内川 1

大田区北馬込付近を源流とし大森東で平和島運河に注ぐ、二級河川の内川を歩
いてみた。
上流部は昭和51年までに暗渠化(下水道幹線化)され、開渠は東海道本線の鉄
橋から東側の1.5kmの区間のみとなっている。

内川のスタート地点は、環七北側の北馬込2-13の緑道、そこには旧内川源流
の碑が建っている。
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しかしこの碑の唐突な感じは拭えない。
付近を歩き回ってみると、西側の夫婦坂交差点方面のかけて凹凸のある地形が
広がっている。
恐らくこの谷形状の地形のどこかに湧水があり、またこの付近に降った雨水を集
めて流れ出していたものと推定される。
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また源流碑の北側に位置する宗福寺脇の坂道の側溝では、寺から流れ出たと思
われる清らかな水が下っていた。
残念ながらその水源は追うことは出来なかったが、宗福寺下から出る湧水と想定
される。
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その金光山宗福寺、曹洞宗系の寺院で、開山は天永源堯和尚(天正4年(1576)
寂)。
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境内には登志子地蔵が建立され、馬込子まもり会というNPO法人によって維持
されている。
昭和10年5月、祭礼へ行くために自宅前で母親を待っていた10歳の少女が、
誘拐、乱暴の末、殺害されるという事件がおきた。
犯人は、事件発生の24日後に逮捕されたが、殺害された少女の慰霊と、子供
達の健やかな成長を祈願して維持されている。
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さて、内川は、先ほどの源流碑から数十メートルで環七と交差、その先も南に
向かって緑道が続く。
環七からは緑道へと階段が設置されており、環七が盛土で通されたことが判る。
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環七との交差部の西側にあるのが、馬込浅間神社
由緒は定かではないが、享保17年(1732)馬込村の住人、橋本和泉守が、富
士信仰厚く富士浅間神社を勧請奉斉したことに始まるといわれる。
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緑道を数百メートルほど行くと、東海道新幹線および横須賀線との高架橋が見
えてくる。
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線路との交差部には、開渠時代の河川のトンネルが残されている。
前述の通り、下水道幹線化されたのは昭和51年なので、それまでは内川が品
鶴線(現横須賀線)をこのトンネルで越していたようだ。
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新幹線と交差した先、内川は立正中学校・高校のキャンパスの間を通る。
平成25年に大崎より移転してきたキャンパスであり、新しい校舎の中、内川の
部分には遊歩道が設けられ、一般に開放されている。
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立正高校を過ぎて二百メートルほど行くと、第二京浜国道(国道1号線)と交差する。
その北には、長遠寺と馬込八幡神社がある。

海岳山長遠寺は真言宗智山派の寺院。
寺伝によれば、天仁元年(1108)宥尊上人の草創で、当初は馬込邑堂寺に建立
されたが、建武年間の兵火で焼失、その後、文亀2年(1502)、現在の地に移った。
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十世紀頃の作とされる十一面観音菩薩立像は上大崎の光雲寺にあったものが、
明治初年、廃寺の際に当寺に移されたもので、大田区文化財に指定されている。
(非公開)

長遠寺に隣接して建っているのが馬込八幡神社
建久4年(1193)に、源頼朝の家臣の渡辺対馬守正久が、清水八幡宮の分霊
を勧請、翌5年に当地に遷宮したといわれる。
馬込村の総鎮守とされ、長遠寺が別当寺であった。
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下の江戸名所図会にも、図の上部に長遠寺と馬込八幡神社が描かれている。
馬込八幡宮
江戸名所図会 「万福寺 馬込八幡宮 梶原屋敷」  
                      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

