宇田川

渋谷川の支流、宇田川は渋谷区西原2丁目などを水源とし、初台川、河骨川など
を合流し、渋谷駅の北で渋谷川に注ぐ河川である。
現在では全区間が暗渠となっている。

西原2丁目にある国際協力機構(JICA)東京国際センターの庭園内にある
池や、隣接する製品評価技術基盤機構(NITE)の敷地内にその水源を見る
ことができる。
下の写真はJICA内の湧水池。(2010年訪問時に撮影)
ひっそりとした緑の中に滾々と湧き出ており、宇田川が開渠として流れ出ていた
当時の雰囲気を味わうことができる。
(対してNITE内の池は人工池のように整備されてしまっている)
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南側に位置する代々木大山公園を迂回して宇田川の水域へと向かう。
公園脇からは、10メートル以上はあると思われる谷へと下りていく。
この谷はかつては狼谷と呼ばれていた。
同様に代々木周辺には宇田川などの河川が作った谷が多くあり、代々木九十九谷
とも呼ばれていたという。
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直線的に続く道を南西へと辿っていく。
この道の下を下水道の宇田川幹線が通っている。
この辺りは昭和初期に宅地開発が行われ、直線的な道路が造られた。
今でも、静寂な住宅街が広がっている。
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もう一つの谷頭は代々木上原の南東、上原3丁目内にあったらしい。
水源と思われる谷の奥にはマンションが建てられてしまっているが、そこから
続く道路は代々木上原駅方向へと蛇行して進んでいく。
こちらも道路の両側は坂となって、谷形状の地形を実感できる。
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途中の道路脇の古い擁壁にあった排水口らしき痕跡、川に水を落としていた
のだろうか。
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2つの流れは小田急線の代々木上原駅の北側、西原児童遊園付近で合流する。
この児童遊園からは暗渠道が始まる。ようやく川跡らしき風景に出会ったと
いう感じだ。
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この辺りは、以前「底なし田んぼ」と呼ばれ、水田に入るには田下駄が必要
であったほどだったという。

西原児童遊園から始まる暗渠道は、代々木上原の北側を小田急線に沿って
東へと向かう。
駅付近では、近隣の方々の通路として利用されているようだ。
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家と家の間を縫うように、暗渠道は続いていく。
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この先、小田急線の線路にぶつかって暗渠道は終わるが、宇田川は小田急線
の南を流れ、代々木八幡駅で南東方向へと向きを変える。
駅東側の踏切付近では、北から流れてきた初台川と合流していた。

駅名ともなった代々木八幡宮は、駅北側の台地の上にある。
代々木八幡宮は建暦2年(1212)の創建、源頼家の側近、近藤三郎是茂の家来
であった荒井外記智明によって建立されたという。
頼家暗殺の後、智明は代々木の地に隠遁し、名も宗祐と改めて主君の菩提を弔
って暮らしていたが、ある夜、夢の中で八幡大神の託宣と宝珠の鏡を感得した。
これにより、小祠を建て、鶴岡八幡宮を勧請したのが始まりとされる。
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代々木八幡
江戸名所図会 代々木八幡宮  (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

境内には代々木八幡があり、石器時代住居が復原されている。
四千五百年ほど前の、石器時代中期を中心に栄えていたと考えられている。
昭和25年の発掘調査では、多数の遺物とともに、ロームを浅く掘りくぼめた
住居と、その中に掘られた柱穴を発見したという。
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幡ヶ谷丘陵の南方に突き出した半島の端に位置し、この前の低地は海の退きは
じめた沼のようなところだったと推定されている。
当時の古代人から見た風景はどのようなものだったのだろうか。

代々木八幡宮に隣接して天台宗福泉寺がある。
その位置関係からも判るように、八幡宮の別当寺であった。
創建は八幡宮と同じ建暦2年(1212)とされ、正保元年(1644)に浄土宗より
天台宗に改めた。
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上記の江戸名所図会にも、中央に「別当」として福泉寺が描かれている。

