柴崎分水 2

JR中央線を越す水路橋を渡り、柴崎分水は柴崎町の住宅地の中を流れ進む。
玉石の護岸が風情を感じさせる。
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その北東に立川諏訪神社がある。
弘仁2年(811)、信州諏訪大神を勧請したのが始まりとされ、鎮座1200余年
を数える。
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社殿は新しいが、これは平成6年に火災に遭い全焼してしまったためである。
現在の社殿は平成14年に再建された。
焼失前の社殿は寛文10年 (1670)の建造で、立川市内最古の木造建築とし
て市の有形文化財となっていたというから残念だ。

地図でご覧頂くとわかるが、柴崎分水は実に複雑な動きをする。
生活用水として家屋を巡り、また灌漑用水として田畑に水を供給していた名残
であろう。
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水路は再び中央線沿いに出る。
先ほどの水路橋からは数十メートルほどの地点ではあるが、迂回して400m
以上の水路長となっている。
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南東方向へカクカクと進み、やがて玄武山普済寺の敷地内に入る。
この普済寺、ちょっとした史跡の宝庫だ。
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臨済宗建長寺派に属する寺院で、開創は南北朝時代の文和2年(1353)、一
帯を領有していた立川宗恒が開基、鎌倉建長寺から物外可什禅師を招いて開
山したのが始まりとされる。

普済寺2
江戸名所図会 芝崎 普済寺  (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

境内はまた、立川氏館跡であり土塁も残る。
立川氏は武蔵七党の西党に属する地方豪族であり、鎌倉時代には幕府に仕え、
戦国期には後北条氏に従った。
しかし天正18年(1590)、秀吉の関東攻略により、北条氏の拠点である八王子
城落城とともにこの地を離れる。
立川氏はその後、家康の計らいにより水戸藩士として水戸に移住したとされている。
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敷地の南側、残堀川の崖上には国宝の六面石幢がある。
六面石幢は小さな覆屋の中に保存されており、ガラス越しに拝観することができる。
開山した物外禅師の弟子の性了によって、延文6年(1361)に建立されたもので、
道円が刊刻したものである。
六角形の基台石上に6枚の緑泥片岩で作られた板石を組み合わせたもので、板
には2面に仁王像、4面に四天王像が刻み込まれている。
(撮影したが、ガラスに外の景色などが写りこんでしまった。)
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普済寺を出ると、再び水路は住宅街の間を縫うように進んでいく。
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住宅の間を抜ける箇所も多く、その度に迂回を強いられる。
水路を追っていくためには、かなり迂回をしなければならず、思いのほか、歩行
距離も長くなる。
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水路は東へと進み、その先で多摩川がつくった立川段丘を下っていく。
残念ながら段丘を下る箇所は個人の邸宅内であり、落ちてきた水が勢いよく
ぶつかって右折するのを見ることができるだけだ。
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多摩都市モノレールの柴崎体育館駅が見えてきた。
柴崎分水は、この駅の下を横断する。
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駅を越えた先の水路、この付近では公園を挟むように2本の水路に存在するが、
水が流れるのは北側の水路で、南側の水路は空堀である。
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その先、立川市立柴崎体育館の北側を流れていく。
写真奥に見える交差する道路は旧甲州街道である。
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再び住宅の中に消えていくが、今度出てきた場所は立川公園の北側。
水路脇には柴崎分水の説明板も立てられている。
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奥多摩街道を越えると根川と並行して流れる。
そして日野橋を通る都道(旧国道20号)の下で柴崎分水は根川に合流
して終わる。
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柴崎分水 1

柴崎分水は元文2年(1737)開削された分水で、現在の立川市南部にあたる柴崎
村の生活用水、農業用水として使用された。
立川分水もしくは柴崎村分水として呼ばれることもある。
tokyoriverさんも5回にわたって柴崎分水を取り上げているので、併せてご覧頂
きたい。

