浜町川

浜町川は千代田区岩本町3丁目付近で神田川から分かれ、南東方向に流れ、清洲橋
の下流付近で隅田川に合流(正確にはその手前の箱崎川に合流・・・後述)していた
掘割である。
『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』(之潮刊)によると、元和年間(1615~23)
現在の東日本橋3丁目付近まで開削、その入堀は元吉原遊郭を囲む水路として利用
された。
その後元禄4年(1691)には延長・開削されて竜閑川とつながり、さらに明治16
年(1883)には神田川まで延長される。
しかしながら、竜閑川と同様、戦後の残土処理のために昭和25年(1950)、小川
橋以北が埋め立てられ、昭和49年には残りの部分も埋め立てられ消滅した。

昭和通りが架かる神田川の和泉橋の下流側300メートルほどの場所にに、浜町川
の旧水門がある。
この付近の神田川両岸にはビルが立ち並び、近距離から見ることができないのが惜
しい。
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神田川右岸の道を通り分流地点に行くと、南東方向へと建物が連なり、ビルとビル
との間に空間がある。浜町川跡はこんな空間として残っているのだ。
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靖国通りの大和橋交差点(交差点名に浜町川の旧橋名が残る)を過ぎると、歩行者
道が始まる。
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歩行者道はその先、龍閑児童公園の東側を通る。
ここが竜閑川との接続点、前述の通り、ここまでが明治期以降の開削区間という
わけだ。
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その先、東京都下水道局の看板もあり、ここがかつて堀であったことを再認識させ
られる。
ちなみに浜町川跡のこの道の下には、今も馬喰町幹線という下水道幹線が埋設され
ている。
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日本橋富沢町に入ると、川跡沿いに飲食店などの商店が軒を連ねる一画がある。
この辺り、明治期には、東側を「東緑河岸」、西側を「西緑河岸」といい、小舟に
よる水運でにぎわったらしい。
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通路沿いにある駐車場の脇に石垣があった。
かつての浜町川の護岸跡であろうか。
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さて、ここで周囲の神社を巡ってみる。
神田・日本橋界隈には稲荷神社が実に多い。数百メートル、いや数十メートルほど
歩くと、稲荷神社が見つかるほどである。
そんな中から、浜町川周辺の神社をいくつか紹介してみよう。

まずは富沢稲荷神社、創建年代は不祥、元々は巴熊稲荷神社と称したが、戦後
の昭和25年(1950)に元弥生町・新大阪町・元浜町の三ヶ所の稲荷神社が合祀
され、富沢稲荷神社と称したとのこと。
周辺の町の稲荷と合祀して、富沢稲荷神社となったらしい。
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次は三光稲荷神社
中村座に出演していた大阪の歌舞伎役者関三十郎が伏見より屋敷内に勧請
したとされ、元禄2年(1689)の『江戸惣鹿子』に記載されていることから、
創建はそれ以前とされる。
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古くから猫族守護神として敬われ、「三光稲荷参道」と記されている石碑は、昭和
29年、三島徳七東大教授夫妻の飼い猫が行方不明となった際に祈願、3ヶ月後に
戻ってきた御礼として建てられたそうだ。
今でも、愛猫家が迷い猫の祈願として招き猫などを供えている。

三光稲荷神社から南東へ100メートルほど行くと、橘稲荷神社がある。
橘稲荷は御殿山にあったものが、後に江戸城内へ移り、さらに江戸の名医、岡本玄
冶(1587~1645)に賜って当地へ移されたと説明板に記載されている。
岡本玄冶は、三代将軍家光の侍医として知られ、家光の疱瘡を全快させた功により、
この地に屋敷を拝領した。
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またこの一帯を玄冶店(げんやだな)と称し、お富与三郎で知られる歌舞伎『与話
情浮名横櫛』の舞台ともなった。(歌舞伎では、玄冶の「冶」を「治」に読み換え、
更に「源氏」に置き換えて「源氏店」として設定されている。)

