野川 2

小金井街道が架かる新前橋の先で、前原小学校の下を抜けてきた現水路と旧
水路は合流し、再び野川沿いを歩けるようになる。
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その新前橋の北側、前原坂下の交差点脇に金井原古戦場碑がある。
南北朝時代の正平7年(1352)、南朝方の新田義貞の子義宗・義興等と、北朝方
の足利尊氏がこの地、金井原から人見原(府中市)にかけて戦が繰り広げられた。
双方10万の軍勢というから、相当大きな戦いが繰り広げられたのだろう。
この戦いで足利方は敗走し、石浜(諸説あるが、荒川区の隅田川沿いが有力)にて
軍勢を立て直し、その後、新田勢を打ち破る。
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その北東、国分寺崖線下にある真言宗豊山派の金蔵院、創建年代は不詳だか、
「新編武蔵風土記稿」によれば、永禄9年(1566)、阿闍梨尭存が中興したと言
われる古刹である。
江戸時代は天満宮(現小金井神社、後述)の別当寺であった。
明治6年(1874)には公立小学校の尚絅学舎が置かれ、その後、大正期には、
小金井村役場が置かれた。
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そのすぐ南には浄土真宗本願寺派の雲龍山西念寺がある。
元和7年(1621)、本願寺別院の末寺として釈宗練法師が江戸浜町に開いたが、
明暦3年(1657)の振袖火事により本願寺別院とともに築地へ移転、更には関
東大震災で被災、昭和3年(1928)に当地へ移転した。
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天神橋を北へ行くと、その橋名の由来ともなった小金井神社が鎮座する。
創建は元久2年(1205)と古く、当時の里人が菅原道真公のの徳を敬い社殿
を建立、天満宮と称したという。
明治3年(1870)に小金井神社と改称、小金井の里の総鎮守として崇敬された。
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その先、左岸の国分寺崖線下に洋画家・中村研一のアトリエ跡をはけの森美術館
(旧中村研一記念美術館)として公開している。
美術館裏の庭は美術の森として整備されており、ここにも湧水が見られる。
東京の名湧水57選指定)
また、美術館前の崖下を通る道はハケの道とよばれている。
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美術館裏から流れ出た湧水はハケの道と交差し、その先はけの小道と名づけられた
細い遊歩道に沿って流れ、野川へと注いでいる。(但し野川合流付近は暗渠)
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小金井新橋の先から武蔵野公園の中を流れる。
昭和39年に開園された都立公園で、約23万7千㎡の広さを持つ。
川の左岸に広がる草地は野川第2調節池、普段は遊び場として開放されている。
(その下流に第1調節池がある)
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公園の北側に新しく階段ができた。
崖上の住宅街からにアクセスが良くなり、また災害時の避難路としても確保され
たようだ。
こうして見上げると、改めて国分寺崖線(ハケ)を実感できる。
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西武多摩川線が見えると武蔵野公園は終わりとなる。
その西武線に沿っているのが二枚橋(写真は下流側がら撮影)。
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この二枚橋には、大蛇伝説が複数存在するようだが、その一つを紹介する。
江戸期、ここには一本の丸太橋があり、小金井とこの南にある染屋村を結ぶ交通
路であった。
染谷の庄屋の息子は小金井の山守の娘と恋仲になり、夜毎、この橋の袂で逢瀬を
重ねていた。やがて庄屋の耳に入って怒りを買うこととなり、二人は激流の野川
に身を投げてしまった。
その後、娘の怨念が大蛇となって住みつき、もう一本の丸木橋に化けて村人を惑
わし、川の中に落としていた。
このことから二枚橋と呼ばれたという。(或るは庄屋が供養にと大木を二枚に割
って立派な橋を作り、霊を慰めたという説にある)

