新川 2
新川のコンクリート暗渠は、如意輪寺の先も東へと向かって続く。

しばらく一般道の歩道として進むが、泉町水源というポンプ場で一般道とは離れる。
新川沿いには、この泉町水源の他にも、この先に中町一号水源がある。
地下水からの汲み上げとはいえ、水が豊富な地域なのだろう。

新しく出来た調布保谷線という都道を横切り、西東京市役所保谷庁舎(旧保谷
市役所)の敷地を横断する。
新川の暗渠は、保谷庁舎への来訪者の自転車置場として利用されている。

保谷庁舎を過ぎると、新川はいったん南下する。
中町の住宅街の中を蛇行しながら突き進む暗渠、道路との交差部分では階段状
になっている場所もある。

緑道ほどではないが、暗渠沿いには草花が咲き、目を楽しませてくれる。

暗渠は碧山小学校で一旦途切れる。
暗渠が学校の中を通るというのは、たまに目にする光景である。
恐らく学校という広い敷地を確保するためには、川沿いの湿地などを利用するし
かなかった結果であろう。

小学校を迂回すると再び、住宅街の中に暗渠道を見ることができる。
そこから数百メートルほど進むと、天神山交差点に突き当たり、上流から続いて
きたコンクリート暗渠はここで終わる。

参考文献とした『白子川を知っていますか』に寄れば、このままかえで通りに
沿って北上しているように記載されているが、東京の河川や東京の水 2009
fragmentsというサイトでは、天神山交差点付近を頂点として周囲に迂回して
いたように推測している。
実際、現地を訪ねてみると、僅かだが交差点付近では起伏があるし、交差点
の北東に位置する農地や住宅街には開渠の水路跡を確認することができる。

新川は迂回後、かえで通りに沿って北上する。
ただ、ここでも通りの西側、東小学校の南には水路敷がある。
かつて、この辺りの田畑に利用するために、水路が何本かに分かれていたの
だろうか。

かえで通りに戻ると、通り沿いに民族学博物館発祥の地と書かれた説明板が
立てられている。

それによると、日銀総裁や大蔵大臣をも努めた財界人であり民族学者であった
渋沢敬三(渋沢栄一の孫)、民俗学研究者の高橋文太郎、民家研究者の今和
次郎の三人により、昭和14年(1939)に開館した。
民家などの建物を野外に配置し、民具を屋内に陳列して一般に公開されたが、
昭和37年(1962)に閉館した。
閉館後、民具は文部省資料館を経て国立民俗学博物館に継承され、野外展示
物の高倉は、江戸東京たてもの園に移築・保存されている。
説明板から100メートルほど行くと、右手に畑が広がる。
その手前で新川は右折し、畑の南端沿いにコンクリート蓋暗渠が出現する。

ただ、この蓋暗渠も百数十メートルほどで終了する。
この蓋暗渠が終わった場所で、新川は西東京市から練馬区へと入る。
その先、しばらく川跡は確認できない。
周辺にはブルーベリーの摘み取り農園が広がる。

このブルーベリー、日本における発祥は小平市花小金井である。
東京農工大学の故 岩垣駛夫教授が、ブルーベリーをアメリカから取り寄せて
研究、昭和43年(1968)教え子の実家である小平市内の農家に栽培を託し
たのが始まりという。
ブルーベリーというと高原での栽培のイメージが強いが、平成22年の特産果
樹生産動態等調査(農水省)によると、東京は、長野、群馬に続いて3位の生
産高となっている。
南大泉1-49からは、新川は緑道となって現れる。
新川の最下流の数百メートルの区間は、この緑道となっている。

緑道はタイル舗装され、脇にはグレーチングの蓋をされた雨水溝がつづく。
さすがにコンクリ蓋の道とは異なり、散策を楽しむ人とすれ違う。

写真奥のスロープを上ると、そこは白子川最上流の橋、七頭橋だ。

《参考文献》
『白子川を知っていますか -水辺再生に向けて-』 白子川汚濁対策協議会編
より大きな地図で 【川のプロムナード】白子川周辺マップ を表示


しばらく一般道の歩道として進むが、泉町水源というポンプ場で一般道とは離れる。
新川沿いには、この泉町水源の他にも、この先に中町一号水源がある。
地下水からの汲み上げとはいえ、水が豊富な地域なのだろう。