なお、浜町川右岸のこの付近は、かつては元吉原と呼ばれる遊郭の地であった。
Wikipediaによれば、江戸市中の拡大により大名屋敷が吉原に隣接するようになり、
明暦2年(1656)、日本堤(現在の吉原)への移転を命ずる。
折りしも、翌明暦3年、明暦の大火により消失し、新吉原へ移転していく。

さて、浜町川に戻ろう。
久松警察署の脇にあったのが小川橋、この橋の由来については、次のような話
が残っている。
明治19年(1886)、馬喰町でピストル強盗事件が発生し久松警察署の小川佗吉郎
巡査は現場に急行する途中、不審な男を発見、格闘の末に逮捕する。
犯人は清水定吉といい、当時10年にわたり、ピストル、日本刀で80余りの事件
を起こし、5人を殺害する凶悪犯であった。
残念ながら小川巡査はこの格闘による傷で1年半後にこの世を去る。
小川巡査の功績を讃え、橋の名を小川橋としたという。
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その小川橋を左に行ったところに笠間稲荷神社東京別社がある。
茨城県の笠間稲荷神社の分社で、安政6年(1859)、笠間藩主の牧野貞直が自邸
内に分霊を奉斎し建立したといわれる。
また、寿老神を祀り、日本橋七福神の1つとされている。
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小川橋の下流、竃河岸(へっついかし)と呼ばれる南西に分かれる水路が人形町
通りまで延びていた。
竃とはかまどのことで、竃造りの職人が多く住んでいたことから名付けられた。
古くは元吉原遊郭を囲む一画を成し、蛎殻銀座ができてからは、原料や資材の輸
送路として利用されていたという。
水路の軌跡は道路や建物間の通路として残る。
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ここで、その蛎殻銀座について触れておこう。
銀貨の製造所としての銀座は、慶長17年(1612)に今の銀座2丁目の場所に置か
れていたが、寛政改革の一つである銀座制度の大改正のために、寛政12年(1800)
6月、一旦廃止された。
同年11月、改めて人形町に幕府直営の度合いを強めた銀座が発足、明治2年
(1869)に新政府の造幣局が設置されるまで存続した。
人形町通りと甘酒横丁の交差点には蛎殻銀座の説明板が設置されている。
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その先、浜町川の跡は、道路に挟まれた浜町緑道として整備されている。
その緑道の途中、蠣浜橋(かきはまばし)跡には、弁慶像が建てられている。
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350年ほど前、人形町界隈には江戸三座といわれる芝居小屋のうち、市村座と
中村座の二座が歌舞伎を上演しており、そのほか浄瑠璃の芝居小屋もあって、
庶民の人気を集めていたという。
また人形の製作・修理にあたった人形師たちはこの周辺に住んでいた。
現在もこの近隣には明治座があり、時代劇などの公演が日々開催されている。

新大橋通りを渡った先(交差点には中之橋という橋があった)は、首都高速の
浜町ランプの出路となっている。
その出路の下にも遊歩道が続く。
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やがて右側に有馬小学校が見えてくる。
有馬小学校と、小学校に隣接する蛎殻町公園一帯は、江戸時代、松平三河守
(津山城藩主)の下屋敷があった。
その後、京都出身の豪商、杉村甚兵衛氏の屋敷となり、関東大震災時には、
庭園に難を逃れて助かった人々もいたという。
公園には築地塀と門構えが造られ、往時を偲ぶように施されている。
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公園の南側には首都高速6号線が通っているが、以前はここに箱崎川という
隅田川から分かれる河川があった。この少し上流で隅田川から別れ、首都高
のルートを通り日本橋川に達する、延長1kmほどの河川である。
首都高建設に伴い、昭和46年(1971)に埋め立てられた。