二枚橋の先、今度は野川公園が広がる。二枚橋が架かる道路を挟んで2つの公園
が連続している形となっている。
この野川公園は昭和55年の開園、面積は約40万㎡と、更に広い。
以前は隣接する国際基督教大学のゴルフ場だったそうだ。
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公園内の野川の北側には自然観察園がある。
四季折々の野草や野鳥、昆虫などが見られ、花々にカメラを向ける人々も多く
見かける。
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櫟橋の先にはわき水広場があり、流れる湧水で水遊びをできるようになっており、
多くの家族連れで賑わう。
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野川は富士見大橋で東八道路の南側へと抜ける。
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御狩野橋で交差する人見街道を西へ100mほど行くと、新撰組組長近藤勇の墓
がある龍源寺がある。
慶応4年(1868)、勇は板橋で斬首されるが、甥の宮川勇五郎(後に勇の娘たま
と結婚し近藤家を継ぐ)は肩の鉄砲傷を目印に首のない遺体を掘り起こし、生家
近くの龍源寺に葬った。
(但し墓所は板橋など他にもあり、遺体の行方には諸説あるようだ。)
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さらに西へ100mほど行くと、野川公園本門脇に近藤勇の生家跡がある。
敷地内には産湯の井戸が残る。
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近藤勇は天保5年(1834)、上石原村の豪農、宮川久次郎の三男として生まれた。
昭和18年に軍部による調布飛行場建設の際、滑走路の延長線上にあるという
理由で立ち退きを要請され、取り壊されてしまった。
現在でもこの頭上を飛行場に離発着する飛行機が通過する。

野川は近藤勇の目にどう映ったのだろうか。

《参考文献》
『小金井市の歴史散歩』 小金井市教育委員会編


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野川 1

野川は、国分寺市東恋ヶ窪の日立製作所中央研究所内の大池を源として、世田谷区
玉川1丁目(二子玉川駅付近)で多摩川に合流する全長20.5kmの一級河川である。
川の北側には国分寺崖線(通称:ハケ)があり、崖線から湧き出る水などを集め
て流れていく。
古く(先史時代)は、古多摩川の川筋とされ、その古多摩川が国分寺崖線を形成
していったとされる。

まずは野川の源流である日立製作所中央研究所内の大池
普段は閉ざされ武蔵野の自然が守られているが、春(4月)と秋(11月)の年2回、
一般公開が行われ、開放日には多くの見学者で賑わう。
(写真は2010年春公開時のもの)
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その大池の北側にある湧水地点、園内にはこの他にも数箇所の湧水があるようだ。
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大池の水は、西武国分寺線およびJR中央線を潜って線路の南側へと流れ出る。
いよいよ野川のスタートである。
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この地点は国分寺駅から西へ10分ほど歩いた場所にあるが、途中、急坂を
下りていく。
国分寺崖線の凄さを感じることができる。

野川は暫く住宅街の中をはしご状開渠となって進んでいく。
残念ながら川沿いを歩くことができる箇所は殆ど無く、近くの道路に迂回して
歩かざるをえない。
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国分寺街道が架かる一里塚橋の上流側で元町用水が合流する。
元町用水は、武蔵国分寺付近の真姿の池湧水群を水源として、当地で野川に
流れこむ。
途中、お鷹の道と称する遊歩道が水路沿いに整備され、国分寺市の観光地の
一つとなっている。
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合流地点脇には、天保3年(1832)建立の石橋供養塔、延享2年(1745)建立
の庚申塔および不動明王碑(建立時期不明)がある。
石橋供養塔については、由来説明板に「常に人に踏まれている石橋を供養す
る意味と、石橋を渡って村内に疫病や災いが入り込むのを防ぐ意味があると
伝えられています
」との記載されている。
石橋供養塔
(写真左:石橋供養塔、写真右:庚申塔および不動明王碑)

さらに野川の北、国分寺駅の南側に都立殿ヶ谷戸庭園がある。
大正2年(1913)から4年にかけて、江口定条(後の満鉄副総裁)の別荘として
整備され、昭和4年(1929)には三菱財閥の岩崎家の別邸となった。
園内の湧水は東京の名湧水57選にも指定されている。
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そして、園内の次郎弁天池から出た水は暗渠として流れ、もみじ橋脇で野川に
合流している。

その先も、国分寺南部の住宅街を突き進む。
途中には直角に曲がるという珍しい光景を見ることもできる。
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鞍尾根橋の脇で、東京経済大学キャンパス内の新次郎池からの流れが合流して
いる。
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新次郎池は、周囲の5箇所から水が湧出し、以前はわさび田として利用されて
いたという。
北澤新次郎学長の時代(1957~67在任)に池として整備されたことから、新次
郎池と呼ばれるようになった。
東京の名湧水57選の指定を受けている。
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この鞍尾根橋を境に、野川の様相はガラリと変わる。
川の両岸には緑地帯が広がり、川辺を歩くことができるようになる。
この川辺の緑地帯は下流まで続き(中流以降は立入り不可)、人々の憩いの場
として、また多くの野鳥などの生活の場として活用されている。
このような護岸整備は、都区内の他の中小河川にはあまり見られず、野川の特
徴となっている。
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西之橋付近の左岸では、旧流路跡を利用した散歩道がある。
野川の旧流路跡はここだけではなく、この先も何箇所に見られる。
現在は河川整備の結果、緩やかな流れとなっているが、以前はかなり蛇行して
いたことが判る。
散歩道の脇には人工水路が設けられ、子供達の遊び場にもなっている。
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その先、野川の北側に貫井神社がある。
境内のひょうたん池に架かる赤い橋が鮮やかだ。
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創建は天正18年(1590)貫井弁財天と称して祀った。
明治維新の神仏分離令により、明治8年(1875)厳島神社と改称、更には貫井村
字一ノ久保鎮座の貫井神社を合祀、以降、貫井神社と称した。

