六郷用水 5

丸子川が多摩川に合流した後、水路は無くなるが、中原街道の下を潜ると、再
び道路沿いに水路が現れる。
この水路は、六郷用水の復元した水路であり、国分寺崖線からの湧水を利用
している。
(「旧六郷用水脇」として、 東京の名湧水57選の1つに指定されている。)
復元されたせせらぎであるため、水路の幅はかつての用水の半分ほどである。
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水路には錦鯉が泳ぎ、周囲の住民のよい散歩道となっている。
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復元水路沿いに歩いていくと、ジャバラと呼ばれる水車の模型があり、脇にベ
ンチも設置された休憩所となっている。
そこには『六郷用水物語』と称する案内板があり、ジャバラに関する説明が記
載されている。
この水車はジャバラ(足踏み水車、踏車ともいう)と呼ばれる揚水用水車の模
型です。かつては六郷用水流域の水田においても、早春や干ばつ時の水が
少なくなった時に、羽根を足で踏んで回転させ、田に水を揚げていました。

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『六郷用水物語』の案内板は大田区により設置され、ここから先、所々に建て
られている。
また、傘つき標識柱や道路に埋められているタイルもあり、六郷用水を辿るの
に役立つ。
特に案内板は簡潔に判りやすく説明されているので、この先も必要に応じて引
用することにしよう。

ジャバラのある場所に隣接するのが、真言宗智山派の寺院である有慶山東光院
義賢和尚の開山とされるが、創建年代は不明。
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数十メートルほど進むと洗い場跡があり、ここも「旧六郷用水沿い洗い場跡
として、東京の名湧水57選の指定を受けている。
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その先には用水復元水路沿いには、水を利用したモニュメントもある。
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新幹線のガードを過ぎると、左手に真言宗の明楽山密藏院がある。
こちらも開創年代は不明、永正年間(1504~21)、森一族の菩提寺が建立さ
れたが、慶長(1596~1615)末期に火災により本堂を焼失した。
その後、有力檀徒である森庄兵衛によって再建されたという。
大日如来像や弘法大師坐像(非公開)などが大田区文化財に指定されている。
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途切れながらも、復元水路は歩道沿いに続いていく。
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用水沿いには庚申塔がある。
これは嶺の四庚申と呼ばれる庚申塔の1つで、当時の嶺村に悪疫が入ってこ
ないように村境にたてられた四つの庚申塔のうちの1つである。
(ここ、下沼部の他に、鵜の木、久が原、雪谷にあるという。)
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更に進むと、道は緩やかな上り坂となる。
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女堀(おなぼり)と呼ばれる区間で、最大7.5mほどの地盤を開削したもの
だという。
その由来については二つの説がある、現地に立つ案内板にも書かれているの
で、その一部を引用する。
一つはこのあたりの高低差と堅い地盤によって、堀の開削工事は難行しました。
その際、作業に女性を動員し、男女が力を合わせて能率を上げたことから呼ば
れる説です。いま一つは、工事を担当した代官小泉次大夫が浅間神社(多摩川
台公園前)の丘近くを工事しようとした時です。夢に現れた女神(木花開耶姫
命…浅間神社の祭神)のお告げにより、丘を切り崩さずに工事を進めたことか
ら女堀と呼ばれる説です。


難工事を避けるために多摩川に近いルートをとる方法もあったかもしれないが、
多摩川の氾濫域にかかるため、この女堀を堀り進む必要があったと思われる。
なお、現在の復元水路はこの高台を進むことはせず、女堀の手前で終わって
しまう。

女堀の北側には真言宗の峯松山観蔵院がある。
創建年代は不明、光明寺(後述)が真言宗であった頃にその加行道場として建
立されたと伝えられる。
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復元水路が途絶えた先、用水跡は歩道として続く。
その歩道を歩いて行くと、やがて環状八号線と交差する。
環八と交差後は、環八の北側に沿って進むことになる。
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その交差箇所の北側の坂を上っていくと、鵜ノ木八幡神社
延徳元年(1489)、天明伊賀守光信の子・五郎右衛門光虎が下野国からこの
地に移住、応神天皇を勧請して創建したという。
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環八の東側に移っても用水跡の歩道は続く。
その歩道には『光明寺大門前の堰と水車』と題する案内板が建てられている。
この辺りの堰から、水路(新田川)が西側に分流し、根岸耕地(現千鳥町三
丁目付近)を灌漑していたという。
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そこに書かれている光明寺は、環八を挟んだ南側に位置している。
天平年間(729~749)に行基が開創し、弘仁年間(810~824)に、空海が再
興したと伝わる古刹である。
寛喜年間(1229~1232)になって、善慧証空が再興して浄土宗にかわり、大
金山宝幢院光明寺と称するようになった。
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境内は広く、多摩川の河跡湖といわれる光明寺池があるが、残念ながら非公
開となっている。

