京橋川
外濠から分かれて東に流れ、楓川・桜川・三十間掘に流れ込む京橋川、その総延
長は600mほどであった。
京橋川には、比丘尼橋、中之橋(紺屋橋)、京橋、三年橋(炭谷橋)、白魚橋が
架かっていた。
家康の江戸入り後、慶長年間(1596~1615)に行われた最初に天下普請で、外
濠とともに開削された水路である。
昭和29年(1954)に埋立免許がおり、同34年(1959)までに埋立てが完了した。
現在は、東京高速道路株式会社の自動車専用道路(会社線)が通っており、その
下は店舗や駐車場として利用されている。
下の古地図は、京橋付近の説明板に掲載されたもの、上記に挙げた橋や、薪河岸、
白魚河岸、大根河岸、竹河岸といった河岸の名前も見える。

外掘通りの有楽橋交差点の北側から、京橋川は始まる。

ここには比丘尼橋が架かっており、歌川広重も名所江戸百景『びくにはし雪中』
に描いている。

(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
中之橋(紺屋橋)から京橋までの間、北側には歩行者用道路も見られる。
この辺り一帯は、かつて大根河岸と呼ばれた河岸があった。

歩行者用道路の先にある広場には、昭和34年(1959)に建立された京橋大
根河岸青物市場跡の碑が建てられている。
かつて数寄屋橋付近に青物市場があったが、火災に逢い、その後、水運の便
を考慮し、京橋川の北岸、紺屋町へと移転してきた。
大根の入荷が多かったことから大根河岸と呼ばれていたという。
関東大震災の後、築地中央卸売市場が完成し、昭和10年(1935)に移転した。

またその近くには、江戸歌舞伎発祥之地の碑もある。
寛永元年(1624)に猿若勘三郎がこの付近に猿若座(後の中村座)を開設した
のが、江戸歌舞伎の始まりとされる。

そして川名ともなっている京橋。
その由来は日本橋から京に向かう時、最初に渡る橋であるからとされる。
橋の創架については、慶長年間というから、京橋川開削当初からあったのであ
ろう。

何度か架け替えられ、明治以降は、明治8年(1875)に石造アーチ橋に、明
治34年(1901)には鉄橋となり。その後も大正11年(1923)、昭和4年
(1929)に架け替えられている。
明治8年架橋の親柱が橋の北詰(下の写真左側)に、大正11年架橋の親柱
が南詰(同 右側)に保存されている。

写真は説明板に掲載されていた明治40年頃の京橋の写真、橋の上には東京
市電の姿も見える。

京橋の北詰東側には警察博物館がある。
入口付近は子供向けに警察車両などの展示はあるものの、2階3階は警察の
歴史的資料が展示されており、歴史好きには意外と楽しめる場所である。

その警察博物館の脇を入っていったところが、かつて竹河岸と呼ばれた場所
である。
竹商人が多くいたことから名づけられたという。
竹の多くは、千葉から高瀬舟に載せられて京橋川に入って来たものや、群馬
から筏に組んで送ったものであったという。
現在はオフィス街となっており、竹河岸の名はそのビルの1つに残っていた。

こちらも名所江戸百景の1つとして、歌川広重により、描かれている。

名所江戸百景『京橋竹がし』 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
昭和通りを越えて、首都高都心環状線に達する。
そこは北から楓川が流れていた場所であり、恐らく写真の歩道橋の付近で京
橋川が楓川と合流していたと思われ、また、写真右から桜川(八丁堀)が東へ
と向かって流れ出していた。

より大きな地図で 【川のプロムナード】日本橋川・亀島川周辺マップ を表示

長は600mほどであった。
京橋川には、比丘尼橋、中之橋(紺屋橋)、京橋、三年橋(炭谷橋)、白魚橋が
架かっていた。
家康の江戸入り後、慶長年間(1596~1615)に行われた最初に天下普請で、外
濠とともに開削された水路である。
昭和29年(1954)に埋立免許がおり、同34年(1959)までに埋立てが完了した。
現在は、東京高速道路株式会社の自動車専用道路(会社線)が通っており、その
下は店舗や駐車場として利用されている。
下の古地図は、京橋付近の説明板に掲載されたもの、上記に挙げた橋や、薪河岸、
白魚河岸、大根河岸、竹河岸といった河岸の名前も見える。

外掘通りの有楽橋交差点の北側から、京橋川は始まる。

ここには比丘尼橋が架かっており、歌川広重も名所江戸百景『びくにはし雪中』
に描いている。

(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
中之橋(紺屋橋)から京橋までの間、北側には歩行者用道路も見られる。
この辺り一帯は、かつて大根河岸と呼ばれた河岸があった。

歩行者用道路の先にある広場には、昭和34年(1959)に建立された京橋大
根河岸青物市場跡の碑が建てられている。
かつて数寄屋橋付近に青物市場があったが、火災に逢い、その後、水運の便
を考慮し、京橋川の北岸、紺屋町へと移転してきた。
大根の入荷が多かったことから大根河岸と呼ばれていたという。
関東大震災の後、築地中央卸売市場が完成し、昭和10年(1935)に移転した。

またその近くには、江戸歌舞伎発祥之地の碑もある。
寛永元年(1624)に猿若勘三郎がこの付近に猿若座(後の中村座)を開設した
のが、江戸歌舞伎の始まりとされる。

そして川名ともなっている京橋。
その由来は日本橋から京に向かう時、最初に渡る橋であるからとされる。
橋の創架については、慶長年間というから、京橋川開削当初からあったのであ
ろう。

何度か架け替えられ、明治以降は、明治8年(1875)に石造アーチ橋に、明
治34年(1901)には鉄橋となり。その後も大正11年(1923)、昭和4年
(1929)に架け替えられている。
明治8年架橋の親柱が橋の北詰(下の写真左側)に、大正11年架橋の親柱
が南詰(同 右側)に保存されている。

写真は説明板に掲載されていた明治40年頃の京橋の写真、橋の上には東京
市電の姿も見える。

京橋の北詰東側には警察博物館がある。
入口付近は子供向けに警察車両などの展示はあるものの、2階3階は警察の
歴史的資料が展示されており、歴史好きには意外と楽しめる場所である。

その警察博物館の脇を入っていったところが、かつて竹河岸と呼ばれた場所
である。
竹商人が多くいたことから名づけられたという。
竹の多くは、千葉から高瀬舟に載せられて京橋川に入って来たものや、群馬
から筏に組んで送ったものであったという。
現在はオフィス街となっており、竹河岸の名はそのビルの1つに残っていた。

こちらも名所江戸百景の1つとして、歌川広重により、描かれている。

名所江戸百景『京橋竹がし』 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
昭和通りを越えて、首都高都心環状線に達する。
そこは北から楓川が流れていた場所であり、恐らく写真の歩道橋の付近で京
橋川が楓川と合流していたと思われ、また、写真右から桜川(八丁堀)が東へ
と向かって流れ出していた。

より大きな地図で 【川のプロムナード】日本橋川・亀島川周辺マップ を表示

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