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野火止用水 平林寺堀

野火止用水平林寺堀は新座市本多の史跡公園にある西堀分岐点で、右へと分流
し、本流の東を通って新河岸川へと流れ込む。
平林寺堀は、享保13年(1728)に分水されたとされる。

本流は史跡公園の西に沿って流れるが、平林寺堀は公園内を突き抜けるように進む。
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公園を出ると、畑と住宅の境界を進み、脇には細い遊歩道が続く。
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遊歩道は程なくして終了し、その先は一般道の歩道として水路脇の遊歩道が続く。
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西武バスの新座営業所手前でいったん暗渠となるが、200mほど行くと再び
道路の反対側(左側)に出現し、その先で関越自動車道を越える。
関越道は切り通しで通っているために、本流と同様、ここでも水路橋で道路を渡る。
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関越道を越すと水路は左に折れ、農地の中を進んでいく。
脇には遊歩道が設置され、遊歩道脇の農家には野菜の直売所もある。
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その遊歩道を数百メートルほど進むと、堀は平林寺境内へと入ってしまう。

平林寺は永和元年(1375)大田備中守の帰依によって建立された臨済宗妙心寺
派の寺院である。
当初は岩槻にあり、天正18年(1590)、豊臣秀吉の岩槻城攻めの際に戦火により
焼失、その後再建するが、寛文3年(1663)、野火止用水を開削した松平信綱の子、
輝綱が父の遺志をついで野火止に移築する。
以降、平林寺は松平家の菩提寺として、今日に至っている。
平林寺はこの地方の紅葉の名所として親しまれ、シーズンには多くの観光客・アマ
チュア写真家が訪れる。(境内の雑木林は国の天然記念物に指定)

平林寺
江戸名所図会 平林寺      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

こちらは野火止用水を開削した松平信綱の墓所。
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ここで松平信綱(1596~1662)の経歴を軽く触れておこう。
信綱は大河内久綱の長男として生まれるが、慶長6年(1601)に叔父・松平正綱
の養子となる。
徳川家光が誕生すると家光付の小姓に任じられ、その後、家光の絶大な信頼を得
て老中にまで出世する。
寛永14年(1637)に発生した島原の乱では、幕府軍の総大将として指揮し、こ
れを鎮定する。
島原の乱での功労を認められ、寛永16年、川越藩六万石の領主となる。
川越藩では、野火止用水の開削のほか、新河岸川の舟運開始、川越街道の整備、
農政の振興などにより、藩政の基礎を固めた。
家光の没後は、四代将軍家綱の補佐も務めている。

話を野火止用水に戻そう。
平林寺境内に入り、園内路を辿っていくと用水と交差する場所がある。
ただし、残念ながらそこに水の流れは確認できない。
先ほどまで流れていた水路は、境内に入ったところでわずかに確認できるが、
その後雑木林の中に入ってしまい、追うことはできない。(通路以外立入禁止)
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こちらは放生池、山門から入って左手方向にある。
かつては野火止用水の水が引かれており、その跡も確認することが出来る。
現在は地下水をポンプで汲み上げているようだ。
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先ほど境内の用水は空堀と言ったが、何故か水の流れは復活し、山門脇を通って
平林寺の東も平林寺大門通りの脇を流れていく。
水路側には歩道は設置されておらず、反対側の歩道を歩くことになる。
(通りは自動車通行量が多いため、水路沿いを歩くことは難しい)
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水路は新座市役所前まで続くが、そこで暗渠となり、この後、水流を見ることは
できない。
ここから先は、僅かに残る水路跡を探しながら歩いていくことになる。

