野火止用水は、小平監視所付近で玉川上水から分水し、東村山市や新座市など
を通り、志木市の新河岸川(柳瀬川との合流付近)に注ぐ約24kmの用水である。
末端は樹枝状に分かれ、菅沢・北野堀、平林寺堀、陣屋堀と称される支流を持つ。
まず、野火止用水の歴史について軽く触れておこう。
玉川上水は玉川兄弟により承応2年(1653)11月に完成するが、難工事となり、
老中の松平伊豆守信綱が指揮し完成に漕ぎつける。
信綱はその功績により、自領(川越藩)内への分水を許可され、3千両の金を
注ぎ込み、承応4年(1655)2月から僅か40日ほどの工期で、同年3月20日
に完成させる。
玉川上水から野火止用水への分水は約3割とされ、堀幅は3尺(90cm)であった。
その後の小川分水などは1尺であったことから、その規模の大きさが伺える。
野火止用水の開削と同時に、川越藩では周囲の新田開発を行い生活が豊かになっ
たことから、伊豆守にあやかって伊豆殿堀とも称されている。
西武拝島線と多摩都市モノレールが交差する玉川上水駅から数百メートルほど、
玉川上水沿いを東へ歩くと小平監視所があり、そこが野火止用水の分水地点だ。
残念ながら、かつての分水口は見られない。
玉川上水との分岐点に立つ看板は
野火止用水歴史環境保全地域を案内するもの。
東京都は、用水と周辺の緑(雑木林など)を守るため、昭和49年に都内の区
間9.6kmを保全地域として条例で指定した。

野火止用水巡りはその看板を左方向へと進むことでスタートする。
数百メートルほど行くと右手に清掃工場が見えてくる。
その手前の細い道を右に入ると、
一宮神社と称する小さな祠がある。

そこにある説明文を要約すると、神社の創建には以下のような伝承があるらしい。、
野火止用水開削当初は、「水喰土」といわれる関東の土のため、水が地下に吸
い込まれ、なかなか水は流れなかった。
開拓者のひとり、宮崎主馬は分水口の近くに祠を建て水分神と豊受神を祭って、
山の神と称し、通水祈願をした。
すると突然大雨が降り出し、一夜にして玉川上水の清流は水音をたて野火止
用水を流れたといい、それにより一宮神社という社号を賜ったと伝えられている。
西武拝島線沿いに遊歩道が続く。

遊歩道はそのまま東大和市駅前に達する。
その駅前には庚申塚とともに、かつて青梅街道に架けられていた
青梅橋の親柱
(写真左)が保存されている。
青梅橋は用水開削直後から架けられ、昭和になってコンクリート橋に架け替え
られたが、昭和38年(1963)、野火止用水の暗渠化により廃止された。

また、東大和市駅は昭和54年までは青梅橋駅という駅名であった。
拝島線が高架でクロスした先、歩道脇に人工水路が始まる。
歩道は散策道として、また駅への通路として使用されているようだ。

水路の途中にはホタルの飼育施設もある。
東大和市では、ヘイケボタルの飼育増殖に取り組んでおり、5月中旬から6月に
かけてホタルが見られるという。

野火止緑地に達すると用水は右に折れるが、その入口に
野火止用水清流の復活の碑がある。

野火止用水は戦後、周辺の宅地化により生活排水が入るようになり、また旱魃
時には分水が一時的に停止されたこともあり、水質が悪化していた。
昭和48年(1973)、分水が完全にストップした、その結果、野火止用水も荒れ
放題となったが、関係住民や自治体の努力が実り、昭和59年(1984)高度処
理水による清流が復活し、現在に至っている。
ちなみに玉川上水の清流復活事業による通水は2年後の昭和61年である。
野火止緑地に入ると雑木林が続き、用水は素堀を通っていく。

園内には親水エリアなどもあり、野火止用水を身近に触れ合うことができる
ようになっている。

野火止緑地を出ると、都営小川西町団地北側の一般道沿いを流れていく。

その先、北側に明治学院東村山高校の敷地が広がる。(高校沿いの区間は暗渠)
用水沿いに洋風建築の
ライシャワー記念館が建つ。
ライシャワー記念館はA.K.ライシャワー博士が明治学院で教鞭をとっていた際
に居住していたもので、1965年に港区芝白金から保存のため移築された。
博士の次男であるE.O.ライシャワー氏は、東洋史研究者でハーバード大学教授、
昭和36年(1961)から41年まで、駐日アメリカ大使を務めた。

同校を過ぎると再び開渠となり、歩行者用道路が沿う。
用水沿いの個人宅につながる簡易な橋も見られる。

用水は北東方向へと流れ、西武国分寺線と交差し、続いて府中街道に至る。
この府中街道の交差点付近は、かつて、江戸街道、引股道、宮寺道、秩父道、
御窪道、清戸道、奥州街道、大山街道、鎌倉街道の9つの道が交差していて、
九道の辻といわれていた。
明治以降の交通機関の発達にともなう道路の改変により、往時の九道の辻の
姿は消え失せてしまった。

西武多摩湖線を過ぎて百メートルほど行くと、用水は暗渠となる。
八坂駅や久米川駅が近いため、安全な歩道を確保する必要があったため
だろうか。

途中、西武新宿線の踏切付近で一時的の開渠となるが、暗渠は新青梅街道
の萩山町五丁目交差点まで続く。
新青梅街道を渡るとボーリング場から再び開渠が始まり、野火止用水沿い
の一方通行の道路を辿ることになる。


用水沿いに歩いていくと、左岸に
恩多野火止水車苑という公園があり、
水車が復元されている。
天明2年(1782)頃より昭和26年(1951)まで直径7.5m幅0.9mの大き
な水車があり、ヤマニ水車と呼ばれていた。
当時は上流を堰で止め、回し堀で導水し、精米、精麦、製粉の動力源とし
て使用された。
平成3年(1991)に復元されている水車は当時の水車を模したものではな
く、公園的要素を取り入れたものという。

更に歩いていくと、万年橋脇にケヤキの根が用水を跨いでいるのを見るこ
とができる。
万年橋のケヤキといい、東村山市の天然記念物に指定されている
野火止用水を掘るときに大木であったので、切らずに根の下をくぐらせた
説、掘った後に植えたもので土橋伝いに根が伸びたという説があるという。
この記事は善福寺川リバーサイドBlogに記載したものを再編集して掲載したものです。より大きな地図で 【川のプロムナード】玉川上水分水マップ を表示
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