石神井川が西武新宿線と交差する箇所の北側には、日蓮宗の
本立寺がある。
開山は日誉上人、開基は井口忠兵衛、創建は不明だが、日誉上人は慶安二
年(1649)寂、また井口忠兵衛は寛永16年(1639)に関村検地の名主を勤め
ているので、創建は寛永年間と考えられている。

毎年12月9日にはお会式が行われ、それに合わせて9日10日には東京都の
無形文化財に指定されている「関のぼろ市」が開かれ、歳末の行事として多く
の来訪者で賑わう。
石神井川は武蔵関北口の住宅街の間を通り抜けていく。

都営上石神井団地の中を流れる石神井川、両岸には桜並木が続く。

この先、右岸の台地の上には早稲田大学高等学院がある。
かつては愛宕山と言われ、太田道灌が石神井城(後述)を攻めた際に、戦勝
を祈願して愛宕権現を勧請し、布陣したところとされている。
遺構は残っていないようだが、石神井川に架かる
愛宕橋にその名を残す。

この付近では護岸改修事業が進行中であり、白い垂直護岸も所々に見ること
ができる。

石神井団地付近でも見事な桜並木を見ることができるが、ここでも改修工事
が予定されており、桜は伐採・移植されるようだ。
残念だが、治水のためには仕方がないことなのかもしれない。

蛍橋の手前、左岸の旧早稲田通りの北に面して
三宝寺がある。
応永元年(1394) に鎌倉・大徳寺の大徳権大僧都幸尊法印によって開山さ
れた真言宗智山派の寺院。
以前は東方500メートルほどの地にあったが、石神井城落城後の文明9年
(1477)、太田道灌により当地へ移転した。
徳川家光の鷹狩の際に休憩場としても使われ、朱印地十石を与えられるとと
もに、数十の末寺をもち、府内八十八か所巡りの第十六番札所となっていた。

石神井川の北側に広がる
石神井公園を巡ってみよう。
石神井公園の西側には、三宝寺の名を冠した三宝寺池、東側には石神井池
が広がる。
かつては
三宝寺池が石神井川の水源とされ、それより上流は支流扱いであ
ったようだ。

井の頭池、善福寺池と並ぶ武蔵野三大湧水池の1つであるが、年々湧水が
減少し、現在は地下水を汲み上げて補給している。

昭和10年(1935)、「
三宝寺池沼沢植物群落」として国指定天然記念物に指
定されている。

指定当時はカキツバタ、シャクジイタヌキモやジュンサイなどが生い茂ってい
たが、昭和30年代以降、都市化に伴う湧水の減少により、池の水温の上昇や
水質悪化が進み、池の環境が大きく変化した。
そこで東京都では平成5年度より、水質改善や希少植物の保護増殖事業に
取り組んでいる。
こちらは下流側(東側)の
石神井池。ボートの貸し出し施設があるため、ボー
ト池という通称もある。
石神井池は元々あった池ではなく、武蔵野の景観を保護する目的で昭和8年
(1933)に造られた人口池。
以前は三宝寺池から流れ出た三宝寺川が流れており、大正期の地図で確認
すると川の周囲には水田が広がっていたようだ。

ここで、石神井公園の周辺にある史跡を紹介していこう。
まずは
石神井城址、池の南の一画に中世の城館の遺構があり、土塁や空
堀をみることができる。

石神井城の築城年代は不明だが、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、
都内北部に勢力をのばしていた豊島氏の居城として築城されたとする。
長尾影春の乱において、豊島泰経は長尾景春に加担して挙兵するも、文明9年
(1477)、江古田原沼袋の戦い(
妙正寺川2参照)で太田道灌に大敗を喫した。
泰経は石神井城に立て篭もるが、再度、道灌に攻められ落城する。
なお、泰経はその後、平塚城(北区上中里にある平塚神社付近)、さらに小机
城(横浜市港北区)へ敗走するが、その後、行方知らずとなり、豊島本宗家は
滅亡する。
普段は城址内は立入禁止となっており、柵の外から眺めるだけであるが、特
別公開時には内部を見学することができる。(写真は2014東京文化財ウィ
ーク特別公開時のもの)
石神井城址の西側には、
石神井台氷川神社が鎮座する。
社伝によると、応永年間(1394~1428)、豊島氏が武蔵国一ノ宮(大宮)の
氷川神社の分霊を石神井城内に祀ったことに始まるという。
石神井城落城後は、石神井郷の総鎮守として上石神井・下石神井・谷原・田中
・関の五か村の人々から崇敬された。

三宝寺池畔には
厳島神社がある。
創建年代等は不詳だが、三宝寺を別当寺とする弁天社があり、明治期の神
仏分離以降、厳島神社と改称された。

厳島神社の東側には
水神社(写真左)、向い側の洞窟には
宇賀神社(穴弁天)
(写真右)があり、共に厳島神社の境内社となっている。

こちらは
江戸名所図会に描かれた『
三宝寺池 弁財天 氷川明神 石神井城址』
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)三宝寺池西北の台地上には、
殿塚と
姫塚がある。

殿塚

姫塚
伝承によると、石神井城の落城時に豊島泰経が黄金の鞍をつけた愛馬に乗り、
池に沈み、泰経の二女、照姫も後を追って入水したという。
塚は縁者が供養のために築いたと言われている。
但し、前述の通り、泰経は落城後も逃げのびており、史実とは異なる。
また、照姫もから明治29年(1896)に出版された小説『照日の松』(遅塚麗水著)
からの話とされている。
なお、姫塚は江戸期の書物には三宝寺の住職、照日上人の塚と記されてい
るという。
石神井池の南には
稲荷諏訪合神社がある。
由緒は不明だが、江戸期から下石神井村にあった神社のうち、諏訪社と稲荷
社が明治期に合祀されたものである。

稲荷諏訪合神社近くに区立石神井公園ふるさと文化館があり、練馬区の歴史
を展示している。
2010年にオープンした施設で新しく、展示(常設展)も充実しており、石神
井公園の散策がてらの来館者も多い。(入場無料)
併設されている旧内田家住宅は、明治20年代初めに練馬区中村に建てられ
た民家を当地に移築したものである。

石神井池から石神井川までの間は
和田堀緑道が続き、緑道脇には人工の
水路が設置されている。
緑道下は暗渠となっているが、池の水は浄化・循環されているため、普
段は水は流れていない。

緑道下の暗渠は山下橋の橋詰で石神井川に合流する。
合流部には大きな排水口を確認することができる。

《参考文献》
『ふるさと練馬探訪』 練馬区立石神井公園ふるさと文化館編
『石神井公園 歴史・自然マップ』 練馬区立石神井公園ふるさと文化館編
より大きな地図で 【川のプロムナード】石神井川周辺マップ を表示
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