またここから数十メートルほどの場所には、時計台がある民家がある。
明治18年(1885)建築の旧馬込小学校の一部を移築して住宅として改造し、
さらに大正14年 (1925)建設の時計台を昭和38年(1963)に移築した。
一般民家のため通りから眺めるだけだが、河原家住宅主屋として国の登録有
形文化財として指定されている。
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第二京浜国道から先、内川は一般道の歩道として整備されている。
歩道の花壇に植えられたツツジが綺麗に花を咲かせている。
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その北側に湯殿神社がある。
創建年代は不明であるが、江戸時代には羽黒権現と呼ばれていたという。
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この湯殿神社がある一帯は、後北条氏の家臣・梶原助五郎の居城といわれる
馬込城址である。
囲が急な崖で、周辺の谷に沼を配し、敵の侵攻に備えていた。
特に神社がある付近の西側は、根古屋と呼ばれ、このあたりが城主の館の跡
と伝えられている。

そこから数十メートルほど坂を上ると、大田区立郷土博物館が右手にある。
歴史、民俗資料などの文化遺産が展示されているが、中でも床一面に貼られ
た六郷用水と二ヶ領用水のルート図は秀逸であり、河川・用水好きにはたまらない。
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内川跡に設けられた歩道は、南馬込の住宅街を南東方向に進む。
馬込桜並木通りと称し、600mほどの区間に90本の桜が立ち並ぶ。
通り沿いには、スーパーやドラッグストアなどもあり、人通りは多い。
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《参考文献》
『大田の史跡めぐり』 大田区教育委員会 郷土博物館編


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渋谷川 神宮南池支流(仮)

明治神宮の清正井から流れ出し、神宮南池を経て、原宿竹下口付近を流れる渋谷
川の支流を取り上げる。
正式な名称は無いが、神宮南池支流(仮)として呼ばれている。
なお、参考文献の『「春の小川」はなぜ消えたか』によれば、明治通りの神宮前交
差点付近に、かつて飴屋があったことに由来する飴屋橋という橋が架かっており、
飴屋川と称している記録もあるようだ。

源流は清正井(きよまさのいど)、明治神宮の御苑(有料)内の北方に位置する。
江戸期、明治神宮周辺は加藤家の下屋敷、その後は井伊家の下屋敷があった
場所で、明治以降は南豊島御料地(代々木御苑)となり、明治天皇・昭憲皇太后
ご崩御の後の大正9年(1920)、明治神宮として創建された。
清正井は加藤清正が掘ったとされる話が伝わるが、真偽のほどは定かではない。
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この井戸は横井戸で、昭和13年(1938)に行われた修繕工事の際に行われた
調査では、現在の本殿倉庫付近一帯からの地下水が井戸の上方斜面から井戸
に湧出する自然湧水であることが解ったいう。(明治神宮のサイトより)

また、この清正井は近年ブームとなったパワースポットの先駆け的存在でもある。
当時の報道によれば、清正井を携帯写真におさめるために、数時間の行列がで
きたという。
現在でもその影響は続いており、行列を作るほどではないが訪れる人は多い。

清正井から流れ出た水は菖蒲田を進む。
この菖蒲田は、明治30年頃、明治天皇の思召により、優秀な品種を集め植えら
れたもので、今では150種2500株を数え、6月から7月上旬にかけて多くの花
をつける。
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下の写真は下流側から菖蒲田を見た光景、水路は菖蒲田の両側に設けられている。
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菖蒲田を過ぎた水路は南池に流れ込む。(「みなみいけ」ではなく「なんち」と呼ぶ)
約8000㎡の池で、初夏にはスイレンが花を咲かせる。
明治天皇の思召しにより設けられ昭憲皇太后が釣りを楽しんだという御釣台もある。
カメラ携えたバードウォッチャーも見られ、ここが都内であることを忘れるほどの光景
である。
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南池から出た水路は杜の中へと入っていくが、西参道に架かる橋からその姿を
捉えることが出来る。
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その先はJR山手線の原宿駅、駅の東側に廻って表参道口から竹下口を見ると
神宮南池支流が作った谷を実感できる。
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支流は若者で賑わう竹下通りの一本南のフォンテーヌ通り(ブラームスの小径)
を流れていた。
通りにはタイル舗装が施され、洒落た飲食店などが建ち並ぶが、蛇行した道の
形状が、暗渠であることを再認識させてくれる。
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その蛇行形状に加え、道路脇にはかつての護岸跡と思しき石壁が残る。
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その南、表参道付近の古地図を見ていた時、源氏山という字名に気づいた。
表参道の神宮橋交差点から数十メートル入った地点には、穏田村の旧家であ
る飯尾家の墓所があり、そこに飯尾家当主により掲げられた源氏山の由来説
明板があった。
その説明によれば、天正年間(1573~93)に浜松から来た飯尾正宅(引馬城
-後の浜松城-城主である駿河飯尾氏の家系)がこの地を開墾し、清和源氏
の末裔であることから、この一帯を源氏山と称したという。
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墓所には飯尾家代々の墓が並ぶ。

