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六郷用水 北堀 2

堤方の八寸から、六郷用水北堀を北東方面へ辿っていく。

すぐ北側には呑川が流れており、北堀は呑川に架かる養源寺橋の上流で一旦、
呑川に合流した後、橋の下流側に設けられた堰によって分流していた。
写真は養源寺橋から下流を見た光景、かつてはここに堰があったのだろう。
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橋の数十メートル下流側で、川沿いの道路から左へ分岐する遊歩道があり、
遊歩道となった北堀跡は北東へと向きを変える。
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この辺りは池上本門寺の門前であり、周辺には塔頭寺(末寺)が23寺存在する。
その中で北堀に割と近い照栄院・養源寺・妙雲寺を各寺に設置してある『池上
の寺めぐり』の説明板をもとに、紹介しておこう。

まずは、呑川の妙見橋と養源寺橋の間の北側にある朗慶山照栄院
正応4年(1291)日朗聖人の庵室として開創。
聖人の没後荒廃したが、嘉吉年間(1441~44)に再興された。
元禄2年(1689)南谷檀林という僧侶教育の学校を開設、明治2年(1869)に
廃されるまで多くの高僧を送り出した。
2014-09-20_75.jpg

養源寺橋の北詰には、橋名の由来ともなった養源寺がある。
慶安元年(1648)松平隆政(出雲母里藩の初代藩主)の母、養源院殿妙荘日
長大姉の発願により、荏原郡浜竹村にあった本成寺を当地に移し、養源寺と
改称、開山に本門寺十八世日輝聖人を迎えた。
享保4年(1719)、同6年(1721)の二度、八代将軍吉宗が鷹狩りの際には御
膳所になったという。
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養源寺の北東側に隣接するのが、玄性山妙雲寺
元和年間(1615~23)智雄院日正上人により開創、小湊誕生寺の末寺となる。
駐車場入口にある庚申塔は、水をかけて祈願すると足腰が丈夫になると伝え
られている。
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六郷用水北堀に戻り、水路跡を辿っていこう、
遊歩道は100mほどで終わり、その先は池上通りに並行する一般道となる。
一般道は環七の手前まで1km以上続き、大田区中央の住宅街を淡々と進む。
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呑川から先の水路は不入斗新井宿用水という別称もあった。
不入斗(いりやまず)は、明治22年(1889)の東京市誕生以前、現在の大森北
および大森本町1丁目付近にあった村、新井宿は現在の山王を中心として存
在していた村の名前である。
不入斗とは租税免除の土地の意味で、磐井神社(大森北2丁目)の社領で税
が免除されていたので名付けられたという説がある。

大森赤十字病院の先で、馬込方面から流れてきた内川と交差する。
古地図を見た限りでは、ここでも六郷用水は、内川に合流し、そして分流する
という形で交差していたようだ。
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その先、かつて田無街道と呼ばれていた道路(古道)との交差点脇には、美皿
の親柱が残存している。
昭和10年竣工のプレートが付けられている。
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北堀はやがて池上通りと合流し、そのすぐ先で環七と交差する。
池上通りとの交差点の地点では、かつて池尻川と合流していた。
池尻川は山王から南へ流れる内川の小さな支流(現在は全区間暗渠)である
が、古地図を見ると北堀から下流側は水路を確認できない。
恐らく、六郷用水の完成以降、池尻川の水は北堀に取り込まれたのではない
かと考える。
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写真奥に見えるのは、環七の春日橋陸橋。
陸橋の名前となっている春日橋は、かつて六郷用水に架かっていた橋の名で
あろうか。

