玉川上水 7
玉川上水は暗渠になった後、現在の中央道沿いに進んでいく。
そこには玉川上水の痕跡は見つからない。僅かに昌栄橋や天神橋といった橋名
が、歩道橋の名に残すのみである。

その道路の北側に第六天神社という神社がある。
創建はあきらかではないが鎌倉時代とされ、天保年間には焼失にあい、暫くは
安政3年(1856)に再建されるまで、仮殿での運営となったという。
昭和の初め頃までは「雨乞い神楽」があり、日照りが続くと神楽を奉納した。

環八との交差点は中の橋、ラジオの交通情報で「環八外回りは中の橋先頭に渋
滞○km」という放送を聴いたことがある方も多いと思う。

更に高速脇の一般道を歩き続けると、甲州街道に合流する手前で、左に玉川上
水跡の遊歩道が出現する。
なお、写真左手に細い暗渠道があるが、これは下高井戸村分水の跡で、下高井
戸村周辺の田畑を潤し、神田川へと注いでいた。

玉川上水は甲州街道(国道20号線)の北側を公園となって続いている。
杉並区立玉川上水第三公園・第二公園と名づけられ、各所に児童遊具も設置さ
れており、近所の親子連れが集う。

途中で交差する荒玉水道道路。
荒玉水道は多摩川の水を砧(世田谷区)から野方(中野区)・大谷口(板橋区)
へ導水する水道管で、砧から梅里(杉並区)へは、ほぼ一直線の道路が続く。
玉川上水の北には神田川が流れているが、おこからは神田川が流れる谷を望む
ことができる。

やがて公園は掘割の中へと移っていくが、その掘割がまた、かつての上水を
感じさせてくれる。

下高井戸駅から甲州街道を挟んで北側に8つの寺院ほどの寺町がある。
元々は永泉寺(後に永昌寺と合併し、現在は永昌寺と称する)の敷地であっ
たが、関東大震災後にこの地に移転してきた。
寺町の中、その永昌寺の境内には薬師堂がある。

玉川上水開削時において、建設資金が高井戸付近で底をついた話は前にも
書いたが、その際、玉川兄弟は絶望し、切腹も考えていた。
そんな折、地中から光が浮き上がるのを見て、掘ってみると白い玉石が出て、
その中に薬師像が浮かび上がったという。
それを見た兄弟は寺を建てて祀るとともに、工事の遂行に意欲を出した。
この玉石が世間の評判となり、近隣の信仰を集めるとともに、それに因んで
「玉石薬師の良薬」という丸薬が飛ぶように売れたという。
寺町を抜けると、その先に築地本願寺和田堀廟所の墓地がある。
この和田堀廟所と隣接する明治大学和泉校舎は、宝暦年間(1750年代)に
鉄砲弾薬の貯蔵庫として設置された和泉新田塩哨蔵の跡地である。
明治以降も陸軍の和泉新田火薬庫として使用されたが、大正末期に廃止
され、明治大学や関東大震災で被災した築地本願寺に払い下げられた。
甲州街道の南にある京王線の明大前駅は、開通当初は「火薬庫前」という
駅名であった。(その後、松原と改称され現駅名に至る)

なお、和田堀廟所には、樋口一葉、水谷八重子、佐藤栄作といった有名人
が眠る。
明治大学を過ぎると、橋で京王井の頭線を渡る。
人道橋の脇に太い給水管が並行している。

この跨線橋は井の頭線の用地幅より広くとられているが、これは昭和初期に
山手線の外側にもう一つの環状鉄道(東京山手急行電鉄)を形成しようとし
た跡である。
残念ながら資金不足や戦時体制への移行などの理由により、鉄道の敷設は幻
に終わったが、もし完成したならば、東京の交通体系も今とは違ったものと
なっていたかもしれない。
跨線橋の先は小さな児童公園となっており、水車を模した遊具や水門風の造
形物があって興味深い。
そしてその児童公園の先には井の頭通り、井の頭通りを渡ると水道局の和泉
給水所に入ってしまう。

和泉給水所付近からは、淀橋浄水場(現在の西新宿)へ玉川上水新水路が通
じていた。
これは、水質悪化、またコレラの大流行もあって近代水道の敷設の必要性が
生じ、淀橋浄水場の建設と新水路が起工され、明治31年(1898)に竣工した。
築堤してその上を水路として通したが、関東大震災での被災もあり、昭和12
年(1937)に甲州街道拡幅とともに道路下に埋設管が敷設され、新水路はその
役目を終えた。
現在、新水路跡は道路となり、甲州街道の北側を水道道路として利用されている。
給水所を迂回して甲州街道を進むと、突然、右側に玉川上水の開渠が現われる。
甲州街道から緑が濃い区間が始まり、京王線の代田橋駅のホーム下を南へと進む。
開渠となった玉川上水には僅かな水が流れているが、清流復活事業の水は既に
神田川へと流されているため、地中で導管に染み出た水であろう。

