和泉川(笹塚支流) 1

杉並区和泉に端を発して、甲州街道の北側を流れ、菖蒲橋下流で神田川に合流する
和泉川、全区間が暗渠である。
アクセスが良くて歩きやすく、また暗渠に漂う独特な雰囲気も味わえるために、暗渠愛
好家には人気がある。

この和泉川、正式な名称ではない。神田川笹塚支流とも称されるが、ここでは和泉川
という通称名を用いて紹介していくこととする。

なお、 tokyoriverさんが詳細な記事を書かれているので併せてご一読頂きたい。

和泉川はその中流まで、北側と南側の2本の支流が並行して流れていた。
その上流部は環七の西、和泉1丁目付近から確認することができる。
写真は南側流路の上流付近、京王線代田橋付近の甲州街道から北の住宅地へと入
っていくと、小さな谷があり、そこには水路跡の暗渠道が東西方向に走っている。
明治期や大正期の地形図をみると、「谷戸」という地名が表記されている。
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東へと向かって南側流路の暗渠道を辿ると、和泉明店街という商店街を横切る。
沖縄タウンとして有名な商店街であり、沖縄の名産物を売る商店や飲食店が立ち
並ぶ。
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もともとはどこにでもある普通の商店街であったが、寂れた商店街を活性化する
ために、『沖縄』を町興しのテーマとして平成17年に沖縄タウンとしてオープン
した。

その沖縄タウンを通り過ぎ、環七の手前まで来ると、マンホール銀座ともいうほど
にマンホールが続く通路へとつながる。
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こちらは北側流路の開渠、北側流路は住宅の裏手を流れているが、環七の泉南
交差点の西側にある自動車ディーラーの脇ではこのような光景を目にすることが
できる。
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もう一つ、和泉川には京王線の南側から流れる支流がある。
再度、明治期・大正期の地形図を見ると、「荻久保」という地名を確認できる。
京王線の南側に並行する道路との交差部には、写真のようなコンクリート蓋を
見ることができる。
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この支流には、玉川上水の幡ヶ谷分水が流れ込んでいたという。。
幡ヶ谷分水は笹塚駅近くで取水され、東から西へと流れ、環七と甲州街道が交
差する大原交差点付近でこの支流に合流していた。
玉川上水の流水方向が他とは逆方向であったため「逆さ川」とも呼ばれていた
という。
現在の甲州街道沿いに流れていたため、その痕跡を追うことはできないが、笹
塚駅付近の玉川上水にはその分水口がある。
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この幡ヶ谷分水については、その取り入れに際しての逸話が『幡ヶ谷郷土誌』に
紹介されている。
幡ヶ谷分水の取水口は五寸四方という小さなものであった。
当初はそれで事足りたが、水田面積が広がるに伴い、用水は不足するようになった。
また徳川時代には玉川上水からの取水は厳しく規制され、それを破ることは重罪
に値したが、明治期に入り所管が変わると、農民達は取水口を拡張し、検査時の
み元に戻すという策を繰り返した。
しかしながら、やがて検査官の知る所となり、コンクリートで規定の寸法に固めら
れてしまう。
すると農民達は知恵を絞り、次の手を考える。
玉川上水新水路(後述)の建設に伴い、弁天社を移転する必要が生じたが、取水
口付近へと移し、弁天様の池と称して池沼を作った。
当然のことながら湧水は無かったが、夜陰に乗じて上水と連絡させる横孔を掘り、
あたかも水が湧き出たように見せかけ、弁天池からの水を用水路へとつなげたという。

支流は甲州街道と交差し、さらに北上する。
このような細い支流であるが、杉並区と渋谷区の境界線となっており、興味深い。
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和泉川は荻久保の支流を合流し、水道道路の北側を東へと進む。
写真右に見える道路は水道道路、玉川上水の水を淀橋浄水場へ引き込む水路と
して造られた玉川上水新水路で、明治31年(1898)に竣工、昭和12年(1937
)まで使用され、その後道路に転用された。
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この先、北側水路は一般道を進むことになるので、南側水路の暗渠道を進む
ことにしよう。
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南側水路にはかつての橋の欄干も残されている。
その欄干には堺橋と書かれている。
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その先、富士見丘高校に行く手を遮られるが、十号坂通りの先、再び暗渠道を
辿ることができる。
区立笹塚中学の北側に沿って道は続き、そこには石垣も見ることもできる。
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和泉川は笹塚の北側を通り、やがて中野通りに達する。

