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京橋川

外濠から分かれて東に流れ、楓川・桜川・三十間掘に流れ込む京橋川、その総延
長は600mほどであった。
京橋川には、比丘尼橋、中之橋(紺屋橋)、京橋、三年橋(炭谷橋)、白魚橋が
架かっていた。
家康の江戸入り後、慶長年間(1596~1615)に行われた最初に天下普請で、外
濠とともに開削された水路である。
昭和29年(1954)に埋立免許がおり、同34年(1959)までに埋立てが完了した。
現在は、東京高速道路株式会社の自動車専用道路(会社線)が通っており、その
下は店舗や駐車場として利用されている。

下の古地図は、京橋付近の説明板に掲載されたもの、上記に挙げた橋や、薪河岸、
白魚河岸、大根河岸、竹河岸といった河岸の名前も見える。
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外掘通りの有楽橋交差点の北側から、京橋川は始まる。
2014-08-06_1.jpg

ここには比丘尼橋が架かっており、歌川広重も名所江戸百景びくにはし雪中
に描いている。
びくに橋雪中
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

中之橋(紺屋橋)から京橋までの間、北側には歩行者用道路も見られる。
この辺り一帯は、かつて大根河岸と呼ばれた河岸があった。
2014-08-06_8.jpg

歩行者用道路の先にある広場には、昭和34年(1959)に建立された京橋大
根河岸青物市場跡の碑
が建てられている。
かつて数寄屋橋付近に青物市場があったが、火災に逢い、その後、水運の便
を考慮し、京橋川の北岸、紺屋町へと移転してきた。
大根の入荷が多かったことから大根河岸と呼ばれていたという。
関東大震災の後、築地中央卸売市場が完成し、昭和10年(1935)に移転した。
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またその近くには、江戸歌舞伎発祥之地の碑もある。
寛永元年(1624)に猿若勘三郎がこの付近に猿若座(後の中村座)を開設した
のが、江戸歌舞伎の始まりとされる。
2014-08-06_16.jpg

そして川名ともなっている京橋
その由来は日本橋から京に向かう時、最初に渡る橋であるからとされる。
橋の創架については、慶長年間というから、京橋川開削当初からあったのであ
ろう。
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何度か架け替えられ、明治以降は、明治8年(1875)に石造アーチ橋に、明
治34年(1901)には鉄橋となり。その後も大正11年(1923)、昭和4年
(1929)に架け替えられている。
明治8年架橋の親柱が橋の北詰(下の写真左側)に、大正11年架橋の親柱
が南詰(同 右側)に保存されている。
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写真は説明板に掲載されていた明治40年頃の京橋の写真、橋の上には東京
市電の姿も見える。
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京橋の北詰東側には警察博物館がある。
入口付近は子供向けに警察車両などの展示はあるものの、2階3階は警察の
歴史的資料が展示されており、歴史好きには意外と楽しめる場所である。
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その警察博物館の脇を入っていったところが、かつて竹河岸と呼ばれた場所
である。
竹商人が多くいたことから名づけられたという。
竹の多くは、千葉から高瀬舟に載せられて京橋川に入って来たものや、群馬
から筏に組んで送ったものであったという。
現在はオフィス街となっており、竹河岸の名はそのビルの1つに残っていた。
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こちらも名所江戸百景の1つとして、歌川広重により、描かれている。
京橋竹がし
名所江戸百景京橋竹がし』 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

昭和通りを越えて、首都高都心環状線に達する。
そこは北から楓川が流れていた場所であり、恐らく写真の歩道橋の付近で京
橋川が楓川と合流していたと思われ、また、写真右から桜川八丁堀)が東へ
と向かって流れ出していた。
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目次
  
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築地川 2

前回に続いて築地川を辿る。
今回は三吉橋に戻って、本川を明石町方向へと向かうことにする。

築地川本川(明石町方面)

