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田村分水

玉川上水の上流部、宮本橋と宿橋の間、右岸に田村酒造場の敷地が広がる。
その宿橋の上流数十メートルにあるのが、今回紹介する田村分水福生分水
の取水口である。
130714_013.jpg

田村酒造は代々福生村の名主であった田村家の九代目勘次郎が文政5年(1822)
創業したものである。
酒造業の創業にあたり、勘次郎は敷地内各所で井戸の試堀を行った結果、ついに
奥多摩伏流水を突き当て、「嘉泉」という酒銘で酒造りを始めたという。

田村分水は、田村家が慶応3年(1867)、分水開設の願い出を出し、水車により、
精米・製粉などを行うようになった。明治・大正期には水車によりタービンを回し、
自家発電していたともいう。
田村酒造を出た分水は、この地の農業用水・生活用水としても使用されていた。
なお、田村分水は個人分水であり、大名屋敷に流れるものを除いては、個人分水
は、この田村分水と源五右衛門分水だけという珍しいものである。

田村酒造内の分水。この上流側には流れは確認できなかったので、現在は暗渠
となっているのだろうか。
130714_017.jpg

田村酒造を出た直後、分水は南側に流れていく。
分水脇には洗い場を確認することができ、田村分水を紹介する時によく使用される
地である。
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その後、分水は個人宅や畑の間を抜けていくように流れていく。
130714_032.jpg

都道に差し掛かる手前に上車(かみっくるま)水車跡の説明板がある。
その説明板によると分水には上車、中車、下車のほか共同水車も設置されていたが、
現在は跡形もないという。
ここにあった水車は1.5mほどの落差を利用した胸掛水車で、昭和15年頃まで米や
麦をつくのに利用されていた。
130714_038.jpg

開渠として田村分水を確認できるのはこの上車水車跡まで。その後は暗渠となって
しまう。
その後はしばらく郷土資料室で頂いた観光マップに記載されている水路を辿ること
になる。

その観光マップによると、分水は多摩川の土手の北側を流れているようだ。
写真左手の窪地あたりがかつての流路であろうか。
土手の上の通路は、サイクリングを楽しむ自転車と行き交う。
130714_043.jpg

その先、一般道が土手の左側に続く。
観光マップでは。この道路の左手の住宅地に分水が通っているように記載されて
いるが、痕跡は確認できない。
130714_045.jpg

五日市街道が多摩川に架かる多摩橋の先で、多摩川中央公園の水路に放流されて
いる。
土手下の放流口には「この水路は田村分水の水を利用している」との旨の掲示
がある。
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いかにも公園内の人工水路という感じで、本来の水路であるかは疑わしい。
しかしここ以外に痕跡はないようなので、この水路を辿っていくことにする。
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途中、牛浜石浜渡津跡の碑が水路沿いにある。
ここは、かつて五日市街道が多摩川を渡る渡し場だった。
130714_062.jpg
そしてここにある説明文によると、ここは南北朝時代に足利尊氏が再起した
石浜の地の跡であるという。(但し、石浜の地には諸説あり、一般的には荒
川区の隅田川沿いにあった石浜城跡とされているらしい)
観応3年(1352)、足利尊氏は人見原(府中市)、金井原(小金井市)で新田
勢と対戦し、苦戦を強いられ石浜に逃れた。
尊氏は石浜で軍勢を立て直し、小手差原(所沢市)、入間河原(狭山市)で次々
と新田勢を打ち破った。
地理的に見ると、隅田川沿いよりもこちらの方が納得がいく。

水路では子供たちが水浴びやザリガニ採りなどに興じていた。
130714_067.jpg

ホタルの養殖地を経た後、水路は多摩川方向へ向きを転じる。
130714_073.jpg

用水はJR五日市線の手前で多摩川に合流する。
水路は、手前で葦の中に入っていくため、残念ながら多摩川との合流地点は確
認できなかった。
(なお、以前の田村分水は鉄橋の先で多摩川に合流していたらしい)
130714_078.jpg


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三田用水 2

西郷山公園を過ぎると三田用水は旧山手通りに合流(正確には三田用水沿いに
道路が造られたということだろうが)、その合流地点にあるのが西郷橋、橋の下を
一般道を通る。
現在は旧山手通りの架道橋となっているが、元々は三田用水の橋だったようである。
130615_0072.jpg
また、この西郷橋の橋詰より渋谷川へと鉢山分水が流れていた。

旧山手通りを進んでいく。
道沿いには代官山のファッション街となり、カフェやブティックが入居するビル
が立ち並び、用水跡は期待できない。
スフィンクスが鎮座する建物があるが、こちらはエジプト大使館。
130615_0078.jpg