西武拝島線の西武立川駅から歩くこと数分、玉川上水に架かる松中橋の上流側に
柴崎分水の取水口はある。
写真は松中橋から上流方向を撮影したもの、取水口は柴崎分水と砂川分水の2つ
が並んで設置しており、上流側(写真奥)の取水口が柴崎分水のものだ。
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柴崎分水は南東方向へと流れ進む。
水路を流れる水は清らかであり、水流をみながら歩くのは気持ちいい。
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しばらく行くとコンクリート護岸は無くなり、道路脇の草叢の中を流れていく
形となる。
隣接する家屋の洗い場も確認することができる。
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さらに水流が続く柴崎分水、のどかな雰囲気でここが都内であることを忘れて
しまう。
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東文化通りに達すると開渠は終わり、その先、ドラッグストアの脇を歩行者用通路
の暗渠となる。
その通路の入り口にはクジラが描かれたマンホールがあり、意表をつかれたが、
どうやら昭島市のシンボル的キャラクターのようである。
昭和36年(1961)、市内のJR八高線多摩川橋梁付近で約160万年前のクジラ
の化石がほぼ完全な形で発見された。
化石の全長は16メートル、「アキシマクジラ」と命名された。
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その歩行者道の暗渠は150メートルほどで終わり、その先は立川飛行場跡地
に入ってしまう。
跡地は立ち入り禁止なので、残念ながら分水の流路を追うことはできない。
そのため、跡地の東側に流れる残堀川沿いに迂回する。
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玉川上水の項でも触れたが、残堀川は江戸期以前は東の立川断層沿いを流れ
ていた。その後、玉川上水の助水としての流路変更を経て、現在のこの位置を
流れるようになったのは、明治41年のことである。
それ故、柴崎分水の方が残堀川より古いことになる。
松風橋近くの川沿いにある説明板にも「土地の微妙な高低差を利用して引かれ
た柴崎分水を参考にして、新しい残堀川を掘ったものと考えられる」と記載されて
いる。

また、残堀川を見ると水が流れていない。
かつてはしばしば氾濫していた残堀川だが、杜撰な河川改修工事の結果、礫層
まで掘り下げてしまったため伏流しやすくなった結果、瀬切れを起こしてしまった
というのが有力な説のようだ。

残堀川の左岸を歩き、玉川上水口から国営昭和記念公園に入る。
昭和記念公園は昭和天皇御在位五十年記念事業として、米軍から返還された
立川基地跡地に昭和58年に開園した公園だ。

入口を入って残堀川沿いの散歩道を歩いていく。
数百メートルほど行くと、コンクリートの構造物が現れ、その先には鉄網状の
溝蓋(グレーチング)が続く。
溝蓋の中を覗くと清らかな水が流れており、柴崎分水の水流であることが判る。
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先ほど暗渠が途切れた地点からここまでのルートは不明だが、先ほどの松風橋
付近の説明板に書かれた地図を考慮すると分水は残堀川の下を潜ってきたよう
に考えられる。

残堀川の左岸に沿って公園内を柴崎分水は進むが、その殆どがグレーチングに
より蓋をされている。
うのはな橋の下流付近、100mほどの区間だけは柴崎分水が顔を見せ、水路
沿いには柴崎分水に関する簡易な説明掲示もされている。
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せっかくの公園内なので、もっと親水性を高めて用水を見せてほしいところで
あるが、残念だ。

公園の南端に近づくとグレーチングの水路も終わり、完全な暗渠となってしまう。
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公園を出ても暗渠が続くが、JR青梅線と交差する部分だけは水が流れている
ことを確認できる。
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その先、水路はいったん東進し、道路下を流れる。
このエリアは青梅線の本線と、中央線からの下り連絡線に囲まれた地である。
写真奥に見える信号の交差点で、柴崎分水は2本に分かれていた。
北側の水路はこの道を真っ直ぐと進み、南側の水路は交差点から南進する。
北側水路には殆ど痕跡は見られず、水は南側水路を流れていくので、この先
は南側水路を追っていくことにする。
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連絡線の踏切を過ぎ更に歩いていくと、道路の右側にコンクリート暗渠が出現する。
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奥多摩街道に達すると、柴崎分水はようやく開渠となり、奥多摩街道に沿って
三百メートルほど流れていく。
道路沿いに流れるとは言っても、開渠になったり暗渠になったり、道路の右側
を流れていると思うと左側を移ったりして、また時には道路沿いから十メート
ルほど離れた民家の敷地内を流れていく。
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道路沿いの私有地には分水から引き込んだ池があった。
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その後、向きを北東へと変え富士見町の住宅街へと入っていく。
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百メートルほどは道沿いを流れるが、その先は民家の裏手に入ってしまい、水
路を追うことは困難になり、迂回を強いられる。
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再び東へ向きを変え、JR中央線の線路の西側に出た後は線路沿いを南へ暗渠
となって進んでいく。
その先、用水は水路橋で中央線を超える。
柴崎用水を象徴する有名なポイントである。
水路より後に鉄道が敷かれ、また立川~日野間で多摩川を越えるために段丘を
切り通しで下ざるをえなかった結果であろう。
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仙川 3

