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桃園川 2

桃園川は高円寺の南側を東へと進んでいく。
高円寺駅から数百メートルほど南へと行くと、桃園川の作ったV字谷を見ること
ができる。
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高円寺駅の南東には氷川神社がある。
江戸名所図絵によれば、その由緒は、源頼朝奥州征伐の際、この杉並の地に
赴き、家臣(村田兵部某)が高円寺村にとどまり農民となった時、大宮の氷川神
社を勧請して社殿を建立したのが始まりという。
また、口碑によれば、天文年間(1531~1544)の創建ともされるが、詳細は不
明とのこと。

更にこの氷川神社境内には、全国で唯一の気象神社がある。
高円寺北4丁目の馬橋公園付近に陸軍気象部(現気象庁気象研究所)があり、
昭和19年(1944)に造営された。
その後、終戦に伴う気象部解散に伴い払い受け、昭和23年9月に遷宮祭を実
施、氷川神社内に移設された。
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氷川神社をさらに東へ行くと、高円寺がある。その名の通り、高円寺の地名の
由来となった仏閣である。
宿鳳山高円寺といい、弘治元年(1555)中野成願寺三世建室宗正により開山
された曹洞宗の寺院である。
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その名を知られるようになったのは、三代将軍家光が鷹狩りでしばしば村を訪
れ、高円寺でたびたび休憩したことからである。
桃園に因んで、本尊は「桃園観音」、寺は「桃寺」の名で呼ばれていたという。
元々、この付近の地名は小沢村と言ったが、正保年間(1644~48)に高円寺
村に変更された。
家光が改名させたとも言われている。

近隣の高円寺中央公園に高円寺界隈の説明板があり、大正13年頃の高円寺
付近の写真が掲載されている。
当時は田園風景が広がっており、電線の場所が桃園川であるという。
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桃園川の南側、高円寺南2丁目には数軒の寺があり、ちょっとした寺町となっている。
各寺の入口には杉並区教育委員会による説明板があり、それぞれ趣きのある
古寺であるが、詳細に記載することは省略し、創建時期などを並べるのみに留
めさせていただきたい。
高円寺寺町1
写真上: 長善寺 日蓮宗 天正18年(1590)開創 大正15年当地移転
写真左下:福寿院 曹洞宗 天正19年(1591)開創 明治40年当地移転
写真右下:鳳林寺 曹洞宗 永禄元年(1558)開創 大正3年当地移転

高円寺寺町2
写真左上:西照寺 曹洞宗 天正2年(1574)開創 明治44年当地移転
写真右上:松応寺 曹洞宗 明暦2年(1656)開創 大正7年当地移転
写真左下:宗泰院 曹洞宗 天正12年(1584)開創 明治42年当地移転
写真右下:長龍寺 曹洞宗 文禄2年(1593)開創 明治42年当地移転
(写真をクリックすると拡大表示します)

いずれも江戸市中にあった寺院がこの地に移転してきたものだ。
他の地域では、関東大震災や戦災を契機に移転するといったケースの寺が多
く見られるが、ここでは区画整理や士官学校の拡張など、それぞれによって移
転してきた理由が異なり、興味深い。