《参考文献》
『幡ヶ谷郷土誌』 幡ヶ谷を語る会編


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蛇崩川 2

玉川通りを越えて、更に蛇崩川緑道は続く。
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緑道脇にあった狸の地蔵。
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緑道の北側、下馬2丁目には真言宗の日輪山西澄寺がある。
天正2年(1574)、隆向和尚が紀伊国高野山釈迦院より下錫して開山したと言わ
れる。
江戸末期から明治初期にかけては無住となって荒廃しかけたが、明治25年(18
92)三田村慧荘和尚が入山して寺を復興させた。
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山門は、港区芝にあった阿波徳島藩主蜂須賀家の中屋敷門を大正末頃に移築し
たもの。
江戸末期の建築と推定され、東京に残る数少ない武家屋敷門として、東京都指定
有形文化財に指定されている。
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蛇崩川に戻り緑道を歩いていくと、突然、赤い神橋があらわれる。
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右手には鳥居があり、その先の階段を上っていくと、舌状台地の上に駒繋(こま
つなぎ)神社がある。
世田谷区教育委員会の掲示によると、天喜4年(1056)、源頼義、義家父子が
奥州征伐(前九年の役)の際にその武運を祈ったと伝えられているという。
また、文治5年(1189)源頼朝が奥州の藤原氏征伐のおり、祖先義家が参拝し
たことを偲び、愛馬芦毛を境内の松の木につないで参拝したとのいい伝えから、
明治以降駒繋神社と称するようになった。
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緑道には色とりどりの花が咲いており、近隣住民の方々の散策道として機能して
いる。
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さらには、下馬五丁目の住宅街の道路の真ん中に葦毛塚という史跡がある。
源頼朝が葦毛の馬に乗ってこの地を通ったとき、その馬が何かに驚いて沢に落ち
こんで死んだという。
また、一説には鎌倉時代、この地の領主であった北条左近太郎が仏経をもって出
かけた際に、その葦毛の馬が突然倒れたため、この地に埋めたともいう。
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この付近で蛇崩川は世田谷区から目黒区へと入っていく。
そしてその先、祐天寺方面から支流が合流する。
その祐天寺支流(仮)は、東急東横線の祐天寺駅の南、五本木2丁目付近から
確認することができる。
東横線の東側から西へと移動すると、その先、住宅街の中を細い暗渠道が続く。
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やがて暗渠道は、蛇崩川支流緑道と称する緑道となる。
さすがに本流と比べると、緑道の幅は狭い。
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蛇崩川は祐天寺支流と合流すると、目黒川が形成したと思われる谷を下っていく。
開渠の頃は、水流が勢いよく下っていたのだろうか。
この付近になると、中目黒駅付近へ往来する人々で緑道の通行量は多くなる。
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緑道を下っていくと、その先は直線の道路となり、前方に東横線の高架が見え
てくる。
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川の暗渠は東横線と交差した後、東横線の東側に沿って目黒川へ向かって進む。
現在、暗渠の上は駐輪場として利用されている。
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山手通りの先、中目黒駅の東で蛇崩川は目黒川と合流している。
大きな口を開けているが、それに比べて水量は少ない。
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しかしながら、ひとたび大雨になると、蛇崩川からの流れは濁流と化す。
昨年、目黒川の氾濫が危ぶまれた際、テレビのニュースでこの付近が映ったが、
その時の映像は、普段の水量とは比較にならないものであった。
暗渠となってしまった蛇崩川であるが、川は今でも生きているのである。


