六郷用水は和泉村(現狛江市)で多摩川から取水し、世田谷領・六郷領の田畑
を潤していた用水路で、延長は23kmに及ぶ。
特に六郷領内ではいくつもの掘に分かれ、あたかも毛細血管のようである。
小泉次大夫が建設を指揮・監督したため、
次大夫掘(主に世田谷領内で称して
いた)とも呼ばれ、また現在、世田谷区岡本から大田区田園調布までの区間は
丸子川と改称されている。
インターネットで六郷用水を検索すると様々な情報が得られ、また大田区内に
は、
六郷用水の会という団体により研究・広報活動が行われている。
当ブログでは、六郷用水とともに周辺の史跡などの案内なども含めて、ウォー
キングガイドとして記すこととしたい。
さて用水を辿る前に、簡単に六郷用水の成立について触れておこう。
天正18年(1590)、北条氏を討伐後、秀吉から関東への移封を命じられた家
康は、所領地を豊かにするために多摩川下流の低湿地の整備を命ずる。
そのために計画されたのが六郷用水であり、
小泉次大夫吉次(1529~1623)
が工事代官として指揮・監督し、開削工事が開始された。
工事は慶長2年(1597)から始まり、同16年(1611)までの歳月を費やした。
なお、工事は六郷用水だけではなく、多摩川対岸の川崎側の二ヶ領用水と同
時並行されたため、長期にわたる難工事となり、領民の賦役も過重であったらしい。
こうして開削された六郷用水であるが、規模が大きいということは、それを維持
管理することも大変である。
六郷領35ヶ村に大用水組合という普請組合が作られ、水利権の付与の代償
として維持管理が課せられた。またその下には南掘組合・北掘組合が作られ、
さらには10地区の堀単位の小堀組合に分かれ、年次ごとに維持管理にあた
ったという。
また開削して100年ほど経つと、用水を目的とした二次開発から用水不足が
慢性化した。
そこで御普請御用を命じられた
田中休愚(
丘隅)(1662~1729)は、享保10
年(1725)、取水口から南北引分(現:千鳥町付近)までの間、拡張工事を行う。
この工事により相応の成果が出たと言われ、後世、休愚は「六郷用水中興の
祖」と称されることとなった。
ちなみに上流域の世田谷領では六郷用水の使用は許されていなかったが、改
修にあたり同地の農民の協力を仰ぐことと引き換えに、水の利用権を与えたという。
前置きが若干長くなったが、六郷用水を辿ることにしよう。
六郷用水の取水口は狛江市中和泉の
多摩川沿いにある。
現在は取水口は跡形もないが、
根川という小河川の水門が目印になる。

こちらは付近にあった説明板に載せられていた、ありし日の取水口。

その近くには
水神社がある。
寛平元年(889)、この地に六所宮(明治元年、伊豆美神社と改称)が鎮座された。
天文19年(1550)多摩川の洪水により社地が流出、北へと移転するが、その
跡地に慶長2年(1597)水神社を創建し、用水守護の神として合祀されたと伝
えられる。
六郷用水建設の時期と一致し、開削工事の安全を祈願したのであろうか。

また、付近には
玉翠園の石垣があるので、確認しておこう。
明治39年(1906)に井上公園として開園、大正2年(1913)に公園内に川魚
料理を専門とする料亭が出来た。
多摩川の船遊びもできるとあって、多くの客で賑わったという。
昭和18年(1943)、戦況の悪化とともに廃業され、今はこの石垣のみが残っ
ている。

六郷用水は取水口から、狛江駅方面へと進む。
現在は六郷さくら通りと称する道路となっており、タイル舗装の歩道が続く。

田中橋交差点手前の右側には
狛江市古民家園(
むいから民家園)があり、
江戸時代後期の農家の面影を残す旧荒井家住宅主屋と、安政6年(1859)
に建てられた旧髙木家長屋門が移築・復元されている。
特に旧荒井家住宅主屋は、田急線の連続立体交差・複々線化事業により
解体されようとしていた民家を、市民の手により移築・復元したものだという。

また、この付近で
猪方用水が分かれ、和泉村の水田を潤おしていたようだ。
その先、通りの左側に森が見えてくる。
経塚古墳という5世紀後半の築造と推定される古墳で、直径40m以上の墳丘
に、幅10m以上の周溝が巡っていたという。
13世紀から16世紀にかけては。30基ほどの板碑が林立していたといい、中
世墳墓としても再利用されたらしい。
また経典を埋めたとも伝えられ、泉龍寺(後述)の開祖、良弁僧正の墓とする
伝承もあるらしい。

道路を挟んで南側には、曹洞宗の
雲松山泉龍寺である。
天平神護元年(765)、良弁僧正が法相宗・華厳宗の寺を創建したのが始まり
とされる。
戦国時代に寺は衰退したが、泉祝和尚が泉の畔で霊感を受け、曹洞宗の参禅
修行道場として復興した。
地頭の石谷清定が寺域の整備に努めたので、中興開基とされている。

なお境内の東南には霊泉とされる弁財天池があり、野川の支流、清水川の
源泉ともなっている。
下は
江戸名所図会の『
泉龍寺』
右上には六郷用水らしき水流が見られ、また左上には、先ほど取り上げた
経塚も左上に描かれている。
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)狛江駅の北口を通り過ぎ、小田急線との交差する手前で
旧野川(現在は遊
歩道となっている)と合流する。
野川は度々洪水を起こし、周辺地域に被害を与えた。
野川が現流路に変更されたのは昭和44年(1969)である。

ここで六郷用水と、野川および入間川、仙川の流路について触れておこう。
下に掲載する2つの略図のうち、上は改修前、下は改修後(現在)の流路である。
野川改修前
野川改修後(現在)
かつての野川は、現在の小金橋付近で向きを変えて南下し、この地に至って
用水と合流していた。
また入間川は次大夫掘公園付近で六郷用水と合流しており、改修工事は入
間川の流路の一部を利用して付け替えられたことが判る。
同じく野川の支流である仙川も、元々は野川ではなく六郷用水(丸子川)に合
流していたようだ。
また改修前の流路を見ると、六郷用水を開削する際、この付近では野川の流
路を利用して造られたのではないかと推察することもできる、
小田急線のガードをくぐり、道なりに進むと世田谷通りに出る。
そこには一の橋、二ノ橋と、六郷用水に架かっていた橋名が交差点名に残っ
ている。

二ノ橋交差点の北側にあるのが浄土宗の
慶岸寺。
慶長17年(1612)の創建と伝えられる。

二ノ橋交差点から、200mほど進むと右に
滝下橋緑道が分かれる。
六郷用水跡が緑道として整備されており、野川まで続く。
野川沿いの遊歩道を数百メートルほど下ると、右側に次大夫掘の名を冠する
次大夫掘公園が広がる。
公園内には六郷用水(次大夫掘)を再現した水路があり、子供たちがザリガニ
採りに興じている姿も見られる。

勿論、多摩川から取水し、国分寺崖線の湧水を集めた野川や入間川を合流し
た当時の用水の水量はこのような細い流れではなかったはずだ。
また、公園内には
民家園があり、名主屋敷、民家、表門、消防小屋などを復元
し、江戸後期から明治にかけての農村風景を再現している。
季節の行事なども行われ、体験型展示施設となっている。
旧安藤家住宅主屋
旧城田家住宅主屋公園内の水路に沿った遊歩道は、再び野川に向けて続いている。
《参考文献》
『六郷用水』 大田区立郷土資料館編
より大きな地図で 【川のプロムナード】六郷用水周辺マップ を表示