桃園川は高円寺の東で環状七号線と交差する。
その場所にはアーチが架けられ、桃園川について記した説明板もある。
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環七沿いの南側に高円寺図書館があるが、その図書館前に六つ塚跡の説明
板が立てられている。
図書館の北側60メートルほどの位置に、以前、大小6つの塚があった。
大正末頃、区画整理事業による桃園川流域低湿地埋め立て事業のために塚
は取り崩されてしまったが、その際に刀などが出土しており、大田道灌と豊島
氏との戦(江古田原沼袋の戦い 妙正寺川2参照)による死者を弔ったいわゆ
る道灌塚ではないかとの説もあるが、真偽のほどは不明とのこと。
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環七を過ぎても、大久保通りの北側に沿って、桃園川緑道は続く。
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並行する大久保通りの南には高円寺天祖神社が鎮座する。
創建は寛治元年(1087)、村人山下久七が、伊勢神宮へ参拝し、御分霊を賜っ
てこの地に社殿を建てて奉斎したことが始まりとされ、その後、永長元年(1096)
に村人が議り産土神となったという。
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また桃園川の近くには天祖神社の場外末社である田中稲荷神社がある。
創建年代は不明だが、神社名の由来は桃園川沿いの水田の中にあったことか
ら呼ばれたという。
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神社前の道は堀之内新道と呼ばれ、中野で馬糧商を営んでいた関口兵蔵が明
治29年(1896)に私財を投げうって中野から堀ノ内妙法寺(小沢川参照)まで
の新道をつくった。
そのことから、「かいばや道」もしくは「かいば道」と呼ばれていたようだ。

やがて杉並区から中野区へと入るが、車止めの形状や路面タイルのデザイン
が変わり、区界を越えたことがすぐに判る。
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大久保通りの交差部には、かつての宮園橋の親柱と欄干の一部を利用した
車止めがある。
親柱には昭和7年5月完成と記されている。
緑道はこの先、大久保通りのやや南を通りに並行して進んでいく。
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そして緑道からやや外れるが、桃花小学校の脇にはかう志んばしと記された
欄干が残っている。(大正13年完成)
かう志んばしとは恐らく庚申橋であり、近くに庚申塔があったからと思われる。
緑道からはやや離れた場所にあるが、それはかつて桃園川が蛇行してこの地
を流れていたからであり、その後に改修され現在のルートとなった。
現在、橋脇には青梅街道の西町天神付近を源とする支流暗渠を確認することが
できる。
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中野通りの交差部にあるのは桃園橋
緑道は中野通りより低くなっており、階段が橋の欄干の中央につながっている。
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中野総合病院の北側を行く桃園川。(緑道は写真左)
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緑道に桃太郎の絵を描いたタイルがある。
桃つながりで設置されたものと思いきや、歩いていくと浦島太郎やかぐや姫の
タイルもあり、ちょっと残念。
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紅葉山公園下交差点近くにあるのは三味線橋
近くの説明板によると、三味線橋は江戸時代中頃から盛んになった新井薬師
参詣のための「薬師みち」に架けられた橋として利用された。
橋名の由来は、この辺りを通ると近くの家で弾く三味線の音が聞こえたこと
によるものだという。
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その先、堀越高校の北側を通る。
堀越高校は大正12年(1923)の創立で、芸能活動コース(現在はトレイト
コースと称する)があるため、多くの俳優・歌手などを輩出している。
アイドルたちも校舎の窓から桃園川緑道を眺めていたかもしれない。
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山手通りの手前に、桃園川下水道幹線の水位状況を知らせる掲示板がある。
もちろん、雨天時以外は掲示は表示されない。
しかしながら、こういうものを見ると桃園川は地下で生き続けているように感じる。
(同様の水位計は石神井川支流の田柄川にもある。)
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山手通りを過ぎると、いよいよラストスパート。
塔山小学校の北側を通り、その先、神田川へと下っていく。
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大久保通りが神田川に架かる末広橋の南側で緑道は神田川に突き当たる。
そこには「神田川」(喜多条忠作詞)の歌碑がある。
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現在の桃園川幹線の合流口は末広橋の北側、全区間が暗渠である神田川の
支流の中では、一番大きな合流口であろう。
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《参考資料》
『杉並史跡散歩-桃園川と高円寺の寺町を歩こう!』 杉並区立郷土博物館編



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テーマ:東京 - ジャンル:地域情報

桃園川 1

荻窪の北、天沼弁天池に端を発し、中央線沿いに東へと流れる神田川の支流、
桃園川
かつては、流域の水田を潤していた桃園川も都市化の波に押されて汚染され、
また大雨のたびに氾濫を繰り返すため、昭和42年に暗渠化された。
今も地下には、桃園川幹線という下水道幹線が遊歩道の地下を通る。