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蛇崩川 1

蛇崩川は、世田谷区弦巻付近を水源として、上馬、下馬などを通り、中目黒へと
達する目黒川の支流である。
全区間が暗渠であるが、その殆どは緑道となっており、迷わずに歩くことができる。

蛇崩(じゃくずれ)の由来は、目黒区のサイトによると、昔、大水の際、崩れた
崖から大蛇が出たことによる(「新編武蔵風土記稿」)という。
また、砂崩(土堤崩をいう古語)が、「じゃくずれ」に転化し、付近を流れる蛇
行屈曲した川の状態から、「蛇崩」の文字を当てたという説もある。
明治22年(1889)から昭和7年(1932)までは、目黒村大字上目黒の字名とし
ても使用されていた。

蛇崩川の谷頭は、馬事公苑の東、弦巻5丁目のJRA弦巻公園付近となる。
また馬事公苑の脇には品川用水が通っており、その品川用水からに引水もあった
と言われている。
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車道より一段下がった歩道、水路跡と思われる通路も見ることができる。
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数百メートルほどいくと大山道と交差する。
大山道との交差部にある小公園には、大山道を行く旅人の銅像が設置されている。
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その脇にある説明板によれば、大山道は赤坂見附から青山、世田谷、二子、溝ノ
口、長津田、伊勢原を経て大山に達する道であるという。
元々は雨乞いのために雨降り山とよばれる大山に参詣する大山詣であったが、
次第に信仰は口実となり、帰りに東海道へ出て江ノ島や鎌倉で遊ぶ物見遊山の
旅に変化していったという。

蛇崩川はその小公園の右側を通り、ここからは歩行者道となっている。
但しその先には、東急バスの弦巻営業所があり、迂回を強いられる。
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その北側にあるのは、曹洞宗の鶴松山実相院
天正16年(1588)の創建で、開山は天永琳達大和尚、開基は世田谷城主の吉良
氏朝とも、子の頼久ともいう。
吉良氏朝は天正18年(1590)、小田原北条氏の滅亡に際し上総国に逃亡、徳川
家康が江戸入府後、再び世田谷に帰ったが、世田谷城は廃城となり、この地に閑
居した。(『烏山川3』参照)
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バス営業所の向かい側から蛇崩川緑道が始まる。
緑道はこの先、世田谷区から目黒区にかけて続き、下流の中目黒手前まで達する。
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緑道沿いにある説明板によると、かつて蛇崩川には56本の橋が架かり、下流の
下馬には、水輪の直径が3.6mの大きな水車があったとのことである。

車止めなどに水道管のオブジェが取り入られ、ユニークである。
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緑道の南側に弦巻神社がある。
創建年代は不詳、「新編武蔵風土記稿」(天保元年刊行)には、「それぞれ小さな
祠で、村民の持ちである。そのはじまりは、年月不詳である。」と記されていると
いう。
明治41年(1908)、弦巻1丁目の向天神社と同4丁目の八幡社を合祀し、現在に
至る。
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蛇崩川はもう1つ、桜新町2-14付近から始まる流れがある。
こちらは歩道化された道路が住宅街の中を続くだけだが、交差する道路を見ると、
ここが僅かに凹んだ地形となっていることがわかる。
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2つの流れは、弦巻中学校西交差点付近で合流し、弦巻通り沿いに600mほど、
東進する。
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その後、左に折れて、再び歩行者専用道となる。
北沢川や烏山川もそうだが、世田谷区内の緑道は整備が行き届いており、清々し
く歩くことができる。
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駒留陸橋で環七と交わるが、その北には駒留八幡神社がある。
徳治3年(1308)、当時この地の領主であった北条左近太郎入道成願が社殿を
造営し、経筒を納め駒留八幡としたという。
その後、世田谷城主吉良頼康は、その子の追福のため、八幡宮に一社相殿とし
て祀り若宮八幡と称した。
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環七を越えて、更に緑道が続く。
車止めには旧橋名の駒留橋の文字が掲げられている。
蛇崩川は、ここから大きくと右へカーブしていく。
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カーブした先、今度は玉川通り(国道246号線)と交差する。
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その玉川通りを渡った先に、小さな祠の伊勢丸稲荷神社がある。
境内には昭和7年に書かれた由緒板があり、それによると江戸時代初期、上馬の
広尾祥雲寺(『渋谷川2』参照)の所有地内に村民持の稲荷神社として発足、祥雲
寺稲荷神社と呼ばれていた。
明治に入ると伊勢の森天祖社に合祀するが、その天祖社が駒留八幡神社に併合
される際に、伊勢丸稲荷神社として改称・独立、さらに大正15年にこの地に移転
したとされる。
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宇田川 松濤支流(仮)

