渋谷川 神宮南池支流(仮)
明治神宮の清正井から流れ出し、神宮南池を経て、原宿竹下口付近を流れる渋谷
川の支流を取り上げる。
正式な名称は無いが、神宮南池支流(仮)として呼ばれている。
なお、参考文献の『「春の小川」はなぜ消えたか』によれば、明治通りの神宮前交
差点付近に、かつて飴屋があったことに由来する飴屋橋という橋が架かっており、
飴屋川と称している記録もあるようだ。
源流は清正井(きよまさのいど)、明治神宮の御苑(有料)内の北方に位置する。
江戸期、明治神宮周辺は加藤家の下屋敷、その後は井伊家の下屋敷があった
場所で、明治以降は南豊島御料地(代々木御苑)となり、明治天皇・昭憲皇太后
ご崩御の後の大正9年(1920)、明治神宮として創建された。
清正井は加藤清正が掘ったとされる話が伝わるが、真偽のほどは定かではない。

この井戸は横井戸で、昭和13年(1938)に行われた修繕工事の際に行われた
調査では、現在の本殿倉庫付近一帯からの地下水が井戸の上方斜面から井戸
に湧出する自然湧水であることが解ったいう。(明治神宮のサイトより)
また、この清正井は近年ブームとなったパワースポットの先駆け的存在でもある。
当時の報道によれば、清正井を携帯写真におさめるために、数時間の行列がで
きたという。
現在でもその影響は続いており、行列を作るほどではないが訪れる人は多い。
清正井から流れ出た水は菖蒲田を進む。
この菖蒲田は、明治30年頃、明治天皇の思召により、優秀な品種を集め植えら
れたもので、今では150種2500株を数え、6月から7月上旬にかけて多くの花
をつける。

下の写真は下流側から菖蒲田を見た光景、水路は菖蒲田の両側に設けられている。

菖蒲田を過ぎた水路は南池に流れ込む。(「みなみいけ」ではなく「なんち」と呼ぶ)
約8000㎡の池で、初夏にはスイレンが花を咲かせる。
明治天皇の思召しにより設けられ昭憲皇太后が釣りを楽しんだという御釣台もある。
カメラ携えたバードウォッチャーも見られ、ここが都内であることを忘れるほどの光景
である。

南池から出た水路は杜の中へと入っていくが、西参道に架かる橋からその姿を
捉えることが出来る。

その先はJR山手線の原宿駅、駅の東側に廻って表参道口から竹下口を見ると
神宮南池支流が作った谷を実感できる。

支流は若者で賑わう竹下通りの一本南のフォンテーヌ通り(ブラームスの小径)
を流れていた。
通りにはタイル舗装が施され、洒落た飲食店などが建ち並ぶが、蛇行した道の
形状が、暗渠であることを再認識させてくれる。

その蛇行形状に加え、道路脇にはかつての護岸跡と思しき石壁が残る。

その南、表参道付近の古地図を見ていた時、源氏山という字名に気づいた。
表参道の神宮橋交差点から数十メートル入った地点には、穏田村の旧家であ
る飯尾家の墓所があり、そこに飯尾家当主により掲げられた源氏山の由来説
明板があった。
その説明によれば、天正年間(1573~93)に浜松から来た飯尾正宅(引馬城
-後の浜松城-城主である駿河飯尾氏の家系)がこの地を開墾し、清和源氏
の末裔であることから、この一帯を源氏山と称したという。

墓所には飯尾家代々の墓が並ぶ。
フォンテーヌ通りを抜け、明治通りに出たところに、前掲の飴屋橋があったようだ。
その飴屋橋の先で支流は二手に分かれ、一方はそのまま表参道の北側を進ん
で渋谷川に合流、他方は明治通り沿いに南下する。
前者は明治通りを渡った後に一般道として百数十メートル進み、渋谷川跡である
キャットストリート沿いのビルに突き当たる。
この先は後者の流れを進むことにしよう。
明治通りと表参道が交わる神宮前交差点の脇から、明治通りに並行してタイル
舗装の細い道があるが、ここも支流跡のようである。但し、この道はその先のT
字路で終わってしまう。