なお、京王線の駅名となった代田橋は、甲州街道が玉川上水に架かっていた橋
であるが、残念ながらその痕跡はない。
開渠となった玉川上水は京王線を潜った後、ゆずり橋で再び暗渠となり、その
先は緑道が続く。
その緑道上に向岸地蔵尊という地蔵がある。
向岸という身体が不自由な人が諸事仏のお告げに従い念仏にしたところ、病が
治った。
彼の死後、生前の人徳に報いるため、近隣の人々が享保元年(1716)、この地
蔵尊を建立した。

緑道は環七を越えて、笹塚方面へと向かう。
その緑道上には児童遊園となっており、ここでも休日になると親子連れなどが集う。
そして、稲荷橋から第二号橋の間は再び開渠が出現する。
高い柵に囲まれ、上水沿いには木々が生い茂っているため、水面は多少見え隠
れする程度である。
第二号橋の手前の左岸に、幡ヶ谷分水の取水口跡(宝暦年間開削)を見ること
ができる。
幡ヶ谷分水はこの後、大原交差点方面、つまり玉川上水の流れとは逆方向に
流れていたので「逆さ川」とも称され、流末は神田川の支流の和泉川につなが
っていた。
(『幡ヶ谷郷土誌』には分水口の盗水にまつわる興味深い話が記されているが、
『和泉川1』にて触れているので、参照されたい)

そこから数十メートル行くと笹塚駅前に達するが、上水はここで大きく蛇行する。
その先の牛窪という低地(現在の甲州街道と中野通りの交差点付近)を迂回
するための措置である。
笹塚駅手前に南ドンドン橋の親柱がひっそりと残されているが、この「ドン
ドン」は、その蛇行カーブに水がぶつかる時の音が由来とのことである。

より大きな地図で 【川のプロムナード】 玉川上水周辺マップ を表示

そこには玉川上水の痕跡は見つからない。僅かに昌栄橋や天神橋といった橋名
が、歩道橋の名に残すのみである。

その道路の北側に第六天神社という神社がある。
創建はあきらかではないが鎌倉時代とされ、天保年間には焼失にあい、暫くは
安政3年(1856)に再建されるまで、仮殿での運営となったという。
昭和の初め頃までは「雨乞い神楽」があり、日照りが続くと神楽を奉納した。

環八との交差点は中の橋、ラジオの交通情報で「環八外回りは中の橋先頭に渋
滞○km」という放送を聴いたことがある方も多いと思う。

更に高速脇の一般道を歩き続けると、甲州街道に合流する手前で、左に玉川上
水跡の遊歩道が出現する。
なお、写真左手に細い暗渠道があるが、これは下高井戸村分水の跡で、下高井
戸村周辺の田畑を潤し、神田川へと注いでいた。

玉川上水は甲州街道(国道20号線)の北側を公園となって続いている。
杉並区立玉川上水第三公園・第二公園と名づけられ、各所に児童遊具も設置さ
れており、近所の親子連れが集う。

途中で交差する荒玉水道道路。
荒玉水道は多摩川の水を砧(世田谷区)から野方(中野区)・大谷口(板橋区)
へ導水する水道管で、砧から梅里(杉並区)へは、ほぼ一直線の道路が続く。
玉川上水の北には神田川が流れているが、おこからは神田川が流れる谷を望む
ことができる。

やがて公園は掘割の中へと移っていくが、その掘割がまた、かつての上水を
感じさせてくれる。

下高井戸駅から甲州街道を挟んで北側に8つの寺院ほどの寺町がある。
元々は永泉寺(後に永昌寺と合併し、現在は永昌寺と称する)の敷地であっ
たが、関東大震災後にこの地に移転してきた。
寺町の中、その永昌寺の境内には薬師堂がある。