春日橋交差点からは、歩道が半分を占める道路が北東へと続く。
歩道部分が、かつての六郷用水の流路と思われる。
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その道路沿いに建てられている小さな祠は長田稲荷神社と称する。
創建などの由緒は不明。
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道路はその先で東へと向きを転じ、東海道本線と交差する。
線路との交差部分には小さな鉄橋があり、その下には水路を確認することがで
きる。
殆どが埋め立てられ、道路となった大田区内の六郷用水の中で、開渠として遺
構が確認できる貴重な場所である。
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東海道本線を渡り、更に東進する。
用水跡が歩道となった道路が続く。
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大森北6-20で水路は再び右折して南進する。
細い歩行者道が交差するが、かつて北堀から周囲の田圃へ水を供給していた
用水路の跡であろうか。
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先ほど交差した環七と再び交わる。
そこには、澤田橋の親柱(昭和12年(1937)施工)が保存されているのを見る
ことができる。
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環七沿いには、大森浅間神社が鎮座する。
享保年間(1716~36)、富士宮の富士山本宮浅間大社の分霊を大森の地に
勧請したのが始まりとされ、旧大森村澤田の鎮守となった。
大正7年(1918)耕地整理のために平和島駅の西側に移転、昭和15年(1940)、
道路拡張のために現在地に遷座した。
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環七の南、北堀跡の道路は南に流れる内川に向かって真っ直ぐ進む。
途中、道路の左側には、大森諏訪神社内川2参照)がある。
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四之橋で内川に出る。
但し、ここを流れる内川は、大正6年(1931)、周辺の区画整理に併せて、新し
く掘削されたもの。
ということは、六郷用水北堀の末端はここではない。
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四之橋を渡って進むと、歩道がある一般道が更に続いている。
六郷用水北堀は、大森町の商店街の手前を流れていた旧内川に合流していた
ようだ。
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《参考文献》
『六郷用水』 大田区立郷土資料館編


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目次
  
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六郷用水 北堀 1

六郷用水 北堀は、千鳥町付近の南北引分で南堀と分かれ、池上を経由して
大森・蒲田方面の水田を潤していた水路で、途中で吞川をわたり、末端は内川
へと流れ込んでいた。

南北引分から分かれた水路跡、歩道のある道路を東へと進む。
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南北引分から300mほど歩くと、東急池上線の千鳥町駅脇の踏切に達する。
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踏切を渡って更に100mほど行くと、遊歩道へと入っていく。
その入口の脇には『六郷用水物語』の説明板が立てられている。
六郷用水を開削した小泉次太夫の生家について書かれたものであり、次太夫
が駿河国富士郡小泉郷(現;富士宮市)の代々樋代官を努めてきた治水土木
専門の家柄であることが記載されている。
北堀沿いには、この先、次太夫の生い立ちや業績にかかれた説明板が所々
に立てられている。
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千鳥いこい公園の脇を進む遊歩道。
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この辺りで六郷用水と交差する道路の北側は坂道となっている。
北堀は武蔵野台地の南縁に沿って掘られていったことがよく判る。
写真の右側に写っているのは、『六郷用水物語』説明板で、次太夫が家康の
江戸入府に同行し、その後、川崎の砂子の里に移り住んだことが記されている。
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第二京浜を横断し、池上警察署の脇を入っていく。
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その先の南側、池上通り沿いに徳持神社が鎮座する。
建長年間(1249~55)の創建と伝えられ、豊前の宇佐八幡宮より分霊を勧請
した。
御幡山八幡宮とも称され、荏原郡池上村大字徳持の住民の守護神として、元
徳持の南地区(現:池上七丁目付近)に鎮座した。
明治39年(1906)に池上競馬場設置のため現在地に移転、同41年(1908)
に徳持上宿の稲荷神社を合祀して、徳持神社と改称した。
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北堀の歩道沿いに植えられている2本の樹木、この樹木の間にも『六郷用水物
語』説明板がある。
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池上3丁目の住宅地を緑道として西進していく。
この付近の北堀は、一般道の歩道となったり、緑道(歩行者専用道)となったり
を繰り返している。
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やがて池上本門寺の参道と交差する。
本門寺の参道とあって、さすがに通行量は多い。
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さらに辿ると堤方の八寸という堰跡があり、ここで3方向の流れに分かれてい
たという。
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堤方の八寸については『六郷用水物語』説明板の言葉を借りて説明すること
にしよう。
六郷用水北堀は、ここで、直進して大森・蒲田方面への流れと、北を上って
呑川をわたり新井宿方面へ向かう流れ、南へ下って女塚方面へ向かう流れ
と三つに分かれていました。
ここに設けられた堰はふつうの堰板ではなく、水流方向に直角に八寸角の
角材がいけこまれた「八寸の水はかり」と呼ばれた独特のもので、この場所
の由来ともなっています。