光明寺
江戸名所図会光明寺』     (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)  

先ほどの案内板の先、左側には藤森稲荷神社がある。
創建など詳細は不明、階段を上っていくと小さな祠が鎮座する。
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藤森稲荷前の交差点を渡ると、再び『六郷用水物語』の案内板、『下丸子
への分水口跡
』について書かれている。
このあたりが、六郷用水の下丸子方面への分流点で、六郷用水の西岸(現
在は環状八号線の用地となっている)に石組のトンネルを築いて分流して
いました。水量は豊富で現在の下丸子付近一帯の水田を灌漑していたよう
です。分水口は戸立式の水門によって仕切られていたとも言われています。

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そこから150mほど行くと南北引分、ここで池上・大森方面へ向かう北堀と、
蒲田・六郷・羽田方面へ向かう南堀へと分かれていた。
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六郷用水は、北堀・南堀から枝分かれした小堀を通じて、六郷領各村の水田
を潤していたので、この場所は用水において重要なポイントであるが、路面に
埋め込まれたタイル板だけというのは、残念な気がする。

《参考文献》
『六郷用水』 大田区立郷土資料館編
『大田の史跡めぐり』 大田区教育委員会 郷土博物館編


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六郷用水 4

六郷用水丸子川)は、目黒通りを越えて、東京都市大学の北側を通り、世田谷
区玉堤の住宅街の中を流れていく。
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八幡橋を北へ行くと、伝乗寺と宇佐神社があるので、立ち寄ってみる。

浄土宗の松高山伝乗寺の境内に入ると、五重塔が目を惹く。
創建年代は不詳だが、住誉良公和尚の開山という。
境内にそびえ立つ五重の塔は2005年に建てられたものらしい。
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寺の門前から上る坂は「寮の坂」といい、伝乗寺の学寮があったことから、名づ
けられたとのこと。

伝乗寺の北側には宇佐神社
安倍頼時・宗任親子が起こした前九年の役(1051~62)の討伐のために、源
頼義が出陣、途中、ここ尾山の地に造営した。
その際、空に白雲が8つに分かれ、源氏の白旗のように見えたので、頼義は源
氏の氏神である八幡様に勝利を誓った。
戦いに勝利し、凱旋した頼義は、帰途、この地に康平5年(1063)にここに八幡
社を創建したのが、宇佐神社の始まりであるという。
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上の橋の先では護岸整備が施工され、川辺に下りることができる階段がつけら
れていた。
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その先、鳥居がある八幡橋の左岸にある階段を上ると、田園調布八幡神社
鎮座する。
創建は鎌倉期の建長年間(1249~56)と伝えられる。
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当時は篭谷戸(ろうやと)と呼ばれる多摩川の水が打ち寄せる入江があり、物資
を積んだ舟が盛んに出入りしており、また、高台部分には鎌倉街道が通ってい
たので要衝の地となっていた。
この地は舟の出入りを監視できる台地で、その場所に祠を建て、八幡神社を勧
請したのが始まりという。
また、天正18年(1590)小田原北条氏滅亡の後、八王子城主北条氏の家臣、
落合某がこの地に庵を結び、その孫の左衛門が八幡大菩薩を祀り、社殿を創
建し氏神とした。

