善福寺川 2

環八を渡っても善福寺川沿いの遊歩道は更に続いていく。
但しこの付近の川沿いの道は極端に狭く、すれ違うのにも避ける必要があるほどだ。
荻窪駅に至近で便利なため、川沿い直前まで住宅を建ててしまった結果だろうか。
その中でも写真にあるように、桜の樹が遊歩道を遮る場所(樹の裏に迂回路あり)
さえある。
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春日橋付近まで来ると、左岸はいわゆる荻窪の邸宅街となる。(現在は低層
マンションに変わった箇所もあるが)
そんな邸宅街を象徴する3つの施設を紹介しよう。

春日橋から百メートルほど行ったところに、近衛文麿元首相の旧邸、荻外荘
(てきがいそう)がある。
近衛文麿は戦前の内閣総理大臣であり、近衛はこの地に惚れこみ、大正天皇
の侍医頭だった入澤達吉から購入した。
日米開戦前に東条英機や松岡洋右ら要人と会談するなど単なる私邸としてで
はなく、政治の場としても使用された。
戦後、近衛は戦犯となったが、出頭直前にこの地で服毒自殺をする。
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現在、杉並区が買い取り公開に向けて整備をおこなっている。
南側の一部は、2015年、荻外荘公園(仮称)としてオープンした。

さらに春日橋からの坂道を上り、更に下ったところに大田黒公園がある。
戦後に活躍した音楽評論家大田黒元雄の私邸を遺族から寄贈され、近隣の土地
を含めて杉並区が日本庭園として整備し、昭和56年(1981)に開園した。
園内は回遊式庭園となっており、煉瓦造りの洋館には氏愛用のピアノや蓄音機が
保存されている。
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11月下旬~12月初旬の紅葉の時期には、ライトアップも行われ、憩いの場
として近隣住民に親しまれている。

もう1つ、この近隣には平成21年(2009)開園の角川庭園がある。
角川書店の創始者、角川源義の旧宅で、大田黒公園に比べれば狭いが、
近代数奇屋造の邸宅は展示室、詩歌室、茶室として利用されている。
国の登録有形文化財にも登録されている。
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善福寺川に話を戻そう。
松見橋の下流にコンクリートの河床がある排水口がある。
善福寺川最大の支流、松庵川の合流地点である。
松庵川は西荻窪付近を水源として、杉並区松庵や宮前を経由して、ここに至る
5kmほどの支流である。
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左岸に広がる団地群は、荻窪団地。
昭和33年(1958)に竣工、21棟から構成される公団住宅としては初期の団地
であったが、最近建て替えられて、シャレール荻窪として生まれ変わった。
かつて荻窪団地周辺は西田田んぼと呼ばれる田園地帯が広がっていた
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この辺りから、天保新堀用水が分水していた。
(今は護岸が整備され、その痕跡を見ることはできない)
天保の大飢饉を契機に、水不足で困っていた旧桃園川流域へ善福寺川の水を
分水する用水路を開削した。一部区間はトンネルを掘るという難工事もあり、また
カワウソにより土手を崩され、ルートを変更を強いられたという逸話も残っている。

神通橋から善福寺川緑地公園に入る。
下流に続く和田堀公園とあわせると、武蔵野橋まで4.2km、川沿いに公園が
続く。
川沿いの大きな公園というのは、都内の他の河川にも多く見られるが、このよう
に長い距離で公園が続くというのは、都内では他に例を見ない。
善福寺川の特徴でもある。
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公園に入り数百メートルいった左岸のなかよし広場(写真左)では、調整池設置
の工事が始まっている。
平成28年までというから、かなり大規模な工事である。