玉川上水開削時において、建設資金が高井戸付近で底をついた話は前にも
書いたが、その際、玉川兄弟は絶望し、切腹も考えていた。
そんな折、地中から光が浮き上がるのを見て、掘ってみると白い玉石が出て、
その中に薬師像が浮かび上がったという。
それを見た兄弟は寺を建てて祀るとともに、工事の遂行に意欲を出した。
この玉石が世間の評判となり、近隣の信仰を集めるとともに、それに因んで
「玉石薬師の良薬」という丸薬が飛ぶように売れたという。
寺町を抜けると、その先に築地本願寺和田堀廟所の墓地がある。
この和田堀廟所と隣接する明治大学和泉校舎は、宝暦年間(1750年代)に
鉄砲弾薬の貯蔵庫として設置された和泉新田塩哨蔵の跡地である。
明治以降も陸軍の和泉新田火薬庫として使用されたが、大正末期に廃止
され、明治大学や関東大震災で被災した築地本願寺に払い下げられた。
甲州街道の南にある京王線の明大前駅は、開通当初は「火薬庫前」という
駅名であった。(その後、松原と改称され現駅名に至る)

なお、和田堀廟所には、樋口一葉、水谷八重子、佐藤栄作といった有名人
が眠る。
明治大学を過ぎると、橋で京王井の頭線を渡る。
人道橋の脇に太い給水管が並行している。

この跨線橋は井の頭線の用地幅より広くとられているが、これは昭和初期に
山手線の外側にもう一つの環状鉄道(東京山手急行電鉄)を形成しようとし
た跡である。
残念ながら資金不足や戦時体制への移行などの理由により、鉄道の敷設は幻
に終わったが、もし完成したならば、東京の交通体系も今とは違ったものと
なっていたかもしれない。
跨線橋の先は小さな児童公園となっており、水車を模した遊具や水門風の造
形物があって興味深い。
そしてその児童公園の先には井の頭通り、井の頭通りを渡ると水道局の和泉
給水所に入ってしまう。

和泉給水所付近からは、淀橋浄水場(現在の西新宿)へ玉川上水新水路が通
じていた。
これは、水質悪化、またコレラの大流行もあって近代水道の敷設の必要性が
生じ、淀橋浄水場の建設と新水路が起工され、明治31年(1898)に竣工した。
築堤してその上を水路として通したが、関東大震災での被災もあり、昭和12
年(1937)に甲州街道拡幅とともに道路下に埋設管が敷設され、新水路はその
役目を終えた。
現在、新水路跡は道路となり、甲州街道の北側を水道道路として利用されている。
給水所を迂回して甲州街道を進むと、突然、右側に玉川上水の開渠が現われる。
甲州街道から緑が濃い区間が始まり、京王線の代田橋駅のホーム下を南へと進む。
開渠となった玉川上水には僅かな水が流れているが、清流復活事業の水は既に
神田川へと流されているため、地中で導管に染み出た水であろう。

なお、京王線の駅名となった代田橋は、甲州街道が玉川上水に架かっていた橋
であるが、残念ながらその痕跡はない。
開渠となった玉川上水は京王線を潜った後、ゆずり橋で再び暗渠となり、その
先は緑道が続く。
その緑道上に向岸地蔵尊という地蔵がある。
向岸という身体が不自由な人が諸事仏のお告げに従い念仏にしたところ、病が
治った。
彼の死後、生前の人徳に報いるため、近隣の人々が享保元年(1716)、この地
蔵尊を建立した。

緑道は環七を越えて、笹塚方面へと向かう。
その緑道上には児童遊園となっており、ここでも休日になると親子連れなどが集う。
そして、稲荷橋から第二号橋の間は再び開渠が出現する。
高い柵に囲まれ、上水沿いには木々が生い茂っているため、水面は多少見え隠
れする程度である。
第二号橋の手前の左岸に、幡ヶ谷分水の取水口跡(宝暦年間開削)を見ること
ができる。
幡ヶ谷分水はこの後、大原交差点方面、つまり玉川上水の流れとは逆方向に
流れていたので「逆さ川」とも称され、流末は神田川の支流の和泉川につなが
っていた。
(『幡ヶ谷郷土誌』には分水口の盗水にまつわる興味深い話が記されているが、
『和泉川1』にて触れているので、参照されたい)

そこから数十メートル行くと笹塚駅前に達するが、上水はここで大きく蛇行する。
その先の牛窪という低地(現在の甲州街道と中野通りの交差点付近)を迂回
するための措置である。
笹塚駅手前に南ドンドン橋の親柱がひっそりと残されているが、この「ドン
ドン」は、その蛇行カーブに水がぶつかる時の音が由来とのことである。

より大きな地図で 【川のプロムナード】 玉川上水周辺マップ を表示


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