目黒川 1

目黒川は、世田谷区池尻付近で烏山川と北沢川が合流して始まり、
東品川付近で東京湾(天王洲南運河)に注ぐ長さ7.8kmの河川である。

池尻大橋駅の北西、烏山川北沢川の合流点から始まる。
写真下の左側が烏山川、右側が北沢川である。
現在はともに暗渠となっており、特に下流部は烏山川緑道北沢川緑道
として整備されており、付近の住民のウォーキングやジョギングの場と
して親しまれている。
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合流して目黒川が始まるが、国道246号線までの数百メートルの間は、
暗渠区間である。
その暗渠の上は数年前、緑道として再整備され、鮮やかな花々が続く
目黒川遊歩道となっている。
遊歩道沿いの水路は烏山川緑道や北沢川緑道から続く人工水路であり、
新宿区下落合の落合水再生センターの高度処理水が流されている。
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水はそのまま目黒川に落とされ、清流の復活として利用されている。

国道246号線を渡ると、目黒川は開渠となる。
川沿いには桜並木が続く。
遊歩道になったり一般道になったりするが、河口までほぼ川沿いを
あるくことができる。
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左岸には首都高速 大橋JCTのループがある。
その上に、先日(2013年3月末)、目黒天空庭園がオープンした。
緩やかなスロープ状になっており、花壇には色とりどりの花が咲く。
展望が素晴らしく、今後、この周辺の観光スポットとなるだろう。
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その反対側、川沿いに水車小屋のミニチュアがある。
かつて、目黒川沿いおよびその支流には多くの水車小屋があり、
精米・製粉や薬種の精製などの小工業の動力として使われたという。
とくに大橋付近の加藤の水車は有名だったそうだ。
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山手通りを越えると、赤い橋梁が見えてくる。
歩行者専用の中の橋で、目黒川の橋梁の中でも移植の存在だ。
この付近で、駒場方面からの空川が合流していたが、
残念ながら合流の痕跡は見当たらない。
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その先、左岸から道一本入った場所には菅刈公園がある。
江戸期には豊後国竹田城主中川氏の屋敷があったところで、回遊式庭園
は名所であった。
明治に入ると西郷従道(隆盛の弟)が別邸として洋館・和館を建造した。
公園の一画には、庭園を復元したエリアがある。
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隣接する西郷山公園も旧西郷邸の一部。
園内には西郷に因んで、鹿児島県の各市町村から寄贈された樹木があり、
また桜島の溶岩で造られた記念碑がある。
展望台からは、先ほどの天空庭園に劣らない眺めを望むことができるが、
同時に目黒川が形成した谷を感じることができる。
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川に戻り下流へと歩いていくと、中目黒の街に入っていく。
隣接する代官山からのためなのか、洒落た店舗が川沿いの続く。
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目黒川といえば桜で有名であり、近年、マスコミにも多く取り上げられ、
都内でも有数の名所となっている。
特にこの近辺は交通の便が良いため、土日ともなると多くの観光客で賑わう。
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東急東横線をくぐると、右手から蛇崩川が合流する。
世田谷区弦巻付近を水源とし、三軒茶屋の南を経てここで目黒川に合流する。
全区間暗渠であるが、最後の数十メートルだけ顔を出す。
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その先で駒沢通りと交差するが、その西側、山手通りとの交差点そばに、
日蓮宗の実相山正覚寺がある。
元和5年(1619)、日栄上人によって開山された。
仙台藩4代目藩主の生母、三沢初子(1640~86)が帰依し、伊達家との
関係が深いという。
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駒沢通りを過ぎると、川幅が急に広がる。
ここはかつて船入場と称され、下流から上ってきた船舶の船着場であった。
右岸には船入場公園が広がるが、その下は船入場調節池となっている。
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以前は公園内に目黒区立川の資料館があったが、残念ながら閉鎖されてしまった。
なお資料は川を挟んだ中目黒公園内の花とみどりの学習館に移され、
公開されている。