川越街道を越えてひたすら住宅街の中の道を進んでいくことになるが、野火止
7丁目の凸版印刷工場脇にようやく用水の痕跡を見ることができる。
開渠ではあるが、水は流れていない。
工場脇という場所が水路の残存に幸いしたのかもしれない。
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武蔵野線に近いマンション脇にも、かつての平林寺堀とおぼしき窪地がある。
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武蔵野線の高架を潜り、さらに北へ行くと梅林が広がる地域があるが、その
横にもかつての護岸柵が残っている。
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朝霞市三原の住宅街の一般道を進んでいく。
特にこれといった痕跡は認められないが、蛇行する道の形状が用水跡を物語る。
道沿いの家屋とは段差は護岸跡であろうか。
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住宅街の中に突如として大きな野火止用水堀跡記念碑が出現する。
昭和58年に朝霞市と三原町会により建立されたもののようだが、野火止用水
開削の経緯が書かれ、飲料水や灌漑用水として使用されたほか、水車による
精米・製粉などに利用され、この地を潤したことが記載されている。
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東武東上線を北へと渡ると、その先は慶応義塾志木高等学校の広大な敷地
の中へと入っていく。許可を得て校内に入っていくと、グラウンド脇に堀跡が
残され、説明板が立てられていた。
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その説明板によると、校内には「山崎水車」とよばれるこの水車があり、
少なくとも明治36年(1903)まではその存在が確認できたという。
昭和48年に分水が停止、昭和51年に暗渠化、その後、昭和63年には
本校構内でも1976(昭和51)年に暗渠化、その後、1988(昭和63)年には
流路も敷地外に切り替えられた。
(説明板の内容は多すぎてここには書ききれないが、幸いにも同校のサイト
 で確認することができる。)

慶応志木高校を出ると、向い側のマンション下の遊歩道を進んでいく。
駅方面への通り道となっているのか、人通りも多い。
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遊歩道は200メートルほどで一般道となるが、その先にコンクリート蓋
の暗渠が現われる。
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そのコンクリ蓋を辿っていくと崖の中腹の細道に続く。
左側の崖下の住宅の2階相当の部分を通る形になる。
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この左に続く住宅街はちょうどU字状の谷底に広がっている。雨水が集中
するのだろうか、貯水池まで設置されているほどだ。
河川が流れてこの谷を形成し、かつてはここに田畑が広がっていたと想像
できる。用水はそれらの田畑にも水を供給していたのだろうか。

その先、水路は急坂になって地平面へと流れ落ちていく。
そして住宅と住宅の間をくねくねと進む。
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数十メートルいくと、新河岸川の土手が見えてくる。
土手の先には水門があり、新河岸川へと合流する。
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この記事は善福寺川リバーサイドBlogに記載したものを再編集して掲載したものです。


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野火止用水 3

歩道橋で川越街道を越えると、小公園があり、その中を水路が続く。
但しこの水路は人工的な水路で、親水公園となっていることから、流れる水も
先ほどまでの野火止用水の素堀を流れていたものとは異なるのだろう。
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旧川越街道を渡ると、今度は歩行者用道路が続く。
その暗渠道はJR武蔵野線の高架橋と交差し、更に北東方向へ進んでいく。
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住宅街の道路の歩道となって進む水路跡。
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やがて、野火止浄水場高架水槽が見えてくる。
児童向けのデザインが壁に描かれたユニークなものだが、Webで検索してみ
ると、老朽化および耐震の問題から、隣接地に建替えが計画されているらしい。
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遊歩道はこの高架水槽の場所でいったん終わってしまうが、新座中央通りを横
断した先で、野火止用水跡遊歩道と名づけられた遊歩道が再開する。
近隣住民への駅(志木駅)への通路となっているらしく、意外と人通りが多い。
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遊歩道は800mほど続いた後、新座市東北2-7付近で一般道にぶつかり
終了する。
この先は駅付近となり区画整理されてしまったためか、流路を辿ることはでき
ない。
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志木駅の川越寄りで東武東上線を越え、その先、志木街道の歩道にようやく用
水路跡を見ることができる。
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駅前からの県道と合流すると、その付近にいろは商店街がひろがる。
そのいろは商店街のシンボルとなっているのがカッパ、志木市には河童伝説
がいくつかあるという。
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その一つ、市内の宝幢寺に伝わる話として、以下のような伝説がある。

柳瀬川には河童が住んでいて、馬や人を襲う事件がたびたび起こっていた。
ある日、寺の小僧が川で馬を水浴びさせていると、突然、馬が川から飛び出
し、小僧が後を追いかけ馬の周りを見てみると、馬に踏まれて弱っていた河
童がいた。村人達が、河童を焼き殺そうとすると、河童は涙を流し、手を合
わせて許しを乞いた。
寺の和尚は河童の様子を見て村人に命乞いをし、河童も今後は人や馬に危害
を加えないことを誓った。
翌朝、お礼として、和尚の枕元に大きな鮒が2匹置かれていた。