仙川は京王線手前、甲州街道の仙川橋から世田谷区に入り、野川との合流地点
まで同区内を流れる。
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宮前橋の南側に給田六所神社がある。
府中六所宮(現大国魂神社)の御分霊を招請して鎮座、天文年間(1532~1554)
の創建と伝えられている。
祭神は大国魂大神、天照皇大神ほか六柱、明治6年(1873)に村社に列し、同
42年(1909)、給田地内にあった神明社を合祀した。
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仙川は給田・祖師谷の住宅街を通り抜け、駒大野球部グラウンド沿いを流れ、
祖師谷公園に達する。
公園は、昭和50年(1975)、旧東京教育大学(現筑波大学)の農場跡地を利用
して開園された。
仙川沿いにある公園としては最大のもので、川沿いには親水テラスも設置されて
いる。
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ここで仙川を離れ、東に位置する釣鐘池に立ち寄ってみる。
豊富湧水池であり、この付近には縄文時代中期の住居跡も確認されているという。
釣鐘池の由来は、近隣の寺院が他教との争いのあげく寺の鐘を被って池に身を
投げたという説、また日照りで農民が困窮した際、これを救うために僧が釣鐘を
抱いて池に身を沈めたところ、大雨が降ったという説がある。
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釣鐘池を出た水流は、開渠やがて暗渠となり、大石橋(だいしばし)の先で仙川
へ放流されている。
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その大石橋の右岸、橋から100mほど行くと、祖師谷観世音堂(正面)と薬師
(写真左)が建っている。
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観世音堂は承応3年(1654)祖師谷村信徒一同の誓願により建立、元禄13年
(1700)に再建、今日に至っている。
薬師堂は享保11年(1726)創立、明治中期に当境内に移設されたものという。
住宅地の中に突如現れた歴史的遺産の堂宇という感じだ。

次の稲荷山橋から先、成城学園の敷地内に入る。
木々が生い茂り、突如として渓谷に入りこんだような錯覚を覚える。
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小田急線を過ぎると、川の両岸に東宝スタジオの敷地が広がる。
昭和7年(1932)に建てられ、数多くの名作がこの地で生まれた。
両岸には桜が続き、桜の季節にはライトアップも催される。
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世田谷通りの大蔵橋の先、右岸に大仏がそびえ立つ。
世田谷東光山妙法寺のおおくら大仏で、高さ8メートルのブロンズ製である。
この大仏は回転するようにできていて、昼間は本堂方向を向き、夜は世田谷通り
の方向を向いて、交通安全などを祈念している。
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その妙法寺は日蓮宗の寺院、創建は寛永14年(1637)、大蔵本村の村民が宇
奈根の常光寺に依頼して造られた寺であるという。
日詮上人により開山された。
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その先の左岸、大蔵三丁目公園の崖下には湧水池がある。
かなり豊富な湧水であり、その一部は仙川に落とされている。
また、一部は六郷用水の親水水路(丸子川(後述))に引き回されているという。
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東名高速道路の高架橋の先には仙川の浄化施設がある。
ここでは礫間接触酸化法という方法によるもので、水中の石に付着した微生物の
働きを利用して仙川の水を浄化している。
また、仙川の水の浄化だけでなく、導水管を通して谷戸川と谷沢川に水を供給し
ている。
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左岸に自動車学校を見ながら進むと、西谷戸橋の左側に急坂を見ることができる。
この坂上には国交省関東地方整備局指定の関東の富士見100景の標識が建
てられており、『東京富士見坂』と記載されている。
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但し、東京富士見坂というのは、この坂の名称ではなく富士山が見える東京の坂
の総称である。
この坂自体に正式名称はなく、岡本三丁目の坂と呼ばれている。

こちらは、坂の上からの富士山の光景。(200mmの望遠レンズにて撮影)
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西谷戸橋の先、左岸には六郷用水丸子川)が顔を見せる。
六郷用水はこの手前から仙川の左岸に並行して暗渠となって流れ、西谷戸橋で
開渠となり、数十メートル先の水神橋で左に折れていく。
手前の自動車学校脇では、コンクリート蓋暗渠を確認することができる。
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実は仙川は昭和三十年頃までは、野川ではなく六郷用水へと流れこんでいた。
六郷用水は現在の仙川右岸方向から左岸へと流れ、そこに仙川が流れ込むよう
な形であったことが古地図を見ると判る。
昭和三十年代前半にそれまで六郷用水に流入していた流末を分離し、野川に合
流させるための放水路を造ったのである。
水神橋から先の500mほどの区間は、この時に作られた放水路ということになる。
(『六郷用水1』参照)
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多摩堤通りの鎌田橋の先で、仙川は野川に合流して終了する。
仙川を流れてきた水は階段状に野川へと流れ落ちていく。
合流した水は2kmほど野川を流れて、多摩川へと注ぐことになる。
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仙川 2