神社本殿の左奥に湧水があり、ここも東京の名湧水57選に指定されている。
先ほどの旧流路遊歩道脇の水路の水は、この湧水から取り入れている。
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また大正12年(1923)には、湧水を利用して、長さ50mのプールが造られた。
(昭和48年廃止)
神社前にある貫井プールの碑には、青少年の体育向上と精神鍛錬に貢献した
と記載されている。
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貫井神社に隣接しているのが、真言宗の貫井山真明寺、かつては貫井弁財天
の別当寺であった。
創建年代は不詳、一説には永祿12年(1569)海宥の中興とも伝えられるが定
かではない。
延宝6年(1678)、大日堂と合併して当地に移転されたとされる。
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荒牧橋の先で、滄浪泉園からの支流が合流する。
滄浪泉園は三井銀行役員・衆議院議員などを歴任した波多野承五郎氏の別
荘地、現在は、庭園として開放(有料)されている。
国分寺崖線を巧く利用して作られた庭園で、静寂の中に小鳥たちのさえずりが
響き渡り、こちらもまた東京の名湧水57選の指定を受けている。
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池を出た水路は、遊歩道脇を流れて野川へと向かう。
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こちらが野川との合流地点。
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野川の川辺の所々に水辺に降りることができる石段があり、子供達が川遊びを
楽しむことができるようになっている。
また犬を散歩させながら川辺を歩く近隣住民の方々を見かける。
ただし緑地も放置すると雑草が生い茂ってしまうため、行政から委託された
業者が草刈りを行っている。
この環境を維持するのも、相当大変なようだ。
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やがて野川は、前原小学校の校庭の下を暗渠となって通っていく。
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その校庭の脇に野川の旧流路が遊歩道として残っている。
この水路跡を見ると、かつては狭い河川だったことがわかる。
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弦巻川 2

都電のガードから東へ足を進めると、左手に清龍院(清立院)が見えてくる。
正長元年(1428)頃に創建、当初は真言宗の寺院だったが、日蓮宗に改宗し
たという。
雑司が谷七福神の毘沙門天を祀る。
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清龍院は江戸名所図会にも描かれており、寺の下には弦巻川の流れも確認できる。
清龍院
清立院 日親堂 請雨松 宝城寺』 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

その清龍院の門前に、石橋碑がある。
木村家によって木橋から石橋によって架け替えられたことから、木村橋とよばれた。
石碑には享保18年(1733)の銘も確認できる。
また石碑の後に見える祠は白鳥稲荷という。
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再び、大鳥神社横から通じる道に戻る。
雑司が谷弦巻通り商店会と書かれた街路灯がある商店街となっている。
商店街沿いの通りには古い家屋なども見られ、昭和に戻ったようなノスタルジッ
クを感じさせる商店街となっている。
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弦巻川の川跡は確認できないが、この道の左奥を流れていたようだ。

道を歩いていくと、左手に黒い木の壁を持つ料亭がある。
ここは昭和の作家、三上寛(1903~1971)の旧宅跡である。
三上寛は戦後、吉川英治、徳川夢声らと共に池袋の映画館「人世坐」「文芸坐」
の経営にあたった。
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さらに道の右手のマンション入口には菊池寛旧宅跡の説明板がある。
菊池寛(1888~1948)は、「父帰る」などの小説・戯曲等を書いた作家であり、
文藝春秋の創始者、そして芥川賞、直木賞の設立者としても有名である。
昭和12年にこの地に転居、晩年までこの地で過ごした。
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このマンション先の道を右に折れると、清土鬼子母神堂がある。
前掲の鬼子母神堂の説明で記したとおり、境内には永禄4年(1561)、山村丹
右衛門が掘り出した鬼子母神像を清めたとの伝承がある三角井戸(星の井)がある。
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手前の石碑は芭蕉の句碑で、「此道に出て涼しさよ松の月」という句が刻まれ
ている。