ということは、浜町川としての河川はここまでなのだが、せっかくなので、
隅田川まで辿ることにする。
浜町川の延長上には、箱崎川と隅田川を結ぶ100mほどの水路(箱崎川支流
があった。
その箱崎川支流の地には、今は東京都下水道局の箱崎ポンプ所があり、その
脇の道路もそこだけ盛り上がっていることがわかる。
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また、この北東側、隅田川・箱崎川そして箱崎川支流に囲まれた地域には、
かつて中洲があり、今も日本橋中洲という地名となっている。
この中洲には、次のような歴史がある。
昔は葦が生える中洲であったが、田沼意次が幕政を掌握していた安永元年
(1773)、箱崎川が埋め立てられ中洲新地という歓楽街ができる。
しかしながら、意次失脚後、代わって実権を握った老中松平定信により寛
政の改革が行われ、緊縮財政・風紀取締りのもと、寛政元年(1789)に取
り壊され、葦の茂る浅瀬へと戻った。(隅田川上流で洪水が頻発したこと
も理由の1つにあるらしい)
中洲が再度埋め立てられたのは明治19年(1886)のことである。

そして隅田川に到達、清洲橋のやや下流に水門がある。
ただしこの水門は川からの流出口というわけではなく、川沿いにある箱崎
ポンプ所から雨水を放流するものであるらしい。
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竜閑川

かつて日本橋川から分水していた竜閑川を辿ってみた。
(「龍閑川」とも表記するが、この記事では「竜閑川」と表記する。但し固有名詞
 として「龍」の字が使用されている場合はそれに従う)

竜閑川は、元禄四年(1691)に開削された掘割であり、当初は神田堀、銀堀(しろ
がねぼり)、神田八丁堀などと呼ばれていた。
明暦の大火(1657)の後、防火対策のために土手を築き、その後、町人たちが自ら
資金を調達して開削したという。
安政4年(1857)に一度は埋め立てられるが、明治16年(1883)、浜町川の神田
川方面での開削に伴い、再度開削される。
しかしながら、昭和25年(1950)、戦後の残土処理のため、再び埋め立てられ、
現在に至る。

江戸期には浜町川は神田川に通じておらず、竜閑川は現在の龍閑児童公園の地で
南南東に向きを変え、新堀となって隅田川に注いでいた。
今回の記事では向きを変える前までの区間を記載することとし、その先は浜町川の
項で扱うこととする。

日本橋川に架かる鎌倉橋から下流方向を望むと、その左岸に水門を見ることが
できる。
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こちらは鎌倉橋脇の説明板に掲載されている安政3年(1856)の江戸の古地図、
日本橋川(「御堀」と表記)から竜閑川が分かれている。
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分岐場所にあったのが龍閑橋、外堀通り沿いにかつての橋の欄干が保存されて
いる。
大正15年(1926)に架け替えられた、日本で初めての鉄筋コンクリートトラ
ス橋である。
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竜閑川という川名は、この橋に因んで名付けられたものだという。
また、「龍閑」という名については、龍閑川の西側にあった町に、旧幕府坊主
(殿中接待役)の井上龍閑の家があったことに由来する。

竜閑川の川筋は、ビルの間の小路に残り、北東へとのびている。
数百メートルほど進むとJR線のガードをくぐる。
ちょうど神田駅の南側に位置し、ガード下には数軒の酒場が軒を連ねる。
なお、この竜閑川跡の道が千代田区と中央区の区界となっている。
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JR線を越した先、南側に白旗稲荷神社がある。
創建は不詳、日本橋本石町三丁目周辺、かつては福田村と称し、その福田村
の鎮守社として祀られていたという。
また、白旗稲荷とは、源義家が奥州征伐の際、白旗を社頭にたて祈癒したこ
とにより称されているものだ。
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中央通りと交差する場所のあったのが今川橋
当時地元町人の代表であった名主、今川善右衛門の姓をとり、今川橋と名づ
けられたという。
また焼き菓子の今川焼の名も、この橋の近隣で売り出されたことに由来する。
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江戸名所図会に描かれた今川橋。
日本橋から北方に向かう街道において、日本橋を発ち初めて渡る橋が、この
今川橋であった。
今川橋2
                      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