フォンテーヌ通りを抜け、明治通りに出たところに、前掲の飴屋橋があったようだ。
その飴屋橋の先で支流は二手に分かれ、一方はそのまま表参道の北側を進ん
で渋谷川に合流、他方は明治通り沿いに南下する。
前者は明治通りを渡った後に一般道として百数十メートル進み、渋谷川跡である
キャットストリート沿いのビルに突き当たる。
この先は後者の流れを進むことにしよう。

明治通りと表参道が交わる神宮前交差点の脇から、明治通りに並行してタイル
舗装の細い道があるが、ここも支流跡のようである。但し、この道はその先のT
字路で終わってしまう。
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その先に迂回してみると、明治通りから緩やかな段差がある場所を確認できた。
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明治通りの反対側には慈雲山長泉寺がある。
康平6年(1063)、川崎基家の開基により草庵が建立されたことに始まる。
大永年間(1521~27)には、上渋谷村の名主、田中左膳義直が穏田村観音
堂として再建、さらには天文15年(1546)には以心春的大和尚を招聘、堂宇
を再建した。
文禄元年(1592)には、芝愛宕下の青松寺より瑞翁を招き、慈雲山長泉寺と
して開山したという。
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境内の駐車場付近には、かつて「鏡の井戸」と呼ばれる井戸があり、次のよう
な逸話が残っているという。
この井戸は広島藩穏田屋敷の屋敷内にあった井戸で、この屋敷は自昌院(広
島藩主浅野光晟の正室 1620~1700)の別邸であった。自昌院の姫は器量
が悪かったため、顔を見ないようにと鏡を井戸に投じた。しかしながらある日、
井戸を覗いた姫は、水面に映った自分の醜い顔を見てがっかりするが、その
うちに気を取り直して心の優しい人になろうと決意したという。

(Wikipediaより引用、一部改変)

墓地の奥には数十体の石仏群がある。
かつてこの付近に建てられたものが宅地造成などの折に、ここに集められたも
のだという。
この辺りではかなり古くから地蔵信仰や観音信仰があり、村人の間で講が作ら
れていたようだ。
このすぐ後ろは埼京線の線路、渋谷・原宿間の線路脇にこのような石仏群があ
ったとは驚きだ、
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神宮南池支流は穏田神社近くの神宮前6-16で渋谷川に合流していたようだ。
今は、キャットストリート沿いの店が建ち並び、その跡や面影は無い。
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《参考文献》
『「春の小川」はなぜ消えたか』 田原光泰著 (之潮 刊)