公園の両岸に緑が続く。
散歩やジョギングする人、また公園で遊ぶ子供達と、休日になると近隣住民の
憩いの場となる。
善福寺川緑地公園の両脇には、あげ堀(用水路)の暗渠が続くが、この公園も
かつては田園だったことがうかがえる。
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善福寺川は成田西の舌状台地に阻まれ、北へ大きく蛇行する。
その蛇行の北の頂点にある天王橋を渡る杉並のコミュニティバスすぎ丸
阿佐ヶ谷と浜田山を結ぶ路線である。
この付近はJR中央線と京王井の頭線の中間地点に位置するため、駅からは
バスを利用すると便利だ。
(他に五日市街道を走る関東バス(中野~吉祥寺)もある。)
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その舌状台地の上には尾崎熊野神社がある。
旧成宗村字尾崎の鎮守で、、鎌倉末期に鎌倉から移住してきた武士が、
崇敬する紀州の熊野権現をこの地へ勧請したのに基づくと言われている。
境内にある神木のクロマツは樹齢約400年といわれ、杉並区指定天然
記念物にも指定されている。
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五日市街道が交差する橋が尾崎橋
尾崎熊野神社にも称された尾崎とは、「小さな崎」という意味で、舌状
台地の突端部を意味する。
また「源頼義が奥州征伐のため当地を通過した際、 源氏の白幡のような
瑞雲(吉兆を示す雲)があらわれ、 これが因縁で大宮八幡宮を勧請する
ことになったが、その白幡の見えたあたりを白幡、 尾のあたりを尾崎と
名付けた」との伝説もある。
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この付近の川沿いの桜は、都内でも桜の名所に取り上げられるほどの地で、
桜の季節には多くの人々が訪れる。
また冬季には谷地形の川にもかかわらず、橋の上から五日市街道の西方向に
僅かに富士山の山頂部が顔を出す。

尾崎橋の右岸、五日市街道を100mほど行くと、右に曹洞宗の白龍山宝昌寺
がある。
文禄3年(1594)頃、中野成願寺五世葉山宗朔によって開創された。
曹洞宗となる前は、真言宗の寺であったという。
江戸時代、宝昌寺は成宗村の檀那寺として村民の信仰の拠りどころであり、
また村内の熊野神社・須賀神社・白山神社の管理をする別当寺でもあった。
安政3年(1856)火災のため本堂を焼失、現在の本堂は大正10年(1921)に
建立したものである。
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五日市街道を過ぎても緑地公園は更に続く。
小刻みに蛇行する川の形状も美しい。
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成田下橋の右岸には杉並区立児童交通公園がある。
昭和47年開園で園内には子供達が交通ルールを学べるように自転車
コースが張り巡らされ、またD51型蒸気機関車も保存・設置されて
いる。
自転車や足踏式ゴーカートの貸し出しがあり、休日には多くの親子連
れで賑わう。
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白山前橋の北側には成宗白山神社がある。
旧成宗村字白幡(白幡の由来については前述)の鎮守で、創建年代は
不詳だが、大宮八幡宮とほぼ同年代に創建されたといわれる。
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善福寺川 1

善福寺川は、善福寺池に発し杉並区をほぼ横断するように流れ、東京メトロ中
野車庫付近で神田川に合流する10.5kmの神田川の支流である。
典型的な都市河川だが、途中、善福寺川緑地・和田堀公園といった公園が続く
のが特徴である。

善福寺川の始まりは杉並区善福寺2丁目・3丁目に跨る都立善福寺公園内の
福寺池
(道路を挟んで上池・下池がある)である。
その上池の一画に遅野井という湧水がある。
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遅野井の由来は付近の説明板に寄ると、以下の通りである。
源頼朝が奥州征討のためこの地に宿し八幡宮に誓願、征討後、帰途にこの地に
戻った際、おりからの干ばつで軍勢は渇きに苦しんだ。
頼朝は弁財天に祈り、自ら弓で7ヶ所掘ったが、軍勢は渇きのあまり、水が湧
き出るのが遅い、遅の井といった。
その時、7ヶ所に水が出て軍勢は渇きを癒したという。

遅野井を湧水と称したが、正確には湧水跡である。
残念ながら湧水は枯れ、神田川水源のお茶の水同様、現在の遅野井は地下水の
汲み上げによりかつての湧水を再現したものだ。
数年前、水が止まって地震の前兆かとも騒がれたが、ポンプの故障と判明した
ということがあった。

上池にはボートの貸し出しもあり、近隣住民の憩いの場として親しまれている。
池がある都立公園ということでは、神田川の井の頭池と同様であるが、駅から
離れており、井の頭池ほど有名ではないという点で、井の頭公園ほどの人出は
無く、落ち着きが感じられる地である。
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道路を挟んで下池は、上池とは異なり葦が生い茂っており、カワセミなどの野
鳥も見ることができる。
スイレンもあって、五月ごろにはピンクの花を咲かせてくれる。
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池の周囲は崖地となっているが、下池の南側にも湧水があり、池に水が流れ込
んでいる。
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池から善福寺川に流れ出る場所で、暗渠から出てくる水流を見ることが出来る。
これは、玉川上水から分水された千川用水に流れた水がここまで導水されたも
のである。
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玉川上水(小平監視所から下流)および千川用水は淀橋浄水場の廃止などの理
由により水流が一時途絶えたが、その後、清流復活事業として高度処理再生水
を流すことになり、千川用水を流れてきた水が善福寺川に放流されているので
ある。
天候にもよるが、見る限り、どちらかといえば千川上水からの水が多いような
気がする。