その先に迂回してみると、明治通りから緩やかな段差がある場所を確認できた。

明治通りの反対側には慈雲山長泉寺がある。
康平6年(1063)、川崎基家の開基により草庵が建立されたことに始まる。
大永年間(1521~27)には、上渋谷村の名主、田中左膳義直が穏田村観音
堂として再建、さらには天文15年(1546)には以心春的大和尚を招聘、堂宇
を再建した。
文禄元年(1592)には、芝愛宕下の青松寺より瑞翁を招き、慈雲山長泉寺と
して開山したという。

境内の駐車場付近には、かつて「鏡の井戸」と呼ばれる井戸があり、次のよう
な逸話が残っているという。
この井戸は広島藩穏田屋敷の屋敷内にあった井戸で、この屋敷は自昌院(広
島藩主浅野光晟の正室 1620~1700)の別邸であった。自昌院の姫は器量
が悪かったため、顔を見ないようにと鏡を井戸に投じた。しかしながらある日、
井戸を覗いた姫は、水面に映った自分の醜い顔を見てがっかりするが、その
うちに気を取り直して心の優しい人になろうと決意したという。
(Wikipediaより引用、一部改変)
墓地の奥には数十体の石仏群がある。
かつてこの付近に建てられたものが宅地造成などの折に、ここに集められたも
のだという。
この辺りではかなり古くから地蔵信仰や観音信仰があり、村人の間で講が作ら
れていたようだ。
このすぐ後ろは埼京線の線路、渋谷・原宿間の線路脇にこのような石仏群があ
ったとは驚きだ、

神宮南池支流は穏田神社近くの神宮前6-16で渋谷川に合流していたようだ。
今は、キャットストリート沿いの店が建ち並び、その跡や面影は無い。

《参考文献》
『「春の小川」はなぜ消えたか』 田原光泰著 (之潮 刊)
より大きな地図で 【川のプロムナード】渋谷川・古川周辺マップ を表示

川の支流を取り上げる。
正式な名称は無いが、神宮南池支流(仮)として呼ばれている。
なお、参考文献の『「春の小川」はなぜ消えたか』によれば、明治通りの神宮前交
差点付近に、かつて飴屋があったことに由来する飴屋橋という橋が架かっており、
飴屋川と称している記録もあるようだ。
源流は清正井(きよまさのいど)、明治神宮の御苑(有料)内の北方に位置する。
江戸期、明治神宮周辺は加藤家の下屋敷、その後は井伊家の下屋敷があった
場所で、明治以降は南豊島御料地(代々木御苑)となり、明治天皇・昭憲皇太后
ご崩御の後の大正9年(1920)、明治神宮として創建された。
清正井は加藤清正が掘ったとされる話が伝わるが、真偽のほどは定かではない。

この井戸は横井戸で、昭和13年(1938)に行われた修繕工事の際に行われた
調査では、現在の本殿倉庫付近一帯からの地下水が井戸の上方斜面から井戸
に湧出する自然湧水であることが解ったいう。(明治神宮のサイトより)
また、この清正井は近年ブームとなったパワースポットの先駆け的存在でもある。
当時の報道によれば、清正井を携帯写真におさめるために、数時間の行列がで
きたという。
現在でもその影響は続いており、行列を作るほどではないが訪れる人は多い。
清正井から流れ出た水は菖蒲田を進む。
この菖蒲田は、明治30年頃、明治天皇の思召により、優秀な品種を集め植えら
れたもので、今では150種2500株を数え、6月から7月上旬にかけて多くの花
をつける。

下の写真は下流側から菖蒲田を見た光景、水路は菖蒲田の両側に設けられている。

菖蒲田を過ぎた水路は南池に流れ込む。(「みなみいけ」ではなく「なんち」と呼ぶ)
約8000㎡の池で、初夏にはスイレンが花を咲かせる。
明治天皇の思召しにより設けられ昭憲皇太后が釣りを楽しんだという御釣台もある。
カメラ携えたバードウォッチャーも見られ、ここが都内であることを忘れるほどの光景
である。

