玉川上水 4

西武国分寺線から府中街道手前まで、小平中央公園の南端を通っていく。
緑が色濃く、気持ちよい区間である。
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府中街道が架かる橋は久右衛門橋、橋脇にある説明板によれば享保年間に八代
将軍吉宗により新田開発が奨励され、その頃に架けられたものだという。
(現在の橋梁は昭和7年に架設されたレンガアーチ橋)
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橋の北側には津田塾大学のキャンパスが広がる
明治33年(1900)、津田梅子が女子英学塾(開設当初は千代田区)が開設
したのが始まりで、昭和6年(1931)にこの地に移転した。

久右衛門橋を南へ1分ほど歩くと、ふれあい下水道館がある。
下水道に関する展示の他、地下5階には実際の下水道の中に入ることができる。
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津田塾大のキャンパスを過ぎる辺りで、JR武蔵野線と交差する。
とはいっても、武蔵野線は地下の小平トンネルを通っている。
散策路には立坑があり、電車が通ると。ゴーと音がする。
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その先、右岸から五日市街道が近づく。
ここから境橋まっでに6km弱の間、玉川上水は五日市街道と寄り添って進む
ことになる。
その五日市街道と接する場所に小川水衛所跡がある。
今までは柵に囲まれており、柵の外から見るだけとなっていたが、下流の境水
衛所跡とともに、開放・公園化がすすめられている。
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ここで、玉川上水の管理について軽く触れておくこととする。
江戸時代、玉川上水には水番所が設けられ、羽村、代田村および四谷大木戸に
置かれた。(後に砂川村にも追加設置された。)
水番所には水番人が置かれ、主な役割として、上水の監視、塵芥の除去(芥溜
に溜まったゴミの除去)、水量の監視(分水の調節)などであった。
明治27年(1894)、水番所は水衛所に改められる。
水衛所は熊川、砂川、小川、境、久我山、和田堀、代々木、四谷大木戸に設置
された。
水衛所の業務は、水番所と同様に、芥揚げと水路の取締り、水質保全と水路敷
の管理等である。

桜橋で、西武多摩湖線と交差する。
桜橋は西武多摩湖線の開通に伴い大正末期に架橋され、その後道路の拡幅に
よって架け直されているが、古い欄干が下流側に残る。
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なお、小平監視所から脇を流れていた新堀用水はここ桜橋で終わる。
(流路はこの後、田無用水・鈴木分水に分水して東北方向へ進む。)

喜平橋で五日市街道は右岸から左岸へと移り、なおも並行して進む。
上水沿いの左岸の遊歩道は舗装化され、付近住民の自転車なども往来する。
土の道でないのは少々残念だが、反面、木の根につまずく恐れがなく安心して
歩ける。
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新小金井街道が架かる茜屋橋付近で、またもや樹木が伐採され、上水の水面
が望めるようになっていた。
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調べて見ると、東京都水道局は2010年度から10年をかけて、玉川上水整備
活用計画
を実施しているようである。
計画によると、水路・法面の保全(崩落の未然防止)、桜並木の保存、上水
の眺望の確保などを目的として、ケヤキなどの落葉樹を伐採しているとのこと。
数年後にはこの辺りの風景も様変わりしているかもしれない。

この付近は名勝 小金井桜として有名である。
元文2年(1737)幕府の新田開発の一環として。幕命によりの川崎平右衛門が、
吉野や常陸国桜川からヤマザクラの種苗を取り寄せ、玉川上水両岸の6kmに
わたり植樹した。
桜の根が土手の崩壊を防ぎ、また桜の花弁が水の毒を消すという理由もあった
という。
植樹して約60年後の寛政9年(1797)、多摩郡清水村(現東大和市)出身の
漢学者大久保狭南が紹介すると、江戸からの花見客が増え、有名となった。
明治期に入ると、関東第一の桜の名所として西の吉野と並び称され、また
甲武鉄道開通後は更に賑わったという。
小金井桜
歌川広重 富士三十六景武蔵小金井

小金井桜に関する史跡は小金井橋付近に集中する。
まずは小金井橋手前には、行幸の松がある。
明治16年に明治天皇がこの地で観桜され、それを記念して村人がお席跡
の植樹したものである。
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五日市街道を挟んで、海岸寺がある。
八代将軍吉宗の享保の改革で推奨された新田開発によりこの地に移り住ん
できた農民の要望によって創建されたという。
茅葺屋根の山門は小金井市の有形文化財として指定されている。
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その海岸寺の入口脇には、小金井桜樹碑が建っている。(文化7年(1810)
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前述の漢学者大久保狭南の撰文で、小金井桜植樹の由来にはじまり、桜花
の賞賛、川崎平右衛門の功績などが記載され、七百字に及ぶ。