「桃園」の名は、江戸時代初期に高円寺境内に桃の木が多かったから、将軍
から地名を「桃園」と沙汰があったことに由来するという。(杉並区設置の
案内板より)
また、八代将軍吉宗は鷹狩りでこの地を訪れ、御立場を築き、紅白の桃の木
をたくさん植え「桃園」と呼ばせたともいう。
その後、中野周辺は桃の花見で有名となり、庶民の行楽の場ともなった。
その様子は江戸名所図会桃園春興』にも描かれている。
桃園春興2
                      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

また桃園川自体の名も、中野区の案内板によればかつては石神井川もしくは
石神川、そして宮園川と呼ばれた時期もあったという。
その川名については、暗渠さんぽ(namaさん)の考察が興味深い。

さて水源の天沼弁天池を訪れてみる。
かつては西武の堤義明氏の妾宅(名目上は西武ゴルフ研修所)があったようで、
その後、杉並区に売却、平成19年に天沼弁天池公園として開園している。
古くは湧水の出る直径35mほどの円形の池で、中には弁財天を祀る祠があっ
たという。
また天沼という地名は、この弁天池に由来するものとされている。
ただし、現在の池は人工池である。
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園内には杉並区立郷土博物館の分館もあり、各種催事も開かれている。
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公園の東には天沼八幡神社がある。
天正年間(1573~1591)の創建とされ、旧天沼村字中谷戸の鎮守となった。
明治40年には四面道にあった厳島神社を合祀、昭和2年には村社となっている。
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先にも記載したように、桃園川は周辺地域の農業用水として利用されたが、
湧水だけでは足りず、千川用水の分水である六ヶ村分水から引水した。
六ヶ村分水は青梅街道沿いを流れていた用水だが、その導水路跡は青梅
街道沿いの天沼3-5付近からの遊歩道に見ることができる。

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なお桃園川への引水はここだけではなく、同じく阿佐ヶ谷南3丁目付近で六ヶ村
分水からの相澤用水や、善福寺川からの天保新掘用水にみることができる。

六ヶ村分水からの導水路跡は、天沼の住宅街の歩道として続いている。
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弁天池からの本流と合流後、暗渠の遊歩道は東へと進む。
その脇には銭湯の煙突があるが、これも暗渠によくある風景、かつては
銭湯の排水を桃園川に流していたのであろう。
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阿佐ヶ谷の中杉通りの手前まで、遊歩道が続く。
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中杉通りに出て、阿佐ヶ谷駅方面へ100メートルほど歩くと、阿佐ヶ谷神明宮
がある。
当宮のサイトによれば、日本武尊が東征の帰途阿佐ヶ谷の地で休息し、後に
その武功を慕った村人が旧社地に一社を設けたのが始まりとされる。
建久年間(1190~1198)には土豪横井兵部が伊勢神宮に参拝した折、神の
霊示を受け、宮川の霊石を持ち帰り神明宮に安置したと伝えられ、この霊石
は今も御神体としてされている。
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境内には能楽殿もあり、本格的な能・狂言の上演、囃子や神楽などの伝統芸能
も披露されるという。

中杉通りを越えると、一般道となり阿佐ヶ谷の北側を進んでいく。
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桃園川の川筋は、神明宮よりやや下った谷地となっている。
阿佐ヶ谷という地名は、もともと桃園川が作る浅い谷=浅ヶ谷に由来する。