宇田川は代々木八幡駅の南から宇田川緑道という遊歩道に変わる。
遊歩道にはブロックが敷き詰められ、気持ちよく歩くことができる。
宇田川緑道の開始からすぐの場所で、支流の河骨川が左から合流する。
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車止めには「宇田川」の文字が掲げられている。
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緑道は渋谷へ向かって続いていくが、渋谷に近づくにつれ、人通りも多くなる。
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宇田川町へ入ると緑道は終わり一般道となるが、車道と歩道を分けるコンクリ
ートが暗渠の雰囲気をかもし出している。
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やがて、この道は宇田川交番付近で井の頭通りに合流する。
そして宇田川は西武百貨店のA館とB館の間を通り抜ける。
宇田川が暗渠として流れているために、A館とB館を結ぶ地下通路を造れなか
ったというのは有名な話である。
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JR線のガードを潜り、宮下公園に沿って北から流れている渋谷川と合流する。
現在、渋谷川との合流地点はバイクの駐輪場となっている。
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かつて宇田川は現在の宇田川交番辺りから南西へと進み、ハチ公前交差点を流れ
宮益橋脇(JR線ガード付近)で渋谷川に合流していた。
渋谷付近の浸水対策のため、昭和初期、現在のルートに付け加えられた。
センター街から井の頭通りへと向かう道は、緩やかな坂となっており、旧水路が
南側を流れていたことが納得できる。
現在、ハチ公前交差点は海外にも紹介されるほどの日本のビューポイントとなっ
ているが、宇田川が開渠のまま現存していたら、また違った光景があったかもし
れない。

《参考文献》
『「春の小川」はなぜ消えたか』 田原光泰著 (之潮 刊)


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古川

渋谷川は天現寺橋で、北から流れてきた笄川(こうがいがわ)と合流し、その名を
古川と変え、麻布方面へと流れていく。

麻布には寺が非常に多い。
これは南向きに広がる高台という立地の江戸期以前より、善福寺(後述)をはじめと
する寺が建てられたのに加え、江戸期には高台の武家地と低地の町人地の中間に
位置するという理由から、寺社地に指定されたためらしい。
麻布の寺社を全て紹介することはできないが、川沿いの寺社や有名な寺院を簡単に
紹介しながら、川を下っていくことにしよう。

まず始めに取り上げるのは、橋の名前にもなった臨済宗大徳寺派の多聞山天現寺
川の北にある天現寺橋交差点の一画にある。
小日向御箪笥町にあった普明寺を引継いで、享保4年(1719)現在地に移築して、
祥雲寺の良堂和尚により開山、名を多聞山天現寺と改めた。
八代将軍吉宗をはじめとして代々将軍家の御成があり、広尾の毘沙門堂として人々
の信仰を集めていた。
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天現橋の次に架かる狸橋、橋の右岸にはその名の由来を記した碑がある。
碑文には次のような面白い逸話が紹介されている。
むかし、橋の南西にそば屋があって子どもを背負い手拭をかぶったおかみさんに
そばを売ると、そのお金が、翌朝は木の葉になったといいます。麻布七ふしぎの
一つで、狸そばと呼んだのが、地名から橋の名になりました。ほかに、江戸城中
で討たれた狸の塚があったからともいっています。

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亀屋橋で右側から首都高速目黒線が近づき並走する。
この先の古川橋からは川の上部を首都高が覆い、中央環状線を含めて河口の浜崎
橋まで首都高の下を流れることになる。
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古川はもともと川幅が狭かったが、延宝4年(1676)、麻布十番辺りまで川幅を
広げ、通船可能とし、麻布付近での船荷の陸揚げを可能とした。(その区間を新
堀川・赤羽川とも称していた。)
さらには元禄11年(1698)、四之橋まで拡幅を行って通船可能となった。