三吉橋から東方向へと向かうと、築地川の川跡には首都高速の新富町出口ラン
プが設置されている。
ただ、出口以外にも、利用されていない道路などが目につく。
これはかつて首都高晴海線が計画され、一部は建設されていたが、途中で中止
された跡である。
2014-07-19_90.jpg
現在、首都高晴海線は湾岸線の東雲JCTから分かれ、豊洲、晴海方向に延び
ている。
再び都心環状線へつなげる計画もあると聞くが、まだ構想段階の域を出ていない。
もし計画が再燃すれば、いつしかこの景観も変わる時があるかもしれない。

入船橋の先、川底を利用した築地川公園多目的広場がある。
キャッチボールなど球技を楽しむことができるほか、入船橋の下にはドッグラン
もあり、近隣住民の憩いの場となっている。
2014-07-19_98.jpg
写真奥の部分にはトンネルの坑口を見ることができ、これも首都高計画の名残
である。

築地川は南へと向きを転じ、蓋をされた上部に築地川公園の緑地が続くようになる。
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左手に聖路加国際大学のキャンパスが見えてくるが、ここは浅野内匠頭邸跡
である。
聖路加病院と河岸地を含む一帯の八千九百余坪の上屋敷があり、西南二面は
築地川に面していたという。
元禄14年(1701)、浅野内匠頭長矩が江戸城内において刃傷事件を起こし、
切腹ならびの断絶されたことは忠臣蔵で有名だが、同時にこの屋敷は没収された。
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また、ここは芥川龍之介生誕地でもある。
明治期に「耕牧舎」という乳牛の牧場があり、明治25年(1892)、その経営者、
新原敬三の長男として生まれたのが、龍之介である。
(龍之介はその後、両国にある母の長兄に芥川家に引き取られ、養子となる。)

築地川公園をそのまま辿っていくと南支川へとつながるが、本川を辿るために
は、聖路加大学の数十メートル先のビルの間の公園を左へと曲がる。
その公園はあかつき公園と称し、児童遊具が充実しており、公園に子供たち
の声が響き渡る。
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この付近は川幅が広がっており、明石掘と呼ばれた入り江であった。
また、北からは隅田川から分かれた鉄砲洲川が合流していた。
2014-07-19_114.jpg

あかつき公園の先で築地川は隅田川と合流していた。
そこは「月島の渡し」の跡であり、説明板も立てられている。
月島の渡しは、明治25年(1892)、土木請負業の鈴木由三郎が、手漕ぎの船
で私設の有料渡船を開始したことに始まる。
明治34年(1901)には東京市により市営化されm昭和15年(1940)に勝鬨橋
が架橋されるまで続いた。
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鉄砲洲川

鉄砲洲川は湊3丁目で隅田川から分かれ、あかつき公園(明石掘)で築地川に
合流する800mほどの掘割である。
鉄砲洲の由来は、寛永の頃、大砲の射撃演習をしていたとも、川に囲まれた人
工島が鉄砲の形をしていたからともいわれる。
震災後の復興区画整理事業により、昭和4年(1929)までに埋め立てられてし
まった。

湊2丁目と3丁目の間の道路が鉄砲洲川の上流部、写真の奥が隅田川である。
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その後、南へ向きを変え、聖路加国際病院と聖路加ツインタワーの間の道路が
鉄砲洲川の川跡である。
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この様な状況であるので、川の痕跡は殆ど無く、川歩きとしての楽しみを味わう
ことは難しい。
しかしながら、ここで鉄砲洲川をあえて取り上げるのは、この一帯が外国人居
留地
であり、史跡が多く存在することにある。

外国人居留地は、安政5年(1858)締結された日米修好通商条約に基づき、明
治元年(1868)に設けられた。
居留地内は治外法権が認められた地域であったが、明治32年(1899)の条約
改正とともに廃止された。

居留地には公使館や領事館が設けられ、教会や学校も多く造られた。
特にミッションスクールが設けられ、青山学院、立教学院、明治学院、女子学院、
雙葉学園などの発祥の地でもある。
また居留地設立以前には、福沢諭吉がこの地にあった中津藩奥平家の中屋敷
(現:聖路加国際病院内)に蘭学塾を開き、慶應義塾発祥の地ともなっている。
下の写真の左側は慶應、右は青山学院の発祥記念碑である。
2014-07-19_108.jpg

