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石神井川 2

石神井川が西武新宿線と交差する箇所の北側には、日蓮宗の本立寺がある。
開山は日誉上人、開基は井口忠兵衛、創建は不明だが、日誉上人は慶安二
年(1649)寂、また井口忠兵衛は寛永16年(1639)に関村検地の名主を勤め
ているので、創建は寛永年間と考えられている。
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毎年12月9日にはお会式が行われ、それに合わせて9日10日には東京都の
無形文化財に指定されている「関のぼろ市」が開かれ、歳末の行事として多く
の来訪者で賑わう。

石神井川は武蔵関北口の住宅街の間を通り抜けていく。
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都営上石神井団地の中を流れる石神井川、両岸には桜並木が続く。
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この先、右岸の台地の上には早稲田大学高等学院がある。
かつては愛宕山と言われ、太田道灌が石神井城(後述)を攻めた際に、戦勝
を祈願して愛宕権現を勧請し、布陣したところとされている。
遺構は残っていないようだが、石神井川に架かる愛宕橋にその名を残す。
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この付近では護岸改修事業が進行中であり、白い垂直護岸も所々に見ること
ができる。
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石神井団地付近でも見事な桜並木を見ることができるが、ここでも改修工事
が予定されており、桜は伐採・移植されるようだ。
残念だが、治水のためには仕方がないことなのかもしれない。
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蛍橋の手前、左岸の旧早稲田通りの北に面して三宝寺がある。
応永元年(1394) に鎌倉・大徳寺の大徳権大僧都幸尊法印によって開山さ
れた真言宗智山派の寺院。
以前は東方500メートルほどの地にあったが、石神井城落城後の文明9年
(1477)、太田道灌により当地へ移転した。
徳川家光の鷹狩の際に休憩場としても使われ、朱印地十石を与えられるとと
もに、数十の末寺をもち、府内八十八か所巡りの第十六番札所となっていた。
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石神井川の北側に広がる石神井公園を巡ってみよう。
石神井公園の西側には、三宝寺の名を冠した三宝寺池、東側には石神井池
が広がる。
かつては三宝寺池が石神井川の水源とされ、それより上流は支流扱いであ
ったようだ。
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井の頭池、善福寺池と並ぶ武蔵野三大湧水池の1つであるが、年々湧水が
減少し、現在は地下水を汲み上げて補給している。
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昭和10年(1935)、「三宝寺池沼沢植物群落」として国指定天然記念物に指
定されている。
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指定当時はカキツバタ、シャクジイタヌキモやジュンサイなどが生い茂ってい
たが、昭和30年代以降、都市化に伴う湧水の減少により、池の水温の上昇や
水質悪化が進み、池の環境が大きく変化した。
そこで東京都では平成5年度より、水質改善や希少植物の保護増殖事業に
取り組んでいる。

こちらは下流側(東側)の石神井池。ボートの貸し出し施設があるため、ボー
ト池という通称もある。
石神井池は元々あった池ではなく、武蔵野の景観を保護する目的で昭和8年
(1933)に造られた人口池。
以前は三宝寺池から流れ出た三宝寺川が流れており、大正期の地図で確認
すると川の周囲には水田が広がっていたようだ。
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ここで、石神井公園の周辺にある史跡を紹介していこう。

まずは石神井城址、池の南の一画に中世の城館の遺構があり、土塁や空
堀をみることができる。
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石神井城の築城年代は不明だが、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、
都内北部に勢力をのばしていた豊島氏の居城として築城されたとする。
長尾影春の乱において、豊島泰経は長尾景春に加担して挙兵するも、文明9年
(1477)、江古田原沼袋の戦い(妙正寺川2参照)で太田道灌に大敗を喫した。
泰経は石神井城に立て篭もるが、再度、道灌に攻められ落城する。
なお、泰経はその後、平塚城(北区上中里にある平塚神社付近)、さらに小机
城(横浜市港北区)へ敗走するが、その後、行方知らずとなり、豊島本宗家は
滅亡する。

