられた。
翌18年8月までに農家は立ち退き、その後昼夜兼行で工事が行われ10月に
は、成増飛行場として完成した。
千葉県柏の陸軍飛行中隊が移駐し、延長1200mの滑走路のほか、格納庫、
掩体壕、高射砲陣地なども構築されたという。
現在の公園通り付近がかつて滑走路があった場所という。

戦後は米軍に接収され、軍家族宿舎としてのグランドハイツが造られ。昭和48
年(1973)の全面返還まで続く。
光が丘公園が開園したのは昭和56年(1981)、その後、光が丘パークタウン
が形成され、現在に至る。
光が丘公園には
バードサンクチュアリの池があり、野鳥観察の環境が整備さ
れているが、この池は人工池であり、雨水を貯水(渇水時には工業用水で補
給)しているとのことである。

前置きが長くなった。
田柄川を下っていくことにしよう。
田柄川の最上流を確認できるのは、光が丘の東側、
秋の陽公園である。
公園内には、田柄川をイメージしたと思われる人工の水路があり、子供たちの
よき遊び場となっているほか、水田が設けられて、稲作が行われている。

公園の東側の田柄高校前交差点から
田柄川緑道が始まる。
緑道とはいっても、北町8丁目までの2kmほどの区間は、一般道の歩道として、
整備され、緑地帯が続いている。

途中、北側から何本かの細い暗渠道(水路敷)が合流する。
田柄用水からの細い用水路の名残であろうか、田柄地区の往年の田園風景
が偲ばれる。

北側を流れる田柄用水跡の道路脇には、
田柄天祖神社がある。
上野伝五右衛門等が慶長3年(1598)伊勢神宮の分霊を勧請し、神明宮とし
て祀ったのが始まりとされる。

境内には「水神宮」と書かれた
田柄用水記念碑がある。

明治26年(1893)に建てられたもので、用水開削後20余年の歳月がたって
いるが、これは同年に大幅な増水が実り、それを記念して建てられたことによる。
田柄用水開削当初は用水の流量が少なくて思ったほどの成果が得られず、た
びたび、増水願いが出されていたが、石神井川下流の板橋や王子に火薬製作
所や製紙工場が造られ、そこからの請願もあって、増水が認められたのだという。
天祖神社前の田柄用水跡の道路を150mほど進むと、右手に
田柄阿弥陀堂が見えてくる。
創建は不明、練馬春日町にある愛染院に合併されるまで長松山地蔵院泉蔵寺
と言ったという。
豊島八十八ヶ所霊場の第42番札所である。

更にその先、100mほど行くと左手に
田柄愛宕神社がある。
古い社がポツンとあるだけだが、境内は広い。
慶長年間(1596~1615)、吉田家の祖弥五衛翁が京都の愛宕大明神を勧請
して中田柄郷の鎮守としたといわれる。
境内末社には市杵島神社があり、火防の神として水神宮も祀られている。
毎年7月24日には金魚市が開かれるそうだが、これも水に関係があること
から、家の火防として金魚を持ち帰るという意味があるという。

田柄川緑道に戻ると、やがて道路の真ん中に緑道が続くようになる。

その先にあるのが田柄川幹線水位状況表示板、下水道の水位を表示してい
るものだが、かつて河川であったこと、更には田柄川が下水道幹線となっても、
脈々と存在していることをを再認識させてくれるものだ。
この表示板は、川越街道を渡った先の自衛隊官舎付近にもある。
また、同様のものは神田川の支流の桃園川でも見ることができる。

さらに続く田柄川緑道。

その先で自動車道は途切れ、歩行者専用の遊歩道となる。
遊歩道となって100mほど進んだ先、現在、都市計画道路(放射35号線)の
建設が進んでいる箇所付近では、かつて
東武啓志線が交差していたという。

東武啓志線は、昭和18年上板橋と上板橋と陸軍第一造兵廠(現陸上自衛隊
練馬駐屯地)の間に建設された路線を、戦後の昭和21年、グラントハイツま
で延長させたものである。
建設資材輸送用として敷設されたが、一時期は旅客営業も行われていたが、
昭和34年(1959)に廃線となった。
なお、啓志線の名前は、グラントハイツ建設工事総責任者のケーシー中尉の
名前から採られたものだという。
かつて田柄川を啓志線の列車が渡る風景が展開されていたのであろうが、
川は暗渠に、鉄道は廃線となり、その面影を見出すことは残念ながらできない。
遊歩道を辿っていくと、やがて川越街道に突き当たる。

《参考文献》
『ふるさと練馬探訪』 練馬区立石神井公園ふるさと文化館編
『ねりまの川 -その水系と人々の生活-』 ねりま区報
より大きな地図で 【川のプロムナード】石神井川周辺マップ を表示