鉄砲洲川跡の西側には、カトリック築地教会聖堂がある。
明治4年(1871)に鉄砲洲の稲荷橋付近の商家を借り受けて開かれた「稲荷橋
教会」を前身とし、明治7年(1874)、この地に移転した。
明治11年建造のゴシック様式の聖堂は関東大震災に被災・焼失するが、その
後、昭和2年(1927)に再建された聖堂は戦災をまぬがれ、東京都の歴史的建
造物に指定されて現存している。
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築地川南支川

前述の築地川公園に戻り、公園を南へと足を運びながら、南支川を辿る。
南支川の延長は400m余、備前橋、門前橋、小田原橋が架かっていた。

緑に囲まれた築地川公園を辿っていくと、備前橋の欄干が見えてくる。
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その備前橋の先には、築地川第二駐車場が続く。
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駐車場の西に広大な敷地を持つのが、築地の中心ともいうべき、築地本願寺
である。
前編の冒頭で記したように、京都西本願寺の別院として、元和3年(1617)、
浅草横山町に建立されたのが、その始まりである。
明暦3年(1657)の大火により本堂を焼失、その後は同地での再建は認めら
れず、代替地として八丁掘の沖合を埋め立て、この築地の地に移転した。
現在の古代インド様式の本堂は、東京帝国大学工学部教授・伊東忠太による
設計のより昭和9年(1934)に落成したものである。
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銀座や築地市場に近いこともあってか、国内外の多くの観光客が訪れる。

西本願寺
江戸名所図会西本願寺』      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

晴海通りの先、フェンスで囲まれた駐車場跡地の脇には、かつての石垣護岸の
跡を確認できる。
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場外市場の波除通りを越すと、築地川南支川は東支川に合流して終了する。
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《参考文献》
『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』 菅原健二著 (之潮)


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目次
  

築地川 1

築地は明暦大火(1657)後に、焼失した浅草の西本願寺(当時は、江戸浅草御坊
と称されていた)移転のために埋め立てられた地であり、築地川はその埋立の結果、
築地を取り囲むようにできた掘割である。
明治期に入り、入船川が桜川(八丁掘)と結ぶ水路として造られ(大正13年埋立)
また昭和初期には楓川・築地川連絡運河が開削された。
築地川は、現在、殆どの区間が埋め立てが行われ、僅かに浜離宮恩賜庭園脇の
水路が残るのみとなっている。

(築地川は河川法上は単独水系の二級河川であり、また、上記のような経緯を
 考えると、築地川を神田川水系とするのは無理があるが、日本橋川~楓川の
 流れから、ここでは、あえて神田川水系のカテゴリとして扱うこととする。)

まずは、下の築地八町堀日本橋南絵図の一部を見てみよう。
(絵図では上が西となっている。)
築地本願寺を中心とする築地の地の周囲を築地川本川)があり、その左側を
築地川東支川、下に南支川が流れている。
また、絵図の右下、隅田川から接続する川は鉄砲洲川という。
築地八町堀日本橋南絵図
                      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

ここでは築地川を2回に分けて紹介することにする。
前編(本記事)では、楓川から接続する水路の楓川・築地川連絡運河をスター
ト地点として、築地川本川を汐留方向に辿り、併せて東支川を辿る。
後編では、三吉橋より東へと向かい、明石町方面へ辿る。また、南支川および
鉄砲洲川も紹介する。

楓川・築地川連絡運河

楓川京橋川の合流地点から南の築地川へと通じる運河で、昭和5年(1930)
震災後の帝都復興事業の1つとして開削された。
300メートルほどの区間に、新金橋、新富橋、三吉橋が架かる。
楓川や築地川とともに、昭和35年(1960)に埋め立てられ、現在は首都高速
中央環状線となっている。