また、歌川広重も名所江戸百景の1つ「広尾ふる川」に古川を描いている。
四之橋から上流方向を描いたものとされている。
江戸名所百景古川

五之橋の北側にあるのが臨済宗の慈眼山光林寺、延宝6年(1678)に松浦鎮信
が麻布市兵衛町(現在の谷町付近)に建立、元禄7年(1694)に現在地に移転し
てきた。
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光林寺にはオランダ人ヒュースケンの墓があり、港区の指定文化財となっている。
ヒュースケンはアメリカ総領事ハリスの通訳兼書記官として活躍したが、万延元年
(1860)、古川下流の中之橋付近にて攘夷派浪士に襲われて絶命する。
カトリック教徒のため土葬が必要であったが、江戸府内では土葬が禁止されていた
ため、府外の光林寺に埋葬された。

右岸の白金公園には小さいながらも親水広場がある。
上部には首都高があり眺望はよくはないが、川沿いを歩くことさえ殆どできない古川
において、このように川に接することができる場所は貴重だ。
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その先にあるのが真宗大谷派の金生山西福寺
麻布山善福寺の第14世住職准海師の弟以伝が、浄土真宗本願寺派より真宗大谷
派に転派し、開基として現在地に創建したという。
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川は古川橋で左へとカーブし、向きを北に転じる。
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二之橋の脇にあるのが常祐山圓徳寺、寛永元年(1624)に芝金杉に創建、宝永
3年(1706)にこの地に移転してきた。
NHKの『ブラタモリ-三田・麻布編-』でこの寺の墓地を通過するシーンがあった
ので、ご記憶の方もいるかと思う。
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麻布の寺院群の中心ともいうべき、麻布山善福寺は、その二之橋交差点を左折
し、数百メートルほど行った右側にある。
天長元年(824)、弘法大師(空海)が関東一円に真言宗を広めるために開山した
と言われる。
当初は真言宗であったが、鎌倉期、親鸞聖人が配流されていた越後から帰京する
際に当寺に立ち寄り、浄土真宗に改宗した。
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安政5年(1859)には、初代アメリカ合衆国公使館が寺院内に設けられ、総領事
ハリスらが在留した。
前述のヒュースケンの襲撃事件も、彼が赤羽接遇所からこの公使館への帰途に
襲われたという。

善福寺
江戸名所図絵 麻布善福寺   (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載) 

墓地には福澤諭吉の墓所や、越路吹雪の歌碑(墓は川崎市の本遠寺)がある。
(墓地内は撮影禁止)

なお、杉並区の善福寺池の由来は、当寺院の奥の院が池の畔にあったからという
説が有力である。
善福寺池の北東に同名の寺があるが、無量山福寿庵という寺が後年改称したもの
であり、直接は関係ない。

門前には柳の井戸と呼ばれる湧水がある。
弘法大師が鹿島の神に祈願をこめ、手に持っていた錫杖を地面に突きたてたとこ
ろ、たちまち噴出したものだとか、ある聖人が柳の枝を用いて堀ったものであると
いう伝説が語りつがれてきた。
関東大震災や戦災時には多くの人々の喉を潤したという。
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東京の名湧水57選の1つに指定され、57選の中では最も都心に近い。