川の両岸に遊歩道が続く。
川沿いに田道広場公園区民センター公園などがあるためか、通行量も多い。

目黒川を越すと左手に大きな建物が見えてくる。
結婚式場として有名な目黒雅叙園だ。
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その手前の太鼓橋を、左岸の目黒駅方向へと辿っていくと
行人坂という急勾配の坂がある。
暑い時期ともなると、上るのに息がきれるほどだ。
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行人坂の名の由来は、寛永の頃、出羽の湯殿山の行者、大海法印が大日如来堂
を開山し、次第に多くの行人が移り住むようになったからとされる。
行人坂2
江戸名所図会 夕日岡・行人坂 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
手前に目黒川と太鼓橋が見える。

こちらは、同じく江戸名所図会に描かれた太鼓橋
明和6年(1769)に完成した石造りの橋で、当時としては珍しいものであったという。
太鼓橋
                      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

その大日如来堂を前身とする大円寺は、行人坂の中程にある。
明和九年(1772)、この大円寺を火元とする火事がおこり、1万5千人が死亡する
という明暦の大火(目黒行人坂大火)が起こる。
境内には、その供養を弔うために作られたとされる五百羅漢像がある。
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また八百屋お七の恋人、吉三は事件後、名を西運と改め、お七の菩提を弔うために
目黒不動と浅草観音の間を往来し、江戸市民から集めた浄財を基に行人坂を石畳に、
また太鼓橋を石橋に架け換えたという。
八百屋お七の事件のもととなったのは天和の大火(天和二年(1682))だが、
江戸の大火のうちの2つがこの大円寺にまつわるというのも興味深い。


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新川

新川はかつて亀島川から分岐し隅田川に達していた掘割である。
長さは590m、幅は11m~16mほどであったという。
万治3年(1660)、河村瑞賢が諸国から江戸へと運ばれる物資を陸揚げする
ために開削されたとされ、当初は材木問屋、後に酒問屋が集まり、周辺は物
資集散の要地として大いに繁盛した。
江戸時代の狂歌にも
「新川は下戸の建てたる蔵はなし いずれ上戸が目当てなりけり」
と詠われている。

新川酒問屋
江戸名所図会 新川酒問屋      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

亀島川の項で述べた通り、この一帯はかつて霊岸島と称され、新川二丁目には
キリンHD本社もあった。(2013年5月に中野へ移転する。)

また、新川には、亀島川から一之橋二之橋三之橋という三本の橋が架けら
れていた。
(大正期の地図をみると、二之橋は新川橋と改称されている)

新川は戦後の残土処理に伴い、昭和23年に埋め立てられてしまった。

なお新川については、暗渠さんぽ(namaさん)にも詳細に解説されているので、
併せてご覧頂きたい。

亀島川と新川の分流地点を亀島川の霊岸橋から見てみる。
樹木が茂っている辺りがその分流地点である。
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その分流地点付近に行ってみる。
川跡は一般道となっており、かつての痕跡を確認することはできない。
写真奥の交差点付近が一之橋が架けられていた地点である。
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一之橋の左岸付近に、新川を開削した河村瑞賢の屋敷があったとされ、永代通
り沿いにその説明板がある。
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河村瑞賢(1618~1699)は伊勢国の農家に生まれ、江戸に出て材木商人とな
り、明暦の大火の際には木曽の材木を買い占め財をなした。
奥州、出羽から江戸へ輸送する廻米のために東廻り航路を開設したほか、畿内・
淀川を始めとする各地の治水工事や築港・開墾などの事業で功績をおさめている。
また、晩年には旗本にも任じられている。

南東方向へ川跡を辿って行くと、左手に新川大神宮がある。
慶光院周清上人が寛永2年(1625)徳川二代将軍から江戸代官町に屋敷を賜り、
邸内に伊勢両宮の遥拝所としたのに始まり、明暦の大火で類焼したため、霊岸
島に替地を賜り、この地に勧請した。
「当地産土神として庶民の崇敬を集め、とくに酒問屋の信仰篤く、毎年
新酒が着くと、これが初穂を神前に献じ、然る後はじめて販売に供した。」
と説明板には記載されている。
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現在でも、奉加板にはビールメーカー、酒蔵各社が名を連ねている。

