JRのガードを潜ると、川沿いに常盤橋公園がある。
橋は、
新常盤橋、
常磐橋、
常盤橋と続くが、「常盤」も「常磐」もトキワと読むので
紛らわしい。
特に常磐橋は明治10年に架橋された石橋で貴重な存在である。
元々はこちらが常盤橋とされていたが、「皿が割れる→石が壊れる」という縁起担
ぎで、皿を石に改称したという。
常盤橋公園内には常盤橋門の石垣が残されている。
江戸初期にはこの場所に北町奉行所が設けられていた。
(後に呉服橋へ移動)
※ 常磐橋は東日本大震災のより生じた歪みのために、橋およびその周囲
が工事中です。
下の写真は震災前(2007年)に撮影したものです。
また公園内には、幕末から大正初期に活躍した実業家、
渋沢栄一の銅像がある。
この地に銅像が建てられた由縁は、関東大震災で被災した公園を渋沢栄一記念
財団によって再建されたため。
戦争による金属供出で一度は撤去されたが、昭和30年に再建された。

常盤橋の北側、外堀通りを渡ると、
日本銀行本店がある。
明治29年(1896)の竣工で、建築家の辰野金吾(1854~1919)の設計による
もので、彼は欧米の銀行を視察し、最終的にベルギーの国立銀行をモデルに設
計したと言われる。
江戸期、この地には金貨(小判等)の鋳造所である金座が設置されていたが、
明治2年(1869)に廃止された。

航空写真では建物が円の字を形どっているようだが、これは偶然。
竣工時、円の漢字はまだ旧字体の「圓」だったはずだ。
常磐橋の次の一石橋の南側の橋詰には
迷子しらせ石標がある。
安政4年(1857)、日本橋から一石橋にかけての諸町名主などが世話人となり、
迷子保護の立場から町奉行に申請・建立したものである。
正面には「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側には、「志(し)らする方」、左側に
は「たづぬる方」と彫られ、左側面の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を
貼り、心当たりがあれば右側面の窪みにその旨を書いた紙を貼って知らせたと
いう。

また写真右側の一石橋の親柱は大正11年(1922)に架橋された当時のもの。
橋本体は平成9年に撤去、架け替えられたが、親柱一基は保存された。
一石橋の由来は、北の本両替町に金座御用の後藤庄三郎が、南の呉服町に
は御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、これをもじって五斗(後藤)+五斗
で一石と名付けられたと伝えられる。
日本橋より一石橋を見る図 歌川国直(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載) 一石橋の次は西河岸橋、そしてその次の橋でいよいよ
日本橋に達する。
いわずと知れた東京有数の商業地、橋は多くの人の往来で賑わう。
現在の橋梁は、明治44年(1911)竣工の19代目。

北岸の橋詰には
日本道路元標があるが、これは複製。
本物は橋の中央に埋め込まれている。

日本橋から江戸橋にかけて、かつて魚河岸が存在した。
江戸初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名に調達した御膳御肴の残りをこの
地で売り出したのが始まりとされ、最盛期には一日に千両の取引があったという。
関東大震災を機に、魚河岸は築地へと移された。
また、日本橋~江戸橋間の南側には
名水白木屋の井戸の碑がある。
江戸時代のはじめ、下町一帯の井戸は塩分を含み飲料に適する良水が得られな
かった。
正徳元年(1711)、白木屋二代目の当主の大村彦太郎は、私財を投じて井戸掘
りに着手、翌年、井戸の中から一体の観音像が出たのを機に、清水が湧き出した
と伝えられている。
以来、付近の住民のみならず、諸大名の用水ともなって、広く「白木名水」とうたわ
れてきた。

昭和通りが架かる
江戸橋。

江戸橋~鎧橋間には首都高速江戸橋JCTがあり、中央環状線は南へと向かう。
下の写真は鎧橋からのものだが、曲線美とも言える光景である。

江戸橋JCT以南の中央環状線は、元々、
楓川という日本橋川からの分流を埋
め立てて造られた。
その江戸橋JCT付近の北にあるのが
小網神社。
文正6年(1466)の創建とされ、小網山万福寺を別当寺として祀られた稲荷社
に起源するという。
太田道灌も当社への崇敬が篤く、社殿を造営と伝えられる。
明治初期の神仏分離令により、小網神社として称し、現在地を社地と定めた。
東京下町八福神、日本橋七福神の一社として数えられ、また境内に銭洗いの
井があり、「東京銭洗い弁天の社」とも称される。
鎧橋の右岸は兜町、橋詰には東京証券取引所があり、周囲には証券会社や
金融機関が立ち並ぶ。

江戸時代には
鎧の渡しがあり、明治5年(1872)に鎧橋が架橋されるまで存続した。
その名の由来は説明板によると、「源頼義が奥州平定の途中、ここで暴風逆浪に
あい、鎧を海中に投げ入れて竜神に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができた
ので、以来ここを鎧が淵と呼んだといわれています。また、平将門が兜と鎧を納め
たところとも伝えられています。」とある。
隣接する兜町も、奥州平定の帰途に兜を納めて平和を願った場所という説や、平
将門の兜を埋めて塚にしたという説があるらしい。
江戸名所図会 『
鎧之渡』
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)鎧橋は明治5年に当時の豪商の手により架橋され、明治21年にはトラス橋に架
け替えられた。
現在の橋梁は昭和32年に竣工したものである。
茅場橋を過ぎると、首都高速が左へと折れる。
その右岸には
日本橋水門があり、
亀島川が分流する。

その先の
湊橋からの光景、ようやく川の上に空が広がる。
とはいっても、日本橋川の終端まではあとごく僅かな区間だ。
写真右奥に見える茅場町タワーは、かつての山一證券本社があった。、
あの山一證券破綻劇(1997年)からもうかなりの月日が経つ。

日本橋川が隅田川に合流する手前の左岸、IBM箱崎ビルの前に、「
日本銀行
創業の地」の碑がある。
先ほど取り上げた日本銀行は明治15年(1882)、この地で創業し、明治29年
に現在の日本橋本石町へと移転した。

日本橋川の最後の橋は
豊海橋、最初の架橋は江戸元禄期とされる。
現在の橋梁は、関東大震災後の復興橋梁として昭和2年(1927)に架けられた。
梯子を横倒しにしたようなフィーレンディール橋という珍しい様式の橋梁だそうで、
この様式は国内に数箇所しかないという。
隅田川から帰港する船に配慮して、支流の第一橋梁のデザインをそれぞれ変えて、
区別しやすくしていたそうである。

豊海橋のすぐ先で、日本橋川は
隅田川へと合流する。
隅田川の下流に架かる永代橋から眺めた合流部、白い豊海橋が鮮やかに見える。
より大きな地図で 【川のプロムナード】日本橋川・亀島川周辺マップ を表示
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