古川は一之橋で右へと曲がり、東京湾へと目指して流れる。
相変わらず首都高が川沿いに並走する。
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赤羽橋から見る東京タワー。
スカイツリーに株を取られたが、ここから見る東京タワーは絶景。
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その赤羽橋の先、左岸に浄土宗妙定院が見えてくる。
宝暦13年(1763)、9代将軍家重の大導師を勤めた増上寺四十六世妙誉定月大
僧正が、家重公菩提のため「御中陰の尊牌」を安置し、この地に建立した。
増上寺の別院として位置づけられ、念仏道場・学問研究の名刹として知られてきた。
境内の「熊野堂」と「上土蔵」は、国の有形登録文化財に指定されている。
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古川の北側に増上寺や芝東照宮を含む芝公園が広がる。
その芝東照宮は、徳川家康逝去の翌年の元和3年(1617)、増上寺内に社殿(安
国殿)として創建された。
家康は慶長6年(1601)、60歳の時、自らの等身大の像(寿像)を刻ませ、寿像を
祀る社殿を増上寺内に建造するよう遺言したという。
明治初期の神仏分離により、増上寺から分かれて東照宮を称する。
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将監橋では、北から桜川が合流しており、現在でも橋脇に大きな合流口が開いて
いる。
桜川は新宿区若葉付近を水源とし、赤坂、虎ノ門、愛宕を経由してここに至る河川で
あった。
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将監橋からは川は釣船や屋形船の係留地となる。(写真は次の金杉橋からの光景)
いよいよ、ゴールの東京湾が近いことを感じさせてくれる。
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下の写真は金杉橋脇に建てられている旧町名由来板に掲示されていた新撰東京
名所図会(明治35年(1902))に描かれた同橋付近の風景。
また、この由来板によれば、この辺りには新網町、湊町といったいかにも海岸近く
の町名があったという。
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浜松町駅の南で古川はJR線や東京モノレールと交差する。
その浜松町の東側には旧芝離宮恩賜庭園がある。
延宝6年(1678)四代将軍家綱から下屋敷として拝領した老中大久保忠朝が回遊
式築山泉水庭園として作庭したもので、「楽壽園」と命名した。
園内の池は海水を引き入れた潮入りの池であったが、現在は海から離れ、淡水池
となっている。
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浜崎橋付近で古川橋は芝浦運河に出て、東京湾へと流れ出る。
上部には首都高の浜崎橋JCTがあり、多くの自動車が行き交う。
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渋谷川 2

渋谷川は稲荷橋から先、開渠となる。
現在はビルの谷間を流れているという感じだが、渋谷再開発事業の1つに「渋谷
川隣接区域にて水辺空間用地の創出」という項目があり、東横線跡地を中心とし
て公園化される予定である。
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東に沿う明治通りから坂を上っていくと、金王八幡宮がある。
寛治六年(1092)渋谷氏の祖、河崎高家により鎮祭され、高家の子重家がこの地
に館を構えて居城として以来、渋谷氏の氏神として尊崇された。
江戸期には、德川家光の教育役の青山伯耆守忠俊と乳母の春日局が三代将軍就
任を当神社に祈願し、その願いが成就したのは大神の神慮によることと、現在の社
殿及び神門を寄進した。
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本殿に向かって左側には、渋谷城の砦の石が保存・展示されており、説明板には
以下のように書かれている。
 このあたり一帯の高台は、平安時代末期から渋谷氏一族の居館跡で、東に鎌
 倉街道(現 八幡通)、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)が
 あって、館を囲んでいるうえ、かつては数ヵ所に湧水があるという好条件を備
 えていました。
 しかし、その館いわゆる渋谷城は大永4年(1524)、北条氏と上杉氏の合戦の
 とき、渋谷氏が高輪原で北条氏と交戦中、北条の一軍により襲われ焼き払わ
 れてしまいました。

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こちらは江戸名所図会に描かれた金王八幡宮。
金王八幡
                      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
なお、この金王八幡宮の脇にも渋谷川の支流がかつて流れていた。

道を挟んで南側に位置するのが豊栄稲荷神社
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鎌倉時代、渋谷高重による創祀と伝えられ、元は渋谷川の川辺、渋谷駅付近に
あったという。
江戸期の文化年間(1804~1818)の頃までは「堀の外稲荷」と称されていたが、
その後「田中稲荷」と称され、また川端にあったので「川端稲荷」とも称された。
前述した渋谷川が開渠となる稲荷橋は、この田中稲荷に由来する。
昭和31年、道玄坂上の豊澤稲荷神社を合祀、昭和36年、現在地に遷座した。