今川橋から日本橋方面に百メートルほど行ったところに、石町(こくちょう)
時の鐘があった。
もとは江戸城西の丸にあった城鐘が、寛永3年(1626)にこの地に移された
もの。
江戸の時鐘としては最初のもので、その後、浅草・本所・上野・芝・市谷・
目白・赤坂・四谷などにも設けられた。
この場所には説明板があるのみだが、宝永8年(1711)に鋳造された鐘が、
近くの十思公園(後述)に移設、保存・展示されている。
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竜閑川をさらに歩いていくと、右側に赤い鳥居の福田稲荷神社がある。
神社によって建てられた説明板の記載には、和銅4年(711)に伏見より分社
して福田村に鎮座したとある。
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昭和通りと交差する場所にある地蔵橋公園には、竜閑川埋立記念碑がある。
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その先、人形町通りに出たところで再び右(南東方向)へと寄り道をする。
そこにあるのは伝馬町牢屋敷跡、現在は大安楽寺や十思公園などとなっている。
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江戸の牢屋敷は天正年間(1573~1591)常盤橋門外に置かれたのが最初で、
延宝5年(1677)にこの地に移され、明治8年(1875)、市ヶ谷囚獄に移される
まで存続した。
かつて、牢屋敷の敷地は2618坪あったという。
廃止後、敷地は民間に払い下げられるが、さすがに牢屋敷跡とあって、買い手
がつかず、大倉財閥の大倉喜八郎と安田財閥の安田善次郎が寄進し、
明治15年(1882)に大安楽寺を創建した。
大安楽寺という名は両氏の名前から一字ずつとって、名づけられたという。

隣接する十恩公園には、安政の大獄で捕らえられ、安政6年(1859)、こ
の牢屋敷で処刑された吉田松陰の碑があり、松陰の辞世の句が刻まれている。

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも とどめおかまし 大和魂

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なお、先に述べた石町時の鐘が保存されているのが、この公園内である。

再び、竜閑川跡の道路に戻る。
引き続き、ビルの谷間の狭い道路を進んでいく。
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その先、龍閑児童公園に達する。
公園に隣接して建てられているのが、竹森神社
この付近に竹やぶが多く、竹につながる町、竹職人の町ともいわれ、竹藪
に因んで竹森神社としたという。
江戸七森のひとつに数えられている。
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龍閑児童公園の脇で竜閑川は浜町川に接続する。
公園内には、かつての竜閑川をイメージした石造りのモニュメントがある。
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濯川

千川上水から分水されて江古田川に注ぐ濯川(すすぎがわ)、元々は中新井分水
(3本ある中新井分水のうちにの最下流の水路)といい、濯川という名称は、水路が
流れている武蔵学園において、漢詩 屈原作『漁父辞』より命名されたらしい。
濯川については武蔵学園記念室のサイトに詳しい。

千川上水からの分水地点は、千川通りと環七が交差する桜台陸橋交差点の東、
千川通りの南側には武蔵大学のキャンパスが広がる。
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その武蔵大学に入っていくと、濯川の流れを見ることができる。
但し、これは循環方式の水路であり、八角井戸と称する水源から流れが始まって
いる。
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人工的な水流とはいえ、川沿いには樹木が生い茂り、その流れは清らかだ。
武蔵大学から武蔵中学・高校へと入り、南東へと流れていく。
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武蔵中学・高校を出ると、向かいにある北新井公園という小公園の脇を経由して、
南へと流れを転じる。
ただ、この先は暗渠の歩行者道が続いているだけで、かつてに濯川に関する痕跡
は見当たらない。
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目白通りを越えても、更に真っ直ぐ進む。(一部は車も通る一般道)
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この辺りにある2つの神社を訪れてみる。
1つは西にある市杵島神社、創建年代は不明。
かつては旧社殿を囲むように池があり、雨乞いの際はその池を浚えば、雨が降る
という信仰があったようだ。
残念ながら、昭和20~30年代に周囲の開発に伴って水が枯れ、やがて埋め立
てられてしまった。
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もう1つは濯川の東、豊玉小学校の東側にある林稲荷神社、市杵島神社の境外社
で、寛文年間(1661~73)の創建という。
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この創建については、縁起が記載されている掲示板に湧水にまつわる興味ある逸
話が記載されていたので、転記して紹介しよう。

