新川 1
白子川の上流部には、西東京市北原町および谷戸町からの新川という支流がある。
その新川はごく一部を除いて暗渠であり、上流部から中流部にかけてコンクリート蓋
が続く。
新川沿いの窪地を新川窪地と称し、この窪地の底を走っている小溝をシマッポ(もし
くはシマッポリ)と呼んでいたという。
このシマッポは、常時流れるものではなく、豪雨の後に水が流れる程度のもので、
好天が続くと水は流れなくなる程度のものだったらしい。
新川は北原町3丁目付近からの流れと、その北、谷戸町1丁目付近からの流れの
2本の水流で始まり、如意輪寺の西、泉町2丁目で合流する。
前者を南支流、後者を北支流と呼ぶことにして、それぞれの流れを追うことから始め
よう。
まずは南支流から。
田無駅の北にある東京大学農学部農場の東、北原町3丁目の住宅街の一画に
コンクリート蓋暗渠が始まる。
すぐ西側は東大農場があるが、おそらく農場の中から続いているのであろう。
このコンクリート蓋暗渠を東へと辿っていく。

田無とひばりが丘を結ぶ谷戸新道を渡り、その先も蓋暗渠が続く。

田無第二中学校の東側で、すぐ北にあるフラワー通りという商店街から来る短い
水路と合流し、東へと流れていく。
この先は残念ながら住宅の中へと入ってしまうので、迂回せざるをえない。

迂回した先の泉町1-11の水路脇には、小さな三角地がある。
ここにはエドジマ池と称する溜があったとのこと、その溜は豪雨の後の遊水池
程度のものであったらしい。

さらに新川を下流へと歩いていく。
コンクリ蓋を辿っていけばよいので、追跡は容易い。
道路との交差地点では、橋跡も確認できる。

途中、僅かな区間ではあるが、開渠となっている場所もある。
但し、水流は確認できない。

その先、泉町2-13で、左側から北支流が合流する。

今度は北支流を追ってみよう。
先ほどの南支流から500mほど北、谷戸新道脇の谷戸小学校に向かい側から
暗渠道が始まる。
こちらも南支流同様に、コンクリ蓋暗渠が続く。

暗渠沿いの谷戸一丁目第一公園という児童公園の北側にはツルマの弁天池
という湧水池があり、弁天の小社が祀られていたという。
頭に鳥居の形を印したウナギが棲息しており、これが池の主だったという。
後に池を埋められた時、埋めた人に祟りがあったという言い伝えもある。

道路との交差部にある柵、錆付いてはいるが、かえって古めしい雰囲気をかもし
出している。

暗渠道は住宅街や畑の中を進んでいく。
北支流の暗渠道は、住民の通路として利用されているようで、時折、自転車が
カタカタと音をたててコンクリ蓋の上を通っていく。

そして、先ほどの合流地点に達する。
合流地点の北、如意輪寺の西には、かつてマツバ池という池があったという。
この池は地下水が地表に現れる沼沢池で大マツバ・小マツバと呼ばれる2つ
の池から成り立っていたそうだ。
今は住宅街となっており、その存在をうかがい知ることはできない。
この辺りは、かつて「上宿」もしくは「大門」と呼ばれていた地域で、横山道に
沿って集落があり、市もたったといわれる。
その上宿には尉殿神社および四軒寺と呼ばれる4つの寺院がある。
その神社・寺院を順に紹介してみよう。
まずは尉殿神社、新川の北方、数百メートルの場所にある。
谷戸・宮山(現在の田無第二中学校付近)の尉殿大権現から、元和8年(1622)、
分祀され、上保谷村の鎮守として創建された。
(尉殿大権現はその後、青梅街道沿いに遷座、明治期に田無神社と改める)
祭神は級長戸辺命で、水の神として祀られたという。

次に紹介するのは四軒寺の一つ、真言宗の慈光山宝樹院。
他の寺院から南へ数百メートル離れ、南支流の西側、泉町2丁目にある。
創建年代は不明だが、源空法印(1711年寂)の開山と伝えられる。
江戸初期の寺院本末制(各宗派の寺院を本山・末寺の関係に置くことで、統制
を図った制度)により、石神井の三宝寺(『石神井川2』参照)の末寺となった。
旧字上宿にあったが、昭和6年(1931)に移転した。

次は金輪山宝晃院、北支流が本堂と墓地の間を横切っている。
創建年代は不明だが、明治維新までは前述の尉殿神社の別当寺を務めてい
たという。
境内には明和8年(1771)造立に水子地蔵菩薩立像があり、西東京市教育委
員会の説明板によればその4年前に幕府は堕胎と間引きを禁する法度を出して
おり、その頃の農民の困窮の様子も説明されている。

その宝晃院から北東へ100メートルほど歩くと、曹洞宗の祥高山東禅寺がある。
保谷村由緒年代記によれば、文禄3年(1595)の創建とのこと。

こちらの境内には、万延元年(1860)造立の六地蔵菩薩立像がある。(写真左
の赤い屋根の下)
檀家信徒が念仏講を結集して造立したものであるという。
そして、四軒寺の最後に紹介するのが、真言宗の如意輪寺。
北支流と南支流が合流した後の新川に沿って、北側に境内が広がる。
創建年代は不明、四軒寺の中では最も規模が大きく、寺格も上に位置されて
いたという。

境内には気になる物件があった。下の写真の赤い橋である。
南を流れる新川からは数十メートルほどの位置にポツリと存在する。
特に説明板もないため、この橋が実際に使用されたものなのかは不明であるが、
新川に架かる赤い橋を想像するのも悪くはない。