渋谷川を進むと、並木橋の下から水が勢いよく流れている。
これは平成7年に目黒川や呑川とともに実施された清流復活事業によるもので、
都市化による水質悪化や水量減少の対策として、新宿区上落合にある落合水再
生センターより高度処理再生水を導水、放流しているものである。
なお、前述の渋谷再開発に伴い、今後、放流地点を渋谷駅付近に移設される予
定である。
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こちらは並木橋から下流側を見た光景。
2013年、地下化も伴い廃止された東急東横線の高架が見えるが、この時点
では解体工事中であった。
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庚申橋の橋詰に建てられている庚申橋供養塔、寛政11年(1799)に建てられ
た数少ない珍しいものだという。
上部の青面金剛像のほかに 四面すべてに橋講中の世話役や万人講及び個人
名が多数刻まれており、橋を通る道は、江戸期には重要な交通路であったことが
判る。
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恵比寿駅近くの渋谷橋から下流を望む。
ここでも右岸から放流されているが、これは地下鉄日比谷線のトンネル内に湧
き出た水を渋谷川に流しているものである。
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川沿いに歩くことはできないが、右岸側の道を歩いていくと、台雲寺の入口に
敵・味方軍人の供養碑」「軍馬の碑」が建っている。
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明治30年(1897)に建てられたもので、(日清戦争(1894~95)に従軍した
日本軍人の慰霊碑とともに、相手側の清国軍人の霊を弔った石碑がある。
また写真右の「軍馬の碑」は、従軍して犠牲となった軍馬を哀れんだもので、
 みいくさを のせるのみかは かてをさへ はこぶも馬のちからなりけり
という歌が刻まれている。

恵比寿橋近くのビル工事現場のフェンスに昔日の渋谷川の写真(渋谷郷土博
物館提供)が掲げられていた。
昭和30年、新橋(恵比寿橋の次の橋)付近の写真で、現在より川幅が広く感
じられる。
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その恵比寿橋と新橋の間で、北からいもり川が合流する。
青山学院大学構内付近を水源とする支流で、現在、渋谷川の合流部では雨水吐
として口をあけている。
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渋谷川沿いはビルや住宅が建ち並び、川に沿って歩くことはできない。
そのため、明治通りなどに迂回し、橋の上から眺めることになる。
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明治通りの北側には臨済宗の瑞泉山祥雲寺がある。
筑前福岡藩の第2代藩主の黒田忠之が父・長政の冥福を祈るために、京都紫
野大徳寺の龍岳宗劉を開山として赤坂溜池の自邸内に興雲寺として建立した。
寛永6年(1666)に麻布台に移り瑞泉山祥雲寺と称したが、同8年(1668)の
江戸大火に逢い、当地へ移転した。
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祥雲寺には黒田長政(1568~1623)の墓がある。
墓標は5mほどもあり、木造の建物に覆われている。
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黒田長政は秀吉の参謀として仕えた黒田孝高(官兵衛)の嫡男で、文禄・慶長
の役などで活躍、関ヶ原の戦いで戦功を挙げたことから、筑前名島に52万3,000
石を与えられ、福岡藩初代藩主となる。(Wikipediaによる)

また、福岡藩主黒田家をはじめとして秋月藩主黒田家・久留米藩主有馬家など
の諸大名の墓地群や、江戸時代初期の医家、岡本玄冶の墓も当地にある。
(岡本玄冶については、『浜町川』参照)

その祥雲寺近くの山下橋付近に大きな水車があり、広尾水車として江戸名所
図会にも描かれている。
玉川上水を開削した玉川家の屋敷内にあったことから、玉川水車とも呼ばれ、
渋谷川沿いで最古で最大の水車であったという。
広尾水車
                      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

渋谷川はその先、都立広尾病院の北側を通って天現寺橋に達する。
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渋谷川 1

渋谷川(下流は古川と称する)は新宿4丁目にある天龍寺付近を水源とし、渋谷
・広尾・麻布を経て、浜崎橋付近で東京湾に注ぐ二級河川である。
渋谷駅の南にある稲荷橋より上流側は暗渠となっている。
宇田川、いもり川などの支流を持ち、天現寺橋で笄川を合流するとその名を古川
と変えて河口を目指して流れていく。