鍛冶橋通りを越えて、更に真っ直ぐな道が続く。
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隅田川の手前、新川公園内に新川之跡の碑がある。
昭和28年、新川史跡保存会により建立されたものである。
碑の脇には新川についての説明板もある。
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隅田川との合流地点、テラス沿いに水門跡を確認できる。
ほとんど蔦に埋もれて、上部に突き出た部分だけしか見えない。
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合流地点のテラスから隅田川下流方向を見てみる。
大川端リバーシティーの超高層マンションを望むことができた。
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亀島川

日本橋川の河口、500mほど手前で右岸に分岐する亀島川を追ってみる。
亀島川の由来は、瓶を多く売る者が多くいたからという説と、かつて亀に似た小島
があったからという説があるという。

日本橋川の分かれる場所に日本橋水門がある。
隅田川との合流点には亀島川水門があり、亀島川は2つの防潮水門によって守ら
れている。
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亀島川の左岸、日本橋川・亀島川・隅田川に囲まれた地域、現在の中央区新川
1丁目・2丁目にあたる地域は、かつて霊岸島と称されていた。
その名は、この地に霊厳寺があったことに由来する。
霊厳寺は寛永元年(1624)、雄誉霊巌上人により開山されたが、明暦の大火に
より焼失、後に深川(現在の江東区白川)に移転した。

さて、日本橋水門脇の霊岸橋から下流方向を眺めてみる。
写真で判るように、ビルが河川脇まで迫っており、川沿いを歩くことはできない。
写真左側、樹木がある場所から、隅田川方向にかつて新川という堀があったが、
戦後の残土処理のため埋め立てられてしまった。
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新亀島橋左岸の橋詰には、大震火災遭難追悼碑(写真右、大正13年建立)
戦災遭難死者慰霊碑(同左、昭和53年建立)がある。
どちらも町内会有志によるものらしいが、震災に戦禍に遭われた人々に黙祷せず
にはいられない。
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次の亀島橋の左岸には堀部安兵衛武庸之碑がある。
ご存知の通り、赤穂浪士の一人であるが、その活躍はここでは書ききれない。
彼がこの付近の水谷町(現在の八丁堀1丁目)に居住していたことから、町会が
碑を建てたらしい。
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なお、赤穂浪士は討ち入り後、この亀島橋を渡って泉岳寺に向かったという話が
ある。

亀島橋から下流の左岸は、江戸期には将監河岸と呼ばれていた。
大阪夏の陣において水軍を率いて大阪湾を押さえた向井将監忠勝は、その功績
により御船手頭を命じられ、向井家は代々将監を名乗り、この地でその任を世襲
した。
向井将監は江戸湾の警護や幕府水軍の維持を請け負った。
下の写真は橋脇の説明板にあった幕府御用船天地丸の図である。
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亀島橋を過ぎると川は南東方向へと向きを変える。
右岸にあるのが、日比谷稲荷神社
長禄元年(1457)、太田道灌が江戸城を築城した際、日比谷の地(現在の日比
谷公園)に社殿を建てたのが始まりとされる。
慶長11年(1606)、徳川家康が江戸城を拡張した際、日比谷御門建設のため、
代替地として現在の新橋四丁目の地を賜り、移転する。
(現在の日比谷神社であるが、平成21年、環状2号線(新虎通り)の建設に伴い、
 東新橋二丁目へ移設)
しかしながら、海岸に祀られないと困る崇敬者は、八丁堀先の干潟を埋築し、日
比谷稲荷大神を遷座、そこに御社殿を造営したのが、この神社の由来とされる。
なお、関東大震災後の区画整理前は、この地を日比谷町と称していた。
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次の橋梁は高橋
なにやら人名のような橋名だが、以前は船の出入りを考慮した太鼓橋で、高い橋
という意味から名づけられたらしい。
なお、橋名は「たかはし」ではなく「たかばし」と濁音が入る。
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上の写真は高橋から下流方向を撮影したもので、右側に少し川幅が広くなった
箇所があるが、これはかつてここで桜川八丁掘)が合流していた跡である。