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この先、北堀を辿るには新井宿方面へと北に向かうのだが、ここは一旦、
直進して緑道を進むことにする。

緑道を300mほど進むと、呑川にぶつかる。
この合流部にも中土手という分水堤に書かれた『六郷用水物語』説明板がある。
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堤方の八寸から直流した六郷用水は、このあたりで呑川と合流し、現在の
上堰橋下流(池上第二小学校付近)から双流橋付近までの呑川の中央に
築かれていた「中土手」と呼ばれた分水堤で分流され、東側は大森方面へ、
西側は蒲田方面へ南下していました。
この中土手はしばしば上流部の溢水の原因となっており、農業用水として
の利用が減少した昭和六年に撤去されています。

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合流地点から呑川の下流方向を見た風景、呑川に架かる橋は、池上通りの
堤方橋である。
中土手が設置されていたのは、堤方橋の先300mほどの地点となる。
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堤方の八寸まで戻り、新井宿方面へ進むことにしよう。

《参考文献》
『六郷用水』 大田区立郷土資料館編


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六郷用水 中宿堀

蛸の手から、雑色、南六郷を通り、六郷水門に至る六郷用水の支堀を辿る。
資料とした『六郷用水』(大田区郷土博物館編)には、「南堀:雑色・八幡塚コース」
として、六郷歩きコースの1つとして紹介されているが、同資料にも、博物館にあ
る地図にも水路の名称は、残念ながら見当たらない。
(この水路から分かれる堀には、栄木堀・大沼堀・小沼堀などの名を確認できる。)
ただ、インターネットを検索していると、示山橋というサイトに掲載している地図に
中宿堀という名前があった。
ここでは、それを継承させて頂き、中宿堀と呼称することにしよう。
(堀名がお判りの方は、コメント頂きたく存じます)

東海道線の東側から東南方向へ向かう道路が始まるが、これが水路跡の道である。
線路沿いには防災資材倉庫のプレハブ小屋がある。
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その先はマンション沿いの歩道付きの道路となる。
その歩道には、近くの子の神堀と同様に、田中休愚(丘隅)について記載された
六郷用水物語』案内板が建っている。
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そのマンション沿いの道路の先は細い私道となり、その道路は100メートルほ
ど続く。
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私道を抜けると、水路跡の道路は仲六郷一丁目の住宅街の中を南進する一
般道となる。
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その後、雑色商店街の道路を南下する。
商店やスーパーなどが建ち並ぶが、用水の痕跡は何もない。
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この通り沿いから、東側へ大沼堀小沼堀などが分岐していたという。
(大沼堀、小沼堀は末端で、再び中宿堀に合流する。)

雑色商店街の道路は仲六郷三丁目27番先の交差点で、他の一般道に合流
するが、その数十メートル手前の歩行者道で東へと転じる。
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その先、京急線を越え、第一京浜に出てきた地点。
ここで、先ほど分岐して、第一京浜沿いを南下してきた小沼堀は合流していた
ようだ。
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100mほど進むと、再び歩行者道となって六郷小学校と六郷幼稚園の間を抜
けていく。
路面に設置されたタイルが案内をしてくれる。
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その六郷幼稚園に隣接するのが、六郷一円の総鎮守の六郷神社
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天喜5年(1057)源頼義、義家の父子が、この地の大杉の梢高く源氏の白旗
をかかげて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、前九年の
役に勝利をおさめたので、凱旋後に分霊を勧請したのが創建と伝えられる。
その後、 文治5年(1189)、源頼朝もまた奥州平定の際に当社で武運を祈願
したので、2年後の建久2年(1191)梶原景時に命じて社殿を造営した。
天正19年(1591)、徳川家康は18石の朱印地を寄進し、慶長5年(1600)
六郷大橋の竣功に際しては、当社の神輿をもって渡初式を挙げた。