首都高の京橋入路がある新金橋から見た光景、首都高脇のビルの下には石
垣を見ることができる。
2014-07-19_81.jpg

築地川本川につながるところにあるのが三吉橋
そこは築地川の北西端にあたり、築地川の屈曲した部分に連絡運河が開削さ
れたため。川が三叉となっている。
その上に昭和5年に架橋された三叉路の橋がこの三吉橋である。
2014-07-19_89.jpg
橋脇にある碑文には、三島由紀夫の『橋づくし』という短編小説から、三吉橋
について描かれた部分が記載されている。
その一部をここで紹介しよう。
それは三叉の川筋に架せられた珍しい三叉の橋で(中略)橋の欄干は低く、
その三叉の中央の三角形を形づくる三つの角に、おのおの古雅な鈴蘭燈が
立っている。


架設当時の三吉橋。
三吉橋
(2014年11月「東京の橋 パネル展」(東京都建設局)より 会場係員の許諾を得て掲載)


築地川本川(汐留方面)

三吉橋からは、築地川を汐留方向へと歩いていく。
相変わらず、築地川跡を南西へと首都高速が続いている。
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晴海通りが架かる橋は万年橋、橋の西側には歌舞伎座が見える。
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万年橋の次は采女橋、この辺りに松平采女正定基(1687~1759)の屋敷が
あり、享保9年(1724)、屋敷が焼失した後にこの辺りが「采女が原」と呼ばれ
る火除地になったことに由来する。
(采女についてWikipediaなどで調べてみると、とは天皇や皇后に近侍し、身の
回りの雑事を専門に行う女官のことで、采女正とは采女を司った役所(采女司)
の長官のことのようだ。但し、江戸時代には形骸化していたという。)
2014-07-21_3.jpg
明治2年に采女町と称する市街地となり、銀座煉瓦街と築地の外国人居留地
との間に位置して、和洋混合の新興市街地が形成されていったという。
現在、西側の橋詰には新橋演舞場があり、多くの観劇客で賑わう一帯でもある。

下の絵図は、江戸名所図会采女が原』、右上に描かれているのは万年橋、
その先には本願寺の屋根が見える。 
采女ヶ原
                      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
冒頭に挙げた古地図に見られるように、采女橋の先で築地川はクランク状にな
り、東支川を分けていた。
現在の道路は、当然のことながらクランクはS字へと改修されている。

浜離宮庭園の手前、海岸通り沿いに踏切が残されている。
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ここには昭和6年(1931)から昭和62年(1987)の間、汐留貨物駅と築地中央
卸売市場を結ぶ引込線があり、鮮魚や青果を積んだ貨物列車が行き来していた。
トラックの普及とともに需要は少なくなり、貨物駅廃止の前に引込線は廃止された。
かつては。築地川を渡る貨物列車も見られたのだろうが、今はビル街の片隅に
ひっそりと「銀座に残された唯一の鉄道踏切信号機」として保存されているのみ
である。

そして、浜離宮恩賜庭園入口の大手門橋から庭園沿いに700mほどの区間が
唯一、築地川として水面が見られる場所である。
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その築地川の南にある浜離宮恩賜庭園は、寛永の頃までは将軍の鷹狩りの
場であった。
承応3年(1654)、甲府宰相である松平綱重の下屋敷となり甲府浜屋敷と呼
ばれたが、その子の家宣が六代将軍となったために公収され、名称も浜御殿
と改められ、その後、将軍の慰安場、社交場として利用された。
明治になると宮内庁所管となり、皇室園遊の地にあてられ、浜離宮と改称される。
戦後、東京都に下賜され、昭和21年(1946)に有料公開された。
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海水を取り入れた潮入の池を中心として25万平方メートルの庭園が広がり、
外国人観光客も多く訪れる。

築地川はその先、築地川水門で隅田川に合流する。
浜離宮の乗船場を発着する隅田川の観光船が往来する。
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築地川東支川

前述の通り、采女橋の下流で分かれて、東へ向かう支流である。
市場橋公園という小公園を抜けて、築地市場のバス駐車場へと続く。
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新大橋通りの市場橋交差点を過ぎると、築地川第一駐車場となる。
この東支川を挟んで、右は場内市場、左は場外市場となり、多くの観光客で
賑わう。
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築地場内の川沿いには、水神社がある。
天正18年(1590)徳川家康の江戸入府とともに移住してきた日本橋魚市場
の開祖・森孫右衛門ら摂津国の佃村・大和田村の漁師たちが、大漁・海上安
全と子孫繁栄を祈願して「弥都波能売命」を祀った「大市場交易神」がその始
まりといわれる。
日本橋魚市場は関東大震災以後に築地に移転し、現在地に遥拝所が建立された。
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またこの地は江戸時代は松平定信庭園跡であり、明治以降は海軍用地となり、
日本海軍発祥の地でもある。
写真左側の「旗山」と書かれた碑は、その海軍の史跡である。