亀島川最後の橋は南高橋、震災復興で架橋された橋梁である。
ただし多くの架橋事業を行った当時の東京市は予算欠乏のため、震災で被害を
受けた3連トラス橋の両国橋の中央部分を移設し、南高橋を架橋した。
鋼鉄トラス橋としては全国で六番目に古い橋で、中央区の有形文化財に指定さ
れている。
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南高橋のすぐ下流には亀島川水門、その先は隅田川である。
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もう1つ、交差部に設置されている霊岸島水位観測所を取り上げておく。
日本の標高は東京湾の平均海面を海抜0mとして決められているが、明治6年
から12年にかけて、この水位観測所で潮位観測を行い、その平均値を算出した。
その後、千代田区永田町にある日本水準原点までの水準測量を行い、水準原点
を24.5000mとした。
(関東大震災の地殻変動により、24.4140mに改訂)
現在は東京湾の埋め立て等の影響により、水位観測所は三浦半島の油壺に移
設されている。
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また、元々は写真手前の柱の位置にあったが、隅田川テラス設置の際に30m
ほど下流に移設され、現在でも荒川水系の改修策定などのために観測され続
けている。


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日本橋川 2

JRのガードを潜ると、川沿いに常盤橋公園がある。
橋は、新常盤橋常磐橋常盤橋と続くが、「常盤」も「常磐」もトキワと読むので
紛らわしい。

特に常磐橋は明治10年に架橋された石橋で貴重な存在である。
元々はこちらが常盤橋とされていたが、「皿が割れる→石が壊れる」という縁起担
ぎで、皿を石に改称したという。
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常盤橋公園内には常盤橋門の石垣が残されている。
江戸初期にはこの場所に北町奉行所が設けられていた。
(後に呉服橋へ移動)

※ 常磐橋は東日本大震災のより生じた歪みのために、橋およびその周囲
  が工事中です。
  下の写真は震災前(2007年)に撮影したものです。

17常磐橋

また公園内には、幕末から大正初期に活躍した実業家、渋沢栄一の銅像がある。
この地に銅像が建てられた由縁は、関東大震災で被災した公園を渋沢栄一記念
財団によって再建されたため。
戦争による金属供出で一度は撤去されたが、昭和30年に再建された。
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常盤橋の北側、外堀通りを渡ると、日本銀行本店がある。
明治29年(1896)の竣工で、建築家の辰野金吾(1854~1919)の設計による
もので、彼は欧米の銀行を視察し、最終的にベルギーの国立銀行をモデルに設
計したと言われる。
江戸期、この地には金貨(小判等)の鋳造所である金座が設置されていたが、
明治2年(1869)に廃止された。
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航空写真では建物が円の字を形どっているようだが、これは偶然。
竣工時、円の漢字はまだ旧字体の「圓」だったはずだ。

常磐橋の次の一石橋の南側の橋詰には迷子しらせ石標がある。
安政4年(1857)、日本橋から一石橋にかけての諸町名主などが世話人となり、
迷子保護の立場から町奉行に申請・建立したものである。
正面には「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側には、「志(し)らする方」、左側に
は「たづぬる方」と彫られ、左側面の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を
貼り、心当たりがあれば右側面の窪みにその旨を書いた紙を貼って知らせたと
いう。
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また写真右側の一石橋の親柱は大正11年(1922)に架橋された当時のもの。
橋本体は平成9年に撤去、架け替えられたが、親柱一基は保存された。
一石橋の由来は、北の本両替町に金座御用の後藤庄三郎が、南の呉服町に
は御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、これをもじって五斗(後藤)+五斗
で一石と名付けられたと伝えられる。

一石橋
日本橋より一石橋を見る図 歌川国直(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載) 

一石橋の次は西河岸橋、そしてその次の橋でいよいよ日本橋に達する。
いわずと知れた東京有数の商業地、橋は多くの人の往来で賑わう。
現在の橋梁は、明治44年(1911)竣工の19代目。
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北岸の橋詰には日本道路元標があるが、これは複製。
本物は橋の中央に埋め込まれている。
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日本橋から江戸橋にかけて、かつて魚河岸が存在した。
江戸初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名に調達した御膳御肴の残りをこの
地で売り出したのが始まりとされ、最盛期には一日に千両の取引があったという。
関東大震災を機に、魚河岸は築地へと移された。