渋谷区松濤地区を流れる宇田川の支流、もともとは渋谷区立鍋島松濤公園内にある
池の自然湧水が源流となって宇田川に流れる小河川であったが、後に三田用水から
の取水による分水(三田用水神山口分水)が開削され、池に流れ込むようになった
という。
もともとの鍋島松濤公園からの流れには特に名称はないため、当ブログでは宇田川
松濤支流(仮)と称することにする。

さて、今回は三田用水神山口分水から追うことにする。
三田用水からの取水口である神山口は、現在の山手通り沿いにある、
ちょうどその付近は三田用水の遺構がある辺りだが、残念ながら取水口の跡は見当
たらない。
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神山口分水は現在の松濤2-3付近から、北西方向へ流れていたようだ。
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その先を右に曲がり、松濤の住宅街の中を進んでいく。
直線の道路を進むと、その先で鍋島松濤公園に突き当たる。
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鍋島松濤公園内はスリバチ状の谷となっており、その中心に池がある。
水車小屋を再現したものも建てられており、憩いの場となっているとともに、子供
たちの良き遊び場ともなっている。
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この付近には江戸期には紀州徳川家下屋敷があった。
明治初期に旧佐賀藩主の鍋島家がこの一帯の払い下げを受け、明治9年(1890)、
狭山茶を移植、「松濤園」と称する茶園を開園した。
しかしながら、交通の発達により静岡産の茶などが入り、明治37年(1904年)に
は廃園、以後、鍋島農場として農地兼牧場となる。
その後、大正期に入ると宅地化が進んでいき、現在に至る。
水路は流域の水田を潤すために流れていたが、参考とさせて頂いた『「春の小川」
はなぜ消えたか』によれば、明治末期から大正にかけて、何度が流路変更が行わ
れたといい、大正14年以降、宅地化に伴って一部が暗渠化されたようだ。

なお、松濤という地名は「松濤園」に由来するものであり、茶の湯の釜のたぎる音
を松風と潮騒に例えた雅号によるものである。

池からの流れと分水は、公園を出た辺りで合流していたようだ。
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この先、京王井の頭線の神泉駅の南側から神泉支流(仮)が合流していた。
その神泉駅付近一帯は深い谷となっており、井の頭線は駅の渋谷寄りの踏切を挟んで
渋谷隧道と神泉隧道の2つのトンネルで、周囲の台地の下を通る。
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神泉という地名は、『江戸砂子』(享保17年(1732)万屋清兵衛刊)に「此処に湧
水あり、昔空鉢仙人此谷にて不老不死の薬を練りたる霊水なる故斬く名付しと言ふ」
とあり、空鉢仙人がこの湧水(霊水)で不老不死の薬を練ったことが由来とされる。
また、弘法大師が杖を突いて水を湧かせたという弘法大師伝説もある。