神門前にある「神橋」と名づけられた石橋は、梶原景時の寄進と伝えられる。
かつて六郷用水に架かっていた石橋かも思ったが、時代が異なるので関連は
ないであろう。
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中宿堀はカクカクと曲がりながら進み、六郷図書館の脇の細い百メートルほど
の歩行者道を抜けていき、その先の一般道を左へと折れる。
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南六郷小学校を過ぎたあたりで、右手に緑道が出現する。
但し、こちらもその長さは50メートルほどである。
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南六郷団地脇には、用水を復元したのか、人工のせせらぎが流れている。
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団地の先には南六郷緑地があり、多摩川へ向かって延びる。
公園内のトイレには、六郷水門をイメージしたモニュメントが付随している。
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かつては南六郷緑地の地で北東から子の神堀が合流していたようだ。
公園の先には六郷水門、そこを抜ければ多摩川だ。
(六郷水門については、子の神堀の項を参照されたい。)
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《参考文献》
『六郷用水』 大田区立郷土資料館編


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六郷用水 子の神堀

蛸の手で六郷用水南堀から分かれた子の神堀子の根堀ともいう)を辿るこ
とにする。

蛸の手は蒲田電車区の敷地内であり見る影も無いが、分流した子の神堀はこ
の辺りを流れていたと思われる。
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その先でJR東海道線と交差する。
線路との交差部分には、その場所だけ道床がコンクリートとなっている。
かつては小さな鉄橋があったのだろう。
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線路を渡った先は、一般道を西進する。
道路沿いには、六郷用水を改修した田中休愚(丘隅)について記載されている
六郷用水物語』案内板が建てられている。
この辺りには、雑色方面への水路を含めて、休愚の功績や生い立ちについて
書かれた案内板が3基ほど設置されている。
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歩いていくと、京浜急行線が前方に見え、更にはその先で第一京浜を横切る。
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第一京浜を越えた先、緑地帯がある歩道が続く。
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やがて一般道とは分かれ、細い歩行者専用道路となる。
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水路跡の道を辿っていくと右手に七辻と呼ばれる七本の道路が交差する珍しい
交差点がある。
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大正6年(1917)から10年にかけての耕地整理により作られたもので、当時
は人家も疎らで、水田や果樹園が広がり、大八車が時折通るだけの交通量で
あったという。
現在は信号もない交差点を自動車が行き交うが、譲り合いが行われるため、
事故もないそうだ。

七辻付近の子の神堀跡の道、路面のタイルが案内してくれる。
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七辻の東側には、真光寺妙覚寺正覚寺福称寺などの寺院が集まる一帯
がある。
ともに浄土真宗の寺院で、築地本願寺の寺中寺であったが、関東大震災の後、
昭和初期に当地に移転してきた。
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細い歩行者道は、その先、一般道へ合流する。
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子の神堀は上田妙法稲荷神社の西側を通り抜ける。
境内に入ると、赤い鳥居が建ち並ぶ光景が鮮やかだ。
享和元年(1801)、多摩川の大洪水被害から立ち直るため、京都伏見大社の
分霊を賜り、大松の下に社殿を創建したものだという。
「羽田七福いなり」の一社とされている。
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道路は多摩川へ向かって進んでいく。
この先は二手に分かれ、一方はそのまま多摩川へと進み、もう一方は右へ折
れて、六郷水門へと向かう水路があったようだ。
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右折して、数百メートルほど行くと南六郷緑地に突き当たる。
ここで大沼堀や小沼堀などを分けながら雑色や南六郷を流れてきた中宿堀
合流していたようだ。