また、日本橋~江戸橋間の南側には名水白木屋の井戸の碑がある。
江戸時代のはじめ、下町一帯の井戸は塩分を含み飲料に適する良水が得られな
かった。
正徳元年(1711)、白木屋二代目の当主の大村彦太郎は、私財を投じて井戸掘
りに着手、翌年、井戸の中から一体の観音像が出たのを機に、清水が湧き出した
と伝えられている。
以来、付近の住民のみならず、諸大名の用水ともなって、広く「白木名水」とうたわ
れてきた。
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昭和通りが架かる江戸橋
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江戸橋~鎧橋間には首都高速江戸橋JCTがあり、中央環状線は南へと向かう。
下の写真は鎧橋からのものだが、曲線美とも言える光景である。
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江戸橋JCT以南の中央環状線は、元々、楓川という日本橋川からの分流を埋
め立てて造られた。

その江戸橋JCT付近の北にあるのが小網神社
文正6年(1466)の創建とされ、小網山万福寺を別当寺として祀られた稲荷社
に起源するという。
太田道灌も当社への崇敬が篤く、社殿を造営と伝えられる。
明治初期の神仏分離令により、小網神社として称し、現在地を社地と定めた。
東京下町八福神、日本橋七福神の一社として数えられ、また境内に銭洗いの
井があり、「東京銭洗い弁天の社」とも称される。
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鎧橋の右岸は兜町、橋詰には東京証券取引所があり、周囲には証券会社や
金融機関が立ち並ぶ。
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江戸時代には鎧の渡しがあり、明治5年(1872)に鎧橋が架橋されるまで存続した。
その名の由来は説明板によると、「源頼義が奥州平定の途中、ここで暴風逆浪に
あい、鎧を海中に投げ入れて竜神に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができた
ので、以来ここを鎧が淵と呼んだといわれています。また、平将門が兜と鎧を納め
たところとも伝えられています。」とある。
隣接する兜町も、奥州平定の帰途に兜を納めて平和を願った場所という説や、平
将門の兜を埋めて塚にしたという説があるらしい。

鎧の渡し
江戸名所図会 『鎧之渡』      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

鎧橋は明治5年に当時の豪商の手により架橋され、明治21年にはトラス橋に架
け替えられた。
現在の橋梁は昭和32年に竣工したものである。

茅場橋を過ぎると、首都高速が左へと折れる。
その右岸には日本橋水門があり、亀島川が分流する。
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その先の湊橋からの光景、ようやく川の上に空が広がる。
とはいっても、日本橋川の終端まではあとごく僅かな区間だ。
写真右奥に見える茅場町タワーは、かつての山一證券本社があった。、
あの山一證券破綻劇(1997年)からもうかなりの月日が経つ。
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日本橋川が隅田川に合流する手前の左岸、IBM箱崎ビルの前に、「日本銀行
創業の地
」の碑がある。
先ほど取り上げた日本銀行は明治15年(1882)、この地で創業し、明治29年
に現在の日本橋本石町へと移転した。
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日本橋川の最後の橋は豊海橋、最初の架橋は江戸元禄期とされる。
現在の橋梁は、関東大震災後の復興橋梁として昭和2年(1927)に架けられた。
梯子を横倒しにしたようなフィーレンディール橋という珍しい様式の橋梁だそうで、
この様式は国内に数箇所しかないという。
隅田川から帰港する船に配慮して、支流の第一橋梁のデザインをそれぞれ変えて、
区別しやすくしていたそうである。
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豊海橋のすぐ先で、日本橋川は隅田川へと合流する。
隅田川の下流に架かる永代橋から眺めた合流部、白い豊海橋が鮮やかに見える。
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日本橋川 1

小石川橋の下流で神田川から右へ分かれる日本橋川を追ってみる。
もともと、神田川は現在のルートで南下し、日比谷入江へと流れていた。
(当時は平川といった)
家康は日比谷入江を埋め立てるとともに、舟運の確保のために江戸城と
隅田川を結ぶ道三堀を開削した。
平川と道三堀をつなげたルート、これがほぼ現在の日本橋川の川筋である。

最下流の500メートルほどを除いて、川の上には首都高速が覆いかぶる。
それにしても川面に陽が差し込まないのは残念である。
近年、首都高速の老朽化による再建が議論されているが、
川の上から高速道路が無くなる日はくるのだろうか。