そんな中、ヒルサイドテラスの敷地内に、猿楽塚が保存されている。
六~七世紀の古墳時代末期の円墳で2基の築山があり、また塚の上には小さな
猿楽神社がある。
この猿楽塚は、付近の町名である猿楽町の由来となっている。
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その先、右手に古い家屋が見えてくるが、平成16年に国の重要文化財に指定
された旧朝倉家住宅である。
東京府議会議長や渋谷区議会議長を歴任した朝倉虎治郎氏によって大正8年に
建てられた。
木造2階建ての主屋などのほか、目黒川の崖線を利用した回遊式庭園が見所で
ある。
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初夏に訪れたが、主屋の部屋に吹き抜ける風が心地よかった。


駒沢通りを越すとその先は住宅街、用水跡のルートもはっきりとせず、
どうやら住宅街の中に消えてしまっているようだ。
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中目黒2丁目の崖上には、文政2年(1819)、幕臣近藤重蔵によって自邸内に
築いた富士塚があり、新富士として呼ばれ大勢の見物客を集めたという。
(昭和34年に取り壊し)
下の写真は、現地の説明板に掲載されていた広重筆の絵画である。
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また平成3年、この地で新富士ゆかりの地下式遺構が発見され、石の祠や
大日如来像などが出土、新富士遺跡と名付けられた。
遺跡は埋め戻され、地中に静かに眠っている。

その先は残念ながらマンションとそれに続く防衛省施設に行く手を阻まれ、
大きく迂回を強いられる。

迂回して新茶屋坂通りに出る。
ここにはかつて茶屋坂隧道があり、その上を三田用水が通っていた。今はその
脇に説明板が設置されている。
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その説明によると、昭和5年に新茶屋坂通りを開通させるために用水の下を開削
してできた長さ10メートルほどのコンクリート造りのトンネルで、平成15年、
道路拡張に伴い撤去された。
下の写真は説明板に掲載されていた平成11年当時の隧道である。
130615_0114.jpg

用水は山手線沿いにある日の丸自動車学校前に達する。
その学校脇に三田用水の説明板がある。
今までは三田用水に関する説明板は皆無だったが、ここに来て茶屋坂隧道、そ
して此処と、2つの説明板に接することができるのは嬉しい。
説明板の下の大きな石は、かつて用水の木樋の下に設置されていた礎石である。
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山手線の外側沿いに歩き、目黒駅に達する。
用水は目黒駅の南側でほぼ直角に曲がり、白金方面へと向きを変える。
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目黒駅からは目黒通りの一本南の道路を進む。
駅に近い通路とあって、通行量は多めだ。
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首都高目黒線を過ぎ更に進むと、自然教育園の先で目黒通りに合流する。
その手前の妙園寺沿いには崖があり、高輪方面を見通すことができる。
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数百メートルほど目黒沿いを歩き、その先は再び右手の住宅街に入っていく。

今回のゴール地点である高輪台駅までは、あと1kmにも満たない区間で
あるが、用水跡としてはここからが面白くなる。
まずは白金台3-12付近にある今里橋
暗渠を趣味とする方々にとってはあまりにも有名な遺構で、三田用水の
橋跡として現存する貴重なものだ。
130615_0144.jpg

その先数十メートルほど歩くと階段があり、そこに三田用水最大の遺構
がある。
かつてここでは築堤で用水を通しており、その断面が残存・展示してある。
説明板には港区教育委員会の名とともに、脇のマンションの管理組合の名
が連ねてある。
数少ない三田用水の遺構をこういった形で保存してくれることに感謝したい。
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そこから更に二百メートルほど行くと、今里地蔵尊がある。
道が二手に分かれる場所にある小さな地蔵堂であるが、元禄年間に建てられ
たものだという。
130615_0154.jpg
かつてこの付近は今里村と称し、その後に芝区白金今里町となり、昭和44
年(1969)に白金台に改称された。
白金今里町には関東地方で唯一の政府公認食肉処理場があり、すき焼き専門
店で有名な今半の「今」は、ここから肉を仕入れていたことに由来するという。

そのまま道を辿ると、都営浅草線高輪台駅前に出てくる。
この付近で三田用水は北の芝方面と南の大崎方面の二手に分かれるが、今回
はここをゴールとしよう。
130615_0158.jpg

笹塚からここまで概ね8km、用水跡の探索としては1日で歩けるちょうど
よい距離である。


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三田用水 1

笹塚で玉川上水から分水する三田用水を追ってみた。
代々木、中渋谷、上目黒、中目黒、下目黒、三田、白金を経由し、高輪で大崎
方面と芝方面へ分水されていたと言われる。
今回は高輪までの区間を追ってみることにする。