美濃山橋から善福寺川が始まり、蛇行しながら、徐々に南東方向へと向かう。
善福寺川の左岸右岸は早くも谷形状が始まる。
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その左岸の上の森の中に位置するのは井草八幡宮だ。
井草八幡宮は平安末期の創建とされ、古くは古地名を冠して遅野井八幡宮と称した。
先ほど遅野井で説明した際、頼朝が奥州征討のために祈願した八幡宮は、この井草
八幡宮のようである。
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源氏が八幡神を氏神として尊崇したことから武神の性格が強く、文明9年(1477)
石神井城の豊島氏征伐のため、太田道灌が戦勝祈願をしたとも伝えられる。
江戸期に入っても徳川家光は寺社奉行井上正利に社殿造営をさせ、また歴代の将軍
は朱印地として寄進した。

この井草八幡からも善福寺川へ流れ出ていたと思われる細い川跡が3本ほどある。

その先、寺分橋と耕整橋の間には井荻小学校の敷地があり、行く手を阻まれる。
仕方なく迂回をするが、善福寺川で川沿いを歩けないのはここだけだ。(河川
工事箇所を除く)
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井荻小学校に続いて荻窪中学校が右岸に続き(こちらは川沿いを歩ける)、
原寺分橋を過ぎると流路の脇に湧水があり、そこからも水が流れ込んでいる。
この脇には湧水の仕組みの説明板が設置されているが、学校の近くだからとい
うことかも知れない。

善福寺川沿いには所々に杉並区が設置した流域案内板がある。(神田川の杉並
区内にも設置されている)
善福寺川にまつわる話題や川沿いで見られる鳥の説明などが記載されており、
散歩の途中に足を止めて、読んでみると楽しい。
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川の左岸に関根文化公園がある。
昭和25年(1950)開園の中規模な公園であり、以前は区民プールも設置され
ていたが、残念ながら平成23年に閉鎖された。(写真の工事箇所)
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関根文化公園から北へ数百メートル行くと、荻窪八幡神社がある。
先ほどの井草八幡ほどの敷地はないが、旧上荻窪村の鎮守で、創建は寛平年間
(889~898)というから、井草八幡より古い。
永承6年(1051)に源頼義が奥州の安倍貞任征伐の途中でここに宿陣して戦勝を
祈願し、後の康平5年(1062年)に凱旋の折、神恩に感謝して当社を厚く祀った
と言われている。
社の南一帯の丘地をその館としたことから、この辺りを城山と呼んでいたらしい。
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川に戻って更に下っていくと、JR中央線の高架橋が見えてくる。
その手前の橋は置田橋、昔、上荻窪村の名主・平井家の老婆が、北側にある宇
田川家のことを「お北さん」と呼んでいたことが、いつしか橋名に転じて
「おきたはし」となり、置田の字が当てられたという。
また、かつて井伏鱒二氏たち杉並の有名な文人が、釣り糸を垂れた場所という。
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中央線を潜ると、その先にカワウが羽を広げて休んでいた。
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善福寺川はその先で、環状八号線に差し掛かる。


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玉川上水 8

玉川上水は笹塚駅前で一時的に暗渠となるが、第三号橋からは再び開渠となる。
開渠の区間はここから数百メートルほどだけではあるが、高い柵はなく、見て
いるだけで気持ちいい。
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笹塚橋の先に三田用水の取水口跡がある。写真右の階段付近が取水口跡だ。
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三田用水は寛文4年(1664)、代々木、渋谷、目黒を経て、高輪、白金台、
三田などの上水として開削された。玉川上水の開通から11年後である。
享保7年(1722)に一時的に廃止になったものの、2年後に流域の農村の願い
により農業用水として再開し、明治期以降は海軍火薬工場の動力や恵比寿の日本
麦酒の工業用水としても利用された。