渋谷川の源流とされる曹洞宗天龍寺は、明治通り沿いにあり、新宿南口の甲州
街道との交差点から数十メートルのところにある。
前身は遠江国の法泉寺とされ、戸塚忠春の菩提寺であったが、その娘の西郷局
(於愛の方)が徳川家康の側室となったことから、家康の江戸入城の翌年の天正
19年(1591)、江戸の牛込に移され、名を天龍寺と改めた。
しかしながら天和3年(1683)牛込の火事で類焼、この地へ移転する。
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写真右手奥に見えるのは「時の鐘」、元禄13年(1700)牧野備後守成貞により
寄進されたもので、内藤新宿に時刻を告げた。
現在の鐘は三代目で明和4年(1767)の鋳造である。
説明板の記載によると、天龍寺の時の鐘は、内藤新宿で夜通し遊興する人々を
追い出す合図であり「追出しの鐘」として親しまれ、また江戸の時の鐘のうち、ここ
だけが府外であり、武士も登城する際時間がかかったことなどから30分早く時
刻を告げたという。
上野寛永寺・市ヶ谷八幡とともに江戸の三名鐘と呼ばれた。

天龍寺境内には、かつて池があったようだが、現在は確認できない。
但し、井戸があり地下水が豊富なようである。

天龍寺を流れ出た渋谷川は、新宿御苑を北西から南東へと横断する。
新宿御苑は、元は信濃高遠藩内藤家の下屋敷の地であった。
天正19年(1591)、譜代家臣の内藤清成が徳川家康より拝領、安政元年(1772)
には玉川上水の余水を利用して、日本庭園を完成させている。
渋谷川のルートは上の池から下の池に向かっていた。
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こちらは渋谷川が御苑から出てくる箇所、千駄ヶ谷駅の北東にあたる。
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渋谷川の水源としては、もう1つ玉川上水余水吐がある。
羽村から流れてきた玉川上水(承応2年(1653)完成)の水は四谷大木戸(現在
の四谷四丁目交差点付近)に設けられた水番所に達し、ここから江戸市中へは、
地中を石樋もしくは木樋で水を供給していた。
しかしながら、玉川上水の水量が江戸への供給量を上回る場合は、余水として
水を渋谷川に落としていた。
下の写真は新宿御苑の大木戸門にある説明板に掲載されていた古地図である。
写真右側の水路が玉川上水、下の水路が余水吐である。
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その余水吐の跡地は新宿御苑の東側に沿って残っている。
かなりの幅があり、玉川上水完成後は、どちらかといえば余水吐のほうが水量
が多かったことだろう。
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御苑沿いの余水吐の東側に、多武峯内藤神社がある。
もとは内藤家の屋敷神で、江戸時代初期に内藤清成が家祖である藤原鎌足公
を祀り、また藤原氏の氏神である奈良の春日大社より分霊を歓請し、合祀した
ことに始まるとされる。
明治19年(1886)、新宿御苑から当地に移設されている。
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境内には駿馬塚の碑がある。
清成が拝領する際に、家康より、「馬がひと息で駆けめぐるほどの土地をお前
に与える」と言われ、南は千駄ケ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を走
り、領地を得た。しかし、その白馬は疲れ果てて死んだため、大樫の下に埋め
られたという逸話が残っている。

余水吐は、大京町交番付近で外苑西通りに出てくる。
ここまで、跡地は草叢となって続いている。
おそらくは都有地であろうが、都心にあって道路や公園に転用することもなく
残る不思議な空間である。
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外苑西通りで交差し、その先に回りこむと大番児童遊園に出てくる。
遊園内には象やライオンなどの遊具があり、暗渠ファンには馴染みの場所だ。
この大番児童遊園付近で、天龍寺からの流れと余水吐は合流する。
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JR中央線には、かつて渋谷川が交差していた場所にレンガ造りの橋梁跡が
残っている。
写真中央の黒ずんだ部分がかつての流路である。
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その先は外苑西通りの東側に沿って南下し、国立競技場前を通る。
渋谷川が暗渠となった契機は、東京オリンピックであり、当時、生活排水化
されていた渋谷川を文字通り「臭いものには蓋」としてしまったのである。
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2020年の東京五輪に向けて国立競技場も改築されるが、その頃にはこの辺り
の風景も一変するだろう。