普段は城址内は立入禁止となっており、柵の外から眺めるだけであるが、特
別公開時には内部を見学することができる。(写真は2014東京文化財ウィ
ーク特別公開時のもの)

石神井城址の西側には、石神井台氷川神社が鎮座する。
社伝によると、応永年間(1394~1428)、豊島氏が武蔵国一ノ宮(大宮)の
氷川神社の分霊を石神井城内に祀ったことに始まるという。
石神井城落城後は、石神井郷の総鎮守として上石神井・下石神井・谷原・田中
・関の五か村の人々から崇敬された。
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三宝寺池畔には厳島神社がある。
創建年代等は不詳だが、三宝寺を別当寺とする弁天社があり、明治期の神
仏分離以降、厳島神社と改称された。
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厳島神社の東側には水神社(写真左)、向い側の洞窟には宇賀神社(穴弁天)
(写真右)があり、共に厳島神社の境内社となっている。
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こちらは江戸名所図会に描かれた『三宝寺池 弁財天 氷川明神 石神井城址
三宝寺池
                      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

三宝寺池西北の台地上には、殿塚姫塚がある。
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殿塚

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姫塚

伝承によると、石神井城の落城時に豊島泰経が黄金の鞍をつけた愛馬に乗り、
池に沈み、泰経の二女、照姫も後を追って入水したという。
塚は縁者が供養のために築いたと言われている。
但し、前述の通り、泰経は落城後も逃げのびており、史実とは異なる。
また、照姫もから明治29年(1896)に出版された小説『照日の松』(遅塚麗水著)
からの話とされている。
なお、姫塚は江戸期の書物には三宝寺の住職、照日上人の塚と記されてい
るという。

石神井池の南には稲荷諏訪合神社がある。
由緒は不明だが、江戸期から下石神井村にあった神社のうち、諏訪社と稲荷
社が明治期に合祀されたものである。
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稲荷諏訪合神社近くに区立石神井公園ふるさと文化館があり、練馬区の歴史
を展示している。
2010年にオープンした施設で新しく、展示(常設展)も充実しており、石神
井公園の散策がてらの来館者も多い。(入場無料)
併設されている旧内田家住宅は、明治20年代初めに練馬区中村に建てられ
た民家を当地に移築したものである。
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石神井池から石神井川までの間は和田堀緑道が続き、緑道脇には人工の
水路が設置されている。
緑道下は暗渠となっているが、池の水は浄化・循環されているため、普
段は水は流れていない。
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緑道下の暗渠は山下橋の橋詰で石神井川に合流する。
合流部には大きな排水口を確認することができる。
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《参考文献》
『ふるさと練馬探訪』 練馬区立石神井公園ふるさと文化館編
『石神井公園 歴史・自然マップ』 練馬区立石神井公園ふるさと文化館編


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石神井川 1

石神井川は小平市に端を発し、西東京市、練馬区、板橋区、北区を経て、
隅田川へ合流する延長25.2kmの河川である。
石神井村を流れていたことに由来するが、その「石神井」は井戸を掘ったと
ころ、石神が出たのでこれを崇め、その井戸にちなんで石神井となったと伝
えられている。(一説には三宝寺池から出たとも言われている。)

現在、小金井公園の北、公園北橋が上流端とされているが、かつてはさらに
西の小平市鈴木町付近が源流であったという。
今回はその鈴木町付近の源流付近までは追わないが、
関心がある方はtokyoriverさんが探索し、詳細に書かれているので参照
されたい。

とはいえ、武蔵小金井から小金井街道を北上したので、その付近については
確認してみた。
武蔵小金井方面から行くと、小金井街道は小金井公園の西門辺りから緩やかな
下り坂となっており、V字状の谷を越える。
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その谷が石神井川の跡であるが、道路の左右は小金井カントリー倶楽部
敷地となっており、遠方から眺めるだけとなってしまう。
なお、小金井カントリー倶楽部は、昭和12年(1937)開業とゴルフ場の中でも
古参の部類に入る名門ゴルフ場である。