本流はこのまま一般道を進むが、細い暗渠道が分かれているのを見る
ことができる。
おそらく、かつてはこの辺りでは水田が広がり、それぞれの田に水を
ひくために幾筋かの水路が造られたのではないかと思われる。
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阿佐ヶ谷駅の東側で中央線の南に進むと、ここから桃園川緑道が始まる。
緑道はここから神田川の合流地点まで続き、迷うことはない。
緑道の入口ではカエルのモニュメントが迎えてくれる。
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一般道との交差部では石造りの車止めとともに、かつての橋名を刻んだ
小さな石柱がある。
写真の場所は馬橋、かつてはこの一帯の地名を馬橋といったが、昭和40
年の住居表示化により消滅した。
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なお、馬橋の由来には、桃園川の支流にかかる青梅街道の橋が馬でひと
またぎするくらいの幅であったことからという説、また文明11年(1479)
に太田道灌と豊島氏の間で激しい合戦があり、合戦の戦法で馬を橋代わり
に湿地をを渡ることが採用されたことから名づけられたという説などがある。

その馬橋の手前、旧宮下橋を南へと行く馬橋稲荷神社とがある。
旧馬橋村の鎮守で、創建は鎌倉時代末期と言われるが詳細は明らかではない。
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境内の参道脇には、人工の小さなせせらぎがあり、そこにある掲示によれば
かつての桃園川に思いを馳せ、作ったものであるという。
また、同神社のサイトも馬橋周辺の歴史や桃園川のことが記され、興味深い。
ちなみに、神社裏手の脇には桃園川の支流(暗渠)が流れている。

桃園川緑道はさらに高円寺方向へと延びている。
写真の地は八反目上橋跡、八反目はこの付近の小字名に由来している。
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やがて高円寺の南へと達するが、桃園川の北に真言宗の日王山長仙寺があり、
不動明王を本尊とする。
宝永元年(1704)、中野宝仙寺の住僧であった真秀がこの地に一庵を建てた
のが始まりとされる。
境内には享保9年(1724)建立の如意輪観音の石仏があるが、観音様が頬を
押え、歯が痛むような姿をしているので、歯痛に効くとして、信仰をあつくしたという。
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《参考資料》
『杉並史跡散歩-桃園川と高円寺の寺町を歩こう!』 杉並区立郷土博物館編



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逆川(北の川)

深大寺一帯の湧水を集めて流れ、野川に注ぐ約1.5kmほどの逆川、またの名を
北の川と称する。
逆川の名は、東京西部の川は西から東へと流れるのに対し、東から西へと流れる
ことから名付けられたという。ただ、地図を見る限り、全体的に逆川は西から東
へと流れている。

深大寺一帯は国分寺崖線に沿っていることもあり、多くの湧水地点があるようだが、
逆川の水源とされているのは、本堂の西、深沙大王堂の裏手にある湧水である。
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その水源から数分ほど歩いた場所に深大寺水車館がある。
かつてこの地に水車があり、明治末期に地元住民が水車組合をつくり、金を出し
合って建てた水車小屋があったという。
水車館は無料の展示施設で、かつて深大寺周辺の農村の風景写真や道具を
中心に展示物が陳列されている。
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水源から流れ出た逆川は、門前の道路に沿って深大寺方向へ向かう。
道沿いには深大寺名物の蕎麦屋や土産物屋が立ち並ぶ。
水車のある蕎麦屋もあるので、逆川そのものは知らなくても参道脇の水路を思い
浮かべる方も多いかと思う。
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右手には亀島弁財天池がある。
池の中には小島があり、弁財天を祀る小さな祠がある。
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そのまま逆川を進むと、左手に深大寺の山門が見え、入ると正面に本堂がある。
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深大寺は天平5年(733)満功上人が法相宗の寺院として開創、その後、貞観年
間(859~877)に天台宗に改宗している。
深大寺という名は水神である深沙大王に由来する。さすがに湧水が豊富なこの地
ならではの名前であろう。