この話は、民俗学者の柳田国男により、「山島民譚集」の一話として紹介さ
れ、有名になったという。

さらに道沿いには、朝日屋原薬局がある。
明治45年建築の主屋をはじめとして7棟あり、国の登録有形文化財に指定
されている。
店舗前の道路元標は旧志木町時代のものを復元したものだ。
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柳瀬川手前の市場坂上交差点付近は、かつて引又宿という宿場町があり、
その交差点脇には3つの遺跡がある。

1つめは、交差点東南にある下の水車跡(河岸の水車)、野火止用水沿い
では最も古く、玉川上水筋でも下小金井に続いて2番目に作られた水車で
あるという。
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また杵の数が14本あり、玉川上水筋では最も大きい水車であった。
文政12年(1829)に焼失したが、弘化4年(1847)の再建時には写真の
駐車場奥に移設された。

交差点の西南側にあるのが、旧西川家潜り門
江戸初期にこの地に移住、幕末には酒造業・水車業・肥料商を営んでいた
名家の西川家(志木市本町2丁目)の中庭にあった門で、平成8年の解体
に伴い当地に移設された。
建築年代は、武州一揆の刀の傷跡が扉や柱に見られることや伝承などから
慶応2年(1866)頃と推定される。
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そしてその北側にはいろは樋の大枡および登り竜の再現模型がある。
いろは樋は、野火止用水の水を新河岸川を越えて、対岸の宗岡地区に供給
するために造られた掛樋である。
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ここは、現地にある説明文を引用してみよう。

対岸の宗岡地区の大半を知行していた旗本岡部氏の家臣白井武左衛門は、
低地でありながら感慨水に乏しい宗岡地区に、それまで新河岸川にむな
しく落ちていた野火止用水の末水を引いて生産力を増大しようと考え、
宗岡地区の一部を領有していた川越藩主松平信綱の了解を得て、実行に
移すことになりました。
舟運が盛んだった当時の新河岸川を越えて水を通すには、舟の運航を妨
げないことが絶対条件でしたので、当時としては最高の土木技術を駆使
した大規模な掛樋の築設による通水の方法を考案したのです。
寛文2年(1662)新河岸川の上に長さ約260メートル、水面からの高さ約
4.4メートル、樋の幅と深さ約42センチメートルの巨大な木樋が架設され
ました。
掛樋は48個の樋をつなぎ、長さが百間以上もあることから、「いろは樋」
とも「百間樋」とも呼ばれ、当時の『江戸名所図会』にその姿が描かれて
います。
完成した掛樋は宗岡地区の水田を潤して収穫量を大幅に増大させ、地域
に大きな恩恵をもたらせてくれました。いろは樋はまさに地域発展の礎
だったのです。


こちらが上記文中にある江戸名所図会に描かれたいろは樋。
宗岡里内川
江戸名所図会 宗岡里 内川   (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

再現模型の横にはガラスケースに入ったジオラマも展示されている。
天保15年(1844)の「いろは樋絵図」に基づき、75分の1で作成
されたものだそうだ。
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そこから数十メートル歩くと、柳瀬川栄橋の脇に水門が見える。
現在の水門は柳瀬川沿いにあるものの、栄橋のすぐ下流で新河岸川
合流している。
野火止用水の終末は新河岸川と書かれているので、以前はやや下流に
あったのかもしれない。
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野火止用水 2