ゴルフ場を迂回し、石神井川を最初に確認できるのは、ゴルフ場と嘉悦大学の
間の花小金井南町2丁目付近である。
そこからはコンクリート蓋の暗渠が数百メートルほど続く。
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ゴルフ場敷地の東端、公園東橋の脇に石神井川上流端の標識があり、ここが
現在の公式の上流端とされている。
ここからは石神井川は開渠となり、三面コンクリート張りの梯子状開渠が
小金井公園の北側に沿って続くが、残念ながら水の流れは確認できない。
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かつては生活排水が流れていたようだが、現在は周囲の雨水を集めてながれる
だけなのだろう。
都内を西から東へと横断する中小河川としては他に神田川があるが、神田川は
上流に湧水池(井の頭池)を持つため最初から水が流れているが、こちらは
上流端に湧水池を持たない。(ただし途中には富士見池や三宝池・石神井池が
ある)
その点が石神井川と神田川との大きな違いである。

小金井公園内から出てきた箇所。
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その先で多摩湖自転車道と交差する。
村山・山口貯水池(多摩湖・狭山湖)から境浄水場への水道管の上に設置され
た自転車道である。調べてみると、「東京都道253号保谷狭山自然公園自転車道
線」という正式な都道であるらしい。
自転車道を多くの自転車が行き交い、またジョギングや散歩をする人々が往来
する。
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上の写真の自転車道脇の築堤は、この辺りが石神井川による窪地で低くなって
いるために、盛土をして導水するように造られたもので、「馬の背」と称して
いるようだ、

その馬の背から見下ろした石神井川、川はこの後、住宅と住宅の間を通り抜け
ていくことになる。
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ところどころで排水口から水が川に流れ出しているが、川としての流れを形成
するほどのものではなく、数十メートルほどで川底に浸透してしまう。
(季節や天候により、水流の状況は左右されると思われる)
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庚申橋の先、右側の向台運動場は調節池となっている。
流れがないのに調節池とは滑稽に感じるが、随所に排水口があり豪雨時には、
石神井川に雨水が集中してしまうのだろう。
また上流付近は川幅も狭く、溢水の危険も高まっていると思われる。
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田無駅の南側の住宅地を蛇行しながら、東へと進んでいく。
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こちらは田無の東側にある石神井川南町調節池、1万2千立方メートルという
広大なもので、平時は柳沢児童広場として一般開放されている。
西武新宿線の西武柳沢・田無間の車窓からも見えるので、ご存知の方も多い
かもしれない。
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青梅街道と交差する地点の手前付近から、ようやく水の流れが確認できた。
それとともに、この辺りから川幅が広くなる。
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青梅街道の北を進むと、その先の左手に赤い大きな鳥居が見えてくる。
東伏見稲荷神社である。
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京都の伏見稲荷神社の分祀として勧請され、その創建も昭和4年(1929)
と比較的新しい。
東伏見という神社名は京都伏見から東に遷した神社という意味で命名され、
西武線の上保谷駅も東伏見駅へと改称された。