中央線との交差した先、仙川は相変わらずのコンクリート三面張りの護岸が続く。
そしてまた、水の流れは確認できない、
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直角に曲がる水路、この先もクランク状に曲がりながら南東方向へと進む。
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途中のあけぼのふれあい公では親水施設があるが、もちろん水は流れてお
らず、虚しさを感じえない。
なお、この公園では「水源の森」と称して。公園内や付近に降った水を地下の
貯水施設に浸透させ、仙川に流するように施され、子供向けの説明板を設置し
て、自然のしくみを教えている。
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この付近の橋梁は、写真の上連雀第六之橋のように数字が付与され、1から
12まで続く、(なぜか4だけ無い。)
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上連雀4丁目で、仙川は再び暗渠となる。
その暗渠となる場所には、大きな除塵機が設置されている。
川を流れてきたゴミはこの除塵機で取り除かれ、暗渠内に入り込まないよう
に対策されている。
水流が無いので、当然のことながら稼動していない。
(以前は水門が設置されていた)
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暗渠となった仙川は南へと向きを変える。
その暗渠沿いには、禅林寺が建っている。
元は明暦の大火の翌年の万治元年(1658)、被災者であった神田連雀町の
住民がこの地に移住させられ、村民が浄土真宗本願寺派の寺院を建立した。
しかし、元禄12年(1699)の台風により倒壊、村方一同の協議を経て幕府へ
願い出て、梅嶺道雪禅師により、黄檗宗霊泉山禅林寺として翌年に開山した。
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禅林寺は太宰治の墓があることで有名、毎年6月19日の桜桃忌前後には、太
宰ファンで墓前には多くのサクランボが供えられる。
なお、太宰の墓の向かい側には森鴎外の墓もあるが、こちらは閑散としている。
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禅林寺に隣接して三鷹八幡大神社がある。
禅林寺の由緒同様、明暦の大火により移住してきた農民が、連雀村の名主松井
治兵衛を中心として幕府に懇願、寛文4年(1664)に創建された。
禅林寺は八幡大神社の別当寺(神社を管理するために置かれた寺)であったが、
明治元年(1868)の神仏分離令により分離された。
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なお、この地域の連雀という地名は、移住前の神田連雀町(現在の千代田区神
田須田町付近)から名づけられたという。

仙川は下連雀7ー17付近で再び開渠となる。
クランクの連続で、下連雀のマンションなどの建物の間を抜けていく。
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人見街道が架かる野川宿橋より、仙川の様子は一変する。
川には水が流れ、川辺には緑の草が生い茂る。
但し、この水は水循環施設により、仙川樋口取水場(中央高速との交差地点の
手前にある)からここまで約1,6kmをポンプにより送水、流しているものである。
(流水場所は写真左下)
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また、今までは場所によっては迂回を強いられながら、仙川を追ってきたが、
この先に遊歩道が設置され、一部区間を除いて野川との合流地点まで仙川
沿いを歩くことができる。

しばらく進むと、川の左岸に勝淵神社が見えてくる。
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創建年代は不詳だが、由緒については境内にある由来碑より引用しよう。

天正11年(1583)織田信長の重臣柴田勝家は賤ヶ岳の戦いに敗れ北ノ庄城
に於て自刃したが、その折、孫の権六郎(三才)に愛用の兜を与え郎党を供
に、上野国の外祖父日根野高吉の元にのがす。権六郎十六才にして元服、柴
田三左門勝重と名乗る。
慶長4年(1599)徳川家康は勝重を召し出し、上野国群馬・碓氷両郡のうち
二千石を与える。
慶長5年(1600)勝重は関ヶ原の戦いに初陣、更に慶長19年(1614)大阪
冬の陣、翌年元和元年(1615)大阪夏の陣に従軍し、その戦功により武蔵国
多摩郡上仙川村(現新川)・中仙川村(現中原)その他合わせて五百石を加
増される。
上仙川村に入村した勝重公は村の中ほどの台地(現島屋敷)に陣屋を建て住
居とし、それより北方の台地水神の森に社殿を建立し、その傍らに祖父勝家
公より与えられた黄金の兜を鎮めて、神霊とし、社号を勝淵明神とした。
以来四百年、当社は村の鎮守として村民の崇敬の念篤く代々の氏子会により
護持されている。