その先の右側に日蓮宗の仙寿院がある、
寺院の下を道路がトンネルで通り抜けているので、寺の場所が判る方も多いで
あろう。
徳川家康の側室で、紀伊徳川家の祖である徳川頼宣の生母のお萬の方の発
願により、正保元年(1644)里見日遥を開山として創建された。
そのため、江戸期には、紀伊徳川家、伊予西条松平家の菩提寺祈願所として、
十万石の格式をもって遇せられ、新日暮里(しんひぐらしのさと)と呼ばれる
名所として知られていたという。
しかし明治維新の変革によって衰微し、明治19年の火災により全山焼失、
その後、戦災を経て、さらには東京オリンピックの道路工事により一変し、
現在に至っているという。
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外苑西通りが青山に向かって上り坂となる手前、渋谷川は右手に折れる。
川跡は現在、道路となっているが、蛇行する形状が、かつての川を彷彿とさせる。
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この道を辿っていくと、交差点脇に原宿橋の親柱が残されている。
コンクリートで上塗りされて保護されているが、親柱には昭和九年の文字が
書かれている。
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その原宿橋から数十メートル進んだ辺りに「村越の水車」と呼ばれる水車が
あったという。
水車は渋谷川にいくつか点在し、精米などに使用されていたらしい。
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葛飾北斎の富嶽三十六景の1つに穏田の水車という浮世絵がある。
ただ、描かれた水車が、どの水車なのかは定かではない。
隠田の水車
なお穏田というのは、この先、表参道の南側一帯の旧地名であり、その地名
に由来して、宇田川との合流部以北を穏田川と呼んでいた。
(家康が伊賀忍者一族をこの付近に住まわせ、忍者の隠れ里ということから
 「隠田」、転じて「穏田」となったという。)

渋谷川筋の道は、裏原宿のキャットストリートと呼ばれる通りとなる。
通り沿いにはブティックや飲食店などが立ち並び、多くの若者で賑わう。
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表参道を横断し、キャットストリートは更に渋谷方面へと続く。
途中、細い道が左へと別れるが、これは渋谷川の旧流路跡である。
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その先には穏田橋の親柱があるが、保存という域を越えて、モニュメント化
されてしまっている。
とは言え、このストリートを歩く人々に、ここにかつて川であったことを教えて
くれることだろう。
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通りの東側の高台にあるのが穏田神社
創建年代は不詳、江戸時代には第六天社と称し、穏田村の鎮守社であった。
明治以降、穏田神社と社号を改めた。
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若者で賑わうキャットストリートから僅か50mほど入った場所であるが、
境内では静寂が味わえる。

渋谷川は明治通りと交差し、宮下公園脇を進む。
現在は、バイクの駐車場となっている。
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この地で、支流の宇田川を合流する。
宇田川は渋谷区西原にある国際協力機構(JICA)東京国際センター内に
ある池などを水源とし、代々木八幡付近を経由してこの地で渋谷川に流れ
出ていた河川で、唱歌「春の小川」のモデルとなったと言われる河骨川な
どを支流に持つ。

そして渋谷川は渋谷駅東口に達する。
かつては東急東横店東館の下を流れており、その為にエスカレータの一階
の乗り場は、階段を数段上ったところにあった。

現在は渋谷の再開発が行われており、東口バスターミナルの暗渠が開口
されていた。
渋谷川の暗渠はバスターミナルの中央付近に移設され、東急東横店跡地
には高層の大型商業施設が建てられる予定である。
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より大きな地図で 【川のプロムナード】渋谷川・古川周辺マップ を表示

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《番外編》 目黒川桜ガイド

※ この記事は旧ブログ(「善福寺川リバーサイド」)に掲載した桜ガイド(2012年)
  に加筆・修正し、再構成したものです。


桜の名所としては都内でも五指に入るのが、目黒川であろう。桜の季節になると、
必ずといっていいほど、マスコミにも取り上げられる。
有名な場所は中目黒周辺ではあるが、それ以外の区間でも桜並木は所々にあり、
延長の半分以上に桜並木がある。