深大寺
江戸名所図会深大寺』         (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

境内の池に流れ込む湧水、この池の水も逆川へと流れ出ている。
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逆川は山門の東側で南へと向きを変え、バス通りを越える。
道路を渡ると道路沿いに流れ、開渠を確認することができる。
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その先は神代植物公園分園の水生植物園へと続く。
本園は有料だが、こちらは無料で入園することができる。
この地は、かつては水田として利用されていたが、その後はヨシやガマが生い茂る
休耕田となっていた。
昭和44年に調布市が環境保全の目的で買収、その後、東京都の湿生植物
園として計画が進められ、昭和60年に開園した。
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園内は湿地帯が広がり、木製の遊歩道が続く。

水生植物園の西側の丘陵の上には、深大寺城址公園が広がっている。
深大城は「ふるき郭」と称する古城を、扇谷上杉朝興が天文6年(1537)に再
築したものと言われる。
当時、江戸城を北条氏綱に奪われた朝興は挽回を期するため、、多摩川対岸
の小沢城(稲田堤付近)に対抗するために古城を再築したが、氏綱が直接本拠
地の川越城を攻めたことから、その軍事的価値は失われ、そのまま廃城となったという。
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城址は公園として整備され、芝生広場には発掘した屋敷跡の柱を石で表現している。
また写真右の盛り土は、再現された空堀である。

植物園を出た逆川は暗渠で中央高速を潜るが、その中央高速の南側へ廻ると、
開渠となって流れていく川を確認することができる。
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はしご状開渠が下流に向かって続くが、残念ながら住宅の間を流れていくの
で、川沿いに進むことはできない。
そのため、川に並行する住宅街の中を進むことを強いられる。
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柏野小学校の西側ではコンクリート蓋の暗渠道となる。
この柏野小学校、西側をこの逆川、東側をマセ口川という2つの野川支流に
挟まれた形で立地している。
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小学校の前を通る佐須街道と交差すると再び開渠となるが、ここでも住宅の
間を抜けるように流れていく。
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その先、やっと川に沿う一般道が現われるが、すでに野川との合流点の150
メートルほど手前。
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逆川は、一の橋と大橋の間で野川に合流する。
清流が勢いよく流れ出て、階段状に落ちて野川へと流れ出ている。
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より大きな地図で 【川のプロムナード】野川・仙川周辺マップ を表示
  
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マセ口川

調布市深大寺南町四丁目にある都立農業高校神代農場を水源とする野川の支流
マセ口川(ませぐちがわ、別名:佐須用水)を追ってみた。
マセ口とは、付近の小字名から名づけられたものだが、そのマセ口という字名
の由来は不明のようだ。

まず、神代農場と三鷹通りを挟んで向かい側、青渭神社に立ち寄ってみる。
祭神は水波能賣大神・青沼押比賣命、創建年月は不明であるが、古代の先住民
が水を求めて居住した際に、祠を建て水神を祀ったと伝えられる。
かつて社前には湧水から出た大池があり、青波をたたえていたことから青波天
神社とも称されていた。
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境内には樹齢数百年という大欅があり、江戸名所図会にも描かれている。
青渭神社2
      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

さて都立農業高校神代農場からマセ口川を追い始めてみる。
前身は青年学校の射撃用地、昭和23年(1948)に農業高校の付属農場として
譲渡された。
毎週木曜日には一般公開しているそうだが、この日は土曜日のため入れず、
仕方なく西側沿いに歩いていく。
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農場沿いに歩いていくと、柵の下に池(心字池)を望むことができる。
農場内にはかなり深い谷となっており、湧水を湛えていることが想像される。
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歩いていくと中央高速手前、右手に小さな池ノ上神社がある。
絵堂(旧字名)の鎮守社で創建は不詳、明治40年(1907)に里の稲荷社と
池ノ上の稲荷社を合祀して、池ノ上神社となったとのこと。
池ノ上という名前が興味をそそる。
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その中央高速の手前から左手、谷(池ノ谷)へ下りていく階段がある。
谷へ下りると、神代農場から流れ出るマセ口川の清流を見ることができる。
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その脇、別の湧水からの小さな流れも合流している。
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ここから南へ深大寺自然広場が続くが、残念ながらマセ口川は暫く暗渠と
なってしまう。