立体駐車場の先、川跡にはフェンスで囲まれた空間が広がる。
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場外市場側の東支川沿いの道を歩いていくと、波除稲荷神社に突き当たる。
波除稲荷神社は、万治年間(1658~61)の創建と伝えられ、築地一帯の埋立
てが進められた際、波浪により工事が難航を極めたが、海中に漂う稲荷明神の
像を祀ったところ、波浪が治まり、工事が無事に完了したといいう言い伝えが
ある。
江戸時代以来、航海安全や災難除け、厄除けなどの神として、人々に信仰さ
れてきたという。
2014-07-21_21.jpg

波除稲荷神社の横にはかつて東支川に海幸橋という橋が架かっていた。
昭和2年(1927)、震災復興事業の一環として架けられたもので、我が国初の
ランガー桁橋であった。
残念ながら、橋は平成14年に撤去されてしまったが、照明付きの親柱は修復
保存されている。
2014-07-21_13.jpg

下の写真は、説明板に掲載されていた在りし日の海幸橋である。
2014-07-21_20.jpg

海幸橋付近から先は平成10年の埋立てであり、そのため平成初期の地形図
でも築地川を確認することができる。
現在は、広大な荷捌き用の駐車場となっている。
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築地場内市場は豊洲へと移転し、その跡地には再開発などが計画されている。
もしかしたら、数年後にはこれらの風景が変化しているかもしれない。

《参考文献》
『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』 菅原健二著 (之潮)


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桜川(八丁堀)

日本橋川から流れる楓川と外堀からの京橋川が合流して、東の亀島川を目指して
流れる桜川を追うことにしよう。
とはいっても、この桜川も現在は全区間埋め立てられているので、その痕跡を辿る
ことになる。

桜川公園(後述)に掲示されている中央区教育委員会による説明板よると、江戸
初期、京橋川下流から隅田川への通船のための開削され、八丁掘と称していた。
八丁掘の開削年や由来には諸説あるが、慶長17年(1612)に開削されたと言
われる。
また八丁掘という名称は、長さが八丁(約870m)あるという説が有力である。
(公的延長は740m)

桜川という名称は、明治以降の命名であり、新桜橋・桜橋・中ノ橋・八丁掘橋・
稲荷橋の5つが架橋されていた。
下の写真は、桜川公園の説明板に描かれていた地図である。
2014-07-05_20.jpg
昭和35年(1960)以降、中ノ橋より上流側が順次埋め立てられ、その後、桜橋
第2ポンプ場の建設とともに、昭和61年(1961)、完全に消失した。

桜川は、楓川京橋川の合流地点から始まる。
現在、桜川は首都高速都心環状線、京橋川は東京高速道路線(通称会社線)
となっており、水や船に変わって自動車が往来している。
桜川の入口は現在、警視庁高速道路交通警察隊新富分駐所となっている。
2014-07-05_5.jpg

そのビルの東側の一般道には新桜橋が架かっていた。
現在でも道路が僅かに凸状に膨らんでいるが、橋の名残であろうか。
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その先の桜川は下水道局の桜橋ポンプ場、そして空き地となっており、旧河川
上を歩くことはできない。2014-07-05_9.jpg

八丁掘と言えば、時代小説などで「八丁堀の旦那」と呼ばれる与力・同心を思い
浮かべる方も多いだろう。
八丁掘の地は始めは寺町だったが、寛永12年(1635)に江戸城下の拡張計画
が行われ、与力・同心の町として成立、茅場町・八丁堀一帯に広がった。
与力は徳川家の直臣、同心はその配下の侍衆であり、粋な庶民の味方として人
々の信頼を得たという。
江戸初期には、与力10人、同心50人から始まって、南北奉行所成立後は、与力
50人、同心280人に増加した。
与力は300~500坪、同心は100坪ほどの屋敷地を与えられていたという。
京華スクエア(旧京華小学校)の前には『八丁堀の与力・同心組屋敷跡』の説
明板が掲げられている。
2014-07-19_72.jpg