三田用水が開削されたのは、寛文4年(1664)、玉川上水創設の11年後のこ
とである。
当初は上水(飲料用)として造られ、松平讃岐守の下屋敷(白金御殿と称され
る)の雑用水としても使用されるとともに、余水は周辺の農業用水として使用
された。
しかし、宝永5年(1708)、白金御殿は焼失、また儒学者で八代将軍吉宗の
側近であった室鳩巣が「大火が増えた原因は上水にある」という珍説を唱え
採用されたことにより、 享保7年(1722)に三田上水は廃止される。
周辺14ヶ村の農村の陳情により、享保10年、幕府は農業用水として再開を
認める。
明治期に入ると、目黒火薬製造所において水力として使用され、また恵比寿の
ビール工場において雑用水として使用されていたが、次第に暗渠化され、昭和
49年、東京都は取水門を閉鎖し、三田用水は三百余年にわたる歴史の幕を下
ろした。

さて、最初に紹介するのは、玉川上水の項でも取り上げた笹塚駅南口のビル建
設予定地のフェンスに掲げれていた1953年頃の分水口の写真(渋谷区郷土博
物館・文学館所蔵)
130506_0087.jpg
笹塚駅周辺の過去の写真のうちの1つとして掲示されていた。
周辺には草地や畑なども確認でき、興味深い。

その分水口の現在がこちら。
笹塚駅南口から、数百メートルほど玉川上水開渠沿いを歩き、玉川上水に架か
る笹塚橋下流にある。
写真右の階段付近がかつての取水口跡のようである。
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三田用水は、数百メートルほど玉川上水沿いを流れた後に、右へと方向を変え
ていく。

井の頭通りと交差する。
向い側に都道420号線との短絡路があるが、水路跡の道であろうか。
130615_0010.jpg

都道420号線を南へと進む。
この都道は鮫洲大山線と称し、将来的には品川区東品川と板橋区氷川町を結ぶ
計画であり(タモリ倶楽部でも紹介された)、この付近でも拡張の為の用地取
得が行われつつある。
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小田急線との踏切、東北沢~世田谷代田間が地下化されて数ヶ月の時点。
まだ線路が残っていた。
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残念ながらこの付近に三田用水に関する遺構は少ないが、僅かに三角橋という
交差点名に橋の名を残す。
(この先にも二ツ橋というバス停がある。)
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東大駒場Ⅱキャンパスの正門を過ぎた辺りで南へ数十メートルほど寄り道を
すると旧前田公爵家駒場本邸がある駒場公園がある。
旧加賀百万石前田家の第16代当主前田利為の本邸として昭和4年(1929)
に欧州建築の粋を集めて建築された。
戦後一時、アメリカ極東軍ホワイトヘッド空軍司令官の官邸として接収され、
一部改修されたが、昭和39年(1964)には、東京都の所有となる。
現在は無料で一般公開されているのが嬉しい。
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道なりに歩いていくと、やがて山手通りに出る。
首都高中央環状線が開通して、この辺りの風景もだいぶ変わった。
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山手通り沿いに数十メートル南下すると歩道沿いに三田用水の管路跡がある。
僅かな区間のコンクリートの構造物であるが、点検蓋も確認できる。
首都高建設と共に実施された山手通り拡張工事にも耐えて残った。
数少ない三田用水の遺構の1つだが、説明板もなく寂しい。
できれば説明板などを設置して、保存に努めることを行政には期待したい。
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その先、用水は山手通りの1本西側の細い道を進む。
蛇行する道の形状がかつての三田用水のルートを連想させる。
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その道は井の頭線のトンネルの坑口の上を通る。
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更に山手通り(新道)や玉川通りを越えて、旧山手通りの西側を通っていく。
この付近では用水跡の細い道が渋谷区と目黒区の区界にもなっている。
写真は、山手通りと玉川通りの間の区間、ブロック塀の下に僅かに見える
コンクリート状の構造物は、かつての護岸壁であろうか。
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玉川通りを越すと、道の右手には目黒川がつくった谷が広がる。
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そのまま真っ直ぐ歩いていくと、西郷山公園の東側に出る。
西郷山公園については目黒川の項でも取り上げたが、元々は豊後国竹田城主
中川氏の抱屋敷であり、西郷隆盛の弟、西郷従道が購入し、別邸として使用
した。
邸内の池には三田用水から引かれた水が利用されていたという。
130615_0067.jpg