《参考文献》
『白子川を知っていますか -水辺再生に向けて-』 白子川汚濁対策協議会編
より大きな地図で 【川のプロムナード】白子川周辺マップ を表示


その新川はごく一部を除いて暗渠であり、上流部から中流部にかけてコンクリート蓋
が続く。
新川沿いの窪地を新川窪地と称し、この窪地の底を走っている小溝をシマッポ(もし
くはシマッポリ)と呼んでいたという。
このシマッポは、常時流れるものではなく、豪雨の後に水が流れる程度のもので、
好天が続くと水は流れなくなる程度のものだったらしい。
新川は北原町3丁目付近からの流れと、その北、谷戸町1丁目付近からの流れの
2本の水流で始まり、如意輪寺の西、泉町2丁目で合流する。
前者を南支流、後者を北支流と呼ぶことにして、それぞれの流れを追うことから始め
よう。
まずは南支流から。
田無駅の北にある東京大学農学部農場の東、北原町3丁目の住宅街の一画に
コンクリート蓋暗渠が始まる。
すぐ西側は東大農場があるが、おそらく農場の中から続いているのであろう。
このコンクリート蓋暗渠を東へと辿っていく。

田無とひばりが丘を結ぶ谷戸新道を渡り、その先も蓋暗渠が続く。

田無第二中学校の東側で、すぐ北にあるフラワー通りという商店街から来る短い
水路と合流し、東へと流れていく。
この先は残念ながら住宅の中へと入ってしまうので、迂回せざるをえない。

迂回した先の泉町1-11の水路脇には、小さな三角地がある。
ここにはエドジマ池と称する溜があったとのこと、その溜は豪雨の後の遊水池
程度のものであったらしい。

さらに新川を下流へと歩いていく。
コンクリ蓋を辿っていけばよいので、追跡は容易い。
道路との交差地点では、橋跡も確認できる。

途中、僅かな区間ではあるが、開渠となっている場所もある。
但し、水流は確認できない。

その先、泉町2-13で、左側から北支流が合流する。

今度は北支流を追ってみよう。
先ほどの南支流から500mほど北、谷戸新道脇の谷戸小学校に向かい側から
暗渠道が始まる。
こちらも南支流同様に、コンクリ蓋暗渠が続く。

暗渠沿いの谷戸一丁目第一公園という児童公園の北側にはツルマの弁天池
という湧水池があり、弁天の小社が祀られていたという。
頭に鳥居の形を印したウナギが棲息しており、これが池の主だったという。
後に池を埋められた時、埋めた人に祟りがあったという言い伝えもある。

道路との交差部にある柵、錆付いてはいるが、かえって古めしい雰囲気をかもし
出している。

暗渠道は住宅街や畑の中を進んでいく。
北支流の暗渠道は、住民の通路として利用されているようで、時折、自転車が
カタカタと音をたててコンクリ蓋の上を通っていく。

そして、先ほどの合流地点に達する。
合流地点の北、如意輪寺の西には、かつてマツバ池という池があったという。
この池は地下水が地表に現れる沼沢池で大マツバ・小マツバと呼ばれる2つ
の池から成り立っていたそうだ。
今は住宅街となっており、その存在をうかがい知ることはできない。
この辺りは、かつて「上宿」もしくは「大門」と呼ばれていた地域で、横山道に
沿って集落があり、市もたったといわれる。
その上宿には尉殿神社および四軒寺と呼ばれる4つの寺院がある。
その神社・寺院を順に紹介してみよう。
まずは尉殿神社、新川の北方、数百メートルの場所にある。
谷戸・宮山(現在の田無第二中学校付近)の尉殿大権現から、元和8年(1622)、
分祀され、上保谷村の鎮守として創建された。
(尉殿大権現はその後、青梅街道沿いに遷座、明治期に田無神社と改める)
祭神は級長戸辺命で、水の神として祀られたという。

次に紹介するのは四軒寺の一つ、真言宗の慈光山宝樹院。
他の寺院から南へ数百メートル離れ、南支流の西側、泉町2丁目にある。
創建年代は不明だが、源空法印(1711年寂)の開山と伝えられる。
江戸初期の寺院本末制(各宗派の寺院を本山・末寺の関係に置くことで、統制
を図った制度)により、石神井の三宝寺(『石神井川2』参照)の末寺となった。
旧字上宿にあったが、昭和6年(1931)に移転した。

次は金輪山宝晃院、北支流が本堂と墓地の間を横切っている。
創建年代は不明だが、明治維新までは前述の尉殿神社の別当寺を務めてい
たという。
境内には明和8年(1771)造立に水子地蔵菩薩立像があり、西東京市教育委
員会の説明板によればその4年前に幕府は堕胎と間引きを禁する法度を出して
おり、その頃の農民の困窮の様子も説明されている。

その宝晃院から北東へ100メートルほど歩くと、曹洞宗の祥高山東禅寺がある。
保谷村由緒年代記によれば、文禄3年(1595)の創建とのこと。

こちらの境内には、万延元年(1860)造立の六地蔵菩薩立像がある。(写真左
の赤い屋根の下)
檀家信徒が念仏講を結集して造立したものであるという。
そして、四軒寺の最後に紹介するのが、真言宗の如意輪寺。
北支流と南支流が合流した後の新川に沿って、北側に境内が広がる。
創建年代は不明、四軒寺の中では最も規模が大きく、寺格も上に位置されて
いたという。

境内には気になる物件があった。下の写真の赤い橋である。
南を流れる新川からは数十メートルほどの位置にポツリと存在する。
特に説明板もないため、この橋が実際に使用されたものなのかは不明であるが、
新川に架かる赤い橋を想像するのも悪くはない。

《参考文献》
『白子川を知っていますか -水辺再生に向けて-』 白子川汚濁対策協議会編
より大きな地図で 【川のプロムナード】白子川周辺マップ を表示



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