南池から出た水路は杜の中へと入っていくが、西参道に架かる橋からその姿を
捉えることが出来る。

その先はJR山手線の原宿駅、駅の東側に廻って表参道口から竹下口を見ると
神宮南池支流が作った谷を実感できる。

支流は若者で賑わう竹下通りの一本南のフォンテーヌ通り(ブラームスの小径)
を流れていた。
通りにはタイル舗装が施され、洒落た飲食店などが建ち並ぶが、蛇行した道の
形状が、暗渠であることを再認識させてくれる。

その蛇行形状に加え、道路脇にはかつての護岸跡と思しき石壁が残る。

その南、表参道付近の古地図を見ていた時、源氏山という字名に気づいた。
表参道の神宮橋交差点から数十メートル入った地点には、穏田村の旧家であ
る飯尾家の墓所があり、そこに飯尾家当主により掲げられた源氏山の由来説
明板があった。
その説明によれば、天正年間(1573~93)に浜松から来た飯尾正宅(引馬城
-後の浜松城-城主である駿河飯尾氏の家系)がこの地を開墾し、清和源氏
の末裔であることから、この一帯を源氏山と称したという。

墓所には飯尾家代々の墓が並ぶ。
フォンテーヌ通りを抜け、明治通りに出たところに、前掲の飴屋橋があったようだ。
その飴屋橋の先で支流は二手に分かれ、一方はそのまま表参道の北側を進ん
で渋谷川に合流、他方は明治通り沿いに南下する。
前者は明治通りを渡った後に一般道として百数十メートル進み、渋谷川跡である
キャットストリート沿いのビルに突き当たる。
この先は後者の流れを進むことにしよう。
明治通りと表参道が交わる神宮前交差点の脇から、明治通りに並行してタイル
舗装の細い道があるが、ここも支流跡のようである。但し、この道はその先のT
字路で終わってしまう。

その先に迂回してみると、明治通りから緩やかな段差がある場所を確認できた。

明治通りの反対側には慈雲山長泉寺がある。
康平6年(1063)、川崎基家の開基により草庵が建立されたことに始まる。
大永年間(1521~27)には、上渋谷村の名主、田中左膳義直が穏田村観音
堂として再建、さらには天文15年(1546)には以心春的大和尚を招聘、堂宇
を再建した。
文禄元年(1592)には、芝愛宕下の青松寺より瑞翁を招き、慈雲山長泉寺と
して開山したという。

境内の駐車場付近には、かつて「鏡の井戸」と呼ばれる井戸があり、次のよう
な逸話が残っているという。
この井戸は広島藩穏田屋敷の屋敷内にあった井戸で、この屋敷は自昌院(広
島藩主浅野光晟の正室 1620~1700)の別邸であった。自昌院の姫は器量
が悪かったため、顔を見ないようにと鏡を井戸に投じた。しかしながらある日、
井戸を覗いた姫は、水面に映った自分の醜い顔を見てがっかりするが、その
うちに気を取り直して心の優しい人になろうと決意したという。
(Wikipediaより引用、一部改変)
墓地の奥には数十体の石仏群がある。
かつてこの付近に建てられたものが宅地造成などの折に、ここに集められたも
のだという。
この辺りではかなり古くから地蔵信仰や観音信仰があり、村人の間で講が作ら
れていたようだ。
このすぐ後ろは埼京線の線路、渋谷・原宿間の線路脇にこのような石仏群があ
ったとは驚きだ、

神宮南池支流は穏田神社近くの神宮前6-16で渋谷川に合流していたようだ。
今は、キャットストリート沿いの店が建ち並び、その跡や面影は無い。

《参考文献》
『「春の小川」はなぜ消えたか』 田原光泰著 (之潮 刊)
より大きな地図で 【川のプロムナード】渋谷川・古川周辺マップ を表示

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