更に歩いていくと右手に水門が見えてくる。
お鷹の圦と呼ばれる堰で、余水を多摩川へと流していた。
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余水路を辿ると、多摩川の築堤に水門を見ることができる。
この水門付近のは白杭が建てられ、手前が世田谷区、下流側には大田区、そ
して水門脇には東京都下水道局の名が書かれている。
この河川敷付近では、この水路が世田谷区と大田区の区界であり、水路部分
が下水道局の用地であるということだ。
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更に水路を多摩川の川辺まで追うと、対岸には等々力緑地のスタジアムなどが
見える。
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お鷹の圦から数十メートルほどいくと、左岸に浄土宗の照善寺がある。
天正14年(1586)に草庵が造られたのが始まりとされ、寛永16年(1639)、
堂宇が整備され、照善寺と称したという。
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その先、再び個人宅専用の橋が続く。
欄干が設置されておらず、ちょっと怖ささえ覚えるような橋もある。
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やがて多摩堤通りと合流し、通り沿いに流れていく。
多摩堤通りの歩道として利用するため、水路の幅の半分ほどは道路に覆われ
ている。
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その左岸の高台には多摩川台公園が広がる。
高台の上には4世紀から5世紀頃の築造と推定される前方後円墳の亀甲山古
墳や宝莱山古墳、また8基の古墳からなる多摩川台古墳群がある。
公園内には古墳展示室も設置されて、出土した埴輪,刀剣などのレプリカを展
示しており、古代の生活に触れることもできる。
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また、高台からの眺望は多摩川八景の一つとして選定され、蛇行する多摩川の
向こうに丹沢山地や富士山などを眺めることができるという。
(下の写真は、夏季のため、条件はよくなかった。)
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東急東横線・目黒線のガードを通り抜けた先、左手には多摩川浅間神社が鎮
座する。
多摩川台公園からの舌状台地(途中、東横線の切り通しで遮られるが)の先端
に位置し、浅間神社も古墳の上に建てられている。
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創建は鎌倉時代の文治年間(1185~90)と伝えられ、源頼朝が豊島郡滝野川
に出陣した折、夫の身を案じ後を追ってきた北条政子は、わらじの傷が痛み出し、
やむを得ず当地で傷の治療をすることになった。
亀甲山(かめのこやま)へ登ってみると富士山が鮮やかに見えたので、富士吉田
にある本尊の浅間神社へ向かって手を合わせ、夫の武運長久を祈り、身につけ
ていた正観世音像をこの丘に建てたという。
村人たちはこの像を「富士浅間大菩薩」と呼び尊崇したのが、神社の起こりとさ
れている。

境内にある展望台からは多摩川橋梁を行き交う電車が見られ、多摩川台公園
の眺望に負けず劣らずという眺めである。
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浅間神社の北、多摩川駅の東側にある田園調布せせらぎ公園に寄ってみよう。
公園内には何箇所か、崖線からの湧水が出ており、東京の名湧水57選の1つ
に指定されている。(写真は第二湧水池)
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以前、この地には大正14年(1923)開業の多摩川園という遊園地があったが、
昭和54年(1979)入園者減少により閉園、その後、多摩川ラケットクラブという
テニスクラブとなったが、平成12年(2000)に閉鎖された、
その跡地を大田区が取得して公園として整備、開園した。

浅間神社の下で、丸子川として流れてきた六郷用水跡の水路は終了し、
多摩川へと放流されている。
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《参考文献》
『六郷用水』 大田区立郷土資料館編


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六郷用水 3

田園都市線を越して調布橋に架かる道を昇っていくと、浄土宗の獅子山行善寺
がある。
永禄年間(1558~69)、北条氏直臣の長崎伊予守重光父子がこの地に移住し
た際に、小田原の菩提寺道栄寺をこの地に移した。
展望に恵まれ、玉川八景として有名で、将軍も遊覧の折にしばしば立ち寄った
という。
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本堂の裏手に廻ると、西側の眺望を見ることができる。
以前、NHKのブラタモリでも取り上げられた地でもあるので、ご記憶の方もい
るだろう。
また、『瀬田の行善寺と行善寺坂』としてせたがや百景の1つにもなっている。
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行善寺坂は六郷用水丸子川)の調布橋から行善寺へと登っていく急坂、
息がきれるほどだ。
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調布橋から下流方向を眺めた風景。
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六郷用水沿いに数十メートルほどいくと、ひっそりと南大山道の道標が保存さ
れている。
前節で触れたように、行善寺坂の道は大山道であった。
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この先にも水路には個人宅の橋が連続する。
左岸には国分寺崖線が迫っており、崖下の土地に住宅を建てているという理
由によるものである。
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六郷用水に沿って一般道が続くが、交通量はそれなりに多く、歩く際には注意
が必要である。