野火止用水は東村山市恩田付近を北東方向へと進む。
この付近、右に数百メートル行くと黒目川支流の出水川、左岸方向には柳瀬川
支流の空堀川が流れており(黒目川、柳瀬川はともに新河岸川に注ぐ)、その
分水嶺に用水を通している。
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その先、野火止通りが左岸に並行する。
恩多1丁目交差点から先は右岸の道はなくなり、その野火止通りを歩くことになる。
野火止用水側には歩道はなく、また通りは交通量が多いため、反対側の歩道を
延々と1.5kmほど歩かざるをえない。
一部は歴史環境保全地域に指定された雑木林が右岸にあるものの、用水沿いを歩
けない区間があるのは残念である。
折角の野火止用水なので改善を期待したい。
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押出し橋の交差点で新小金井街道と合流すると、道路の右側に歩道が整備され、
用水沿いを歩くことができるようになる。
ここでは用水は素堀ではなく、人工水路となっている。
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小金井街道と交差点を過ぎると、用水は水道道路と名づけられた道路の右側を
進んでいく。
この付近では、野火止用水が都県境(東京都東久留米市と埼玉県新座市)とな
っており、その境界は西武池袋線の踏切先まで続く。
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説明板も埼玉県と新座市の教育委員会によるものに変わる。
野火止用水は埼玉県指定史跡となっており、用水についての詳細な説明が記さ
れている。
同様の説明板はこの先、何箇所かでみることができる。
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西武池袋線を越えると、用水は開渠と暗渠を繰り返しながら、西堀・新堀地区
を進む。
この辺りは、古くは新座郡西堀村といい、この先にある平林寺の寺領であった
という。
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暗渠部分にあった御成橋の欄干、昭和三十六年十二月竣工の文字がある。
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こちらは西堀公園交差点脇にある道祖神。
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その先のY字路の交差点脇に史跡公園がある。
ここで野火止用水は平林寺堀(右)を分流する。
平林寺堀は、平林寺境内を通り志木駅の東側を経由して新河岸川へと流れる。
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史跡公園から数百メートル行くと、本多緑道に入る。
本多緑道は野火止用水沿いに造られた約800mの緑道で、桜の並木が植え
られ、春には桜の名所となる。
緑道沿いには広大な畑があり、東京近郊とは思えない風景も広がる。
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新座市民総合体育館が左手に見えてくると、その先、関越自動車道に突き
当たる。
用水は関越自動車道を水路橋で越える。
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関越自動車道を越えた先、用水は事業所用地の裏手を流れるため追うこと
は出来なくなるが、伊豆殿橋へと迂回すると、その先から再び緑道が始まる。
用水は平林寺の西側に沿って流れていく。
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右手の平林寺境内には雑木林が続く。
典型的な武蔵野の里山の風情をとどめる貴重な森として、国の天然記念物に
指定されており、クヌギ・コナラ・シデ・エゴなどを中心に構成され、アカ
ハラ・アオゲラ・カケスなどの鳥類も多数、棲息しているという。
およそ20年周期で伐採・植樹を行い、持続的に保存しているようだ。
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さらに進むと、左手に野火止ホタル飼育施設がある。
野火止ホタルの里として、7月上旬にヘイケボタルを公開している。
ビニールハウス内で飼育しており、かなり本格的な施設のようだ。
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平林寺を過ぎると、野火止緑道憩いの森と称するエリアを突き進む。
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川越街道の手前で野火止用水の素堀は終了する。
この先、用水は暗渠となり、新座市北部、志木市内を進んでいく。
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野火止用水 1

野火止用水は、小平監視所付近で玉川上水から分水し、東村山市や新座市など
を通り、志木市の新河岸川(柳瀬川との合流付近)に注ぐ約24kmの用水である。
末端は樹枝状に分かれ、菅沢・北野堀、平林寺堀、陣屋堀と称される支流を持つ。

まず、野火止用水の歴史について軽く触れておこう。
玉川上水は玉川兄弟により承応2年(1653)11月に完成するが、難工事となり、
老中の松平伊豆守信綱が指揮し完成に漕ぎつける。
信綱はその功績により、自領(川越藩)内への分水を許可され、3千両の金を
注ぎ込み、承応4年(1655)2月から僅か40日ほどの工期で、同年3月20日
に完成させる。
玉川上水から野火止用水への分水は約3割とされ、堀幅は3尺(90cm)であった。
その後の小川分水などは1尺であったことから、その規模の大きさが伺える。
野火止用水の開削と同時に、川越藩では周囲の新田開発を行い生活が豊かになっ
たことから、伊豆守にあやかって伊豆殿堀とも称されている。