新しく出来た調布保谷線という都道を横切り、西東京市役所保谷庁舎(旧保谷
市役所)の敷地を横断する。
新川の暗渠は、保谷庁舎への来訪者の自転車置場として利用されている。

保谷庁舎を過ぎると、新川はいったん南下する。
中町の住宅街の中を蛇行しながら突き進む暗渠、道路との交差部分では階段状
になっている場所もある。

緑道ほどではないが、暗渠沿いには草花が咲き、目を楽しませてくれる。

暗渠は碧山小学校で一旦途切れる。
暗渠が学校の中を通るというのは、たまに目にする光景である。
恐らく学校という広い敷地を確保するためには、川沿いの湿地などを利用するし
かなかった結果であろう。

小学校を迂回すると再び、住宅街の中に暗渠道を見ることができる。
そこから数百メートルほど進むと、天神山交差点に突き当たり、上流から続いて
きたコンクリート暗渠はここで終わる。

参考文献とした『白子川を知っていますか』に寄れば、このままかえで通りに
沿って北上しているように記載されているが、東京の河川や東京の水 2009
fragmentsというサイトでは、天神山交差点付近を頂点として周囲に迂回して
いたように推測している。
実際、現地を訪ねてみると、僅かだが交差点付近では起伏があるし、交差点
の北東に位置する農地や住宅街には開渠の水路跡を確認することができる。

新川は迂回後、かえで通りに沿って北上する。
ただ、ここでも通りの西側、東小学校の南には水路敷がある。
かつて、この辺りの田畑に利用するために、水路が何本かに分かれていたの
だろうか。

かえで通りに戻ると、通り沿いに民族学博物館発祥の地と書かれた説明板が
立てられている。

それによると、日銀総裁や大蔵大臣をも努めた財界人であり民族学者であった
渋沢敬三(渋沢栄一の孫)、民俗学研究者の高橋文太郎、民家研究者の今和
次郎の三人により、昭和14年(1939)に開館した。
民家などの建物を野外に配置し、民具を屋内に陳列して一般に公開されたが、
昭和37年(1962)に閉館した。
閉館後、民具は文部省資料館を経て国立民俗学博物館に継承され、野外展示
物の高倉は、江戸東京たてもの園に移築・保存されている。
説明板から100メートルほど行くと、右手に畑が広がる。
その手前で新川は右折し、畑の南端沿いにコンクリート蓋暗渠が出現する。

ただ、この蓋暗渠も百数十メートルほどで終了する。
この蓋暗渠が終わった場所で、新川は西東京市から練馬区へと入る。
その先、しばらく川跡は確認できない。
周辺にはブルーベリーの摘み取り農園が広がる。

このブルーベリー、日本における発祥は小平市花小金井である。
東京農工大学の故 岩垣駛夫教授が、ブルーベリーをアメリカから取り寄せて
研究、昭和43年(1968)教え子の実家である小平市内の農家に栽培を託し
たのが始まりという。
ブルーベリーというと高原での栽培のイメージが強いが、平成22年の特産果
樹生産動態等調査(農水省)によると、東京は、長野、群馬に続いて3位の生
産高となっている。
南大泉1-49からは、新川は緑道となって現れる。
新川の最下流の数百メートルの区間は、この緑道となっている。

緑道はタイル舗装され、脇にはグレーチングの蓋をされた雨水溝がつづく。
さすがにコンクリ蓋の道とは異なり、散策を楽しむ人とすれ違う。

写真奥のスロープを上ると、そこは白子川最上流の橋、七頭橋だ。

《参考文献》
『白子川を知っていますか -水辺再生に向けて-』 白子川汚濁対策協議会編
より大きな地図で 【川のプロムナード】白子川周辺マップ を表示

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