小金井橋脇の記念碑の傍にあった説明文に江戸時代の絵画(有馬純堂
「金井観花詩歌図巻」)と明治30年代の写真が掲載されていた。
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小金井橋の下流側に、今度は御成の松跡がある。
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天保15年(1844)第13代将軍家定(当時は世継)一行が花見に訪れた。
当日は大雨だったが、家定は馬から下りて御座所で花見を楽しんだという。
御座所跡に一本の黒松を植えたが、平成6年、残念ながら枯れてしまった。
説明板に掲載されていた大正期の写真を見ると、見事な松(写真右)だっ
たことがわかる。
御成の松


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玉川上水 3

玉川上水駅から数百メートルほど歩くと、水道局の小平監視所がある。
羽村から流れてきた水は、ここで、除塵と沈殿が行われ、地下の導水管を通って
東村山浄水場へ送水されている。
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この小平監視所付近で野火止用水新堀用水が分水していたが、残念ながら
分水口は小平監視所の設置とともに消え去ったようである。
野火止用水はこの地で左へと分かれていく。
野火止用水の開削は、玉川上水の開通の僅か2年後の承応4年(1655)で、玉川
上水の建設を取り仕切っていた川越藩主松平信綱が、その功績により自領内に
分水することを許された。
末端は何本かに分かれるが、新河岸川やその支流の柳瀬川に流れ出る。
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この先の玉川上水を流れる水は清流復活事業によって多摩川上流水再生センター
からの高度処理再生水である。つまり、監視所の前後で流れる水は全くの別物
となる。
昭和40年(1965)淀橋浄水場の廃止により、監視所より下流の上水はその使命
を終え水が途絶えた。
しかしながら周辺住民の要望もあって、昭和61年(1986)、清流復活事業に
より水流が復活した。
ここではその記念碑が設置されるとともに、玉川上水の堀の下に降り立つこと
が出来る。
水の流れがある区間では唯一、上水の中に入れる場所である。
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監視所を過ぎると、羽村から続いていた高い柵はなくなる。
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その先、散策道の左側にこもれびの足湯というごみ焼却施設の余熱を利用した
足湯施設がある。
散策に疲れた足を癒すには最適の施設であり、無料で利用できるのは有難い。
なお、上記リンク先を確認して、利用時間や休みの日には注意されたい。
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この先、玉川上水の北側に、先ほど紹介した新堀用水が続くことになる。
新堀用水は明治3年(1870)作られ、玉川上水の北側の野火止用水から千川
上水までの7つの分水を1つの分水口にまとめた。
その目的は前述の通船のためだという。
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新堀用水はしばらくは地下に掘られたトンネルの中を進む。
そのトンネルを胎内堀といい、所々に縦坑が掘られた。
(現在は安全のため、縦坑は柵で囲まれている。)

こちらは胎内堀の出口、トンネルの中から水が流れ出ている。
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小川橋で小川分水が北へと分かれる。
小川分水は 明暦2年(1656)に開削され、小川村に給水された分水である。
当初は東小川橋付近に分水口が設けられたが、文化4年(1807)に小川橋
上流に移され、更には新堀用水の開通に伴い分水口が新堀用水側に移された。
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その小川橋の脇に立つ石橋供養塔、天保13年(1842)の建立である。
東西南北の方位が刻んであり、また道標も兼ねている。
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胎内堀を抜けた新堀用水は、玉川上水沿いの散策路は左側に並行して流れる。
つまり、散策路は玉川上水と新堀用水に挟まれている形になる。
玉川上水を流れる水は深い堀の底を流れており、また草木も生い茂っている
ために殆ど見ることは出来ないため、どうしても新堀用水の方に目が行って
しまう。
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途中、上水沿いの樹木が伐採されている箇所があった。
伐採の理由は不明だが、堀の深さが改めて実感できる。
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上水は小平市小川町を東進する。
この付近は武蔵野美術大学や白梅学園短大をはじめとして、小中学校や高校・
大学が集まっており、ちょっとした文教地区になっている。
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玉川上水は鷹の台駅の南側で西武国分寺線と交差する。
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玉川上水 2