西武拝島線と多摩都市モノレールが交差する玉川上水駅から数百メートルほど、
玉川上水沿いを東へ歩くと小平監視所があり、そこが野火止用水の分水地点だ。
残念ながら、かつての分水口は見られない。

玉川上水との分岐点に立つ看板は野火止用水歴史環境保全地域を案内するもの。
東京都は、用水と周辺の緑(雑木林など)を守るため、昭和49年に都内の区
間9.6kmを保全地域として条例で指定した。
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野火止用水巡りはその看板を左方向へと進むことでスタートする。
数百メートルほど行くと右手に清掃工場が見えてくる。
その手前の細い道を右に入ると、一宮神社と称する小さな祠がある。
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そこにある説明文を要約すると、神社の創建には以下のような伝承があるらしい。、
野火止用水開削当初は、「水喰土」といわれる関東の土のため、水が地下に吸
い込まれ、なかなか水は流れなかった。
開拓者のひとり、宮崎主馬は分水口の近くに祠を建て水分神と豊受神を祭って、
山の神と称し、通水祈願をした。
すると突然大雨が降り出し、一夜にして玉川上水の清流は水音をたて野火止
用水を流れたといい、それにより一宮神社という社号を賜ったと伝えられている。

西武拝島線沿いに遊歩道が続く。
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遊歩道はそのまま東大和市駅前に達する。
その駅前には庚申塚とともに、かつて青梅街道に架けられていた青梅橋の親柱
(写真左)が保存されている。
青梅橋は用水開削直後から架けられ、昭和になってコンクリート橋に架け替え
られたが、昭和38年(1963)、野火止用水の暗渠化により廃止された。
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また、東大和市駅は昭和54年までは青梅橋駅という駅名であった。

拝島線が高架でクロスした先、歩道脇に人工水路が始まる。
歩道は散策道として、また駅への通路として使用されているようだ。
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水路の途中にはホタルの飼育施設もある。
東大和市では、ヘイケボタルの飼育増殖に取り組んでおり、5月中旬から6月に
かけてホタルが見られるという。
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野火止緑地に達すると用水は右に折れるが、その入口に野火止用水清流の復活
の碑がある。
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野火止用水は戦後、周辺の宅地化により生活排水が入るようになり、また旱魃
時には分水が一時的に停止されたこともあり、水質が悪化していた。
昭和48年(1973)、分水が完全にストップした、その結果、野火止用水も荒れ
放題となったが、関係住民や自治体の努力が実り、昭和59年(1984)高度処
理水による清流が復活し、現在に至っている。
ちなみに玉川上水の清流復活事業による通水は2年後の昭和61年である。

野火止緑地に入ると雑木林が続き、用水は素堀を通っていく。
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園内には親水エリアなどもあり、野火止用水を身近に触れ合うことができる
ようになっている。
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野火止緑地を出ると、都営小川西町団地北側の一般道沿いを流れていく。
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その先、北側に明治学院東村山高校の敷地が広がる。(高校沿いの区間は暗渠)
用水沿いに洋風建築のライシャワー記念館が建つ。
ライシャワー記念館はA.K.ライシャワー博士が明治学院で教鞭をとっていた際
に居住していたもので、1965年に港区芝白金から保存のため移築された。
博士の次男であるE.O.ライシャワー氏は、東洋史研究者でハーバード大学教授、
昭和36年(1961)から41年まで、駐日アメリカ大使を務めた。
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同校を過ぎると再び開渠となり、歩行者用道路が沿う。
用水沿いの個人宅につながる簡易な橋も見られる。
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用水は北東方向へと流れ、西武国分寺線と交差し、続いて府中街道に至る。
この府中街道の交差点付近は、かつて、江戸街道、引股道、宮寺道、秩父道、
御窪道、清戸道、奥州街道、大山街道、鎌倉街道の9つの道が交差していて、
九道の辻といわれていた。
明治以降の交通機関の発達にともなう道路の改変により、往時の九道の辻の
姿は消え失せてしまった。
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西武多摩湖線を過ぎて百メートルほど行くと、用水は暗渠となる。
八坂駅や久米川駅が近いため、安全な歩道を確保する必要があったため
だろうか。
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途中、西武新宿線の踏切付近で一時的の開渠となるが、暗渠は新青梅街道
の萩山町五丁目交差点まで続く。
新青梅街道を渡るとボーリング場から再び開渠が始まり、野火止用水沿い
の一方通行の道路を辿ることになる。
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用水沿いに歩いていくと、左岸に恩多野火止水車苑という公園があり、
水車が復元されている。
天明2年(1782)頃より昭和26年(1951)まで直径7.5m幅0.9mの大き
な水車があり、ヤマニ水車と呼ばれていた。
当時は上流を堰で止め、回し堀で導水し、精米、精麦、製粉の動力源とし
て使用された。
平成3年(1991)に復元されている水車は当時の水車を模したものではな
く、公園的要素を取り入れたものという。
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更に歩いていくと、万年橋脇にケヤキの根が用水を跨いでいるのを見るこ
とができる。
万年橋のケヤキといい、東村山市の天然記念物に指定されている
野火止用水を掘るときに大木であったので、切らずに根の下をくぐらせた
説、掘った後に植えたもので土橋伝いに根が伸びたという説があるという。
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テーマ:東京 - ジャンル:地域情報