東急大井町線や駒沢通りと交差し、更に歩いて稲荷橋に架かる道の坂を上っ
ていくと、上野毛稲荷神社がある。
創建年代は不詳、崖線の傾斜を切り崩して社地を確保し、ひっそりと社殿が建つ。
上野毛の名主田中家の稲荷社を上野毛の鎮守社として祀ったものだという。
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稲荷橋の先、左手には上野毛自然公園が広がる。
国分寺街線の斜面を利用した公園で、自然環境を保っており、また湧水を利
用した池がある。
六郷用水沿いには公園が少ないので、休憩をとるにはうってつけの場所だ。
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第三京浜のガード下に水門があった。
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岸橋の橋詰には六郷用水へ流れ込む水路があった。
ここだけでなく、崖線の湧水が六郷用水に流れ込む光景は何箇所かで目にす
ることができる。
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その先、左手にあるのが真言宗智山派の影光山善養寺
以前には深沢村にあったと伝えられており、この寺の僧侶である祐栄阿闍梨が
京へ修行している間に寺は荒廃していた。
祐栄和尚はその荒廃に失望し、野毛の地に善養寺を開山したという逸話が残
っている。
慶安年間(1648~52)のことである。
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境内には多くの石仏があり、その石仏群を見て歩くのも楽しい。

また、本堂前には高さ18m、幹囲6mのカヤの木があり、樹齢600年といわれ
ている。
「善養寺のカヤ」として、昭和39年(1964)に東京都の天然記念物に指定され
ている。
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善養寺から500mほど歩くと谷沢川と交差する。
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谷沢川は世田谷区桜丘付近を水源として暗渠として流れ、用賀からは開渠と
なって多摩川に注ぐ河川であるが、この交差部は有名な等々力渓谷を抜けて
きた場所にある。
写真は用水沿いの道路が架かる橋から、谷沢川上流方向を撮影したもの。
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以前は、六郷用水は掛樋で谷沢川を渡っていた。
しかしながら、現在は六郷用水の水は谷沢川へと注いでいる。
今まで流れてきた水路の水は、右にカーブしながら勢いよく谷沢川へのスロー
プを下っている。
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谷沢川を渡った先では、新たに谷沢川から汲み上げた水を六郷用水へと流し
ている。
つまりここを境に、水路を流れる水は全く別物となっているのである。
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新たに谷沢川から供給された水が流れる六郷用水は更に東へと向かい、目黒
通りと交差する。
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《参考文献》
『六郷用水』 大田区立郷土資料館編


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六郷用水 2

次大夫掘公園の遊歩道を過ぎると、六郷用水は再び現在の野川に出る。
下の写真は大正橋から野川下流を見た光景、野川は右にカーブしているが、
六郷用水はそのカーブのところで野川と分かれ、真っ直ぐと進んでいた。
クレーンが建ち並ぶ工事現場では、東名高速と外環道とのジャンクション工事
が進捗中である。
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工事現場を迂回して川沿いを歩いて東名高速を過ぎ、多摩堤通りの1本東側
の道路に出ると、六郷用水跡の碑がある。
その脇には流路図を載せた説明板も設置されている。
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その先、一般道の歩道として用水跡が続く。
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道路の左手に天台宗の龍華山永安寺が見えてくる。
もともとは二大鎌倉公方・足利氏満が没した後、その菩提寺として、応永5年
(1398)、鎌倉に建立されたのが始まりとされる。
四代鎌倉公方・足利持氏は永享11年(1439)、永享の乱において幕府軍に
敗れると、永安寺において自害する。
その後、寺院は廃れるが、延徳2年(1490)、清仙大和尚によってこの地で再
興された。
「大蔵の永安寺」としてせたがや百景にも指定され、境内には樹齢数百年とも
言われる大銀杏もある。
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道路はやがて仙川に差し掛かるが、その手前、左手の丘の上に大蔵氷川神
が鎮座する。
暦仁元年(1238)に江戸氏が大宮の氷川神社を勧請したものと伝えられ、永
安寺が別当であった。
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水神橋で仙川を越える。
仙川はこの下流500mほどで野川に合流しているが、前述のように以前は六
郷用水へとつながっていた。
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水神橋を越えると、道路沿いに六郷用水が整備された水路が始まる。
現在は丸子川と称されている水路で、東急線多摩川駅付近まで続く。
東名高速道路の南、岡本三丁目にある崖地からの湧水や、大蔵三丁目公園
の崖下の湧水池(『仙川3』参照)を水源として、暗渠で仙川の東岸を通り、水
神橋付近から開渠となって流れる。
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数百メートルほど歩くと、左手に岡本公園がある。
園内には人工の水路があり、その水も用水へと流れ込んでいる。
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隣接して岡本公園民家園がある。
先に紹介したむいから民家園、次大夫掘公園民家園に続いて三箇所目の民
家園で、何故か六郷用水沿いには民家園が多く造られている。
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展示されているのは旧長崎家主屋で、もとは世田谷区瀬田にあったものを昭
和55年、当地に移築したものである。
建築年代は建築様式などから18世紀末とされ、文政10年(1827)に大改築
をしたものだという。