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新川 2

新川のコンクリート暗渠は、如意輪寺の先も東へと向かって続く。
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しばらく一般道の歩道として進むが、泉町水源というポンプ場で一般道とは離れる。
新川沿いには、この泉町水源の他にも、この先に中町一号水源がある。
地下水からの汲み上げとはいえ、水が豊富な地域なのだろう。
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新しく出来た調布保谷線という都道を横切り、西東京市役所保谷庁舎(旧保谷
市役所)の敷地を横断する。
新川の暗渠は、保谷庁舎への来訪者の自転車置場として利用されている。
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保谷庁舎を過ぎると、新川はいったん南下する。
中町の住宅街の中を蛇行しながら突き進む暗渠、道路との交差部分では階段状
になっている場所もある。
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緑道ほどではないが、暗渠沿いには草花が咲き、目を楽しませてくれる。
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暗渠は碧山小学校で一旦途切れる。
暗渠が学校の中を通るというのは、たまに目にする光景である。
恐らく学校という広い敷地を確保するためには、川沿いの湿地などを利用するし
かなかった結果であろう。
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小学校を迂回すると再び、住宅街の中に暗渠道を見ることができる。
そこから数百メートルほど進むと、天神山交差点に突き当たり、上流から続いて
きたコンクリート暗渠はここで終わる。
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参考文献とした『白子川を知っていますか』に寄れば、このままかえで通り
沿って北上しているように記載されているが、東京の河川東京の水 2009
fragments
というサイトでは、天神山交差点付近を頂点として周囲に迂回して
いたように推測している。
実際、現地を訪ねてみると、僅かだが交差点付近では起伏があるし、交差点
の北東に位置する農地や住宅街には開渠の水路跡を確認することができる。
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新川は迂回後、かえで通りに沿って北上する。
ただ、ここでも通りの西側、東小学校の南には水路敷がある。
かつて、この辺りの田畑に利用するために、水路が何本かに分かれていたの
だろうか。
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かえで通りに戻ると、通り沿いに民族学博物館発祥の地と書かれた説明板が
立てられている。
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それによると、日銀総裁や大蔵大臣をも努めた財界人であり民族学者であった
渋沢敬三(渋沢栄一の孫)、民俗学研究者の高橋文太郎、民家研究者の今和
次郎の三人により、昭和14年(1939)に開館した。
民家などの建物を野外に配置し、民具を屋内に陳列して一般に公開されたが、
昭和37年(1962)に閉館した。
閉館後、民具は文部省資料館を経て国立民俗学博物館に継承され、野外展示
物の高倉は、江戸東京たてもの園に移築・保存されている。

説明板から100メートルほど行くと、右手に畑が広がる。
その手前で新川は右折し、畑の南端沿いにコンクリート蓋暗渠が出現する。
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ただ、この蓋暗渠も百数十メートルほどで終了する。
この蓋暗渠が終わった場所で、新川は西東京市から練馬区へと入る。

その先、しばらく川跡は確認できない。
周辺にはブルーベリーの摘み取り農園が広がる。
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このブルーベリー、日本における発祥は小平市花小金井である。
東京農工大学の故 岩垣駛夫教授が、ブルーベリーをアメリカから取り寄せて
研究、昭和43年(1968)教え子の実家である小平市内の農家に栽培を託し
たのが始まりという。
ブルーベリーというと高原での栽培のイメージが強いが、平成22年の特産果
樹生産動態等調査(農水省)によると、東京は、長野、群馬に続いて3位の生
産高となっている。

南大泉1-49からは、新川は緑道となって現れる。
新川の最下流の数百メートルの区間は、この緑道となっている。
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緑道はタイル舗装され、脇にはグレーチングの蓋をされた雨水溝がつづく。
さすがにコンクリ蓋の道とは異なり、散策を楽しむ人とすれ違う。
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写真奥のスロープを上ると、そこは白子川最上流の橋、七頭橋だ。
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《参考文献》
『白子川を知っていますか -水辺再生に向けて-』 白子川汚濁対策協議会編


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新川 1

白子川の上流部には、西東京市北原町および谷戸町からの新川という支流がある。
その新川はごく一部を除いて暗渠であり、上流部から中流部にかけてコンクリート蓋
が続く。

新川沿いの窪地を新川窪地と称し、この窪地の底を走っている小溝をシマッポ(もし
くはシマッポリ)と呼んでいたという。
このシマッポは、常時流れるものではなく、豪雨の後に水が流れる程度のもので、
好天が続くと水は流れなくなる程度のものだったらしい。

新川は北原町3丁目付近からの流れと、その北、谷戸町1丁目付近からの流れの
2本の水流で始まり、如意輪寺の西、泉町2丁目で合流する。
前者を南支流、後者を北支流と呼ぶことにして、それぞれの流れを追うことから始め
よう。