ある年干ばつがあり、農作物が収穫できなくなったため、少なからぬ村民たちが
食糧を買うためのお金を得ようと、お林の木を伐って売り始めました。これを見
て困ったのは、お上からこの林の管理を任せられていた村人、仁左衛門です。
同じ村人のやることであるし、木を伐って売らねばならない事情を理解できるか
らです。すっかり困り果てて悩んでいたところ、ある晩、夢枕に稲荷大明神(宇
気母知命)が二匹の白狐をつれて現れ、「この干ばつに苦しむのはこの地に良い
水源が無いことである。この丘の崖下を浚い、数町北にある窪地を掘れば水が沢
山得られるであろう」と告げられ、汗をびっしょりかいて夢から覚めました。
これは不思議なことと思い、朝になってお林の中を探し回ったら、狐の棲家と思
われる穴がみつかり、その部分だけ少し開けた穴の前の土地は、掃き清められた
ように平らで、そこには2、3匹の狐の足跡がありました。
あれは正夢であったか、と驚いて、このことを百姓頭三郎左衛門に話し、村民7
名と共に神のお告げのあった場所に井戸を掘りました。すると清水がこんこんと
湧き出し、田畑が潤って農作物の収穫が得られようになり、木を伐る必要がなく
なりました。
村民たちが稲荷大明神に感謝の気持を込めて創建したのがこの社の起源でありま
す。


濯川に戻ろう。暗渠道は更に南へと続く。
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そして江古田川の北江古田橋の脇に濯川の排水口をみることができる。
かなり大きな吐口だが、水流は確認できなかった。
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江古田川

江古田川は練馬区豊玉南3丁目の学田公園付近を水源とする妙正寺川の支流で
ある。
下徳田橋より上流(練馬区内)は暗渠、下流(中野区内)は開渠となる。
また、練馬区内では中新井川と称している。
学田公園付近を水源と記したが、江戸時代、学田公園付近の湧水が枯渇し、北を
流れる千川用水から中新井分水という水路をひき、灌漑用水としての水を補給した。
(中新井分水と称する水路は3本あり、この水路はその中で最上流に位置するもの
 である)

ということで、今回は中新井分水をスタートとする。
千川通りと目白通りが交差する豊玉北六丁目の交差点から西へ数十メートル、
ビルの谷間にある細い通路が中新井分水の始まりである。かつて、千川通り沿い
を流れていた千川用水からここで分水されていたのであろう。
また、この通路は豊玉北と中村北の町界であり、そんなところにも分水の名残が
感じられる。
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細い水路を抜けると住宅街の中を行く一般道となるが、一方通行でありながら、
両側に歩道があるという、いかにも水路跡の道路といった感じだ。
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スタート地点から八百メートルほど行った左側に、前述の学田公園がある。
学田とは、明治9年(1876)、この西にある南蔵院境内に創設された公立小学
校(現:豊玉小学校)が明治17年(1884)に現在地に移転した後、学校の運
営資金を生み出すために、村人たちが沼地になっていたこの地を開墾して、学
校田を作ったことに由来する。
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昭和15年頃の土地区画整理事業により公園になり、学田公園と名付けられた。
付近にはかつて中新井池と称する湧水を源とした池があったが、江戸時代後期
に枯渇、前述の通り、中新井分水が開削された。