下の絵図は江戸名所図会に描かれた星の井、中央に井戸が見える。
左側に描かれているのは弦巻川であろう。
清土星の清水
清土 星の清水』            (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

弦巻通りに戻る手前の小道に、暗渠マニアには有名な湧水が出ている古釜がある。
釜からコンコンと湧き出ている水を確認することができる。
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その釜がある小道を辿っていく。
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その先で首都高5号池袋線に突き当たり、右へ曲がる。
護国寺西の交差点を過ぎて、更に高速下を進んでいく。(講談社裏付近では通
行が不可能なため、音羽通りへ迂回する必要がある)
弦巻川はこの首都高のルートに沿うように流れていた。
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首都高下には児童遊園があり、水遊びができる人工水路も設けられているが、
かつての弦巻川をイメージして造られたものだろうか。
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江戸川橋の下流側に神田川への合流口を見ることができる。
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現在、下水幹線となった弦巻川は、手前で水窪川と合流し神田川へと合流して
いるが、古地図をみると、かつては江戸川橋の上流側で神田川へ直接流れ出
ていたようだ。
(神田川への放流は大雨による増水時のみ)


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弦巻川 1

池袋から雑司ヶ谷を経由して江戸川橋に至る神田川の支流、弦巻川を追ってみた。
現在は全区間暗渠であるが、一部は下水道の雑司ヶ谷幹線として今も地中に残る。

池袋西口にある元池袋史跡公園、ここに池袋地名ゆかりの池の碑がある。
説明板によると、池袋付近多くの池があり、それが池袋の地名の由来とのこと。
ここには丸池と呼ばれる池があり、池から出た流れは弦巻川として、雑司が谷村
の用水として利用されていたという。
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池袋南口のびっくりガードに通じる道路を渡ると、その先に細い道がある。
この道を辿ると、やがて山手線脇へと出る。
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線路を渡る手段が無いため、再び戻ってびっくりガードでJR線を潜る。
JR線と西武線の間の道の壁面に雑司が谷いろはがるたが描かれているが、
その中に弦巻川を描いたものがある。
八つの橋の名が記載されており、かるたの文言は「卒塔婆も鎌倉も木村も弦巻
川の橋の名」というものだそうだ。
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線路の東側、住宅街の中を蛇行する道が明治通りまで続く。
細い道と蛇行する形状が、いかにもかつての川を想像させる。
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明治通りからは、「大鳥神社参道」と書かれたアーチのある道を入っていく。
ただ通りを入っていくと、大きな看板のわりには、マンションや住宅の間を
抜けていく普通の道路であることがわかる。
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数百メートルほど行くと東京音楽大学の校舎が見えてくるが、その手前で右
に目を向けると鬼子母神堂(「きしもじん」と称するのが正しい)を見ることが
できる。
今や雑司が谷のランドマーク的存在となった鬼子母神であるが、その始まりは。
永禄4年(1561)雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土の
辺り(現:文京区目白台)から掘りだし、清土鬼子母神境内にある三角井戸
星の井でお像を清め、東陽坊という寺(現:法明寺-鬼子母神は法明寺の境外
仏堂)に納めたものと言われている。
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現在の本堂は寛文4年(1664)に造られたもので、東京都有形文化財に指定
されている。

弦巻川に戻ろう。
東京音楽大学の先、道は蛇行するが、かつての川が蛇行していた跡であろうか。
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やがて都電荒川線の踏切に達するが、その手前の右側に大鳥神社がある。
境内は鬼子母神に比べると閑散としており、先ほどの参道入口の大きな看板は
なんだったのだろうという疑問も生ずる。
(但し、酉の市の際は、かなりの賑わいをみせるらしい。)
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正徳2年(1712)松平出羽守の嫡男万千代が天然痘にかかったが、託宣により
鷺明神に祈願したところ、快癒したため、鬼子母神の境内に鷺明神社として祀
ったのが始まりであるという。
維新後の神仏分離令により、明治20年(1887)、旧幕臣の矢嶋昌郁が自宅
を寄進、この地に移った。

また境内には弦巻川の暗渠化記念碑がある。
それによると昭和7年(1932)に暗渠化されたとのことであり、他の河川と
比べるとかなり早期に暗渠化されてしまったようだ。
碑文には「公衆衛生の根本的解決」といった文字を確認することができ、
昭和初期には宅地化による汚染があったことが想像できる。
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神社の北側、都電の線路沿いには、小さなV字谷がある。
弦巻川は先ほどまでの参道を離れて、こちらを流れていたようだ。
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都電がこの谷を渡るときに小さな鉄橋がある。
都電荒川線唯一の跨道鉄橋であったが、上の写真で確認できるように、
都電に沿った新しい道路の建設に伴い、閉鎖されてしまった。
下の写真は閉鎖前の鉄橋の在りし日の光景である。
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熊川分水