東伏見橋を過ぎると水流は多くなり、ようやく河川らしくなる。
川沿いには遊歩道が設置され、また川の北側には早稲田大学のグラウンド
が広がる。
西武鉄道は大正14年(1925)上保谷の開発計画として、早稲田大学に対
して所有していた土地の寄付の申し出をし、大学はこの地に総合運動場を
造った。
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川の右岸は崖地となっており、下野谷橋南側の台地の上には、下野谷遺跡
公園
がある。
下野谷遺跡は、旧石器時代からの遺跡が発掘され、特に縄文時代中期(約
5000~4000年前)には、住居が広場を囲んで輪の形に並ぶムラ(現状集落)
が複数あったと考えられており、その規模や内容は関東地方でも屈指のもの
という。
公園内には竪穴式住居の骨格復元が展示されている。
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川は左へとカーブするが、その左岸には武蔵関公園が広がる。
武蔵関公園内には富士見池という21,000㎡の南北に細長い池があり、貸ボート
施設もある。
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古くは関の溜め井と呼ばれ、武蔵野台地特有の自然湧水による池だった。
大正時代には遊具・ボート場などが整備された若宮遊園と呼ばれる遊園地で
あった。
昭和13年(1938 )西武鉄道と武蔵関公園建設協賛会から、公園地として寄付
され、 東京市(当時)の公園となった。
なお、公園南側には石神井川からの取り入れ口もあり、洪水時の調節池として
の役割も担う。
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公園を過ぎると石神井川は西武新宿線に沿って流れ、川沿いには桜並木が続く。
武蔵関駅の手前で石神井川は西武線と交差し、北東へと向きを変える。
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北沢川 2

左内弁財天がある小公園からは北沢川緑道と名づけられた遊歩道が始まる。
北沢川緑道は終端まで続く延長約4.3キロの緑道であり、随所に緑道の案内板
が設置されている。
緑道脇には四季折々の花が咲き、素晴らしい散歩道となっている。
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宮坂2丁目付近では、道路に並行してユリの木公という公園となって進む。
古地図をみるとこの付近では北へ蛇行していたようだが、周辺地域の区画整理
に伴い、直線化されてしまったようだ。
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ユリの木公園の先で東急世田谷線と交差する。
ちょうど山下駅のすぐ北にあり、駅構内の踏切を利用してその先へと廻り込む。
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山下駅付近ではS字状に蛇行する区間があり、かつての北沢川を彷彿ちさせる。
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緑道は小田急線の北側を進み、やがて梅ヶ丘駅の北側に達する。
その北にあるのが、梅の名所として有名な羽根木公園である。
公園一帯は丘となっており、古くは六郎次という鍛冶屋が住んでいたとことから、
六郎次山と呼ばれ、また大正末期には一部が根津財閥の所有地となっていたため、
根津山と呼ばれた。
公園の名は世田谷村大字世田谷字羽根木の飛び地であったことに由来する。
昭和31年(1956)、東京都が羽根木公園として開園し、その後、世田谷区に移管
されている。
園内には700本の梅が植えられ、毎年2月には梅まつりで賑わう。
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なお、北方の羽根木1丁目付近から、羽根木公園を廻り込むように羽根木支流(仮)
が流れ、梅ヶ丘の西側で北沢川と合流していた。

梅ヶ丘の東側で小田急線と交差し、緑道は線路の南側に出る。
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環七との交差部では、下流側に宮前橋の欄干(「昭和三十五年四月完成」の文字
がある)が残されている。
かつては上流側にも欄干があったが、緑道の再整備の際に撤去されてしまった。
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その宮前橋付近の北沢川緑道の説明板にあった昭和20年代、30年代の写真。
農業用水として利用されていた北沢川が、都市化によって環境悪化していった
ことを示すものだが、それなりの川幅を持つ河川であったことがわかる。
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北沢川の北側に真言宗豊山派の円乗院がある。
創建年代は不詳だが、寛永(1624~1645)初期頃までには代田村村民の菩提寺
として創建維持されてきたとようだ。
また、裏手の丘陵端では弥生時代の遺跡が発見され、竪穴住居が確認された。
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宮下橋より下流にはせせらぎの水が流れている。
これは神田川沿いにある落合水再生センターから導水された再生水を利用し、
緑道沿いを流れ、目黒川へと落とされている。
渋谷川・呑川とともに目黒川の浄化を目的として城南三河川清流復活事業が
実施され、緑道脇を水が流れて周囲の緑を潤している。
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旧鶴ヶ丘橋付近には、萩原朔太郎(1886~1942)に関する説明板がある。
緑道から眺められる丘上の鉄塔は61号鉄塔といい、昭和元年(1926)に建
ったものだという。
そのすぐ下に朔太郎は自らの設計により、昭和8年に三角屋根の家を建て
晩年を過ごした。
 「定本青猫」の「自序」には下記のような記述がある。。
 都会の空に映る電線の青白いスパークを大きな青猫のイメージに見てゐる
 ので、当時田舎にゐて詩を書いていた私が、都会への切ない郷愁を表象し
 ている。