善福寺川 3

白山前橋から和田堀公園に入る。
といっても公園が続いているため、緑地公園との境はわからず、公園の案内図
をみるしかない。(以前は小さな杭があったが)

和田堀公園に入ると善福寺川の右岸は崖地となる。
その崖の下からは湧水が川に流れ込んでいるが、東京の名湧水57選にも選ば
れている場所である。
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左岸の和田堀公園には和田堀池があり、カモなどの水鳥のほか、多くの野鳥が
集まる場所となっている。
特にカワセミは人気の的で、休日ともなると池の周りに多くのカメラマンが
集まる。
また武蔵野園という釣堀も隣接し、こちらには太公望が集まる。
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なお以前は大宮公園と称し、すぎなみ学倶楽部によれば、戦前はウォーター
シュートがある遊園地だったという。
静寂な現在の公園からは想像もできない。

公園の東側の崖上には松ノ木運動場があるが、その脇に松ノ木遺跡が保存・
展示されている。旧石器時代~古墳時代の複合遺跡であり、古墳時代の竪穴
住居も復原されている。
善福寺川の対岸には大宮遺跡、さらに下流には済美台遺跡などがあり、善福
寺川周辺が古代の人々の生活に適した場所であったことがわかる。
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善福寺川の対岸、西側には大宮八幡宮が位置する。
大宮八幡宮の創建については、杉並区教育委員会の説明板の言葉を借りると、
平安時代末、源頼義が奥州出陣の際、当地で白雲が八つ幡のようにたなびく
瑞祥をみて、八幡大神の霊威を感じ、勝利を得ることができた。この報賽の
ため、康平6年(1063)、この地に源氏の氏神である八幡神を祀ったのが
当宮の起源である。(当宮縁起による)
とある。
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杉並南部に位置する大宮八幡宮は、初詣や秋の例大祭には混雑するほどの
人を集める。

こちらは江戸名所図会に描かれた大宮八幡宮、右下に善福寺川も見える。
大宮八幡宮
                      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

