渋谷川(下流は古川と称する)は新宿4丁目にある天龍寺付近を水源とし、渋谷
・広尾・麻布を経て、浜崎橋付近で東京湾に注ぐ二級河川である。
渋谷駅の南にある稲荷橋より上流側は暗渠となっている。
宇田川、いもり川などの支流を持ち、天現寺橋で笄川を合流するとその名を古川
と変えて河口を目指して流れていく。
渋谷川の源流とされる
曹洞宗天龍寺は、明治通り沿いにあり、新宿南口の甲州
街道との交差点から数十メートルのところにある。
前身は遠江国の法泉寺とされ、戸塚忠春の菩提寺であったが、その娘の西郷局
(於愛の方)が徳川家康の側室となったことから、家康の江戸入城の翌年の天正
19年(1591)、江戸の牛込に移され、名を天龍寺と改めた。
しかしながら天和3年(1683)牛込の火事で類焼、この地へ移転する。

写真右手奥に見えるのは「
時の鐘」、元禄13年(1700)牧野備後守成貞により
寄進されたもので、内藤新宿に時刻を告げた。
現在の鐘は三代目で明和4年(1767)の鋳造である。
説明板の記載によると、天龍寺の時の鐘は、内藤新宿で夜通し遊興する人々を
追い出す合図であり「追出しの鐘」として親しまれ、また江戸の時の鐘のうち、ここ
だけが府外であり、武士も登城する際時間がかかったことなどから30分早く時
刻を告げたという。
上野寛永寺・市ヶ谷八幡とともに江戸の三名鐘と呼ばれた。
天龍寺境内には、かつて池があったようだが、現在は確認できない。
但し、井戸があり地下水が豊富なようである。
天龍寺を流れ出た渋谷川は、
新宿御苑を北西から南東へと横断する。
新宿御苑は、元は信濃高遠藩内藤家の下屋敷の地であった。
天正19年(1591)、譜代家臣の内藤清成が徳川家康より拝領、安政元年(1772)
には玉川上水の余水を利用して、日本庭園を完成させている。
渋谷川のルートは上の池から下の池に向かっていた。

こちらは渋谷川が御苑から出てくる箇所、千駄ヶ谷駅の北東にあたる。

渋谷川の水源としては、もう1つ
玉川上水の
余水吐がある。
羽村から流れてきた玉川上水(承応2年(1653)完成)の水は四谷大木戸(現在
の四谷四丁目交差点付近)に設けられた水番所に達し、ここから江戸市中へは、
地中を石樋もしくは木樋で水を供給していた。
しかしながら、玉川上水の水量が江戸への供給量を上回る場合は、余水として
水を渋谷川に落としていた。
下の写真は新宿御苑の大木戸門にある説明板に掲載されていた古地図である。
写真右側の水路が玉川上水、下の水路が余水吐である。

その余水吐の跡地は新宿御苑の東側に沿って残っている。
かなりの幅があり、玉川上水完成後は、どちらかといえば余水吐のほうが水量
が多かったことだろう。

御苑沿いの余水吐の東側に、
多武峯内藤神社がある。
もとは内藤家の屋敷神で、江戸時代初期に内藤清成が家祖である藤原鎌足公
を祀り、また藤原氏の氏神である奈良の春日大社より分霊を歓請し、合祀した
ことに始まるとされる。
明治19年(1886)、新宿御苑から当地に移設されている。

境内には駿馬塚の碑がある。
清成が拝領する際に、家康より、「馬がひと息で駆けめぐるほどの土地をお前
に与える」と言われ、南は千駄ケ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を走
り、領地を得た。しかし、その白馬は疲れ果てて死んだため、大樫の下に埋め
られたという逸話が残っている。
余水吐は、大京町交番付近で外苑西通りに出てくる。
ここまで、跡地は草叢となって続いている。
おそらくは都有地であろうが、都心にあって道路や公園に転用することもなく
残る不思議な空間である。

外苑西通りで交差し、その先に回りこむと
大番児童遊園に出てくる。
遊園内には象やライオンなどの遊具があり、暗渠ファンには馴染みの場所だ。
この大番児童遊園付近で、天龍寺からの流れと余水吐は合流する。