民家園の裏の高台にあるのが岡本八幡神社
創建年代は不詳、鎌倉の鶴岡八幡宮より勧請したという言い伝えがあるらしく、
また岡本村の村社であったようだ。
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基本的に神社は高台に造られていることに気づく。
ネットで調べてみると山などの高い場所は神が降臨する場所とされ、神聖な場
所とされたからだという。
ただ、川を歩いていると、ここだけでなく多くの場所で寺社が高台にあるが、上
記の理由の他に、寺社を水害から守るという側面も見えてくる。
六郷用水沿いでは概して国分寺崖線の上もしくは中腹に建てられており、その
昇降に多少、体力を奪われる。

話を六郷用水に戻そう。
水路は岡本静嘉堂緑地の下を流れていく。
崖線上には三菱財閥の岩崎小弥太が建てた静嘉堂文庫(『谷戸川2』参照)が
ある。
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緑地内には東京の名湧水57選にも指定されている湧水池があり、そこからの
水も六郷用水に流れ込んでいる。
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緑地の森を過ぎると、左手から谷戸川が合流する。
谷戸川は、世田谷区千歳台付近をその源とし、砧公園を通って、ここに流れ込
む河川である。
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岡本静嘉堂緑地の東側には、衆議院議員などを歴任した小坂順造(1881~
1960)の旧宅が、旧小坂家住宅として世田谷区の有形文化財に指定され、
保存・公開されている。
家屋は昭和13年(1938)の竣工、国分寺崖線の上に屋敷があり、敷地の南
の崖地の森林は瀬田四丁目広場として自然が保存されている。
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その先の雁追橋で、まむし沢と呼ばれる水流が合流し、水の量が更に増加する。
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この辺りから、個人宅の玄関へと架かる小さな橋が連続する。
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玉川通りの手前にある治大夫橋、ここはかつて大山道が六郷用水を渡っていた。
橋の脇にある説明板には、下記のように記載されている。
大山道とは、大山詣りの道のことで、大山は神奈川県伊勢原市にあります。
世田谷を通る大山道は、江戸赤坂御門を起点とし、二子玉川で多摩川を経て、
伊勢原から大山まで続いています。
二子玉川には、ここ治大夫橋を渡る大山道と、行善寺の東側を通る大山道
があります。

橋は改修されて、親柱にはタイル画が飾られている。
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治大夫橋の北側に、いくつかの寺社があるので紹介しておこう。

まずは身延山関東別院玉川寺、昭和7年(1932)日暮里の妙隆寺が、日蓮
上人の入滅第650遠忌記念事業として当地に移転、「身延山関東別院」とし
て建立された。
建立にあたっては玉川電鉄が借地を無料で提供し、実現の運びとなった。
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その北側にあるのが瀬田玉川神社
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永禄年間(1558~70)の創建と伝えられ、寛永3年(1626)、長崎四郎右衛
門嘉国が寄付をして当地に遷宮した。
明治7年(1874)に村社となり、同40年(1907)、御嶽神社を地名により玉川
神社と改称した。

玉川神社に隣接するのが真言宗の慈眼寺、玉川神社の別当寺でもあった。
徳治元年(1306)、法印定音によって小宇を建立したのが始まりという。
天文二年(1533)に)郷士・長崎四郎左衛門が堂宇を遷し、大日如来を本尊
として安置したという。
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治大夫橋の方向へ戻り、玉川寺の先を東へと向かうと、玉川大師玉眞院
ある。
大正12年(1923)の建立で、昭和9年(1934)に出来た地下霊場があること
で知られる。
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地下霊場には、四国八十八ヶ所、西国三十三番霊場の 大師・観音があり、
四国遍路と西国遍路さながらの参拝ができるというもの。
100メートルに及ぶ地下通路は、暗闇の中を手探りで進むというもので、
参拝客も多い。
用水歩きではなくても、二子玉川へ行く際には参拝をお勧めしたい寺院である。