大宮八幡宮の鳥居から下った場所には宮下橋が架かる。
ここは、昭和34年3月に英国BOAC航空の客室乗務員が他殺体として
発見された場所である。
当時、民間航空機そのものが珍しい時代であり、スチュワーデスの殺人事
件として、世間の注目を浴びたのだろう。
容疑者として取調べを受けたベルギー人神父は帰国してしまい、事件は未
解決になる。
なお、事件は松本清張氏により黒い福音という題名で小説化されている。
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宮下橋を過ぎると、左岸に和田堀野球場を見ながら川は左へと曲がる。
この野球場は、調節池となっており、名称を和田堀第六号調節池という。
平成17年9月4日に起きた集中豪雨により、善福寺川・妙正寺川流域では
大規模な浸水被害が起きた。
この豪雨により、緊急整備として河川激甚災害対策特別緊急事業(激特事業)
が実施された。
激特事業として護岸整備などが行われた(後述)が、ここも元々の野球場
(調節池)を更に掘り下げ、平成20年に工事を完了させた。
なお護岸整備事業は今後も更に続く予定で、現在も宮下橋上流などで行われ
ている。
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大宮橋を過ぎると、右岸に壁打ちテニス場(ここも調節池)があり、そこに
隣接して杉並区立郷土博物館がある。
古代から近代に至る杉並の歴史を展示している常設展示場のほか、寛政年間
に建てられたとされる旧篠崎家住宅主屋などが保存展示されている。
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宮木橋~大松橋間では、右岸にサトザクラ、左岸に紅白のハナミズキが植え
られ、4月中旬~下旬には見事な花をつける。
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またこの辺りでは和田堀公園の拡張が行われ、用地買収が行われた箇所から
徐々に公園化されている。常時は区民の憩いの場として、大震災などの非常
時には広域避難所として公園を拡張整備しているようだ。

善福寺川は再び舌状台地(済美山と呼ばれる)に阻まれ、北側に大きく蛇行する。
その済美山の上には大宮中学校があるほか、陸上競技トラックを持つ運動広
場がある。以前は銀行の保養施設であったが、平成24年に田堀公園済美
山運動広場
として開放・開園された。
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荒玉水道道路が架かる済美橋を過ぎると済美公園となり、そこには善福寺川
唯一の親水広場がある。(平成26年開設)
この親水エリアは護岸整備事業に伴い新たに設けられたものであるが、水が
滞留し異臭を放つまでになったため再度工事が施され、残念ながら親水性が
薄らいでしまった。
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その先、激特事業によって整備された白い護岸が続く。
以前は、上流域同様に斜面の護岸だったが、垂直護岸に変わり無機質な感じ
となってしまった。(安全のためには仕方がないが)
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本村橋の左岸、数十メートルほど入ったところに堀之内熊野神社が鎮座する。
社伝によれば文永4年(1267)に紀州の熊野三山から勧請したことにはじま
るという。
その後、北条氏綱が上杉朝興を破り江戸を攻略した際に(大永4年(1524))
社殿を修築し祝祭を行ったとか、また寛永11年(1634)にさらに修繕を加え
たという言い伝えがあり、相当の古社であることが判る。
旧堀之内村の鎮守であり、かつては北にある妙法寺が別当をつとめていた。
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環七が架かる和田堀橋手前の左岸にあるのは環状七号線地下調節池の取水口。
神田川の項で説明した通り、総延長4.5km、内径12mの巨大トンネルが環七
の下に設置されている。
善福寺川の取水施設は神田川に遅れること10年、第2期事業として平成19
年に供用開始した。
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下の写真は、平成19年当時、完成披露会時に訪問・撮影したものである。
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環七を過ぎると、川の左右に立正佼成会の敷地があり、大聖堂、法輪閣、普門
館などの建物が立ち並ぶ。
写真の大聖堂は1964年に建設されたユニークな建造物である。
また、普門館は全日本吹奏楽コンクールが開かれ、「吹奏楽の甲子園」として
親しまれている。
(但し耐震性の問題により、2012、13年は代替地に変更)
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その先、左岸に東京都下水道局の和田ポンプ施設がある。
善福寺川の北に並行する本郷通りの地下50mに和田弥生幹線と称する雨水貯
留管が設置されている。
前述の環七地下調節池は河川に流れる水を一時的に貯留する施設であるのに対
し、和田弥生幹線は川沿いの低地に降った雨水を貯留する施設である。
そのため前者は建設局、後者は下水道局の管理となっている。
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総延長2.2km、内径8.5mと環七地下調節池に比べると小規模ではあるが、貯留
量は15万立方メートルあり、周辺地域の浸水被害防止に貢献している。
写真は先日開かれた見学会において撮影した和田弥生幹線の本管である。
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和田ポンプ施設から数百メートルほど歩くと、善福寺川は神田川に合流する。
合流地点の対岸にあるのは東京メトロ丸ノ内線の中野車両基地。
続けて神田川沿いに数分ほど歩くと、丸ノ内線の中野富士見町駅に達する。
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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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