この丘の鉄塔は「世田谷区地域風景資産」に選定されている。

また、その先には斉藤茂吉(1882~1953)の歌碑もある。
茂吉は精神科医でありながら、アララギの主宰者で歌聖とも称される歌人
であるが、彼は昭和22年から3年間、付近の代田1丁目に住んでいた。
 代田川のほとりにわれをいこはしむ
 柳の花もほほけそめつつ

茂吉が北沢川(代田川は北沢川を別称)を散策していた時に詠んだ歌が
歌碑に刻まれている。
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その他、代田・代沢付近には中村汀女、田中英光、横光利一、宇野千代
らが住んでおり、緑道は「文学の小路」とも称されている。

今は茂吉の時代とは形を変え緑道となっている北沢川だが、近隣住民の
散策路として今も利用されている。
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下の写真は桜の開花時に撮影したもの。
「北沢川緑道桜並木と代沢桜祭り」としてせたがや百景にも選定されている。
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北沢川の北、代沢3丁目には北澤八幡神社がある。
文明年間(1469~1487)の頃、世田谷城主の吉良頼康が勧請したとされ、
七沢八社随一正八幡宮と称された。
現在の本殿は嘉永五年(1852)に建築され、昭和53年に改築されている。
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都内の緑道の中でも、一二を争うほどの素晴らしい緑道であり、世田谷区
の緑道整備への姿勢は相当なものだと感じさせる。
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北沢川は三宿2丁目の先で、同じく緑道となっている烏山川と合流する。
合流後は目黒川となるが、国道246号線までの区間まで目黒川緑道と名を
変え、せせらぎ沿いの遊歩道はなおも続いている。
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北沢川 1

目黒川の支流、北沢川を追ってみた。
自然河川としての北沢川は上北沢二丁目にある都立松沢病院構内の窪地にある
湧水や周辺の雨水を集めた細流だったという。
万治2年(1658)に玉川上水より取水する北沢分水が開削され、上北沢村など
周辺5村を潤した。
取水口は当初、上北沢付近に作られたが、その後、現在の上高井戸2丁目付近、
そして久我山1丁目の岩崎橋下流付近に変更された。

今回は北沢分水を含めて辿ることとし、玉川上水岩崎橋からスタートすること
にする。
岩崎橋から数十メートルほど下流に下った右岸に、北沢分水の取水口が残っている。
草が生い茂る中に石柱があり、よく見ると「北澤分水」「大正四年十月」という
文字を確認することができる。
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北沢分水は、取水後、しばらくは玉川上水の南側に沿って流れていた。
残念ながら、この付近、玉川上水の南に沿う道は無く、またその先も中央高速下
の道路となるため、分水跡を確認することはできない。

環八の中の橋交差点手前で北沢分水は南へと逸れる。
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この辺りは基本的に住宅街であり流路は見つけにくいが、僅かに駐車場と畑の
間に、水路跡と見られる場所がある。
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この先の住宅の間を抜けた後、水路は東へと向きを変える。
環八手前では、一般道の歩道(とは言っても歩道の方が広い)となっている。
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ここで水路の南にある医王寺に立ち寄ってみる。
杉並区設置の説明板によると、承和元年(834)弘法大師が東国を巡行した際、
箱根山で彫った薬師如来像を海星和尚が上高井戸に草庵を建て、本尊として
安置したのが草創といわれている。
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墓地から出た板碑の中に、文和5年(1356)と応永7年(1400)のものなどが
あり、開山の古さを物語っている。
江戸時代以降、「おめだま薬師」「眼病にきく薬師様」といわれ、毎月12日
に市が開かれていた。
元々は南側の甲州街道沿いにあったが明治初期に廃寺となり、大正13年
(1924)現在地に再興した。