学田公園からは、自然河川としての江古田川が始まる。
(練馬区内では中新井川と称されているが、便宜上、江古田川とさせて頂く)
先ほどの道路が公園の南で途切れた先、数百メートルほどの遊歩道となるが、
その遊歩道の途中で、川は南から東へと向きを変える。
そして遊歩道が途切れた場所にある交差点の名は学田橋
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その北側にあるのが、富士稲荷神社。享和3年(1803)、山城国紀伊郡の稲荷
本宮(現京都伏見稲荷神社)を遷して祀ったという。
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富士稲荷神社の一画は現在、富士稲荷公園となっているが、公園内にあるクス
ノキは徳川家光のお手植えといわれ、付近の農家はこのクスノキを守るため、
徴税を免れたと伝えられている。
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環七を越えると、旧中新井村の鎮守である豊玉氷川神社がある。
境内末社には北野・須賀・稲荷・三峯の各社があり、創建は不詳だが、主神は
北野神社が最古で、次いで須賀神社、そして大宮の氷川神社の分霊を勧請し
て氷川神社を主神としたという。
6月15日に行われている須賀神社の祭礼は「天王様の祭り」と言われ、その
御輿の渡御は田んぼの中を暴れまわるというので、「中新井天王様の暴れ御
輿」として近隣には有名だった。
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なお、境内には金子ゴールデンの碑がある。
明治33年(1900)、中新井村の金子丑五郎がわが国初のビール麦品種として
「金子ゴールデン」を育成し、初期のビール醸造に大きく貢献したことを称えている。
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豊玉氷川神社に隣接しているのが、真言宗豊山派の正覚院
寺伝によると太田道灌が長禄年間(1457~60)江戸城築城の際、ここ中荒井
の陣屋にあった道灌崇敬の天満宮を守るため別当寺として創建したのが当寺で、
市ヶ谷から立退かせた一農家を開基檀徒としたといわれる。
(この時代の社寺は単なる信仰の対象というだけではなく、支配領域を示すマー
 キング的色彩をもっていたらしく、また道灌は領民を移住させることにより堅固
 なものとしたらしい。)
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江古田川は、道路のグリーンベルトとなって、東に向かって真っ直ぐと向かって
いる。
大正期の地図をみると蛇行しているので、この直線は区画整理によるものであ
るようだ。
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下徳田橋から先、江古田川はその姿を現す。
川底にU字溝が設置されており、僅かな水がそこを流れている。
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江古田川は江古田の森公園を逆U字のように舌状台地の淵を廻り込んで流れ
ていく。
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この江古田の森公園の地は、古くは将軍の鷹狩場として、また大正9年(1920)
結核療養のためのの東京市療養所が開設、その後厚生省へ移管、国立中野療
養所となった。
平成5年、国立国際医療センター(新宿区)に統合されて、跡地の一部が公園
化されたものである

また公園内には調節池も設置されている。
普段は僅かな水流の江古田川であるが、豪雨時は濁流が流れる。
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西原橋を南に行くと、真言宗豊山派の東福寺がある。
天正年間(1573~1593)江古田村の村民村民次郎右衛門が開基となり、武州
御嶽神社の社僧、源教上人の教化を受け、堂舎を建てたのが始まりとされるが、
詳細は不明。
将軍家光が鷹狩りの際の本寺で休息し、吉宗は御膳所に指定していた。
境内には御膳所跡の碑がある。
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門前には中野区教育委員会による御膳所跡の説明板があるが、それによると鷹狩
は将軍の遊興であるとともに、江戸近郊の農業・治安の維持の役割もあったという。
また、村内の農民たちは、鷹場役人に監督され、野鳥の見張りや鷹場の維持に使
役され、農作業や家の修理にいたるまで制約を受けていたそうだ。

東福寺のさらに西には江古田氷川神社がある。
寛正元年(1460)、素戔嗚尊を祀ったことに始まるとされ、当初は牛頭天王社と称
していたが、元禄9年(1696)に氷川神社に改称されている。
太田道灌が豊島氏との戦いに際して戦勝祈願を行ったという伝えが残る。
同社に伝わる江古田獅子舞は中野区指定無形民俗文化財に指定されており、秋
の例大祭(10月第1日曜)には、保存会の人々により奉納されている。
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江古田川は江古田の住宅街の中を蛇行しながら南進する。
残念ながら川沿いには道はなく、近隣の道路に迂回を強いられる。
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下流の大橋と不動橋では、親柱に橋の説明が記載されている。小規模の橋に説
明があるのは珍しい。

大橋を通る道は、幅4mほどの江戸道(もしくは石神井街道)と呼ばれる道で、石
神井、鷺宮方面から葛ヶ谷村(現西落合)、雑司ヶ谷を通り江戸に向かっていた。
橋のたもとには水車小屋があり、千川上水からの江古田分水の流れで水車を回
していたという。
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続けて不動橋、橋詰には垢離取(こりとり)不動尊が祀られており、大正期までは
万垢離(まんごり)という祭事があったと記載されている。
不動尊の前に5色の幣束を飾り付けた梵天が立ち、大山や富士山に代参する村人
達が川に入り、体や3mほどの木の太刀を洗い清めた。水ごりの後、梵天を先頭に
洗い清めた太刀をかつぎ、かけ念仏も賑やかに行列をし、氷川神社に向かい五穀
豊穣、家内安全を祈願したそうだ。
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新青梅街道が架かる江古田大橋の先で、江古田川は妙正寺川に合流する。
その合流地点の脇には、妙正寺川の項で取り上げた江古田原沼袋古戦場の碑
が建っている。
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《参考文献》
『決戦 ―豊島一族と太田道灌の闘い』 葛城 明彦著 (星雲社刊) 