玉川上水は拝島駅の北口近くを流れていく。
その北口付近で横田基地専用線が上水を横切る。
この専用線を利用して、米軍横田基地への燃料輸送が行われている。
橋脇の踏切には和英併記の立入禁止の注意書きがあり、「WARNINNG」とい
う文字が目を惹く。
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その専用線に並行する平和橋の右岸脇には拝島分水の取水口を見ることができる。
拝島用水は元文5年(1740)に開削され、拝島村の農業用水・生活用水に使用
された。
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そこから百メートルほど下ると、今度は反対側に殿ヶ谷分水の取水口跡がある。
こちらは享保5年(1720)の開削で、現在の立川市西砂地区の農業用水・生活
用水として利用され、残堀川に合流していた。
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この先、玉川上水の周囲に寺院・神社といった史跡は少なく、分水の取水口な
どを探しながら歩くことになる。
ということで、ここで玉川上水の分水について、軽く触れておく。
「上水記」(1791)によれば、飲料および灌漑目的で作成された分水は33であ
った。(大名屋敷への引水などを含む)
明治3年、分水改正が行われて取水口がまとめられ、小平付近の分水は北側
は新堀用水に、南側は砂川用水に統合された。
そのほか、明治期以降に開削された分水もあり、大正期には23分水が存在し
たという。
分水開削の際は当然のことながら幕府の許可を必要とし、分水の料金(水料も
しくは堰料といった)は金あるいは米で徴収された。

さらに数百メートルいくと、こはけ橋手前で右岸から拝島原水が合流する。
多摩川の異常渇水および水需要の増大に対応するために昭和16年(1941)
に設けられたもので、南西方向2.5km先に位置する昭和用水堰で取水され、
拝島原水補給ポンプ所を経由して供給される。(冬期のみ)
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その先で西武拝島線と交差する。
拝島線は、これから玉川上水駅の先まで、上水の北側を並走する。
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相変わらず高い柵が続き、その脇を歩き続けることになるが、水路の右岸を見
ると、木立の先にゴルフ場のグリーンが広がっている。
昭和の森ゴルフコースである。
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西武立川付近に達すると、玉川上水は300メートルほどの区間暗渠となる。
かつて、この南側に昭和飛行機という軍需工場があり長さ1200m、幅170m
の滑走路があった。
その滑走路の延長計画があり、上水に覆蓋工事が施されたとのことだが、終戦
により延長されることは無かったという。
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現在、工場跡地はゴルフ場などに、また暗渠上は公園になっている。
数年前まで、上水から西武立川駅の間は草叢が広がり駅が見通せたが、駅南
口の開発計画が施され、スーパーや住宅が立ち並び始めた。

松中橋手前に2つの取水口がある。
上流側(写真右)が柴崎分水立川分水)で、下流側(写真左)は砂川分水である。
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柴崎分水は元文2年(1737)の開削で、柴崎村(現在の立川市柴崎付近)へと
流れる。
一方、砂川分水は、明暦3年(1657)の開削で、末路は小金井分水や深大寺
用水などへと分かれる。
ともに現在でも流水されており、砂川分水はここから数百メートルの間、玉川
上水沿いの散策路脇に流れを見ることができる。

新天王橋で五日市街道と交差する。
五日市街道は玉川上水の南側の砂川地域を進むが、砂川分水もここで五日市
街道に沿うように分かれていく。(但しこの辺りは暗渠となっている)
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稲荷橋の下流で、玉川上水は残堀川と交差する。
玉川上水は地中へと潜り、残堀川の下を通って対岸に再び顔を出す。
このような方式を伏せ越しといい、サイホン方式により残堀川を潜り抜けている。
この付近の玉川上水の最大のビューポイントといって良いだろう。

現地の説明板に記載されている平面図・断面図(クリックで拡大)
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稲荷橋から見た取水口部、伏せ越し部にゴミが入らないようにする除塵設備が
見える。
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残堀川との交差部、玉川上水はこの地下を潜りぬけている。
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伏せ越しの流出口部、写真奥に見える橋梁は残堀川に架かる上宿橋である。
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もちろん玉川上水開削当初からこのような伏せ越しがあったわけではない。
残堀川はもともと東の立川断層沿いに流れていたが、開削時に天王橋付近へ
と流路変更され、玉川上水に合流して助水として利用された。
残堀川流域の生活水の混入などの理由により、明治40年頃、現在の位置で
水道橋により玉川上水と交差する方式(玉川上水が上)に改められた。
しかしながらたび重なる氾濫により残堀川の改修を行われ、昭和38年に現在
の形態となった。