まずは南支流から。
田無駅の北にある東京大学農学部農場の東、北原町3丁目の住宅街の一画に
コンクリート蓋暗渠が始まる。
すぐ西側は東大農場があるが、おそらく農場の中から続いているのであろう。
このコンクリート蓋暗渠を東へと辿っていく。
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田無とひばりが丘を結ぶ谷戸新道を渡り、その先も蓋暗渠が続く。
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田無第二中学校の東側で、すぐ北にあるフラワー通りという商店街から来る短い
水路と合流し、東へと流れていく。
この先は残念ながら住宅の中へと入ってしまうので、迂回せざるをえない。
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迂回した先の泉町1-11の水路脇には、小さな三角地がある。
ここにはエドジマ池と称する溜があったとのこと、その溜は豪雨の後の遊水池
程度のものであったらしい。
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さらに新川を下流へと歩いていく。
コンクリ蓋を辿っていけばよいので、追跡は容易い。
道路との交差地点では、橋跡も確認できる。
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途中、僅かな区間ではあるが、開渠となっている場所もある。
但し、水流は確認できない。
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その先、泉町2-13で、左側から北支流が合流する。
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今度は北支流を追ってみよう。
先ほどの南支流から500mほど北、谷戸新道脇の谷戸小学校に向かい側から
暗渠道が始まる。
こちらも南支流同様に、コンクリ蓋暗渠が続く。
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暗渠沿いの谷戸一丁目第一公園という児童公園の北側にはツルマの弁天池
という湧水池があり、弁天の小社が祀られていたという。
頭に鳥居の形を印したウナギが棲息しており、これが池の主だったという。
後に池を埋められた時、埋めた人に祟りがあったという言い伝えもある。
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道路との交差部にある柵、錆付いてはいるが、かえって古めしい雰囲気をかもし
出している。
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暗渠道は住宅街や畑の中を進んでいく。
北支流の暗渠道は、住民の通路として利用されているようで、時折、自転車が
カタカタと音をたててコンクリ蓋の上を通っていく。
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そして、先ほどの合流地点に達する。
合流地点の北、如意輪寺の西には、かつてマツバ池という池があったという。
この池は地下水が地表に現れる沼沢池で大マツバ・小マツバと呼ばれる2つ
の池から成り立っていたそうだ。
今は住宅街となっており、その存在をうかがい知ることはできない。

この辺りは、かつて「上宿」もしくは「大門」と呼ばれていた地域で、横山道に
沿って集落があり、市もたったといわれる。
その上宿には尉殿神社および四軒寺と呼ばれる4つの寺院がある。
その神社・寺院を順に紹介してみよう。

まずは尉殿神社、新川の北方、数百メートルの場所にある。
谷戸・宮山(現在の田無第二中学校付近)の尉殿大権現から、元和8年(1622)、
分祀され、上保谷村の鎮守として創建された。
(尉殿大権現はその後、青梅街道沿いに遷座、明治期に田無神社と改める)
祭神は級長戸辺命で、水の神として祀られたという。
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次に紹介するのは四軒寺の一つ、真言宗の慈光山宝樹院
他の寺院から南へ数百メートル離れ、南支流の西側、泉町2丁目にある。
創建年代は不明だが、源空法印(1711年寂)の開山と伝えられる。
江戸初期の寺院本末制(各宗派の寺院を本山・末寺の関係に置くことで、統制
を図った制度)により、石神井の三宝寺(『石神井川2』参照)の末寺となった。
旧字上宿にあったが、昭和6年(1931)に移転した。
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次は金輪山宝晃院、北支流が本堂と墓地の間を横切っている。
創建年代は不明だが、明治維新までは前述の尉殿神社の別当寺を務めてい
たという。
境内には明和8年(1771)造立に水子地蔵菩薩立像があり、西東京市教育委
員会の説明板によればその4年前に幕府は堕胎と間引きを禁する法度を出して
おり、その頃の農民の困窮の様子も説明されている。
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その宝晃院から北東へ100メートルほど歩くと、曹洞宗の祥高山東禅寺がある。
保谷村由緒年代記によれば、文禄3年(1595)の創建とのこと。
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こちらの境内には、万延元年(1860)造立の六地蔵菩薩立像がある。(写真左
の赤い屋根の下)
檀家信徒が念仏講を結集して造立したものであるという。