その旧境内の参道には湧水による薬師池という池があり、眼病平癒のため放した
魚が一眼になるという伝説がある。
現在も医王寺から南に数十メートルほど行った住宅街の中に薬師池の一部が残って
おり、その脇を水路跡(こちらは烏山川の支流で、この先、環八の東側を南へと
流れる)を確認することができる。
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余談になるが、この薬師池訪問時に、近隣の方のお話を伺うことができた。
池脇の水路の上流は、更に西へと伸びており、農地内にあった上流端の湧水は
かなりの量であったそうだ。、
そして、この小さな池にはその水路からの水が流れ込んでいた。
またこの付近は沼地で、現在のように住宅が立ち並ぶのは想像できなかったとも
仰っていた。

話を北沢分水に戻そう。
分水は環八を渡り東へと続くが、その先も一般道脇には歩道が続く。
道路は真っ直ぐと南東方向に向かっているが、蛇行していないところに人工的
な水路であることを感じさせる。
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暫く行くと北沢分水は二手に分かれる。
現在では住宅街の単なる三叉路であるが、古地図にはこの場所で分岐していた
ことが記されている。
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2つの水路は南北もしくは東西に並行して流れ、かつてはその間に田園が
広がっていた。
参考文献とした『ふるさと世田谷を語る』によれば、南側の流れを上堀
(下流で水車堀と江下山堀にさらに分かれる)と称し、北側の流れを下堀
といった、
上堀は川幅2m、深さ2mぐらいだったが、下堀は川幅が3~4m、深さ
も4mほどあったという。(通常は膝下ほどの水嵩)
この先は下堀を進んでいくことにする。

下堀は数十メートルほど北へと進んだ後、東へと向きを変え、その後再び
南へと転じる。
その先、甲州街道を渡ることになるが、その前後では細い暗渠道が続く。
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その暗渠道は上北沢小学校に行く手を遮られるが、小学校の南から京王線
までの区間では、コンクリート蓋暗渠が顔を見せる。
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京王線を越えると水路は都立松沢病院の敷地の東側を流れていたようだが、
現在は一般道となっており、痕跡を見ることはできない。
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その先、病院に接した場所に将軍池公園がある。
将軍池そのものは松沢病院の敷地内にあり、精神科を標榜する病院のため、
中に入って見ることは難しかったが、地元自治会の要望により平成24年、
敷地の一部が将軍池公園として開園し、将軍池およびその中にある加藤山
を眺めることができるようになった。
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前述の通り、自然河川としての北沢川の水源の一部は松沢病院の湧水とさ
れているが、将軍池公園は人工の池である。
公園内にある説明板を要約すると以下のようになる。
将軍池と築山は、第5代院長呉秀三のもと、加藤普左次郎医師、前田則三
看護師および多くの患者によって、屋外作業療法の一環として造られた。
大正10年7月から着手したが、完成間近の大正12年、関東大震災により
富士山型の築山が崩れ、現在のなだらかな形となった。
その後、園芸家堀切三郎の指導により、大正15年に完成した。
将軍池の名は、作業に参加した患者で自称「将軍」葦原金次郎に因んだもの
であり、築山の加藤山は加藤普左次郎医師に由来している。