見影橋のやや上流、右岸に源五右衛門分水がある。
開削は明治43年(1910)と、玉川上水の分水では最も新しい分水である。
当地の名主砂川源五右衛門が屋敷内の水車を動かすために引いた私的な分
水、つまり砂川家専用の分水である。
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見影橋から右岸を歩いていくとその途中に巴河岸跡の説明板がある。
実はかつて玉川上水には水運があった。
明治3年(1870)、明治新政府は願い出により玉川上水に通船を許可した。
当初は十三艘、最盛期には百艘以上の船舶が往来したという。
上流側からは野菜や炭、酒などの産物を、下流側からは肥料や生活物資を輸
送していた。
しかしながら、船のすれ違い時に護岸が削れたり、水が汚染されたりして、わず
か2年で通船は廃止された。
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ここ、巴河岸は舟運時の船着場で、伊勢の巴屋某が船頭をしていたためにその
名がついたという。
川岸に降りる石段が残っているとされるが、残念ながら草木に覆われて確認す
ることができなかった。

金比羅橋手前の南側に、15mほどの金比羅山と呼ばれる小高い塚がある。
(玉川上水沿いからは入れず、南側の一般道へ迂回が必要)
一説には、玉川上水を掘削した際の土を盛って造ったと言われる。
山の頂上には金比羅神社、富士浅間神社が、中腹には秋葉神社が鎮座する。
安政年間(1854~60)に砂川村の名主、砂川家が願主となって勧請したと伝
えられる。
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頂上にある金比羅神社(右)と富士浅間神社(左)、共に小さな祠である。
特に金毘羅大権現は、玉川上水で舟運が行われた際には舟神様として祀られ、
それからこの山は金比羅山と呼ばれるようになったという。
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拝島から金比羅橋まで、上水沿いには一般道が続いていたが、金比羅橋の先
は遊歩道だけとなる。
周囲には緑が濃くなり、散策やジョギングを楽しむ人々と多くすれ違う。
国立音楽大学のキャンパスの南を通っていくと、西武拝島線と多摩モノレール
玉川上水駅に達する。
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玉川上水 1

玉川上水は増大する江戸市民の飲料水を確保するために造られた上水路で
あり、その長さは羽村取水堰から、四谷大木戸まで42.8kmに達する。

『上水記』によれば、老中の川越藩主の松平伊豆守信綱が総奉行、水道奉行に
伊奈半十郎忠治(工事途中で没し、その後は忠克)が就き、庄右衛門・清右衛門
兄弟(玉川兄弟)が工事を請け負った。
(『上水記』は寛政3年(1791)、普請奉行上水方道方・石野遠江守弘道により
 編纂された。)
工事は承応2年(1653)4月に着工し、同年11月15日に開通したというが、
現代からみても驚くべき速さである。
また、取水口から大木戸まで高低差は僅か96mであり、当時の測量技術にも
目を見張るものがある。

実は玉川上水は2度の失敗を経て完成しているとされる。
最初は府中から取水しようとしたが途中で水が地中に吸い込まれ、失敗に終わった。
(府中市清水が丘に「かなしい坂」といわれる坂がある。(府中用水妙光院水系
の項参照))
続いて福生より取水しようとしたが、熊川にてやはり水は地中にと消えた。
但し、この話は享和3年(1803)、八王子千人同心の小嶋文平が提出した書状
に基づき普請奉行佐橋長門守が提出した『玉川上水起元』によるものである。
既に上水開削から150年経て創られた書であり、恩田政行氏は参考文献に
挙げた『玉川上水起元 剖検 幻の玉川上水』の中で、この話を否定している。
特に府中からの取水は、地形的にも無謀な計画であり、玉川上水が綿密な測
量をもとに完成したことを考えると、否定せざるを得ない。

こうして完成した玉川上水だったが、玉川兄弟に御用金として渡された6000両
は高井戸付近にて使い果たし、残りの大木戸までの区間は兄弟が屋敷を売り
払うなどして3000両を投じた。
完成後、兄弟は功績により玉川姓を与えられ、帯刀を許されるとともに、200石
分の金子と永代の上水の水役を与えられた。
(その後、三代目において不正により罷免、名字帯刀を剥奪されている。)