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石神井川 6

埼京線鉄橋を過ぎると、いよいよ北区へと入り、石神井川音無渓谷と呼ばれる
谷へと突入していく。
この辺りの石神井川は、別称として音無川・滝野川・王子川とも呼ばれる。
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川を下っていくと観音橋の袂に、谷津大観音が姿を現す。
この大観音は近隣の寿徳寺により建立されたもので、平成20年の開眼と新しい
ものではある。
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その寿徳寺は大観音の北方、数十メートルの場所にある。
本尊である谷津子育観音は、鎌倉時代初期、早船・小宮の両氏が主家の梶原氏
と争い、追われて落ちのびる途中で水中から拾い上げ、石神井川沿いの堂山に
安置したものと伝えられる。
境内の銀杏の樹の皮をはいて本尊に備え、祈願した後に煎じて飲むと母乳が良
く出るようになるという信仰もある。
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また、寿徳寺は新撰組組長近藤勇の菩提寺としても知られ、JR板橋駅前にあ
る新撰組隊士供養塔(近藤勇墓所 谷端川2参照) は寿徳寺の境外墓地
である。
(近藤勇の墓地は三鷹の龍源寺(野川2参照)や岡崎市の法蔵寺などにもあり、
埋葬については諸説あるようだ)

河川改修以前の石神井川は、蛇行を繰り返して流れていた。
左右の遊歩道脇に所々存在する小公園は、旧水路跡の名残である。
滝野川橋の先、右岸にある半円状の音無もみじ緑地も、そのような蛇行跡の1つ、
ここは親水公園として整備されている、
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かつては石神井川や用水にかかっていた王子七滝があり、弁天、不動、権現、
稲荷、大工、見晴らし、および名主の七つの滝で成り立っていた。
現在は名主の滝公園(後述)にある滝以外は現存していない。

下の写真は説明板に掲載されていた、歌川広重の「江戸百景 王子不動之瀧」。
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こちらは天保5年に描かれた「江戸名所図会 松橋弁財天窟 石神井川」。
松橋弁才天窟
                      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
この地は春には桜、秋には紅葉の名所として知られていた。
図会には鳥居がある岩屋が描かれているが、その岩屋には弁財天像が奉られ、
松橋弁財天と呼ばれていた。(現在は消失)
また、この音無緑地付近には滝があり、弁天の滝と呼ばれていたという。

その音無緑地に隣接して、真言宗豊山派の金剛寺が建っている。
縁起によれば、弘法大師が遊歴した際に、大師自ら不動明王像を彫り、石の
上に安置したが、この像を当寺の本尊とする。
また治承4年(1180)、源頼朝が挙兵、石橋山の合戦で敗れて安房に逃亡す
るが、安房から再途上する際、当地で布陣、弁財天に祈願して弁天堂を建立
したとも伝えられる。
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更に下流に進むと、再び旧流路を利用した公園が右岸にある。音無さくら緑
である。
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緑地内の崖地には川の浸食作用による自然露頭が見られる。
説明板によれば、地質学的には「東京層」と呼ばれるもので、12~13万年
前の下末吉海進により、現在の東京都付近が海底となった頃に形成されたもの
だという。
明治13年(1880)、ドイツから来日していた東京大学の地質学・古生物学の
教授ブラウンスが調査・化石を採取した。