◆ 池尻大橋~中目黒
国道246号線までの区間は緑道となっており、人工のせせらぎが道脇に流れ、
緑道の所々に桜が咲いている。
また、上流の北沢川緑道には桜並木があり、「北沢川緑道桜並木と代沢の桜祭り」
として『せたがや百景』(昭和59年世田谷区選定)の1つとして指定されている。
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せせらぎ沿いには、春の花々も植えられており、緑道を歩く人々の目を楽しませて
くれる。
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国道246号線を渡ると、有名な目黒川の桜並木が始まり、花見客がどっと増える。
田園都市線の池尻大橋駅から百メートルほどの場所であるため、アプローチも非常
によい。
下流の東横線の中目黒駅までの2kmほどの区間が一般的な花見のルートだ。
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左岸には首都高速の大橋JCTの巨大な建物もある。
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名所ともあって、素晴らしい桜並木が続き、桜を鑑賞しながら歩く人々で混雑する。
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何箇所かある橋の上では、多くの人が桜を背景にカメラや携帯で記念写真を撮影
してごった返している。
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中目黒に近づくにつれ、川沿いには洒落た飲食店が立ち並ぶ。
それらの店に入って飲食を楽しむほか、遊歩道沿いに立ち並ぶ出店で飲み物や
食べ物を購入して、飲み歩き・食べ歩きをするというスタイルとなる。
また、中目黒という土地柄のせいか、販売される酒類もワインなどが多い。
(遊歩道のため、シートを敷いて宴会を行うということはできない)
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◆ 中目黒~五反田  地図
東横線のガードを超えても駒沢通りまで桜並木続く。
その先は船入場と称する地点から川幅が広がり、再び両岸に桜並木が続く。
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相変わらず人は多いが、遊歩道の幅が広がった分、歩きやすくなる。
また目黒区民センター脇のふれあい橋は、川面からやや高い場所に架けられており、
上から桜を望むことが可能だ。
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目黒通りの目黒新橋を越えると、目黒雅叙園の青いビルが左岸に建ち、桜とのコント
ラストで映えて見える。
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また目黒雅叙園の前には僅かだがシダレザクラもあり、ソメイヨシノ以外の桜を
楽しむことができる。
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その先、東急目黒線の鉄橋で、池尻大橋から4km弱の間、続いてきた桜並木は
一旦、途絶える。
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その下流から五反田までの区間は疎らに桜の木がある程度。
また川沿いの遊歩道も終わり、自動車が通る一般道となってしまう。

目黒川は五反田駅近くを流れるが、五反田大橋脇には小公園があり、数本の桜を
見ることができる。
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◆ 五反田~河口
五反田の南側で山手線のガードを潜ると、その先に五反田ふれあい水辺広場が
広がる。
大崎の再開発で建てられた新しいビルやマンションが川沿いに建ち、そのせいか
この付近の桜は若木が多い。
また年末にはイルミネーションイベントも催され、「冬のサクラ」をイメージしたピンク
の光に包まれる。
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人通りは少なくなり、落ち着いて花見をしたい向きにはこちらがお勧めである。
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川には桜見物のための遊覧船が行きかう。
船は中目黒の南の船入場まで入ることができるので、このような光景を目にする
ことができる。
これも他の都市河川の花見とは異なる目黒川の特徴だろう。
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新幹線・山手線を越え、更に東海道線・京浜東北線と交差した先にも所々に桜を
見ることができる。
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桜並木は左岸にある東海寺沿いに続く。
ここも見事な桜並木であるが、ここまで来ると、付近の住民の方々が散歩がてらに
花見をしている程度となる。
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目黒川は京急線の新馬場駅の下を通る。
その先にも右岸に桜並木が続く場所がある。
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左岸沿いにある荏原神社の前にある赤い鎮守橋が桜並木に映える。
旧東海道の品川宿に近く、史跡散策をしながら桜を楽しむというのもいいかもしれ
ない。
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目黒川は東京湾に続く天王洲運河に流れ出て終わる。
その手前、昭和橋付近にも20本ほどの桜並木がある。
下の写真は運河に架かるアイル橋から、川の上流方向に向けて撮影したもので、
写真左側に見えるのが、その桜並木である。
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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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