かつて当地には弘法湯という浴場があった。この浴場は昭和54年(1979)に廃業す
るが、最後まで湧水を利用していたという。
駅前には弘法湯の案内碑(上の写真左側および下の写真)が残っており、「弘法大師・
右神泉湯之道」の文字が刻まれている。また脇をみると、明治19年(1886)の文字
も読み取れる。
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水路は井の頭線の渋谷隧道の坑口脇を流れていたらしい。
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その先は一般道が続く。
道脇は崖となっており、細い水路が気の遠くなるような年月をかけて谷を形成して
いったことが想像できる。
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2つの流れが合流した後、東急文化村・東急本店の方向へと進む。
その文化村手前の水路跡の道はカラーレンガが敷き詰められている。
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松濤支流は、かつては文化村や東急本店の敷地内を通り抜けていた。
そこには大向小学校という小学校があり、古い地形図を見ると、百貨店脇の通り
(宇田川本流の西に並行する道路)には橋の地図記号がある。
さらに宇田川本流跡へ向かう小道は下り坂となっているが、これは百貨店建設時、
盛土を施したためかもしれない。
その坂を下った箇所で、松濤支流は宇田川本流へと合流する。
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《参考文献》
『「春の小川」はなぜ消えたか』 田原光泰著 (之潮 刊)


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《番外編》 仙川桜ガイド

仙川は小金井市から流れる河川であるが、上流域は殆ど水が流れない。
このガイドでは仙川に水が流れる野川宿橋からを追ってみる。

◆ 野川宿橋~京王線橋梁
人見街道の野川宿橋脇に水循環施設があり、そこから放流されている。
川岸には菜の花が咲き乱れ、春を感じさせてくれる。
菜の花は、この先も仙川の河川敷に続く。
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東八道路と交差し、左へとカーブすると、その先に仙川公園、そして丸池公園
(上流部)があるが、川沿いに桜並木が続く。
公園内はそれなりのスペースがあり、グループや家族連れがビニールシートを
敷いて花見を楽しんでいる。
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丸池公園の下流部にも数本の桜がある。
菜の花とのコントラストが綺麗である。
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丸池公園を過ぎると、しばらくの間、桜は殆ど見られない。
中央高速と交差後、更に進むと、右手に東部下水処理場があり、その敷地沿いに
桜が植えられ、桜並木を見ることができる。
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その先は、所々に点在する程度となる。
弁天橋手前には、川に枝を垂れ下げている老木もあり、見事である。
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京王線の橋梁手前の左岸には枝垂桜がある。
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◆ 京王線橋梁~小田急線橋梁
京王線の橋梁を過ぎると、その先、学校や幼稚園、マンションなどに桜を見るこ
とができる。
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祖師谷中橋の先、駒大野球部のグラウンド沿いにある桜並木。
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そのグラウンドの先、宮下橋からは祖師谷公園に入る。
川沿いだけではなく、公園内いっぱいに見事な桜が広がり、多くの花見客で賑わう。
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ここの桜は明治45年(1912)、尾崎東京市長が友好のためにワシントンへ贈っ
た桜の苗木を平成2年に栽植したもので、いわゆる里帰りをした桜であるという。

周辺の自治会が主体となる桜祭りも開かれ、近隣住民が弁当などを広げて、春
の休日を楽しむ。
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公園を抜け、鞍橋から下流には枝垂桜も植えられている。
桜並木とまではいかないが、徐々に川沿いの桜も増えてくる。
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仙川はその先、成城学園の敷地の中を流れていく。
川に面したグラウンド脇にも桜が植えられている。
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小田急線橋梁手前には、見事な桜が川に枝をのばしている。
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◆ 小田急線橋梁~野川合流部
小田急線橋梁から500mほど行った打越橋から、東宝スタジオ脇の桜並木が
始まる。
ここは、仙川流域の中でも、桜の名所として知られる場所でもある。
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川の両岸にはスタジオや住宅展示場などの敷地が迫っているため、ここでは川
沿いの遊歩道を歩いて楽しむスタイルとなる。
仙川には所々に段差があるため、静寂の中に水音が響き渡る。
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そしてこの区間では、夜間にライトアップが行われており、それも桜の名所として
ここが有名な理由でもある。
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夜桜をみながら散歩を楽しみ、また途中の橋の上では多くの人が夜桜にレンズを向
ける光景が見られる。
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世田谷通りの先は、再び所々に桜が見られる程度となってしまう。
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鳥居田橋の下流、100メートルほどの区間、遊歩道沿いに桜が見られるが、それ
が仙川沿いの最下流の桜であり、その先、多摩堤通りに達すると仙川は野川に合流
する。
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リバーサイド

Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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