笹塚駅前のビル工事現場のフェンスに1953年頃の同所の写真が掲載されていた。
周囲の風景なども含めて現在と比較すると興味深い。
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この取水口で開渠は終了し、この先は幡ヶ谷・初台方面へ緑道が続く。
付近の住民の方々の散歩道となっており、すれ違う人も多い。
一般道との交差部分には、かつての橋名がモニュメントとして残る。(一部は
親柱が残存している)
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そんな中、幡ヶ谷の南に欄干が残されている相生橋がある。
親柱には大正13年11月の文字も刻まれている。
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幡ヶ谷と初台の間で、遊歩道は甲州街道脇を進む。
かつて上水を暗渠とし、その上に専用軌道を敷設して京王線が走っていた。
昭和58年(1983)、笹塚~初台間の地下化に伴い、その後公園化されている。
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初台駅の南側を通り、山手通りに達する。
数年前まではここにも伊藤橋の欄干が残っていたが、首都高中央環状線の開
通に伴う山手通りの整備工事で撤去されてしまった。
行政にとってみれば単なる橋跡でしかないのだろうが、この付近の玉川上水
の数少ない史跡の一つであり、残念でならない。
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山手通りに続いて西参道を渡る。
その西参道の東側には、神田上水助水堀の取水口があった。
神田上水(現:神田川)の水量を補うために、寛文7年(1667)淀橋付近に
向けて造られた。
淀橋浄水場が出来てからは、浄水場の余水を落とす余水吐としても使われて
いたという。
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文化学園大学前で玉川上水は再び甲州街道沿いに顔を出す。
そこには玉川上水のモニュメントがある。
このモニュメントは、明治時代、新宿駅の地下に設けられた煉瓦造りの暗渠
をモチーフとし、ほぼ原寸大で造られたもので、一部当時の煉瓦が使用され
ている。
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この付近からは、現在の南新宿、北参道付近を通って原宿で渋谷川へと合流
する原宿村分水代々木川)が分かれ、代々木方面の田畑を潤していた。
享保9年(1724)の開通だが、大学の裏手には谷形状となっていることから、
元々、この付近の湧水から発していた河川に分水をつなぎ、水量を補ったの
だろう。

新宿までは甲州街道の1本南のあおい通りを通っていく。
新宿南口の西新宿1丁目の交差点のすぐ南に葵橋のモニュメントがある。
当然のことながら人通りは多いが、その中でこの葵橋に気づき、玉川上水に
結びつけることができる人はどのぐらいいるのだろうか。
橋名の由来は、この地に宇都宮藩戸田家の屋敷があり邸内にも分水がひかれ
ていたようだが、明治期に紀州徳川家が買い受けたことによるようだ。
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京王線は開通当初は新宿追分(現在の新宿三丁目付近)を始発駅として開通
したが、当初、この地には葵橋駅という駅があった。(大正14年に停車場
駅と統合)戦争末期、変電所が空襲に遭って電圧が低下した時、新宿駅南口
の跨線橋の坂を電車が上れなくなったため、京王線は新宿西口を始発とした
が、葵橋駅こそが現在の京王線新宿駅の前身といっても過言ではないだろう。

新宿南口の跨線橋を越え、明治通りを渡り、新宿御苑の新宿口に達すると、
そこから御苑北側の遊歩道に水路が沿って流れる。
玉川上水・内藤新宿分水散策道として、新宿区が平成24年に再現・整備
したものである。
水路こそ人工的なものだが、玉川上水に関する説明板が多く設置され、それ
らを読んでいくだけでも楽しい。
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その散策道を越えるといよいよ玉川上水の最終地、四谷大木戸である。
ここには水番所が設けられ、630坪の敷地があったという。
芥留(ゴミ取り)の他、渋谷川に余水を流す吐水門、江戸市中へとり
入れる水門があった。
江戸市中へは、この地から石樋もしくは木樋で地中を通していた。
また、渋谷川への吐水路は、新宿御苑の東側に残っている。

先ほどの散策道の説明板には四谷大木戸水番屋構之図(国立公文書
館蔵)が掲載されている。
水番屋

江戸名所図会 四谷大木戸にもこのように描かれている。
四谷大木戸2
                      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