六郷用水は玉川通りを越えて、二子玉川駅の北方に達する。
玉川通りとの交差部分では、瀬田アートトンネルへと迂回を強いられるが、
その先で再び用水沿いに出ると、前方に東急田園都市線の高架橋が見えて
くる。
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《参考文献》
『六郷用水』 大田区立郷土資料館編
『ふるさと世田谷を語る 玉川台・瀬田・玉川』 世田谷区編


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六郷用水 1

六郷用水は和泉村(現狛江市)で多摩川から取水し、世田谷領・六郷領の田畑
を潤していた用水路で、延長は23kmに及ぶ。
特に六郷領内ではいくつもの掘に分かれ、あたかも毛細血管のようである。
小泉次大夫が建設を指揮・監督したため、次大夫掘(主に世田谷領内で称して
いた)とも呼ばれ、また現在、世田谷区岡本から大田区田園調布までの区間は
丸子川と改称されている。

インターネットで六郷用水を検索すると様々な情報が得られ、また大田区内に
は、六郷用水の会という団体により研究・広報活動が行われている。
当ブログでは、六郷用水とともに周辺の史跡などの案内なども含めて、ウォー
キングガイドとして記すこととしたい。

さて用水を辿る前に、簡単に六郷用水の成立について触れておこう。
天正18年(1590)、北条氏を討伐後、秀吉から関東への移封を命じられた家
康は、所領地を豊かにするために多摩川下流の低湿地の整備を命ずる。
そのために計画されたのが六郷用水であり、小泉次大夫吉次(1529~1623)
が工事代官として指揮・監督し、開削工事が開始された。
工事は慶長2年(1597)から始まり、同16年(1611)までの歳月を費やした。
なお、工事は六郷用水だけではなく、多摩川対岸の川崎側の二ヶ領用水と同
時並行されたため、長期にわたる難工事となり、領民の賦役も過重であったらしい。

こうして開削された六郷用水であるが、規模が大きいということは、それを維持
管理することも大変である。
六郷領35ヶ村に大用水組合という普請組合が作られ、水利権の付与の代償
として維持管理が課せられた。またその下には南掘組合・北掘組合が作られ、
さらには10地区の堀単位の小堀組合に分かれ、年次ごとに維持管理にあた
ったという。

また開削して100年ほど経つと、用水を目的とした二次開発から用水不足が
慢性化した。
そこで御普請御用を命じられた田中休愚丘隅)(1662~1729)は、享保10
年(1725)、取水口から南北引分(現:千鳥町付近)までの間、拡張工事を行う。
この工事により相応の成果が出たと言われ、後世、休愚は「六郷用水中興の
祖」と称されることとなった。
ちなみに上流域の世田谷領では六郷用水の使用は許されていなかったが、改
修にあたり同地の農民の協力を仰ぐことと引き換えに、水の利用権を与えたという。

前置きが若干長くなったが、六郷用水を辿ることにしよう。
六郷用水の取水口は狛江市中和泉の多摩川沿いにある。
現在は取水口は跡形もないが、根川という小河川の水門が目印になる。
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こちらは付近にあった説明板に載せられていた、ありし日の取水口。
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その近くには水神社がある。
寛平元年(889)、この地に六所宮(明治元年、伊豆美神社と改称)が鎮座された。
天文19年(1550)多摩川の洪水により社地が流出、北へと移転するが、その
跡地に慶長2年(1597)水神社を創建し、用水守護の神として合祀されたと伝
えられる。
六郷用水建設の時期と一致し、開削工事の安全を祈願したのであろうか。
2014-08-17_16.jpg

また、付近には玉翠園の石垣があるので、確認しておこう。
明治39年(1906)に井上公園として開園、大正2年(1913)に公園内に川魚
料理を専門とする料亭が出来た。
多摩川の船遊びもできるとあって、多くの客で賑わったという。
昭和18年(1943)、戦況の悪化とともに廃業され、今はこの石垣のみが残っ
ている。
2014-08-17_13.jpg