そして、四軒寺の最後に紹介するのが、真言宗の如意輪寺
北支流と南支流が合流した後の新川に沿って、北側に境内が広がる。
創建年代は不明、四軒寺の中では最も規模が大きく、寺格も上に位置されて
いたという。
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境内には気になる物件があった。下の写真の赤い橋である。
南を流れる新川からは数十メートルほどの位置にポツリと存在する。
特に説明板もないため、この橋が実際に使用されたものなのかは不明であるが、
新川に架かる赤い橋を想像するのも悪くはない。
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《参考文献》
『白子川を知っていますか -水辺再生に向けて-』 白子川汚濁対策協議会編



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烏山川 3

東急世田谷線を越えた後、烏山川は更に東へと進む。
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その北側に曹洞宗の豪徳寺があり、訪れる人も多い。
世田谷城主吉良政忠が、文明12年(1480)に亡くなった伯母の菩提のために
城内に建立したと伝える小庵、弘徳院を前身とする。
当初は臨済宗の寺院であったが、天正12年(1584)に曹洞宗に改宗した。
寛永10年(1633)彦根藩世田谷領の成立後、井伊家の菩提寺となった。
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招き猫発祥の地とされ(他にも台東区の今戸神社や京都の伏見稲荷という説も
ある)、多数の招き猫が供えられている。
彦根藩第二代藩主・井伊直孝が鷹狩りの帰りに寺の前を通りかかった際、門前
で寺の飼い猫が手招きをし休憩をした。その後、雷雨に見舞われ、直孝は濡れ
ずにすんだという逸話から来ている。
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また豪徳寺内には、井伊家代々の墓所がある。
写真の墓は桜田門外の変で散った井伊直弼の墓であり、都史跡に指定されている。
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こちらは江戸名所図会に描かれた世田谷豪徳寺
豪徳寺
                      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

豪徳寺の東側にあるのが世田谷城阯公園
貞治5年(1366)、吉良治家により築城されたとされるが、定かではない。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めに伴い、世田谷城も廃城となる。
烏山川が大きく蛇行する地点の北の台地上に築かれ、川とその周辺の沼地を
利用した要塞であった。
南北120m、東西60mほどの郭を中央に据え、土塁に囲まれている。
豪徳寺も元々は世田谷城の一部であり、吉良氏館があったと推定されている、
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公園内には掘(空掘)と土塁の一部が残され、往年の世田谷城の一画を見ること
ができる。

ここで、吉良氏について簡単に触れておこう。
吉良氏は清和源氏・足利氏の一門で、鎌倉前期、足利家3代目当主、足利義氏
の子、吉良長氏およびその弟、吉良義継から出る。
長氏の系統は後に元禄赤穂事件で有名となった三河吉良氏、義継の系統は奥
州吉良氏と称する。
奥州吉良氏の流れをくむ吉良治家が世田谷の地に居館を構え、室町・戦国期を
通じて、吉良氏は足利氏御一家として家格の高さを誇った。
頼康の時代には小田原北条氏と縁戚関係を持つが、その子、氏朝の時代の天
正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻略に際して上総国生実(現千葉市)に逃
亡する。
関東が徳川氏の支配下に入ると、氏朝の子、頼久は上総国寺崎村(現千葉県
長生郡)に所領を移され、以降、旗本として幕末まで存続する。