簡単に玉川上水の開削について記してみた。
さて、羽村をスタートして、下ってみることにする。

羽村堰に行く前に、その横にある水神社水番所跡に立ち寄ってみる。
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水神社は承応3年(1654)玉川兄弟が勧請したと伝えられ、当初は水神宮と称し
ていた。
以来、江戸町民や浄水路沿いの住民より厚く信仰せられて来たが、明治28年、
社殿改築とともに玉川水神社と改称した。神社の隣に東京都水道局の事務所があ
るが、ここがかつての水番所であり、萱葺き屋根の陣屋門が保存されている。
水番所は堰や水路を管理をするために設置された役所であり、上水道の取り締ま
り、水門・水路・堰堤等の修理・改築を行っていた。

奥多摩街道を渡ると、階段があり、そこから羽村取水堰を一望できる。
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取水堰には固定堰と投渡堰からなり、投渡堰は川に支柱と鉄の桁を渡し、その桁
に投渡木(なぎ)と呼ばれる丸太を横に渡し、竹や木の枝を束ねた粗朶(そだ)
や砂利等を敷き並べて作ったものである。大水の際はこの支えを取り払って投渡木
ごと多摩川に流すことで玉川上水の水門の破壊と洪水を回避している。
この方法は、開削当初からの技術だという。

取水堰脇の羽村公園には、玉川兄弟の像がある。
立っているのが兄の庄右衛門、座っているのが弟の清右衛門である。
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取水堰を後にして、下流に向かって歩き始める。
上水の水量は多く、下流の小金井・三鷹・杉並付近の玉川上水を知る人にとっては、
驚くほどの流量であろう。
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数百メートルほど行くと、大きな施設が見えてくる。
東京都水道局の羽村導水ポンプ所である。
ここから村山・山口貯水池(多摩湖・狭山湖)へと送水され、東村山浄水場などを
経て、上水道として利用されている。
今も玉川上水を流れる水は都民の飲用水として利用されているのである。
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ポンプ所を過ぎると、水量はかなり減る。
玉川上水には高い柵が続いているが、これは安全のためと、上水にゴミなどの
不純物を入れさせないためであろう。
上水沿いには遊歩道が整備され、近隣住民の散策路として利用されている。
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遊歩道は福生加美上水公園の脇を通り、宮本橋まで2kmほど続く。
その宮本橋を右に行くと、銘酒「嘉泉」の蔵元、田村酒造場がある。
福生村の名主、田村家が掘り当てた井戸の水質が良好だったことから、
文政5年(1822)から酒造りを始めた。
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敷地内に田村分水福生分水)が流れるが、これは慶応3年(1867)、精米・
製粉のために分水開設の願い出を出して開設された水路である。
大名屋敷への分水を除く個人的な分水は、この田村分水と源五右衛門分水(後述)
の2つだけという。

田村酒造の向かい側には、臨済宗建長寺派の長徳寺がある。
永享年間(1429~1440)の創建とされる。
本堂は建て直されていたが、門は趣きのある風情をかもし出している。
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上水に戻り下流に向かって行くと、次の宿橋手前で田村分水の取水口がある。
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宿橋の先で水路は住宅地の中へと入っていく。
この先、下流のみずくらいど公園まで、水路沿いに道がある場所は殆どない。
近くを通る奥多摩街道沿いを歩くのが最短の経路となるが、道路を延々と歩く
だけとなってしまう。
用水をちょっと外れて、静かな住宅街の中の道を歩くのもいい。
なお、先ほどの宮本橋の脇には、3コースの散策路が紹介されており、それを
参考に辿っていくのもよい。
130428_0050.jpg

奥多摩街道と交差する清厳寺橋手前の右岸に清岩院がある。(元々は清厳院と
いい、橋名と字が異なる)
清岩院は応永年間(1394~1428)の創建とされる。
玉川上水のために土地を提供したことにより、後年、将軍家斉より弁財天像を
賜ったという。
清岩院内には湧水があり、東京の名湧水57選の1つにも指定されている。
また、門前には庚申塔があり、元禄12年(1699)の銘がある。
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中福生公園付近では、道路沿いに水路を見ることが出来るが、再び住宅地の
中へと入ってしまう。
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青梅橋のやや上流に熊川分水の取水口がある。
明治23年(1890)に開設され、下流の石川酒造の精米用動力(水車)などに使用
されたほか、熊川地域一帯の灌漑用水・飲用水としても確保された。
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なお、古いWebサイトによると、分水口脇の神社から取水口が見えるとされてい
るが、現在は上水脇に出ることはできず、青梅橋から遠く眺めることしかできない。