中央道のガードを潜ると広場内に野草園がある。
園内には約300種類1万本以上があるとのことだが、開園期間は3月か
ら10月まで、また期間内においても休園日が多いので、訪問時には注意
が必要である。

その野草園の入口近くには湧水があり、かなりの水量が湧き出ている。
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また野草園の北側、中央道の盛土下から、小さな湧水がある。
野草園の係の方の話では、数年前に突如として湧き出したとのこと。
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本流は暗渠であるが、野草園内と盛土下からの湧水は、園内の水路を
流れていく。
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なお、この水路も野草園の端までいくと地下に吸い込まれ、本流の暗
渠と合流しているようだ。

自然広場を出て南へ向かうと道沿いに暗渠を確認できる。
周囲には田園風景が広がり、爽快な気分で川を追っていくことができる。
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クランク状に暗渠が曲がり、道路の蓋暗渠となる。
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柏野小学校の脇(一部校内を通る)を通り、佐須街道を渡ると、その先
マセ口川は開渠となる。
ここでも周囲は農地が広がり、マセ口川が農業用水として利用されてい
たことを実感できる。
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水門があり、その先は梯子状開渠が続く。
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駐車場の脇を流れていくマセ口川。
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野川へ近づくにつれ、周囲は住宅街になる。
水路には草が生い茂り、蔓がフェンスにからみついている。
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細田橋の脇でマセ口川はに合流する。
流出口から水が流れ落ち、1.2kmほどの小河川は終了する。
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野川 4

京王線との交差を過ぎると、野川は住宅や団地の間を抜けていく。
この先、小金橋付近からは旧野川は南へと進み、狛江市役所方面へと向かい、
六郷用水と合流していた。現流路とはかなり離れる。
旧野川は浸水被害がひどく、特に昭和41年の台風4号では600戸以上の
床上浸水の被害を出し、それを機に野川の改修が進んだという。
(『六郷用水1』参照)
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小足立橋の先で、左岸から入間川(いりまがわ)が合流する。
入間川は深大寺東町8丁目付近を源流とし、つつじヶ丘付近を経由して、当地
へ至る5kmほどの支流、三鷹市内では中仙川という別名もある。
上流部は暗渠で、開渠となるのは甲州街道以南である。
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谷戸橋から世田谷区に入る。
左岸のは野川緑地広場、右岸にはたみふれあい広場が広がる。
また左岸は成城という地名柄のためか、高級マンションも見られる。
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野川緑地広場内にはトラストまちづくりビジターセンターがある。
世田谷の自然環境や歴史的・文化的環境の保全やまちづくりを目的とする
一般財団法人世田谷トラストまちづくりによる施設である。
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館内では野川に棲息する魚を展示する水槽があるほか、野川をはじめとする
河川関係などの書籍の所蔵も充実している。

右岸には小田急線の喜多見検車区が見えてくる。
複々線化事業の一環として1994年の開設されたもので、その上部は人工
地盤となって、きたみふれあい広場となっている。
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左岸の崖線には成城みつ池の湧水があり、そこからの小さな流れが合流する。
成城みつ池は特別保護区となっており、年数回行われる観察会以外は、残念
ながら一般非公開となっている。
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小田急線と交差する手前、左岸に喜多見不動堂がある。
入口には湧水を利用した滝があり、滝不動が祀られている。
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滝の横の階段を上っていくと本堂がある。
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この不動堂は喜多見慶元寺の境外仏堂で、創建は明治9年(1876)、村内
安全、諸難消除、各願成寿のため、喜多見の住人らがこの地に建立したも
のとされる。
本尊は不動明王座像で、明治の初めの多摩川大洪水の時、喜多見河原に流
れ着いたものを成田山新勝寺で入魂したものと伝えられている。
かつては滝で、信者が水行したともいう。