新宿区四谷区民センター(水道局新宿営業所)脇に、明治28年に建
立された水道碑記がある。
上部の篆字は徳川家達、撰文は胆付兼武によるもので、高さ460cm、
幅230cmの大きな碑で、表面に780字、裏面に130字刻まれ、
上水開設の由来と玉川上水の功績が記されている。
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玉川上水を歩いてくると、この大きな水道碑記を見て達成を実感できる。

【参考文献】
「玉川上水ぶらり散歩」 小泉智和/著 (日本水道新聞社)
「川の地図辞典(多摩東部編)」菅原健二/著 (之潮)



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玉川上水 7

玉川上水は暗渠になった後、現在の中央道沿いに進んでいく。
そこには玉川上水の痕跡は見つからない。僅かに昌栄橋や天神橋といった橋名
が、歩道橋の名に残すのみである。
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その道路の北側に第六天神社という神社がある。
創建はあきらかではないが鎌倉時代とされ、天保年間には焼失にあい、暫くは
安政3年(1856)に再建されるまで、仮殿での運営となったという。
昭和の初め頃までは「雨乞い神楽」があり、日照りが続くと神楽を奉納した。
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環八との交差点は中の橋、ラジオの交通情報で「環八外回りは中の橋先頭に渋
滞○km」という放送を聴いたことがある方も多いと思う。
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更に高速脇の一般道を歩き続けると、甲州街道に合流する手前で、左に玉川上
水跡の遊歩道が出現する。
なお、写真左手に細い暗渠道があるが、これは下高井戸村分水の跡で、下高井
戸村周辺の田畑を潤し、神田川へと注いでいた。
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玉川上水は甲州街道(国道20号線)の北側を公園となって続いている。
杉並区立玉川上水第三公園第二公園と名づけられ、各所に児童遊具も設置さ
れており、近所の親子連れが集う。
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途中で交差する荒玉水道道路
荒玉水道は多摩川の水を砧(世田谷区)から野方(中野区)・大谷口(板橋区)
へ導水する水道管で、砧から梅里(杉並区)へは、ほぼ一直線の道路が続く。
玉川上水の北には神田川が流れているが、おこからは神田川が流れる谷を望む
ことができる。
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やがて公園は掘割の中へと移っていくが、その掘割がまた、かつての上水を
感じさせてくれる。
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下高井戸駅から甲州街道を挟んで北側に8つの寺院ほどの寺町がある。
元々は永泉寺(後に永昌寺と合併し、現在は永昌寺と称する)の敷地であっ
たが、関東大震災後にこの地に移転してきた。

寺町の中、その永昌寺の境内には薬師堂がある。
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玉川上水開削時において、建設資金が高井戸付近で底をついた話は前にも
書いたが、その際、玉川兄弟は絶望し、切腹も考えていた。
そんな折、地中から光が浮き上がるのを見て、掘ってみると白い玉石が出て、
その中に薬師像が浮かび上がったという。
それを見た兄弟は寺を建てて祀るとともに、工事の遂行に意欲を出した。
この玉石が世間の評判となり、近隣の信仰を集めるとともに、それに因んで
「玉石薬師の良薬」という丸薬が飛ぶように売れたという。

寺町を抜けると、その先に築地本願寺和田堀廟所の墓地がある。
この和田堀廟所と隣接する明治大学和泉校舎は、宝暦年間(1750年代)に
鉄砲弾薬の貯蔵庫として設置された和泉新田塩哨蔵の跡地である。
明治以降も陸軍の和泉新田火薬庫として使用されたが、大正末期に廃止
され、明治大学や関東大震災で被災した築地本願寺に払い下げられた。
甲州街道の南にある京王線の明大前駅は、開通当初は「火薬庫前」という
駅名であった。(その後、松原と改称され現駅名に至る)
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なお、和田堀廟所には、樋口一葉、水谷八重子、佐藤栄作といった有名人
が眠る。

明治大学を過ぎると、橋で京王井の頭線を渡る。
人道橋の脇に太い給水管が並行している。
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この跨線橋は井の頭線の用地幅より広くとられているが、これは昭和初期に
山手線の外側にもう一つの環状鉄道(東京山手急行電鉄)を形成しようとし
た跡である。
残念ながら資金不足や戦時体制への移行などの理由により、鉄道の敷設は幻
に終わったが、もし完成したならば、東京の交通体系も今とは違ったものと
なっていたかもしれない。