烏山川緑道はS字を描く様に蛇行しながら進み、国士舘大学世田谷キャンパス
の中を突き進む。
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国士舘大学の南にあるのが、真言宗の青龍山勝国寺、吉良政忠の開基と伝え
られる。
薬師堂には木造の薬師如来立像が安置されており、吉良頼康のもとに北条氏か
ら嫁いできた室の持仏という。
胎内に天正20年(1592)修復の文書が見つかり、世田谷区の指定有形文化財
に指定されている。
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この辺りの緑道には、橋のモニュメントとともに、付近の地図を記した行き先案内
板があり、緑道を歩く人に優しい。
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松陰橋を右に曲がり、坂を上ったところにあるのが松陰神社、その名の通り、
吉田松陰(1830~1859)を祀る神社である。
吉田松陰は、安政の大獄により伝馬町牢屋敷(『竜閑川』参照)で刑死された
後、千住小塚原回向院に埋葬されたが、文久3年(1863)、高杉晋作や伊藤博
文らによって、長州毛利藩主毛利大膳大夫の所領で大夫山と呼ばれたこの地に
改葬された。
明治15年(1882)、松蔭門下の人々により、墓畔に社を築いたのが松陰神社の
始まりとなる。
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境内の墓所には吉田松陰の墓に隣接して、頼三樹三郎、小林民部などの烈士の
墓もある。
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前述した豪徳寺とは、歩いても十数分の距離しかない。
安政の大獄に関わった井伊直弼と吉田松陰が、僅か1kmほどの距離をおいて、
眠っていることになる。
至近距離に両者が埋葬された理由を何人かの関係者に尋ねたが、わからなかった。
ただ、奇しくも豪徳寺の地は井伊家の所領であり、こちらは毛利家の所領であった
ことは確かだ。

烏山川は世田谷線若林駅の北側で環七を越える。
そこには、若林橋の欄干の一部が残されている。
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行く手には三軒茶屋のキャロットタワーが見えてくる。
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こちらはキャロットタワーの展望台から眺めた烏山川緑道(写真中央)。
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烏山川の北には太子堂八幡神社がある。
創建年代は不詳、別当寺である円泉寺(後述)の縁起によれば、文禄年間(1592
~1596)とあるが、源義家が父頼義と共に朝廷の命をうけ陸奥の安倍氏征討に
向う途中、八幡神社に武運を祈ったと伝えられているという。
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やがて三軒茶屋近隣に差し掛かるが、その手前の目青不動教学院最勝寺)を
紹介しておこう。
慶長9年(1604)、玄応和尚の開基により江戸城紅葉山付近に建てられ、青山
南町を経て、明治41年(1908)当地に移された。
江戸五色不動の1つとされ、不動堂には慈覚大師・円仁の作とされる不動尊(非
公開)が安置されている。
不動尊はもともと。麻布谷町の観行寺の本尊であったが、同寺が廃寺となったこ
とにより、明治15年(1882)、最勝寺に移されたという。
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三軒茶屋の北側で、茶沢通りを越える。
世田谷有数の商業地域とあって、この付近では緑道を行き交う人も多い。
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その先の北側にある真言宗の寺院、円泉寺は玉川八十八ヶ所の第51番霊場
にもなっている寺院である。
文禄4年(1595)に建てられたもので開基は賢恵僧都という。
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境内には聖徳太子像を安置する太子堂があり、その草創はさらにさかのぼり、
南北朝時代末期にはならびに小堂(円泉寺の前身・円泉坊)が建てられていた
と推察されるという。
付近の地名である太子堂は、ここに由来する。
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また、明治4年(1872)、円泉寺境内に郷学所が設けられ、世田谷の教育発祥
の地となった。

緑道は玉川通りの北側を太子堂から三宿へと進んでいく。
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緑道沿いの左側にあるのが三宿神社
道路から林の中の参道を階段を上っていくので、烏山川と北沢川に挟まれた台地
を感じることができる。
明治維新後、廃寺となった多聞寺の跡地に創建されたと伝えられ、その多聞寺
の毘沙門天が受け継がれて祀られている。
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また、三宿神社の北側、多聞小学校付近には三宿城があったという。
残念ながら詳細は不明だが、前出の世田谷城の出城だったと言われている。

そして、烏山川は、北側から流れてくる北沢川と合流して終わる。
2つの河川が合流し、その先は目黒川となる。
現在は緑道の三叉路となっており、散歩やジョギングを楽しむ人や田園都市線
の池尻大橋駅への往来をする人で賑わう。
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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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