JR中央線には、かつて渋谷川が交差していた場所にレンガ造りの橋梁跡が
残っている。
写真中央の黒ずんだ部分がかつての流路である。

その先は外苑西通りの東側に沿って南下し、国立競技場前を通る。
渋谷川が暗渠となった契機は、東京オリンピックであり、当時、生活排水化
されていた渋谷川を文字通り「臭いものには蓋」としてしまったのである。

2020年の東京五輪に向けて国立競技場も改築されるが、その頃にはこの辺り
の風景も一変するだろう。
その先の右側に日蓮宗の
仙寿院がある、
寺院の下を道路がトンネルで通り抜けているので、寺の場所が判る方も多いで
あろう。
徳川家康の側室で、紀伊徳川家の祖である徳川頼宣の生母のお萬の方の発
願により、正保元年(1644)里見日遥を開山として創建された。
そのため、江戸期には、紀伊徳川家、伊予西条松平家の菩提寺祈願所として、
十万石の格式をもって遇せられ、新日暮里(しんひぐらしのさと)と呼ばれる
名所として知られていたという。
しかし明治維新の変革によって衰微し、明治19年の火災により全山焼失、
その後、戦災を経て、さらには東京オリンピックの道路工事により一変し、
現在に至っているという。

外苑西通りが青山に向かって上り坂となる手前、渋谷川は右手に折れる。
川跡は現在、道路となっているが、蛇行する形状が、かつての川を彷彿とさせる。

この道を辿っていくと、交差点脇に
原宿橋の親柱が残されている。
コンクリートで上塗りされて保護されているが、親柱には昭和九年の文字が
書かれている。

その原宿橋から数十メートル進んだ辺りに「村越の水車」と呼ばれる水車が
あったという。
水車は渋谷川にいくつか点在し、精米などに使用されていたらしい。

葛飾北斎の富嶽三十六景の1つに
穏田の水車という浮世絵がある。
ただ、描かれた水車が、どの水車なのかは定かではない。

なお穏田というのは、この先、表参道の南側一帯の旧地名であり、その地名
に由来して、宇田川との合流部以北を穏田川と呼んでいた。
(家康が伊賀忍者一族をこの付近に住まわせ、忍者の隠れ里ということから
「隠田」、転じて「穏田」となったという。)
渋谷川筋の道は、裏原宿のキャットストリートと呼ばれる通りとなる。
通り沿いにはブティックや飲食店などが立ち並び、多くの若者で賑わう。

表参道を横断し、キャットストリートは更に渋谷方面へと続く。
途中、細い道が左へと別れるが、これは渋谷川の旧流路跡である。

その先には
穏田橋の親柱があるが、保存という域を越えて、モニュメント化
されてしまっている。
とは言え、このストリートを歩く人々に、ここにかつて川であったことを教えて
くれることだろう。

通りの東側の高台にあるのが
穏田神社。
創建年代は不詳、江戸時代には第六天社と称し、穏田村の鎮守社であった。
明治以降、穏田神社と社号を改めた。

若者で賑わうキャットストリートから僅か50mほど入った場所であるが、
境内では静寂が味わえる。
渋谷川は明治通りと交差し、宮下公園脇を進む。
現在は、バイクの駐車場となっている。

この地で、支流の
宇田川を合流する。
宇田川は渋谷区西原にある国際協力機構(JICA)東京国際センター内に
ある池などを水源とし、代々木八幡付近を経由してこの地で渋谷川に流れ
出ていた河川で、唱歌「春の小川」のモデルとなったと言われる河骨川な
どを支流に持つ。
そして渋谷川は渋谷駅東口に達する。
かつては東急東横店東館の下を流れており、その為にエスカレータの一階
の乗り場は、階段を数段上ったところにあった。
現在は渋谷の再開発が行われており、東口バスターミナルの暗渠が開口
されていた。
渋谷川の暗渠はバスターミナルの中央付近に移設され、東急東横店跡地
には高層の大型商業施設が建てられる予定である。
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