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小沢川

神田川の支流、小沢川は、青梅街道の五日市街道入口交差点から始まる。
青梅街道には千川上水六ヶ村分水が流れていた。その末流がここまで続いて
いたかは判らないが、青梅街道沿いにスタート地点があるということは、分水
につながった可能性もあるかもしれない。
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暗渠の歩行者道を歩いていくと、金太郎が描かれた車止めがある。
この金太郎、杉並区内の暗渠道のシンボルとして暗渠探索家には有名である
が、このように2つ並んでいるのは珍しい。
昭和47年(1972)頃からこの種の車止めが立ち始めたらしいが、既に40年
以上経過しており、最近はステンレス製の車止めに変えられつつある。
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堀ノ内葬祭場に出ると左に曲がり荒玉水道道路と交差すると、その先は寺院
の敷地の中に入ってしまう。
そこにあったコンクリートブロック、橋跡のようである。
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この堀ノ内周辺は、寺が数軒あり、ちょっとした寺町となっている。
その寺町の中で、特に広大でかつ有名な寺は、南にひろがる妙法寺である。
「やくよけ祖師(おっそさん)」としても知られる。
元来は真言宗の尼寺であったが、元和年間(1615~1624)に日逕上人が老母
妙仙院日圓法尼の菩提のために日蓮宗に改宗。
日蓮の祖師像が厄除けに利益(りやく)があるということで、江戸時代より多くの
人々から信仰を集め、古典落語「堀の内」の題材にもなっている。
江戸市内からの日帰り参拝としてもちょうどよい距離であったのだろう。
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こちらは江戸名所図会の堀の内妙法寺
妙法寺
                      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

小沢川が環七に差し掛かる箇所に、天台宗の真盛寺がある。
寛永八年(1631)出身の真観上人によって、現在の文京区湯島に開創された。
その後、谷中清水町、本所小梅寺町に移され、大正11年にこの地に移転し
てきた。
延宝元年(1673)に三井高利が日本橋に越後屋を創業して以来の三井家一門
の菩提寺で、俗に三井寺とも称される。
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境内には新鏡ヶ池という放生池(捕らえた魚類などを放してやるための池)
があり、中島には弁財天が祀られている。旧高円寺村字中小沢の地名の由来
ともなった古池で、小沢川の水源の一つである。
門前には関係者以外立入り禁止の旨が記載されている立て札があるが、数年
前に訪問、許可を得て新鏡ヶ池を撮影させていただいた。
木々に囲まれて静寂な地に水を湛える池で、池底からは水が湧き出ているの
を確認できた。
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環七を渡るとその脇に階段を下りていく歩行者用通路がある。
昼夜を問わず多くの自動車が行き交う環七の脇とは思えない光景だ。
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その暗渠道を入っていくと、道沿いの住宅とは1メートルほどの段差を見ること
ができる。
住宅につながる階段や、放水のための土管などがあり、暗渠の雰囲気を充分
に感じられる区間だ。
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歩行者用通路はほどなくして途切れ、一時的ではあるが一般道となり南下する。
その途中に交差する道路があるが、先ほどの妙法寺への参詣道(堀之内道)で
あり、江戸時代から続く古道だ。
江戸市中から青梅街道を通ってきた参拝客は、鍋屋横丁(新中野)で左折して
この参道を通って妙法寺へと至る。
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江戸の町医者が記した随筆『塵塚段』にも「新宿より寺の門前まで水茶屋、料理
茶屋、其外酒食の店m数百軒庇をならぶ、日蓮宗にかぎらず、諸宗門の人も尊
敬して、年々月々に賑わしく繁栄なり」と参詣道の繁栄ぶりが記されている。
(杉並区教育委員会説明板より一部引用)

妙法寺方面へと進むと和田帝釈天通りと称する商店街となり、道沿いには和田
帝釈天
帝釈天教会)がある。
妙法寺の参道として賑わった江戸時代末期からの小さな寺院で帝釈釈天像、鬼
子母神像、日蓮聖人座像が祀られている。
130518_0125.jpg

小沢川へ戻ると、その先、再び、暗渠道となって進んでいく。
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蛇行する箇所もあり、かつての小沢川の水流を彷彿とさせる。
130518_0102.jpg

小沢川には、もう1つ杉並区和田1-60付近を水源とする400mにも満たな
い支流がある。(清水窪と称していたらしい)
こちらの谷頭は草叢となっており、人を寄せ付けない。
そんな場所だが、杉並区と中野区の区界となっていることも興味深い。
130518_0093.jpg

支流と合流すると、小沢川は真っ直ぐと南下する。
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再び金太郎の車止め、ここを数十メートル入っていくと神田川に突きあたり、
行き止まりとなる。
130518_0085.jpg

丸ノ内線の中野富士見町駅脇にある神田川の富士見橋から合流地点を望む。
かつての合流口はコンクリートで埋められてしまっている(写真左)
130518_0081.jpg

現在は流路変更されて、富士見橋の反対側(上流方向)に小沢川の合流口
を見ることができる。
130518_0080.jpg


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ごあんない
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プロフィール

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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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