下の写真は掲示板にあった昭和前期の築山散歩風景である。
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将軍池公園から数十メートルほど行くと、水路は遊歩道へとなる。
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下掘の遊歩道を進んでいくとその先、日本大学のグラウンドに突き当たって
しまう。
グラウンドの南に沿う遊歩道に迂回することになるが、こちらは将軍池から
の流路である。
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その南には勝利八幡神社が鎮座する。
万寿3年(1026)、京都の石清水八幡宮より勧請したのが創建とされる。
社名の勝利八幡神社は通称、戦争の都度、勝利祈願のために人々が詣でた
ことに由来するという。
今でもスポーツ関係者などの参拝が多いと聞く。
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左内弁財天がある小公園に達するが、この辺りで上堀と下堀、そして将軍池
からの流路が合流する。
131123_075.jpg
この左内弁財天については逸話があるが、その逸話を公園内にある説明板
から引用してみよう。

鈴木左内家の娘は周囲がうらやむほどの美しい娘でした。ある日この娘が
井の頭の池に遊びに出かけたところ、井の頭池の竜神が娘を見初めました。
竜神は美男子に姿を変えて娘の前に現れ、娘もその若者に恋をするように
なりました。その若者が自分の正体は竜神であることを娘に告げたところ、
娘は初めは驚いたものの、その若者に嫁ぐことを決心しました。
娘は、家に帰った後、病にかかりました。父母は心配しましたが、日ごと
に容体が悪化するので、ついに諦めて娘を井の頭池に連れていきました。
娘は泣きながら祈ったあと、池に身を投げました。すると水面に巨大な蛇が
現れ、再び水底に消えていきました。この後、鈴木家では弁財天を祀るよう
になったといいます。


前掲の『ふるさと世田谷を語る』には「用水を管理していた水元が秦氏とい
う帰化人だったということで、この秦氏と村の有力者鈴木家の娘との恋愛問
題がおこったことは、民話にまで残る騒ぎとなった」とあり、この逸話には
そのような背景があったようだ。

《参考文献》
『ふるさと世田谷を語る 上北沢・桜上水・赤堤・松原』 世田谷区



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松庵川

松庵川は西荻窪付近から流れ、松庵・宮前辺りを経由して松見橋下流で合流
する善福寺川支流としては最長の水路である。
松庵川というのは正式名称ではなく、郷土史家が命名したものらしく、地元では
大宮前大下水」とか「大宮下大下水」とも呼ばれていたらしい。
「杉並の川と橋」(杉並区郷土博物館編)には下記のように記載されている。
鉄道敷設用土採取跡地の池は、西荻窪駅の西に線路を挟んで二ヶ所あった。
一つは松庵窪の男窪であり、もう一つは女窪である。
この下水路は、杉並に隣接する吉祥寺の悪水処理を甲武鉄道敷設工事に伴う
工事用土採掘後の湧水と共に処理するために造られた。

この記載によれば松庵川は人工水路のように見受けられるが、歩いてみると
河川の周囲は僅かながらの窪地となっており、もともとあった自然河川を流用
した下水路といったほうがよいであろう。
ただし、カクカクと曲がっていく場所が多数見られ、人工的な改修が行われた
ことは容易に推察できる。

ということで西荻窪の西側からスタートすることにする。
中央線の北側に広がるのは女窪、現在は吉祥女子中学・高等学校がある。
周囲は住宅街だが、道路の形状から、僅かに窪地であることが感じられる。
(写真では判りづらいが、道路の奥が小さい坂となっている)
131116_009.jpg

中央線の南側に並行する道路に来ると、駅に向かって上っていることが
はっきりとわかる。
131116_012.jpg

こちらは駅から南へと通じる道路、駅から百メートルほどの地であるが、
窪地が確認できる。
131116_015.jpg

駅の南側、商店や住宅が立ち並ぶ中を、暗渠道が続く。
131116_017.jpg

川筋は住宅の中をジグザグと進んだ後、そよかぜ通りと称する一般道に
出てくる。
写真左の金網からは開渠(とはいっても水は流れておらず、雑草が生い茂る)
を確認することができる。
131116_024.jpg