その勝家の兜を鎮めた場所は本殿の脇にあり、兜塚と称されている。
戦後の一時期に荒廃したため、昭和63年に再建したという。
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勝淵神社の南に丸池公園がある。
最初に記したように、丸池はかつての仙川の源頭水源とも言われ、また仙川
の由来(千釜)の地ともされている。
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仙川の治水工事による河床の掘り下げで地下水位が低下し、湧水も枯渇した。
そのため昭和40年代には丸池も埋め立てられたが、昭和50年代以降、住民
により復活のためのワークショップが活発化し、平成12年に池が復活した
という。
現在は地下水をポンプによって揚水して丸池に導水、池の水は仙川へと流れ
出ている。

中央高速の下を通り抜け、南東方向へ蛇行しながら進んでいく。
野川宿橋以北の仙川と同じ川とは思えず、流れる水を見ながら、軽快に歩み
を進めることができる。
この辺りで調布市に入る。
仙川といえば、その街や駅は調布市であるが、実は調布市内を流れるのは甲
州街道までの僅かな区間だ。
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川の右岸沿いにある東部水再生センターから下水処理水が放流されている。
流れ出る水の量は多く、この先、流量は倍増するような感じだ。
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弁天橋を右へ数十メートルほど行ったところに、下仙川弁天坂庚申塔がある。
建立は宝永元年(1704)、青面金剛と三匹の猿が刻まれている。
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川の反対側、弁天橋の北にあるのが、仙川八幡神社
創建年代は不詳だが、江戸期には旧下仙川村と旧北野村の鎮守社であったという。
大正6年(1917)、下仙川の巌嶋社、下仙川の代官田神社を合祀した。
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さらに歩いていくと甲州街道と交差、続いて京王線の鉄橋が見える。
京王線の仙川駅からは、新宿方面へ500mほど向かった地点である。
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仙川 1

野川の支流である仙川、小金井市貫井北町を上流端とし、世田谷区鎌田で野川
に合流する河川である。
延長は20.9km、本流の野川は20.2kmであるから、僅かながら本流より長いこと
になる。
仙川という名前は京王線の駅名にもなっているので、馴染み深い方も多いかも
しれない。

仙川の由来は、川沿いにある説明板によると、以下の通りだという。
勝渕神社前の丸池(後ほど紹介)に、釜の形をした湧出口がたくさんあり、千
釜と呼ばれていた。また「武蔵国名勝図会」によると源泉のことを釜といい、
その数が多いことから千釜と呼ばれていたともいう。この千釜がなまって仙川
といわれるようになったと言われている。
また、付近に仙人が住んでいたからという説もある。

小金井市にある東京学芸大の北東、新小金井街道の脇に仙川上流端の看板がある。
さらに西側は暗渠となっているようだが、残念ながらそこは住宅街となっており、
追跡は困難のようだ。
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上流端とはいっても、川に流れる水は残念ながら皆無である。
この状態は、一部、親水化されている桜堤団地付近を除き、三鷹市新川まで続く。
というのは、かつての仙川は前述の丸池を源流とするものであり、上流部は降雨
時のみに流れていた細流を人工的に開削したものだからだそうだ。
とはいえ、現在の仙川が流域の浸水被害を軽減していることには間違いないだろう。

小金井公務員住宅の敷地内を進む仙川。
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ここには、水を流し親水公園化するという「仙川上流域整備計画」が策定されたが、
その後、ゲリラ豪雨による浸水被害が都内各地で発生し、緊急対策工事を優先して
いるため、計画は棚上げ状態にあるそうだ。

