玉川上水は増大する江戸市民の飲料水を確保するために造られた上水路で
あり、その長さは羽村取水堰から、四谷大木戸まで42.8kmに達する。
『上水記』によれば、老中の川越藩主の松平伊豆守信綱が総奉行、水道奉行に
伊奈半十郎忠治(工事途中で没し、その後は忠克)が就き、庄右衛門・清右衛門
兄弟(玉川兄弟)が工事を請け負った。
(『上水記』は寛政3年(1791)、普請奉行上水方道方・石野遠江守弘道により
編纂された。)
工事は承応2年(1653)4月に着工し、同年11月15日に開通したというが、
現代からみても驚くべき速さである。
また、取水口から大木戸まで高低差は僅か96mであり、当時の測量技術にも
目を見張るものがある。
実は玉川上水は2度の失敗を経て完成しているとされる。
最初は府中から取水しようとしたが途中で水が地中に吸い込まれ、失敗に終わった。
(府中市清水が丘に「かなしい坂」といわれる坂がある。(
府中用水妙光院水系の項参照))
続いて福生より取水しようとしたが、熊川にてやはり水は地中にと消えた。
但し、この話は享和3年(1803)、八王子千人同心の小嶋文平が提出した書状
に基づき普請奉行佐橋長門守が提出した『玉川上水起元』によるものである。
既に上水開削から150年経て創られた書であり、恩田政行氏は参考文献に
挙げた『玉川上水起元 剖検 幻の玉川上水』の中で、この話を否定している。
特に府中からの取水は、地形的にも無謀な計画であり、玉川上水が綿密な測
量をもとに完成したことを考えると、否定せざるを得ない。
こうして完成した玉川上水だったが、玉川兄弟に御用金として渡された6000両
は高井戸付近にて使い果たし、残りの大木戸までの区間は兄弟が屋敷を売り
払うなどして3000両を投じた。
完成後、兄弟は功績により玉川姓を与えられ、帯刀を許されるとともに、200石
分の金子と永代の上水の水役を与えられた。
(その後、三代目において不正により罷免、名字帯刀を剥奪されている。)
簡単に玉川上水の開削について記してみた。
さて、羽村をスタートして、下ってみることにする。
羽村堰に行く前に、その横にある
水神社と
水番所跡に立ち寄ってみる。

水神社は承応3年(1654)玉川兄弟が勧請したと伝えられ、当初は水神宮と称し
ていた。
以来、江戸町民や浄水路沿いの住民より厚く信仰せられて来たが、明治28年、
社殿改築とともに玉川水神社と改称した。神社の隣に東京都水道局の事務所があ
るが、ここがかつての水番所であり、萱葺き屋根の陣屋門が保存されている。
水番所は堰や水路を管理をするために設置された役所であり、上水道の取り締ま
り、水門・水路・堰堤等の修理・改築を行っていた。
奥多摩街道を渡ると、階段があり、そこから
羽村取水堰を一望できる。

取水堰には固定堰と投渡堰からなり、投渡堰は川に支柱と鉄の桁を渡し、その桁
に投渡木(なぎ)と呼ばれる丸太を横に渡し、竹や木の枝を束ねた粗朶(そだ)
や砂利等を敷き並べて作ったものである。大水の際はこの支えを取り払って投渡木
ごと多摩川に流すことで玉川上水の水門の破壊と洪水を回避している。
この方法は、開削当初からの技術だという。
取水堰脇の羽村公園には、
玉川兄弟の像がある。
立っているのが兄の庄右衛門、座っているのが弟の清右衛門である。

取水堰を後にして、下流に向かって歩き始める。
上水の水量は多く、下流の小金井・三鷹・杉並付近の玉川上水を知る人にとっては、
驚くほどの流量であろう。

数百メートルほど行くと、大きな施設が見えてくる。
東京都水道局の
羽村導水ポンプ所である。
ここから村山・山口貯水池(多摩湖・狭山湖)へと送水され、東村山浄水場などを
経て、上水道として利用されている。
今も玉川上水を流れる水は都民の飲用水として利用されているのである。

ポンプ所を過ぎると、水量はかなり減る。
玉川上水には高い柵が続いているが、これは安全のためと、上水にゴミなどの
不純物を入れさせないためであろう。
上水沿いには遊歩道が整備され、近隣住民の散策路として利用されている。

遊歩道は
福生加美上水公園の脇を通り、宮本橋まで2kmほど続く。
その
宮本橋を右に行くと、銘酒「嘉泉」の蔵元、
田村酒造場がある。
福生村の名主、田村家が掘り当てた井戸の水質が良好だったことから、
文政5年(1822)から酒造りを始めた。

敷地内に
田村分水(
福生分水)が流れるが、これは慶応3年(1867)、精米・
製粉のために分水開設の願い出を出して開設された水路である。
大名屋敷への分水を除く個人的な分水は、この田村分水と源五右衛門分水(後述)
の2つだけという。
田村酒造の向かい側には、臨済宗建長寺派の
長徳寺がある。
永享年間(1429~1440)の創建とされる。
本堂は建て直されていたが、門は趣きのある風情をかもし出している。

上水に戻り下流に向かって行くと、次の宿橋手前で田村分水の取水口がある。

宿橋の先で水路は住宅地の中へと入っていく。
この先、下流のみずくらいど公園まで、水路沿いに道がある場所は殆どない。
近くを通る奥多摩街道沿いを歩くのが最短の経路となるが、道路を延々と歩く
だけとなってしまう。
用水をちょっと外れて、静かな住宅街の中の道を歩くのもいい。
なお、先ほどの宮本橋の脇には、3コースの散策路が紹介されており、それを
参考に辿っていくのもよい。

奥多摩街道と交差する清厳寺橋手前の右岸に清岩院がある。(元々は清厳院と
いい、橋名と字が異なる)
清岩院は応永年間(1394~1428)の創建とされる。
玉川上水のために土地を提供したことにより、後年、将軍家斉より弁財天像を
賜ったという。
清岩院内には湧水があり、
東京の名湧水57選の1つにも指定されている。
また、門前には庚申塔があり、元禄12年(1699)の銘がある。
中福生公園付近では、道路沿いに水路を見ることが出来るが、再び住宅地の
中へと入ってしまう。

青梅橋のやや上流に
熊川分水の取水口がある。
明治23年(1890)に開設され、下流の石川酒造の精米用動力(水車)などに使用
されたほか、熊川地域一帯の灌漑用水・飲用水としても確保された。

なお、古いWebサイトによると、分水口脇の神社から取水口が見えるとされてい
るが、現在は上水脇に出ることはできず、青梅橋から遠く眺めることしかできない。
上水はJR五日市線熊川駅の北部を流れ、その先でJR青梅線と交差する。

青梅線と交差の後、100mほど行くと
みずくらいど公園に入る。
「みずくらいど」は「水喰土」と表記され、前述したように玉川上水開削時において、
ここで水が地中に吸い込まれ失敗してしまった。
この時は福生からの取水としていたが、この地での失敗により羽村からの取水に
改めた。
公園内にはその開削工事跡とされる遺構が保存されている。

公園内では玉川上水沿いに散策道が造られており、ようやく上水沿いを歩くことが
できるようになる。

みずくらいど公園を抜けて数百メートル行くと、
拝島駅に達する。
《参考文献》
『玉川上水起元 剖検 幻の玉川上水』 恩田政行著
より大きな地図で 【川のプロムナード】 玉川上水周辺マップ を表示
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