東急世田谷線を越えた後、
烏山川は更に東へと進む。

その北側に曹洞宗の
豪徳寺があり、訪れる人も多い。
世田谷城主吉良政忠が、文明12年(1480)に亡くなった伯母の菩提のために
城内に建立したと伝える小庵、弘徳院を前身とする。
当初は臨済宗の寺院であったが、天正12年(1584)に曹洞宗に改宗した。
寛永10年(1633)彦根藩世田谷領の成立後、井伊家の菩提寺となった。

招き猫発祥の地とされ(他にも台東区の今戸神社や京都の伏見稲荷という説も
ある)、多数の招き猫が供えられている。
彦根藩第二代藩主・井伊直孝が鷹狩りの帰りに寺の前を通りかかった際、門前
で寺の飼い猫が手招きをし休憩をした。その後、雷雨に見舞われ、直孝は濡れ
ずにすんだという逸話から来ている。

また豪徳寺内には、井伊家代々の墓所がある。
写真の墓は桜田門外の変で散った井伊直弼の墓であり、都史跡に指定されている。

こちらは
江戸名所図会に描かれた
世田谷豪徳寺。
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)豪徳寺の東側にあるのが
世田谷城阯公園。
貞治5年(1366)、吉良治家により築城されたとされるが、定かではない。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めに伴い、世田谷城も廃城となる。
烏山川が大きく蛇行する地点の北の台地上に築かれ、川とその周辺の沼地を
利用した要塞であった。
南北120m、東西60mほどの郭を中央に据え、土塁に囲まれている。
豪徳寺も元々は世田谷城の一部であり、吉良氏館があったと推定されている、

公園内には掘(空掘)と土塁の一部が残され、往年の世田谷城の一画を見ること
ができる。
ここで、吉良氏について簡単に触れておこう。
吉良氏は清和源氏・足利氏の一門で、鎌倉前期、足利家3代目当主、足利義氏
の子、吉良長氏およびその弟、吉良義継から出る。
長氏の系統は後に元禄赤穂事件で有名となった三河吉良氏、義継の系統は奥
州吉良氏と称する。
奥州吉良氏の流れをくむ吉良治家が世田谷の地に居館を構え、室町・戦国期を
通じて、吉良氏は足利氏御一家として家格の高さを誇った。
頼康の時代には小田原北条氏と縁戚関係を持つが、その子、氏朝の時代の天
正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻略に際して上総国生実(現千葉市)に逃
亡する。
関東が徳川氏の支配下に入ると、氏朝の子、頼久は上総国寺崎村(現千葉県
長生郡)に所領を移され、以降、旗本として幕末まで存続する。
烏山川緑道はS字を描く様に蛇行しながら進み、国士舘大学世田谷キャンパス
の中を突き進む。

国士舘大学の南にあるのが、真言宗の
青龍山勝国寺、吉良政忠の開基と伝え
られる。
薬師堂には木造の薬師如来立像が安置されており、吉良頼康のもとに北条氏か
ら嫁いできた室の持仏という。
胎内に天正20年(1592)修復の文書が見つかり、世田谷区の指定有形文化財
に指定されている。

この辺りの緑道には、橋のモニュメントとともに、付近の地図を記した行き先案内
板があり、緑道を歩く人に優しい。

松陰橋を右に曲がり、坂を上ったところにあるのが
松陰神社、その名の通り、
吉田松陰(1830~1859)を祀る神社である。
吉田松陰は、安政の大獄により伝馬町牢屋敷(『
竜閑川』参照)で刑死された
後、千住小塚原回向院に埋葬されたが、文久3年(1863)、高杉晋作や伊藤博
文らによって、長州毛利藩主毛利大膳大夫の所領で大夫山と呼ばれたこの地に
改葬された。
明治15年(1882)、松蔭門下の人々により、墓畔に社を築いたのが松陰神社の
始まりとなる。

境内の墓所には吉田松陰の墓に隣接して、頼三樹三郎、小林民部などの烈士の
墓もある。

前述した豪徳寺とは、歩いても十数分の距離しかない。
安政の大獄に関わった井伊直弼と吉田松陰が、僅か1kmほどの距離をおいて、
眠っていることになる。
至近距離に両者が埋葬された理由を何人かの関係者に尋ねたが、わからなかった。
ただ、奇しくも豪徳寺の地は井伊家の所領であり、こちらは毛利家の所領であった
ことは確かだ。
烏山川は世田谷線若林駅の北側で環七を越える。
そこには、
若林橋の欄干の一部が残されている。

行く手には三軒茶屋のキャロットタワーが見えてくる。

こちらはキャロットタワーの展望台から眺めた烏山川緑道(写真中央)。

烏山川の北には
太子堂八幡神社がある。
創建年代は不詳、別当寺である円泉寺(後述)の縁起によれば、文禄年間(1592
~1596)とあるが、源義家が父頼義と共に朝廷の命をうけ陸奥の安倍氏征討に
向う途中、八幡神社に武運を祈ったと伝えられているという。

やがて三軒茶屋近隣に差し掛かるが、その手前の
目青不動(
教学院最勝寺)を
紹介しておこう。
慶長9年(1604)、玄応和尚の開基により江戸城紅葉山付近に建てられ、青山
南町を経て、明治41年(1908)当地に移された。
江戸五色不動の1つとされ、不動堂には慈覚大師・円仁の作とされる不動尊(非
公開)が安置されている。
不動尊はもともと。麻布谷町の観行寺の本尊であったが、同寺が廃寺となったこ
とにより、明治15年(1882)、最勝寺に移されたという。

三軒茶屋の北側で、茶沢通りを越える。
世田谷有数の商業地域とあって、この付近では緑道を行き交う人も多い。

その先の北側にある真言宗の寺院、
円泉寺は玉川八十八ヶ所の第51番霊場
にもなっている寺院である。
文禄4年(1595)に建てられたもので開基は賢恵僧都という。

境内には聖徳太子像を安置する太子堂があり、その草創はさらにさかのぼり、
南北朝時代末期にはならびに小堂(円泉寺の前身・円泉坊)が建てられていた
と推察されるという。
付近の地名である太子堂は、ここに由来する。

また、明治4年(1872)、円泉寺境内に郷学所が設けられ、世田谷の教育発祥
の地となった。
緑道は玉川通りの北側を太子堂から三宿へと進んでいく。

緑道沿いの左側にあるのが
三宿神社。
道路から林の中の参道を階段を上っていくので、烏山川と北沢川に挟まれた台地
を感じることができる。
明治維新後、廃寺となった多聞寺の跡地に創建されたと伝えられ、その多聞寺
の毘沙門天が受け継がれて祀られている。

また、三宿神社の北側、多聞小学校付近には三宿城があったという。
残念ながら詳細は不明だが、前出の世田谷城の出城だったと言われている。
そして、烏山川は、北側から流れてくる
北沢川と合流して終わる。
2つの河川が合流し、その先は
目黒川となる。
現在は緑道の三叉路となっており、散歩やジョギングを楽しむ人や田園都市線
の池尻大橋駅への往来をする人で賑わう。
より大きな地図で 【川のプロムナード】北沢川・烏山川周辺マップ を表示