暗渠は通りの歩道となってを東へと進み、高井戸第四小学校の前を通る。
前掲の「杉並の川と橋」によれば、小学校建設時、「大宮前下水の汚水停滞、
汚染甚だしく保健衛生上からも改修しておかないと、万一の洪水によって
新設の学校が被害を受けるということがあってはいけないので、至急改修して
欲しい」という陳情が住民から出されている。(ちなみに創立は昭和14年)
現在、松庵川の暗渠は歩道となって、児童の通学時の安全を確保している。
131116_027.jpg

杉並の暗渠の象徴というべき、金太郎の車止め。
131116_032.jpg

松庵川は一旦、北へと転じ、神明通り沿いを流れる。
通り沿いには、コンクリート蓋暗渠と、古い柵が確認できる。
131116_039.jpg

百メートルほど進んだ後、再度南へと向きを転じ、住宅街の中を進む。
131116_042.jpg

住宅の間をクランク状に流れ、道路との交差部分ではコンクリート舗装を
見ることができる。
131116_049.jpg

その先は畑の中に入ってしまうため流路を見失うが、五日市街道沿いの
慈宏寺の墓地内にコンクリ蓋暗渠を見つけることができる。
131116_055.jpg

その慈宏寺は寛文十三年(1673)創建の日蓮宗の寺院、大宮前新田開墾の
名主井口杢右衛門が開基し、南大泉妙福寺の慈宏院日賢上人を招いて開山した。
弘長元年(1261)日蓮聖人が伊豆の伊東に流される時に、日朗上人が鎌倉
にて見つけた荒布を巻き付けた流木から彫ったという「荒布の祖師」2体のうち
の1体を安置する。
131116_052.jpg

慈宏寺に隣接して春日神社がある。
旧大宮前新田の鎮守で、万治年間(1658~1660)に、井口八郎右衛門の勧請
によって創建されたと伝えられる。
社殿前の「大宮前鎮守」の石碑は、この地域の地名変更に伴って(現在は
「宮前」という地名)「大宮前」の地名を保存する意図で造立されたと言
われている。
131116_059.jpg

この先、大宮前体育館の裏を通って北へと向かい、再び神明通り沿いへと出る。
残念ながら付近は住宅街となり、松庵川の痕跡は殆ど認められない。

再び松庵川を確認できるのは、旧環八の高井戸東4丁目交差点の東側。
131208_003.jpg
この南、数百メートルほどの場所には、五日市街道と旧環八の柳窪交差点がある。
その交差点名が示す通り付近は窪地となっており、この辺りの悪水も松庵川に
流れ込んでいたのだろう。

細い暗渠道は、旧環八の東側に沿って北上する。
旧環八は路線バスが走り交通量もあるが歩道が無いため、通路として利用
されているようだ。
131208_006.jpg

途中、川南方面からの支流が合流する。
環八と旧環八の間、荻窪2-21付近から200メートルほどのコンクリ蓋
暗渠が続く支流である。
131116_078.jpg

その支流との合流地点近くにあるのが日蓮宗の中道寺
天正10年(1582)、大光院日道がこの地に草庵を結んだのが開創と伝えられ、
後に元和2年(1616)に弟子の日法が大光山中道寺と称したといわれる。
鐘楼と山門を兼ねた鐘楼門は、天明元年(1781)に竣工したもので、上層は鐘楼、
下層が表門になっている。
建築当初の姿をよくとどめており、杉並区の有形文化財に指定されている。
131208_018.jpg

松庵川の暗渠は、松渓中学校の北側をかすめるように進む。
131208_022.jpg

松見橋の下流、100メートルほどの地点で善福寺川に合流する。
大きな流出口を見ることができるが、通常は排水はない。
川底のコンクリート板から察するに、雨天時には、松庵川流域の雨水が多量に
流れ込むのであろうか。
131208_026.jpg

《参考文献》
『杉並の川と橋』 杉並区郷土博物館編


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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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