跨線橋の先は小さな児童公園となっており、水車を模した遊具や水門風の造
形物があって興味深い。
そしてその児童公園の先には井の頭通り、井の頭通りを渡ると水道局の和
給水所
に入ってしまう。
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和泉給水所付近からは、淀橋浄水場(現在の西新宿)へ玉川上水新水路が通
じていた。
これは、水質悪化、またコレラの大流行もあって近代水道の敷設の必要性が
生じ、淀橋浄水場の建設と新水路が起工され、明治31年(1898)に竣工した。
築堤してその上を水路として通したが、関東大震災での被災もあり、昭和12
年(1937)に甲州街道拡幅とともに道路下に埋設管が敷設され、新水路はその
役目を終えた。
現在、新水路跡は道路となり、甲州街道の北側を水道道路として利用されている。

給水所を迂回して甲州街道を進むと、突然、右側に玉川上水の開渠が現われる。
甲州街道から緑が濃い区間が始まり、京王線の代田橋駅のホーム下を南へと進む。
開渠となった玉川上水には僅かな水が流れているが、清流復活事業の水は既に
神田川へと流されているため、地中で導管に染み出た水であろう。
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なお、京王線の駅名となった代田橋は、甲州街道が玉川上水に架かっていた橋
であるが、残念ながらその痕跡はない。

開渠となった玉川上水は京王線を潜った後、ゆずり橋で再び暗渠となり、その
先は緑道が続く。
その緑道上に向岸地蔵尊という地蔵がある。
向岸という身体が不自由な人が諸事仏のお告げに従い念仏にしたところ、病が
治った。
彼の死後、生前の人徳に報いるため、近隣の人々が享保元年(1716)、この地
蔵尊を建立した。
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緑道は環七を越えて、笹塚方面へと向かう。
その緑道上には児童遊園となっており、ここでも休日になると親子連れなどが集う。
そして、稲荷橋から第二号橋の間は再び開渠が出現する。
高い柵に囲まれ、上水沿いには木々が生い茂っているため、水面は多少見え隠
れする程度である。

第二号橋の手前の左岸に、幡ヶ谷分水の取水口跡(宝暦年間開削)を見ること
ができる。
幡ヶ谷分水はこの後、大原交差点方面、つまり玉川上水の流れとは逆方向に
流れていたので「逆さ川」とも称され、流末は神田川の支流の和泉川につなが
っていた。
(『幡ヶ谷郷土誌』には分水口の盗水にまつわる興味深い話が記されているが、
 『和泉川1』にて触れているので、参照されたい)
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そこから数十メートル行くと笹塚駅前に達するが、上水はここで大きく蛇行する。
その先の牛窪という低地(現在の甲州街道と中野通りの交差点付近)を迂回
するための措置である。
笹塚駅手前に南ドンドン橋の親柱がひっそりと残されているが、この「ドン
ドン」は、その蛇行カーブに水がぶつかる時の音が由来とのことである。
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玉川上水 6

三鷹駅の構内通路を渡って、南口に廻るとそこから再び玉川上水の開渠が始まる。
そこに架かる三鷹橋には、かつての橋梁の欄干と古井戸が保存している。
旧橋は昭和32年(1957)の架橋で、構造材の一部に鉄道のレールを活用して
いたが、駅前広場の拡張に伴い、平成17年(2005)に架け替えられ、保存さ
れたものだという。
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南口から上水沿いに風の散歩道という道路が続く。
その途中に玉鹿石という石が置かれているが、ここが昭和23年(1948)に
太宰治が入水自殺したと言われる場所だ。(正確な場所は不明)
遺体の発見は、入水の1週間後、下流の新橋付近であった。
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なお、この玉鹿石は太宰の故郷、青森県金木町から取り寄せたものだそうだ。

井の頭公園の手前、右岸には山本有三記念館がある。
ここは『路傍の石』などの著作で有名な山本有三が昭和11年(1936)から
進駐軍に接収される21年(1946)まで居住した洋館。
有三はここで『路傍の石』を執筆した。
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玉川上水はその先、井の頭公園の中へと入る。
周囲は森林に囲まれ、暑い時期には木陰が有難く感じる。
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公園の中を進んでいくと左岸に大きな碑がある。
松本訓導殉難碑と言い、大正8年(1919)、麹町区(現;千代田区)永田町
小学校の児童が遠足でこの地に来ていた時、一児童が上水に落ち、それを助
けようとした松本虎雄訓導(教諭)が水に飛び込み、殉職した。(児童は通
行人に助けられた。)
訓導の行為は、人々に感銘を与え、後に有志により殉難碑が建立された。
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太宰や松本訓導の命を奪った玉川上水は、かつては「人喰い川」として恐れ
られた。
昭和40年以前には年間10名ほどの投身自殺があったという。
現在の清流復活事業による水量からは想像できないが、羽村取水堰付近の流
れを見るとと、なるほどと思う。