公務員住宅を抜けると、小金井分水築樋がある。
元禄9年(1696)頃、玉川上水(その後、砂川分水に変更)から小金井村方面へ引水
する小金井分水が造られたが、山王窪と呼ばれる仙川の窪地を越えるために、土手を
築いてその上を用水路とした。
つまり、河川と用水路の立体交差である。
現在、築樋は遊歩道となり、歩行者や自転車が往来している。
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その山王窪の南にあるのが、山王稲穂神社
承応三年(1654)五百石の開墾に当り、新田の守護神として江戸麹町山王宮より
勧請・創祀されたもの。
下小金井の産土神として崇敬され、商売繁盛の守護神や酒造の神として神徳が
あるという。
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その後、東南東へと流れて北大通りと接する。その北大通りとの併走区間(武蔵小金
井駅の北方)では暗渠となる。
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暗渠区間の中ほど、小金井街道との交差点脇には大松木之下の稲荷がある。
境内に大きな松の御神木があったことから名づけられ、赤稲荷とも呼ばれたという。
狭い境内の中には寛政4年(1792)建立の青面金剛庚申搭や、享和2年(1802)
造立の石灯篭などの石造物が立ち並ぶ。
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暗渠は数百メートルほどで開渠となり、小金井市緑町の住宅街を進む。
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その近くにあるのが臨済宗の尼寺、三光院
西野奈良栄により昭和9年(1934)に開山された寺院。
この土地は明治時代に山岡鉄舟(1836~88)が入手したとも言われ、境内には鉄舟
の業績を記した碑がある。
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やがて仙川は浴恩館公園に達する。
浴恩館は昭和3年(1928)、京都御所で行われた昭和天皇即位大嘗祭で使用された
建物を、(財)日本青年館が譲り受けて移築したもの。
昭和6年に開設され、青年団の指導者養成所として開設された。
昭和8年~12年には作家の下村湖人が講習所長として就任、指導の傍ら、彼の代表
作である『次郎物語』を執筆した。
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市史跡となっている空林荘の建物は、現在は小金井市の文化財センターとして使用
され、文化財を保存・展示している。
展示の中には小金井市内の河川や用水に関するものもあり、川好きにとって興味
深い。

その先、仙川は緑町・梶野町の住宅街の中を梯子状開渠となって進む。
川沿いを歩ける道はない。
仙川は一度、武蔵野東中学校付近まで南下した後、西進して、再び梶野通り沿い
を北上する。
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迂回は小高い場所があるためだが、その地には市杵島神社がある。
享保17年(1732)の鎮座と伝えられ、新田開拓でこの地に住んだ人々により、創建
された梶野新田の鎮守である。
「梶野の弁天さま」とも称されている。
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市杵島神社の東側、仙川が梶野通りに沿って北上している脇には庚申塔(宝永2
年(1752)建立)があり、市杵島神社の境内別社として邪気から神社を防いでいる
という。
その庚申塔脇に立つ2本の黒松は、明治3年(1870)に起きた御門訴事件(前年に
品川県から布達された社倉制度に反対した武蔵野12ヶ村の農民たちが品川県庁へ
門訴した事件)で捕縛された若者が放免され帰ってきた時に記念に植えたものとさ
れている。
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梶野通りに沿って北上した仙川は、北東へと向きを転じる。
その先にあるのが、梶野新田分水築樋
梶野新田分水は享保17年(1732)、梶野新田の開発にあたり玉川上水から導水し
た用水で、下流は深大寺用水につながる。
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前出の小金井分水の築樋では歩行者道となっていたが、こちらは草地が続き、仙川
との交差部ではコンクリート製の樋が残っている。

築樋の先で武蔵野市に入り、周囲には桜堤のマンションや団地が建ち並ぶ。
仙川も河川改修工事が施され、きれいになっている。
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以前は木板の暗渠蓋も見られたが、河道が付け替えられ消滅してしまった。
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(写真は2009年6月撮影)

桜堤団地内では、仙川のせせらぎ再生事業が行われ、親水公園化されている。
周辺の建物の屋上などに降った雨水を地下貯水池に集め、桜堤公園から放流して
いる。
写真の時期は冬であったため流れは殆ど無かったが、春から秋にかけては、水辺は
植物や昆虫などであふれ、子供たちの格好の遊び場となっている。
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桜堤団地を抜けると仙川は亜細亜大学のキャンパスの北端をかすめ、更に東へと
進む。
仙川は再び三面コンクリート護岸に戻り、流れる水も無くなってしまう。
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この先、武蔵境通りと交差するみずかけ橋で仙川は暗渠となり、南下する。
再び開渠となるのは武蔵境北口の東側。
JR中央線に向かって水路が真っ直ぐ南下する。
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中央線までの途中、左手にある公園は東京都水道局専用線の廃線跡。
武蔵境から玉川上水北側の境浄水場まで、資材などを運ぶための専用線だった。
(境浄水場付近は玉川上水の項でも取り上げた)
2014-01-04_107.jpg

上流端から中央線の北側を流れ続けてきた仙川は、この先で中央線と交差、
南側へと移る。

《参考文献》
『小金井市の歴史散歩』 小金井市教育委員会編


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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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