新大橋通り手前には、築地川へと通じる入船川という水路が分岐していた。
明治元年(1868)に新富町付近に新島原遊郭が開設された際に開削された郭
掘で、「おはぐろどぶ」と称されていたという。
その後、明治15年(1882)に拡幅されて、入船川となった。
しかし、震災後の大正13年(1924)復興区画整理事業で埋め立てられ、現在
は新大橋通りの西に並行するビル街となっている。
(築地川に通じる水路としては、その後、昭和5年(1930)に楓川・築地川連絡
運河が開削されている。)
2014-07-19_76.jpg

新大橋通りを渡ると桜川公園となるが、その脇に入一地蔵菩薩がある。
(「入一」とは入船一丁目の意)
三体の菩薩の脇にある石は、「むしば祈祷石」がある。
歯痛に悩んだ昔日の人々は、ここで願をかけたのであろうか。
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そして桜川公園、数種類の遊具が設置されている。
かつての桜川を偲ぶことができる貴重な空間である。
2014-07-05_16.jpg

桜川公園を過ぎると桜橋第二ポンプ所、中央区の女性センターも建物内に設
置されている。
下水道の京橋幹線・茅場町幹線・霊岸島幹線を集め、雨水は隅田川に放流し、
汚水は芝浦幹線を経由して芝浦水再生センターへと送水している。
2014-07-05_18.jpg

ポンプ場の上は屋上公園となっており、木々が植えられ、水路も設けられている。
ちょっとした癒しの空間である。
2014-07-05_24.jpg

その屋上庭園から東側に下りると、亀島川が見える。
その手前の道路に架かっていたのが稲荷橋、少し南へ行った歩道脇に稲荷橋
の橋名標がひっそりと保存されている。
2014-07-05_44.jpg

その稲荷橋の由来となったのは、鉄砲洲稲荷神社である。
その神社は稲荷橋から南へと百メートルほど進んだ湊一丁目交差点の先にある。
鉄砲洲稲荷神社は承和8年(841)、凶作に悩む住民が産土の国魂神を祀った
ことに始まると伝えられる。
寛永元年(1624)頃に稲荷橋南東詰に遷り、明治元年(1868)に現在地に移転
した。
江戸湊の入口に鎮座する神社として、地域の人々の信仰を集めてきたという。
(江戸後期には湊神社とも称された。)
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境内には富士山の溶岩で築いた富士塚があり、この地の富士信仰の場であった。
末社として、鉄砲洲富士浅間神社が鎮座する。
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江戸名所図会湊神社』には、稲荷橋とともに神社が描かれ、境内には富士塚
も見ることができる。
湊稲荷神社
                      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

また、歌川広重(1797~1858)も、名所江戸百景の1つに『鉄炮洲稲荷橋湊
神社
』として取り上げており、稲荷橋から桜川へ出入りする船が描かれている。
桜川を盛んに船が往来していたことが見てとれる。
鉄砲洲神社
        (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

そして桜川は亀島川に合流する。
亀島川はこの部分が広がっており、かつての合流部を見ることができる。
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《参考文献》
『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』 菅原健二著 (之潮)


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楓川

江戸橋の下流側で、日本橋川から分流していた楓川、京橋川や桜川、三十間掘と
の分岐部までの約1.2kmの河川であった。
過去形で記載したのは、楓川は埋め立てられて首都高速になってしまったからだ。

楓川は天正10年(1590)に家康が江戸入りした際の江戸前島の東側の海岸線で、
水路を残して沖合いに埋め立てることによって形成された川であるといわれている。
この区間に兜橋、海運橋、千代田橋、新場橋、久安橋、宝橋、松屋橋、弾正橋が
架けられている。(兜橋、千代田橋、宝橋は明治以降の架橋)
昭和35年(1960)に埋立免許が下りて。その後に首都高速が建設され、楓川と
いう水路は消滅した。

