桃園川は高円寺の南側を東へと進んでいく。
高円寺駅から数百メートルほど南へと行くと、桃園川の作ったV字谷を見ること
ができる。

高円寺駅の南東には
氷川神社がある。
江戸名所図絵によれば、その由緒は、源頼朝奥州征伐の際、この杉並の地に
赴き、家臣(村田兵部某)が高円寺村にとどまり農民となった時、大宮の氷川神
社を勧請して社殿を建立したのが始まりという。
また、口碑によれば、天文年間(1531~1544)の創建ともされるが、詳細は不
明とのこと。
更にこの氷川神社境内には、全国で唯一の
気象神社がある。
高円寺北4丁目の馬橋公園付近に陸軍気象部(現気象庁気象研究所)があり、
昭和19年(1944)に造営された。
その後、終戦に伴う気象部解散に伴い払い受け、昭和23年9月に遷宮祭を実
施、氷川神社内に移設された。

氷川神社をさらに東へ行くと、
高円寺がある。その名の通り、高円寺の地名の
由来となった仏閣である。
宿鳳山高円寺といい、弘治元年(1555)中野成願寺三世建室宗正により開山
された曹洞宗の寺院である。

その名を知られるようになったのは、三代将軍家光が鷹狩りでしばしば村を訪
れ、高円寺でたびたび休憩したことからである。
桃園に因んで、本尊は「桃園観音」、寺は「桃寺」の名で呼ばれていたという。
元々、この付近の地名は小沢村と言ったが、正保年間(1644~48)に高円寺
村に変更された。
家光が改名させたとも言われている。
近隣の高円寺中央公園に高円寺界隈の説明板があり、大正13年頃の高円寺
付近の写真が掲載されている。
当時は田園風景が広がっており、電線の場所が桃園川であるという。

桃園川の南側、高円寺南2丁目には数軒の寺があり、ちょっとした寺町となっている。
各寺の入口には杉並区教育委員会による説明板があり、それぞれ趣きのある
古寺であるが、詳細に記載することは省略し、創建時期などを並べるのみに留
めさせていただきたい。

写真上:
長善寺 日蓮宗 天正18年(1590)開創 大正15年当地移転
写真左下:
福寿院 曹洞宗 天正19年(1591)開創 明治40年当地移転
写真右下:
鳳林寺 曹洞宗 永禄元年(1558)開創 大正3年当地移転

写真左上:
西照寺 曹洞宗 天正2年(1574)開創 明治44年当地移転
写真右上:
松応寺 曹洞宗 明暦2年(1656)開創 大正7年当地移転
写真左下:
宗泰院 曹洞宗 天正12年(1584)開創 明治42年当地移転
写真右下:
長龍寺 曹洞宗 文禄2年(1593)開創 明治42年当地移転
(写真をクリックすると拡大表示します)
いずれも江戸市中にあった寺院がこの地に移転してきたものだ。
他の地域では、関東大震災や戦災を契機に移転するといったケースの寺が多
く見られるが、ここでは区画整理や士官学校の拡張など、それぞれによって移
転してきた理由が異なり、興味深い。
桃園川は高円寺の東で環状七号線と交差する。
その場所にはアーチが架けられ、桃園川について記した説明板もある。

環七沿いの南側に高円寺図書館があるが、その図書館前に
六つ塚跡の説明
板が立てられている。
図書館の北側60メートルほどの位置に、以前、大小6つの塚があった。
大正末頃、区画整理事業による桃園川流域低湿地埋め立て事業のために塚
は取り崩されてしまったが、その際に刀などが出土しており、大田道灌と豊島
氏との戦(江古田原沼袋の戦い
妙正寺川2参照)による死者を弔ったいわゆ
る道灌塚ではないかとの説もあるが、真偽のほどは不明とのこと。

環七を過ぎても、大久保通りの北側に沿って、桃園川緑道は続く。

並行する大久保通りの南には
高円寺天祖神社が鎮座する。
創建は寛治元年(1087)、村人山下久七が、伊勢神宮へ参拝し、御分霊を賜っ
てこの地に社殿を建てて奉斎したことが始まりとされ、その後、永長元年(1096)
に村人が議り産土神となったという。

また桃園川の近くには天祖神社の場外末社である
田中稲荷神社がある。
創建年代は不明だが、神社名の由来は桃園川沿いの水田の中にあったことか
ら呼ばれたという。

神社前の道は堀之内新道と呼ばれ、中野で馬糧商を営んでいた関口兵蔵が明
治29年(1896)に私財を投げうって中野から堀ノ内妙法寺(
小沢川参照)まで
の新道をつくった。
そのことから、「かいばや道」もしくは「かいば道」と呼ばれていたようだ。
やがて杉並区から中野区へと入るが、車止めの形状や路面タイルのデザイン
が変わり、区界を越えたことがすぐに判る。

大久保通りの交差部には、かつての
宮園橋の親柱と欄干の一部を利用した
車止めがある。
親柱には昭和7年5月完成と記されている。
緑道はこの先、大久保通りのやや南を通りに並行して進んでいく。

そして緑道からやや外れるが、桃花小学校の脇には
かう志んばしと記された
欄干が残っている。(大正13年完成)
かう志んばしとは恐らく庚申橋であり、近くに庚申塔があったからと思われる。
緑道からはやや離れた場所にあるが、それはかつて桃園川が蛇行してこの地
を流れていたからであり、その後に改修され現在のルートとなった。
現在、橋脇には青梅街道の西町天神付近を源とする支流暗渠を確認することが
できる。

中野通りの交差部にあるのは
桃園橋。
緑道は中野通りより低くなっており、階段が橋の欄干の中央につながっている。

中野総合病院の北側を行く桃園川。(緑道は写真左)

緑道に桃太郎の絵を描いたタイルがある。
桃つながりで設置されたものと思いきや、歩いていくと浦島太郎やかぐや姫の
タイルもあり、ちょっと残念。

紅葉山公園下交差点近くにあるのは
三味線橋。
近くの説明板によると、三味線橋は江戸時代中頃から盛んになった新井薬師
参詣のための「薬師みち」に架けられた橋として利用された。
橋名の由来は、この辺りを通ると近くの家で弾く三味線の音が聞こえたこと
によるものだという。

その先、
堀越高校の北側を通る。
堀越高校は大正12年(1923)の創立で、芸能活動コース(現在はトレイト
コースと称する)があるため、多くの俳優・歌手などを輩出している。
アイドルたちも校舎の窓から桃園川緑道を眺めていたかもしれない。

山手通りの手前に、桃園川下水道幹線の水位状況を知らせる掲示板がある。
もちろん、雨天時以外は掲示は表示されない。
しかしながら、こういうものを見ると桃園川は地下で生き続けているように感じる。
(同様の水位計は石神井川支流の田柄川にもある。)

山手通りを過ぎると、いよいよラストスパート。
塔山小学校の北側を通り、その先、神田川へと下っていく。

大久保通りが
神田川に架かる末広橋の南側で緑道は神田川に突き当たる。
そこには「神田川」(喜多条忠作詞)の歌碑がある。

現在の桃園川幹線の合流口は末広橋の北側、全区間が暗渠である神田川の
支流の中では、一番大きな合流口であろう。

《参考資料》
『杉並史跡散歩-桃園川と高円寺の寺町を歩こう!』 杉並区立郷土博物館編
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