掲示板に記載されている明治と現代の周辺地図、汚れていて見づらいが、かつ
ての石神井川が蛇行していた様子がよくわかる。
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その先、右岸にあるのが浄土宗寺院の正受院、赤ちゃん寺として有名だ。
弘治年間(1555~58)学仙房という僧が、霊夢によって武蔵国に来てこの寺を
開いたと伝えられる。
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昭和29年、寺に嬰児や水子のための納骨堂である慈眼堂をつくったことによ
り、赤ちゃん寺として知られるようになった。
慈眼堂の前には多くの菓子や玩具が供えられている。
なお、王子七滝のうちの1つ、不動の滝は、正受院の本堂の裏にあったという。

王子駅の手前に音無親水公園が設置されている。
石神井川の本流は飛鳥山の下を隧道となって抜けるが、北区が昭和63年、か
つての石神井川の自然を再現し、親水公園として整備したものだ。
人工の水路が流れ、「日本の都市公園100選」にも選定されている。
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その音無親水公園の北側の崖地上には王子神社がある。
元亨2年(1322)、豊島氏が熊野三社権現から王子大神を勧請したことによっ
てはじまり、これが王子の地名の由来ともなっている。
江戸時代には家康が社領200石を寄進するなど、将軍家から手厚く保護され、
また明治元年(1868)には准勅祭社に指定、東京十社の1つとなっている。
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ここで石神井川を離れ、王子七滝のうちの唯一現存する名主の滝を紹介しよう。
王子駅から北へ徒歩10分ほどのところに名主の滝公園がある。
安政年間(1854~1860)に王子村の名主、畑野孫八が屋敷内に滝を開き、茶を
栽培して一般の人々の避暑のために供したことに始まり、名主の滝の名もこれ
に由来する。
明治中期には貿易商、垣内徳三郎が回遊式庭園として整備、一般に開放した。
園内には男滝、女滝、独鈷の滝、湧玉の滝が復元されている。(地下水の汲み
上げによる)
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また、名主の滝公園の南には王子稲荷神社がある。
大晦日に各地から集まった狐が大きな木の下で装束を整えて神社に詣でたと
いう伝承がある他、落語「王子の狐」の舞台としても有名である。
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下の浮世絵は、歌川広重『名所江戸百景』の「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」
王子の狐

先ほど述べたように、石神井川の本流は隧道となって東へと抜ける。
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ここで石神井川の河川争奪について述べておかなければならないだろう。
古くは、石神井川は飛鳥山下で流れを南へ変え、谷田川(現在は暗渠)沿い
を流れ、上野の不忍池へ達していたとされる。
石神井川が現在の流路となったのは、縄文時代、海進が急速に起こり、崖端
侵食を引き起こした結果であるいう説(自然開削説)と、中世以降に行われ
た治水工事により人為的に流路を変更したという説(人為掘削説)がある。
石神井川の変遷を知るうえで興味深い論争である。

隧道から出てきた石神井川、JRや都電荒川線が川を跨いでいる。
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石神井川は王子の東側を流れていく。川の上には首都高速中央環状線が敷設
されている。
また、この付近では河川改修工事が進行中である。
2010年7月、東京北部を襲ったゲリラ豪雨による氾濫は記憶に新しい。
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河口の手前、左側にあるのが真言宗豊山派の西福寺
江戸六阿弥陀の第一番札所として知られ、江戸時代には春秋の彼岸の六阿弥
陀詣で賑わったという。
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六阿弥陀とは、才色兼備の足立姫が豊島家へ嫁ぐが舅に苛められ、里帰りの
途中で入水、足立姫の父親が霊を弔うため熊野本宮へ参詣した際、行脚僧の
行基に6体の阿弥陀像を彫ってもらい、安置したという悲話に基づく阿弥陀
仏である。

新堀橋の先で、石神井川は隅田川に注いで終わる。
残念ながら河口部には遊歩道などはなく、新堀橋から望むことしかできない。
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ということで石神井川の紹介記事を結びたいが、最後にもう1つ、この河口
付近も石神井川の旧河道が残る。
新堀橋の北、数十メートルのところにある堀船緑地が、その河道跡だ。
昭和30年代の地図にも旧河川が確認できるので、埋め立てられたのはその
後であろう。
現在でも豊島と堀船の町域界がこの堀船緑地であることも興味深い。
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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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