日本橋川に架かる江戸橋から、かつての分岐点を見る。
首都高中央環状線が南に分岐している。
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この辺りの光景は江戸名所図会四日市」にも描かれている。
四日市
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
絵の下部に描かれている橋は江戸橋、その左側に日本橋川から分かれる楓川
が見える。

江戸橋南交差点を左折していくと、そこは兜橋跡。
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その兜橋の北側に兜神社がある。
明治11年(1878)、兜町に東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けら
れるにあたり、取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として兜神社を造営
した。
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写真左の兜岩は前九年の役の頃、源義家が東征の際、この岩の兜を懸けて戦勝
を祈願したことに伝えられ、兜町という町名はこの兜岩に因んで付けられたという。

1ブロック歩くと海運橋、そこには海運橋の親柱が保存されている。
江戸時代初期には高橋と呼ばれていたが、橋の東側に御船手頭向井将監忠勝
(『亀島川』参照)の屋敷があったことから、将監橋とか海賊橋(御船手頭は幕府
の海軍で、海賊衆と呼ばれていたため)と呼ばれていた。
明治以降、海運橋と改称され、石橋に架け替えられた。
関東大震災で破損し、昭和2年(1927)に鉄橋が架けられたが、石橋の親柱が
記念として残された。
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この付近の楓川の左右に「郵便発祥の地」と「銀行発祥の地」がある。
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写真左の郵便発祥の地は、楓川の西、現在は日本橋郵便局となっている。
明治4年(1871)、前島密の創意により東京・大阪間で郵便事業が始まった。
日本橋郵便局前には、その前島密の銅像が安置されている。
写真右の銀行発祥の地は海運橋から数十メートルほど東に行ったみずほ銀行
兜町支店にあり、明治6年(1873)、我が国最初の銀行である第一国立銀行が
創立された場所である。
こちらは、建物横に銅版のプレートが設置されているのみである。

永代通りとの交差する場所にあるのが千代田橋、首都高の下に欄干が残され
ている。
永代通りの開通に伴い、昭和3年(1928)に架橋された。
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千代田橋の南にある大原稲荷神社、創建年代・由緒は不明。
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その先にあるのが坂本町公園は明治22年(1889)に開園された東京における
最初の市街地小公園である。
開園当時は和風庭園だったが、関東大震災後、仮設の収容施設や校舎などの
敷地として利用され、その後の復興事業により、洋風公園となった。
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隣接する阪本小学校は、明治6年(1873)、「第一大学区 第一中学区 第一
番官立小学 阪本学校」として開校、公立学校創生期において「一・一・一」を
冠する唯一の小学校であったという。

新場橋から見る首都高の脇には石垣があった。
かつての楓川の護岸跡であろうか。
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宝橋の橋詰には宝地蔵尊がある。
昭和29年(1954)、近くに住む子供が楓川に落ちて死亡するという事故が起こ
り、子供の安全を祈願して建立されたものだそうだ。
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そして、楓川の最下流の橋である弾正橋、北八丁堀に島田弾正少弼屋敷があっ
たことに由来する。
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京橋川の白魚橋、三十間掘の真福寺橋と共に、三つの橋がコの字状に架けられ
ており、「三ツ橋」と総称されていた。

こちらは江戸名所図会に描かれた「三ツ橋」。
手前の橋が弾正橋、右上が白魚橋、左が真福寺橋である。
三ツ橋
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
明治11年(1878)には、我が国最初の鉄橋として架橋されたが、大正15年
(1926)に架け替えられた。
旧橋梁は江東区の富岡八幡宮脇に移設され、八幡橋として八幡堀遊歩道に架
けられている。(下記写真)
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楓川は弾正橋の先で終わり、京橋川桜川三十間掘へと分岐していた。
また、昭和5年には楓川・築地川連絡運河が開削され、築地川へも通じるこ
とになり、それが現在の首都高のルートへと変貌している。

《参考文献》
『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』 菅原健二著 (之潮)


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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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