熊川分水は明治23年(1890)に完成した玉川上水からの分水で、熊川村(現:
福生市大字熊川)の生活用水・灌漑用水、そして酒造・製紙業の工業用水として
利用されていた。
熊川村は多摩川沿いの崖線の上に位置する水に乏しい集落で、井戸に頼ってお
いた。
古くは寛政3年(1791)に工事の願いが提出されたが実現せず、明治期に入って
からは石川弥八郎(弥八郎は襲名、本名は千代蔵)が酒造米の精白のための水車
の稼動を目的として計画、紆余曲折を経て明治19年に東京府知事へ上願書を
提出、許可が下りた。
その後、3年の歳月と総額一万円余の費用をかけて明治23年1月に完成した。

熊川分水の取水口は青梅橋の上流数百メートルの位置にあり、橋の上流から堰を
確認することができる。
かつては玉川上水南側にある神社の裏から取水口脇に近づけたようであるが、
現在は封鎖されている。
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分水してすぐは暗渠となるが、青梅橋の通りから2ブロックほど行った場所で
熊川分水は住宅の間から姿を見せる。
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奥多摩街道とJR五日市線の踏切脇を水路が流れていく。
この後、熊川分水は奥多摩街道西側の住宅街の中を流れていくことになる。
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踏切から百メートルほど行くと、広大な草叢の中を流れる。
この場所にはフェンスが張られ都有地の看板が掲げられ入ることはできないが、
森田製糸場の跡地である。
森田浪吉は明治6年(1873)、この地に東京府初の製糸所を創業した。
福生の地場産業である養蚕業を基盤に事業を拡張し、明治35年(1902)には
従業員400人という、東京府でも屈指の大企業となったという。
また森田浪吉は熊川分水開削にあたり、前掲の石川弥八郎とともに高額出資を
している。
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水路はその後、再び住宅街の中へと入っていく。
場所によっては、個人宅の庭先に熊川分水が流れている箇所もある。
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熊川分水近くにある福生院(ふくしょういん)
室町時代の創建とされ、徳川幕府の旗本、長塩氏の墓がある。
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道路の脇を流れる熊川分水。
脇にある青い掲示は「熊川分水に親しむ会」というボランティア団体による
「文化と自然を守ろう!」という掲示である。
ともすればこのような水路は暗渠化されてしまう場合もあるが、分水は地域
の人々に守られているようで安泰というところか。
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やがて右手に熊川神社が見えてくる。
平安初期に地元の長者が守護神として弁財天を祭ったのが始まりとされ、
境内には七福神全てが祀られている。(福生七福神という別名がある)
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その熊川神社脇には熊川用水の説明板がある。
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水路の所々で暗渠となる。道路沿いを流れているので、家の出入りのために
は仕方がないのかもしれない。
その暗渠の途中でも穴が開いており、水の流れる様子を見ることができる。
何気なく撮影してみたが、後からWebで調べてみると、ここはどうやら洗い場
の跡のようである。
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睦橋通りの先で熊川用水は道路から逸れて、民家の敷地内へと入っていく。
その先、更に百メートルほど歩くと、蔵造りの建物が見えてくる。
そこが石川酒造で、熊川用水はこの敷地内を貫いている。
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石川酒造は熊川村の名主であった石川家の十三代目当主の石川和吉が文久3年
(1863)に創業したもので、前述の通り、十四代目千代蔵は熊川分水の整備
に大きく貢献した。

銘酒「多満自慢」のほか、地ビールも製造している。
敷地内には売店のほか、レストランも併設しており、多くの観光客で賑わう。

石川酒造を過ぎると用水は畑の中を進んでいく。
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迂回していくと、その先、多摩川沿いの河岸段丘を滝となって流れ落ちる。
どうどうの滝と呼ばれ、その下流にある散策路から見ることが出来る。
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熊川用水は多摩川に直接流れ込むのではなく、下の川という河川に合流する。
130714_187.jpg
下の川は多摩川沿いの崖線の湧水を集める短い河川で、上流部にはほたる公園
がある。(熊川用水取水口に近い)
この先、数百メートルで下の川は多摩川に合流する。


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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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