日本橋川は神田川から分かれるとすぐにJR中央線と交差する。
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中央線の下をくぐると、右側にはアイガーデンエアのビル群がそびえ立つ。
(ちょうど桜の時期であったので、川沿いには桜並木がきれいだった)
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以前はJRの飯田町貨物駅であった地であり、さらに遡れば甲武鉄道の
始発駅である飯田町駅である。
以前は飯田橋のホームから、有蓋貨車が留置されている風景が見えたが、
1999年に廃止された。

その脇に架かるあいあい橋
下流には大正期などに造られた歴史を感じさせる橋が多い中、異色の存在だ。
飯田橋・飯田町の頭文字からとったらしいが、親柱に記された「i-i」の文字が
新鮮だ。
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もともとこの地には、高松藩の上屋敷があり、邸内には神田上水から水を引き
込んだ池をもつ庭園があったという。
発掘調査では、陶器なども見つかり、礎石の一部は川沿いのベンチなどに
再利用されている。
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靖国通りに架かっている橋は俎橋(まないたばし)。
遠く九段坂の上に靖国神社の鳥居を望むことができる。
俎橋の由来は、江戸城の台所衆の組屋敷があった台所町が近隣にあったことと
いう説や、二枚の板を渡しただけのまな板のような粗末な橋だったからという
説があるという。
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川はゆるやかに左へと曲がっていく。
左岸に共立女子大学の校舎が見える。
1886年に創建された共立女子職業学校を祖とする女子大学である。
神田には他にも多くの大学があるが、郊外移転によりビジネス街へと変貌し
つつある。
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剛健な親柱を持つ橋は雉子橋
唐からの勅使をもてなすための雉子の小屋が、橋のほとりにあったのが
由来とされる。
江戸城が近いため警備も厳しく、「雉子橋でけんもほろほろと叱られる」
といった雉子の鳴き声とかけた川柳もある。
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雉子橋の先、右岸には石垣が見えてくる。
江戸初期に作られた石垣護岸である。
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石垣には、他家の石と区別されるために、石工が彫り付けたとされる印がある。
対岸から望遠を使って撮ってみたが、印なのか傷なのか判別できなかった。
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こちらは一ツ橋、大正14年の架橋である。
八代将軍徳川吉宗がその子、宗尹(むねただ)に屋敷を与えて一橋家を創設、
御三卿の一つとなった。
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神田橋の横には、バスケットの練習コートがあり、若者がバスケットに
興じていた。
神田橋という名の橋は神田川に3箇所あるが、一番有名な神田橋は
この日本橋川の神田橋だろう。首都高のランプがあるからかもしれない。
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神田橋は上野寛永寺や日光東照宮への御成道(将軍の参詣経路)であり、
特に警備が厳しかったという。
そのため、下の古地図(説明板に掲示されていたものを撮影)にあるように、
橋詰は広場となっていた。
130330_0069.jpg

次の橋は鎌倉橋、江戸創設期において、多くの木材、石材が相模国から
運び込まれた。
それを取り仕切ったのが鎌倉から来た材木商たちで、荷揚げ場を鎌倉河岸
といい、橋名もそこから名付けられたらしい。
130330_0073.jpg

先ほどの神田橋からは川沿いの道路は無くなり、並行する道路を歩くこと
になるが、その道路に竜閑橋交差点がある。
ここから、北東方向に竜閑川という掘割があった。
道路脇にはかつて竜閑川に架かっていた龍閑橋(欄干には「龍」の字が使用)の
欄干が保存されている。
2014-01-11_10.jpg


その先でJR(中央線、山手線)を潜る。
神田川に架かるJRの橋梁には、機関車の動輪をデザインした旧国鉄の
レリーフがある。
130330_0086.jpg


下の写真はかつて日本橋川を船で下った時に撮影したものだが、
大正七年の文字が見える。
1192931820.jpg
以前は橋の横には建物が立ち並び、陸からはこのレリーフは見ることが
できなかったが、いつしかコインパーキングに変わり、見ることが出来
るようになった。


より大きな地図で 【川のプロムナード】日本橋川周辺マップ ‎ を表示

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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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