多摩川の方へと目を向けると古めかしい六郷水門を望むことができ、水門の
内側の小さな舟溜まりは小型船舶の停泊地となっている。
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六郷水門は、昭和6年(1931)の竣工、大正から昭和にかけての多摩川改修
工事の一環として造られた。
また、当時は宅地化により生活排水が増大し、下水道が普及するまでの間、
その排水処理を担うとともに、大雨時の逆流を防いでいたという。
土木学会の日本の近代土木遺産にも選ばれている。
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六郷水門に付けられている紋章は、旧六郷町の町章で、「郷」の字の周りに九
つの「ロ」の字が囲み、ロクを示すユニークなものだ。
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《参考文献》
『六郷用水』 大田区立郷土資料館編
『大田の史跡めぐり』 大田区教育委員会 郷土博物館編


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六郷用水 南堀

六郷用水南堀を南北引分から蛸の手まで辿っていくことにする。

六郷用水本流からの道路を直進すると、そのまま南堀跡のルートになる。
道路は環八の東側を並行しながら、東南方面への向かう。
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南北引分から1ブロックほどいくと、『割場の堰』について書かれた案内板がある。
その案内板によると、この辺りには引水シーズンにだけ築かれた西側へ分流す
るための臨時の堰があったという。
「矢口の大堰」とも呼ばれ、分水路(三百間堀)は旧矢口村・今泉村(現:矢口一
丁目~三丁目一帯)を灌漑していた。
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土手の両岸に渡した丸太を枕として木杭が櫛の歯状に打ち込まれ、木枝をつ
めたり、ムシロで覆います。こうして堰止めをして用水の水カサをあげることに
より、堰の上手にあり分水路へ水を引き込みました。
    『六郷用水物語』案内板より
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一旦、環八に接した後、再び歩道が設置されている一般道を進む。
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その先にも『耕田橋の堰』の案内板がある。
こちらも臨時の堰で、2つの用水路が分流していた。
一つは千間堀と称する用水路で、東急多摩川線沿いに南東下して西六郷一帯
を灌漑し、もう一方は東へ流れる水路が安方地区(現:東矢口1・2丁目)を灌漑
していたという。
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第二京浜を過ぎると、歩道はなくなり、単調な道が続くようになる。
僅かに蛇行している形状が、用水跡の証であろうか。
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南堀の右側、環八沿いには真言宗寺院の遍照院と安方神社が隣接して建てら
れている。

遍照院の創建年代は不明、境内には承応3年(1654)から文化4年(1808)に
寄進造立された5つの供養塔があり、大田区文化財に指定されている。
もとは参道に並べられていたが、環八建設のために現在地に移された。
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遍照院に隣接するのが、安方神社
こちらも創建は不明、もとは八幡神社と称したが、安方村にあった天祖神社、
釈護子神社、大六天社等を合祀して、明治42年(1909)に安方神社と称した
のだという。
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その先で六郷用水南堀は多摩川線、そして環八と交差する。
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多摩川線を渡った先、東側に若宮八幡神社が鎮座する。
創建年代などの由緒は不明、旧荏原郡小林村の鎮守であったという。
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さらには、環八との交差した場所にあるのが、真言宗の円日山金剛院
創建年代は不詳、本尊の大日如来像(非公開)は、元禄7年(1694)に小林、
安方、原の三ヶ村に分布する当時の惣檀徒が施主となり、京都五条東洞院の
大仏師左近が造像したものと伝えられる。
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金剛院脇で環八を離れ、南東方向へと進んでいく。
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環八から500mほど歩くと、JR京浜東北線の蒲田電車区に突き当たる。
この電車区の中には、蛸の手と呼ばれる分流点があった。
文字通り、あたかも蛸の手足のように水路が分かれ、糀谷、羽田、六郷方面へ
と分水されていた。
2014-08-30_140.jpg
現在は線路が敷き詰められて、残念ながらその形跡はない。
そして、更に下流へと進むためには、電車区を大きく迂回する必要がある。

《参考文献》
『六郷用水』 大田区立郷土資料館編
『大田の史跡めぐり』 大田区教育委員会 郷土博物館編


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ごあんない
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水系ごとに体系化しています。

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プロフィール

リバーサイド

Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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