ほたる橋の先にあるのは、牟礼村分水(延享2年(1745))の取水口。
牟礼村分水は牟礼田んぼ(現在の三鷹台団地付近)を潤し、その後、水無川
(中川)へと流れ、烏山川に合流していた。
現在は、わずかに木々の中から堰が覗かせている。
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玉川上水は、その後、井の頭地区と牟礼地区の間を流れていく。
周囲には、緑豊かな閑静な住宅街が広がり、神田川水系(左岸)と目黒川水
系(右岸)の分水嶺を縫うように抜けていく。
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左手に東京都水道局の井の頭水源があった。
地下水を汲み上げ、上水道の一部として使用されているようである。
左岸の崖下には神田川の支流(暗渠)もあり、もともと水が豊富な地域なの
だろう。
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上水沿いの遊歩道脇には畑があり、野菜の直売所もあったりする。
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人見街道が斜めに横切る牟礼橋の手前に旧牟礼橋がある。
牟礼橋は『上水記』にも記載されている古橋で、宝暦7年(1757)の建立で
あり、牟礼村の東にあることから「東橋」、また急な水勢を表す擬態語から
「どんどん橋」の別名もあった。
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また、橋の横には石橋建立供養之碑があるが、寛政9年(1797)と嘉永2年
(1849)年に架け替えられたことが記されている。
(現在の旧橋は大正期の架橋)
また、この供養碑は上水最古の碑であるという。
なお、交差する人見街道は府中から下総などに通じる古道であったという。
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人見街道を過ぎると杉並区に入る。
上流から辿ってくると、やっと23区内に辿り着いたという感がある。
その先、玉川上水沿いにフェンスで囲まれた空間が続いている。
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放射5号道路(東八道路)の道路予定地であり、計画によると玉川上水
および上水沿いの遊歩道を中央分離帯として、両岸に片側2車線の道路
ができるという。
周囲の住民の大きな反対に会い建設が滞っているが、かなり用地確保が
進んでいる。
玉川上水の貴重な自然が失われつつあるのは残念だが、この区間にも上
水の貴重な遺跡もあり、自然や史跡への配慮を期待したい。

その途中に久我山水衛所跡がある。
現在は除塵スクリーンが設置されているだけで、注意して見ていないと
通りすぎてしまう。
太宰の入水事件では、遺体発見より前、久我山水衛所で男女の下駄が発
見されたという。
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水衛所跡のそばに小さな水難者慰霊碑がある。
これは国語学者金田一京助氏の娘、若葉さんが病気を苦に入水自殺した
ため、金田一氏が愛娘ならびに上水に命を落とした人の霊を慰めるため
に昭和27年に建立したもので、裏には金田一氏が詠んだ歌が刻まれて
いる。
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久我山駅から続く商店街の道が交差する岩崎橋の下流に烏山分水、その
数十メートル先に北沢分水の取水口を見ることができる。
前者は烏山川に、後者は北沢川に流れ、2つの河川は世田谷区池尻付近
で合流、目黒川へと注いでいた。
草が生い茂ると撮影が困難となってしまうため、以前に撮影した取水口
の写真を掲載する。


烏山分水の開削は万治2年(1659)、烏山村など10村に分水されていた。
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こちらは北沢分水、万治元年(1658)の開削だが、当時の取水口は更に
下流の上北沢付近にあったという。その後2回にわたり取水口が変更さ
れ、この地に取水口が移されたのは明治4年(1871)である。
なお、現在の遺構(石柱)には「北澤分水」という文字と「大正四年十
月」という文字が刻まれている。
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中央自動車と合流する場所にあるのは浅間橋
小平監視所から続いてきた清流復活事業の流れはここで終了し、この先
は暗渠となって、中央道沿いを進む。
なお、暗渠となった清流復活事業の水流はこの先、環八で左へと曲がり、
高井戸駅付近で神田川へと放流されている。
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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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