小田急線を過ぎ、その後世田谷通りと交差して、更に南東方向へ流れていく。
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世田谷通りから数百メートルほど行くと、右手に次大夫堀公園の入口がある。
公園内には民家園があり、江戸時代後期に作られた古民家と土蔵、納屋などを
移築復元し、展示している。
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また公園の名が示す通り、ここでは次大夫堀六郷用水)が復元されている。
稲毛・川崎領の代官であった小泉次大夫の指揮により、慶長2年(1597)から
15年の歳月をかけて開発された農業用水で、多摩川から取水して、世田谷領
(世田谷区・大田区の一部)および六郷領(大田区)へと流れていた。
また古い地形図を見ると、次大夫掘は現:狛江市役所付近で野川の旧流路と合
流し、この先の東名高速との交差付近で分かれている。
本章の冒頭でも書いたように、この辺りの野川の流路は現在とは大きく異なって
おり、その流れを現在から想像するのは難しいほどだ。
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野川に戻り更に歩いていくと、東名高速道路が見えてくる。
将来、外環道ができた際には、ここにジャンクションができるという。
この付近、今は農地が多いが、その頃には風景がガラリと変わるかもしれない。
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その東名高速の橋脚の手前、右手から清水川岩戸川)が合流する。
狛江駅西口の弁財天池を源流とする河川で、暗渠となっている。
現在は住宅地となっている岩戸南や喜多見地区を流れているが、用水路跡と思
しき多くの水路に枝分かれしており、かつて農地だったことを彷彿とさせる河川だ。
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川は緩やかに左へと曲がり、多摩堤通りと並行する。
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その先、左から野川最長の支流である仙川が合流する。
仙川は小金井市貫井北付近を源流とし、武蔵野市・三鷹市・調布市を経由する。
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支流とはいえ、野川の延長20.5kmに対し、仙川は20.9kmと僅かながら仙川
の方が長い。(但し、仙川の上流域は、大雨時以外は水が流れていない)
また、仙川は京王線の駅名ともなっており、知名度も支流の仙川に軍配が上が
るかもしれない。
仙川からの水が合流し、水量は倍近くになる。

仙川合流後の次の橋は野川水道橋
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大正12年(1923)、渋谷町営水道が、砧下浄水場(旧渋谷町立浄水場)を
造り、多摩川から取水した駒沢給水塔(弦巻二丁目)経由で渋谷方面へ給水
したことに始まる。
当初は野川の下を通していたが、昭和35年(1960)の野川改修工事の際に、
川の上を渡ることになり、水道管に併設して歩道橋が架設された。
平成18年(2006)の改修工事で、再び水道管は川下へと移設されたが、橋の
名前は元の名前を継いでいる。

川沿いには野川水道橋の説明とともに、当時の水道管などが保存・展示している。
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次の吉沢橋も、また変遷が興味深い橋である。
吉沢橋は、東急砧線(玉電)の鉄橋として、砧線の開業(大正12年(1924))
に伴い架けられた。
東急砧線は二子玉川園(現:二子玉川)-砧本村間を結ぶ約2.2kmの路面電車
で、当初は多摩川の砂利輸送も担っていた。
昭和44年(1969)に廃止されるが、現在でも同区間に代替バスが走る。
下の写真は、吉沢橋の中央に設置されている説明碑に掲載されていたものである。
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また吉沢橋から東側、二子玉川付近まで軌道跡は遊歩道となっている。

自動車学校を左に見て歩いていくと、多摩川の河川敷にグラウンドが広がって
いるのが見える。
遠くに見える橋は、新二子橋。
130907_188.jpg

野川は東急田園都市線の二子玉川駅の橋下で多摩川に合流する。
130907_193.jpg

合流地点
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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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