六郷用水は取水口から、狛江駅方面へと進む。
現在は六郷さくら通りと称する道路となっており、タイル舗装の歩道が続く。
2014-08-17_19.jpg

田中橋交差点手前の右側には狛江市古民家園むいから民家園)があり、
江戸時代後期の農家の面影を残す旧荒井家住宅主屋と、安政6年(1859)
に建てられた旧髙木家長屋門が移築・復元されている。
特に旧荒井家住宅主屋は、田急線の連続立体交差・複々線化事業により
解体されようとしていた民家を、市民の手により移築・復元したものだという。
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また、この付近で猪方用水が分かれ、和泉村の水田を潤おしていたようだ。

その先、通りの左側に森が見えてくる。
経塚古墳という5世紀後半の築造と推定される古墳で、直径40m以上の墳丘
に、幅10m以上の周溝が巡っていたという。
13世紀から16世紀にかけては。30基ほどの板碑が林立していたといい、中
世墳墓としても再利用されたらしい。
また経典を埋めたとも伝えられ、泉龍寺(後述)の開祖、良弁僧正の墓とする
伝承もあるらしい。
2014-08-17_37.jpg

道路を挟んで南側には、曹洞宗の雲松山泉龍寺である。
天平神護元年(765)、良弁僧正が法相宗・華厳宗の寺を創建したのが始まり
とされる。
戦国時代に寺は衰退したが、泉祝和尚が泉の畔で霊感を受け、曹洞宗の参禅
修行道場として復興した。
地頭の石谷清定が寺域の整備に努めたので、中興開基とされている。
2014-08-17_43.jpg
なお境内の東南には霊泉とされる弁財天池があり、野川の支流、清水川の
源泉ともなっている。

下は江戸名所図会の『泉龍寺
右上には六郷用水らしき水流が見られ、また左上には、先ほど取り上げた
経塚も左上に描かれている。
泉龍寺1
                       (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

狛江駅の北口を通り過ぎ、小田急線との交差する手前で旧野川(現在は遊
歩道となっている)と合流する。
野川は度々洪水を起こし、周辺地域に被害を与えた。
野川が現流路に変更されたのは昭和44年(1969)である。
2014-08-17_49.jpg

ここで六郷用水と、野川および入間川、仙川の流路について触れておこう。
下に掲載する2つの略図のうち、上は改修前、下は改修後(現在)の流路である。
野川改修前
old4.jpg
野川改修後(現在)
new4.jpg

かつての野川は、現在の小金橋付近で向きを変えて南下し、この地に至って
用水と合流していた。
また入間川は次大夫掘公園付近で六郷用水と合流しており、改修工事は入
間川の流路の一部を利用して付け替えられたことが判る。
同じく野川の支流である仙川も、元々は野川ではなく六郷用水(丸子川)に合
流していたようだ。
また改修前の流路を見ると、六郷用水を開削する際、この付近では野川の流
路を利用して造られたのではないかと推察することもできる、

小田急線のガードをくぐり、道なりに進むと世田谷通りに出る。
そこには一の橋、二ノ橋と、六郷用水に架かっていた橋名が交差点名に残っ
ている。
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二ノ橋交差点の北側にあるのが浄土宗の慶岸寺
慶長17年(1612)の創建と伝えられる。
2014-08-17_56.jpg

二ノ橋交差点から、200mほど進むと右に滝下橋緑道が分かれる。
六郷用水跡が緑道として整備されており、野川まで続く。
2014-08-17_59.jpg

野川沿いの遊歩道を数百メートルほど下ると、右側に次大夫掘の名を冠する
次大夫掘公園が広がる。
公園内には六郷用水(次大夫掘)を再現した水路があり、子供たちがザリガニ
採りに興じている姿も見られる。
2014-08-17_66.jpg
勿論、多摩川から取水し、国分寺崖線の湧水を集めた野川や入間川を合流し
た当時の用水の水量はこのような細い流れではなかったはずだ。

また、公園内には民家園があり、名主屋敷、民家、表門、消防小屋などを復元
し、江戸後期から明治にかけての農村風景を再現している。
季節の行事なども行われ、体験型展示施設となっている。
2014-08-17_69.jpg
旧安藤家住宅主屋

2014-08-17_72.jpg
旧城田家住宅主屋

公園内の水路に沿った遊歩道は、再び野川に向けて続いている。

《参考文献》
『六郷用水』 大田区立郷土資料館編


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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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