上水はJR五日市線熊川駅の北部を流れ、その先でJR青梅線と交差する。
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青梅線と交差の後、100mほど行くとみずくらいど公園に入る。
「みずくらいど」は「水喰土」と表記され、前述したように玉川上水開削時において、
ここで水が地中に吸い込まれ失敗してしまった。
この時は福生からの取水としていたが、この地での失敗により羽村からの取水に
改めた。
公園内にはその開削工事跡とされる遺構が保存されている。
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公園内では玉川上水沿いに散策道が造られており、ようやく上水沿いを歩くことが
できるようになる。
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みずくらいど公園を抜けて数百メートル行くと、拝島駅に達する。

《参考文献》
『玉川上水起元 剖検 幻の玉川上水』 恩田政行著


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谷戸前川

谷戸前川は目黒区祐天寺2丁目付近に端を発し、目黒2丁目で
目黒川に合流する2kmに満たない支流である。
現在では全区間暗渠となっている。

駒沢通りの祐天寺2丁目交差点の一画に細い暗渠道の入口がある。
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その交差点脇にはさわら庚申が建っている。
寛文3年(1663)、元禄5年(1692)、元禄10年(1697)の三本の庚申塔で
堂舎には、菱形の渦巻模様の鬼瓦や、三猿が彫刻された欄干がある。
2014-03-22_122.jpg

交差点から始まる暗渠は、狭いながらもカラータイル張りとなっている。
130202_0053.jpg

途中には護岸跡と思われる構造物があったりして、興味をそそられる。
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その護岸壁から数十メートル辿ると、祐天寺裏の交差点付近に達する。
ここで、もう1本の流れ、目黒区中央2丁目付近からの流路と合流する。
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その祐天寺は、享保3年(1718)祐天上人を開山仰ぎ、その高弟祐海上人が創
建した寺院である。
当時、新しい寺院の建立は幕府の厳しい制約があって困難だったが、祐天上人の
強い希望と、祐海上人の大変な努力によって、享保8年「明顕山祐天寺」の寺号が
許される。
以来、将軍吉宗の浄財喜捨や特別の保護を受けるなど、徳川家と因縁のある寺と
して栄えてきた。
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仁王門は、綱吉の息女竹姫が享保20年(1735)、仁王像とともに寄進して建立
したもの、目黒区指定有形文化財になっている。
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さて話を谷戸前川に戻そう。

中央2丁目付近からの流れには、殆ど痕跡は見られない。
その始まりは、東急東横線学芸大学駅北方の僅かな凹みがある窪地とみられ、
道路も蛇行の形状を呈している。
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その後、住宅街の中を進む北西方向へと向かう一般道へと続くが、
道路はここでも僅かにV字状の谷底を通っており、河川跡であることが判る。
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2つの流路が合流した後は、東へと遊歩道が続く。
車止めは古く、かなりの年月を経ているらしい。
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中目黒5-13付近に自然園の説明板があった。
説明板によると、かつてこの辺りに自然を生かした健康増進施設があったらしい。
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農学者の岡見彦蔵は、人々が都会生活を健康に営むためには自然と触れ合う場所が
必要であると考え、大正4年(1915)に8300坪の自然園を開園した。
園内では野菜やイチゴが作られ新鮮な作物を提供したり、芝生の広場やテニスコート
なども造られていた。
付近の住宅化に伴い、大正14年(1925)頃には閉園された。
今でこそ、東京近郊にはこの類いの施設は多く存在するが、100年前にこの様な
思想のもとに造られた施設があったとは驚愕に値する。
なお、近くのバス停「自然園下」にその名を残す。

その先、谷戸前川緑道と称する緑道が南へと続く。
道脇には樹木が植えられ、ちょっとした散策道となっている。
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大塚山公園の下で緑道は南から東へと転ずるが、この付近になると緑道脇はかなり
高い崖地となる。
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緑道は程無くして終わるが、その後一般道、そして再び歩行者用道路となり、
目黒3-8付近で山手通りにぶつかる。
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山手通りを越えるとその先は川の遺構らしきものはない。
目黒区民センター公園を抜けるとその先は目黒川。
その目黒川右岸には流出口があり、川の合流点を確認することができる。
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この記事は善福寺川リバーサイドBlogに記載したものを再編集して掲載したものです。


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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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