目黒川 1
目黒川は、世田谷区池尻付近で烏山川と北沢川が合流して始まり、
東品川付近で東京湾(天王洲南運河)に注ぐ長さ7.8kmの河川である。
池尻大橋駅の北西、烏山川と北沢川の合流点から始まる。
写真下の左側が烏山川、右側が北沢川である。
現在はともに暗渠となっており、特に下流部は烏山川緑道、北沢川緑道
として整備されており、付近の住民のウォーキングやジョギングの場と
して親しまれている。

合流して目黒川が始まるが、国道246号線までの数百メートルの間は、
暗渠区間である。
その暗渠の上は数年前、緑道として再整備され、鮮やかな花々が続く
目黒川遊歩道となっている。
遊歩道沿いの水路は烏山川緑道や北沢川緑道から続く人工水路であり、
新宿区下落合の落合水再生センターの高度処理水が流されている。

水はそのまま目黒川に落とされ、清流の復活として利用されている。
国道246号線を渡ると、目黒川は開渠となる。
川沿いには桜並木が続く。
遊歩道になったり一般道になったりするが、河口までほぼ川沿いを
あるくことができる。

左岸には首都高速 大橋JCTのループがある。
その上に、先日(2013年3月末)、目黒天空庭園がオープンした。
緩やかなスロープ状になっており、花壇には色とりどりの花が咲く。
展望が素晴らしく、今後、この周辺の観光スポットとなるだろう。

その反対側、川沿いに水車小屋のミニチュアがある。
かつて、目黒川沿いおよびその支流には多くの水車小屋があり、
精米・製粉や薬種の精製などの小工業の動力として使われたという。
とくに大橋付近の加藤の水車は有名だったそうだ。

山手通りを越えると、赤い橋梁が見えてくる。
歩行者専用の中の橋で、目黒川の橋梁の中でも移植の存在だ。
この付近で、駒場方面からの空川が合流していたが、
残念ながら合流の痕跡は見当たらない。

その先、左岸から道一本入った場所には菅刈公園がある。
江戸期には豊後国竹田城主中川氏の屋敷があったところで、回遊式庭園
は名所であった。
明治に入ると西郷従道(隆盛の弟)が別邸として洋館・和館を建造した。
公園の一画には、庭園を復元したエリアがある。

隣接する西郷山公園も旧西郷邸の一部。
園内には西郷に因んで、鹿児島県の各市町村から寄贈された樹木があり、
また桜島の溶岩で造られた記念碑がある。
展望台からは、先ほどの天空庭園に劣らない眺めを望むことができるが、
同時に目黒川が形成した谷を感じることができる。

川に戻り下流へと歩いていくと、中目黒の街に入っていく。
隣接する代官山からのためなのか、洒落た店舗が川沿いの続く。

目黒川といえば桜で有名であり、近年、マスコミにも多く取り上げられ、
都内でも有数の名所となっている。
特にこの近辺は交通の便が良いため、土日ともなると多くの観光客で賑わう。

東急東横線をくぐると、右手から蛇崩川が合流する。
世田谷区弦巻付近を水源とし、三軒茶屋の南を経てここで目黒川に合流する。
全区間暗渠であるが、最後の数十メートルだけ顔を出す。

その先で駒沢通りと交差するが、その西側、山手通りとの交差点そばに、
日蓮宗の実相山正覚寺がある。
元和5年(1619)、日栄上人によって開山された。
仙台藩4代目藩主の生母、三沢初子(1640~86)が帰依し、伊達家との
関係が深いという。

駒沢通りを過ぎると、川幅が急に広がる。
ここはかつて船入場と称され、下流から上ってきた船舶の船着場であった。
右岸には船入場公園が広がるが、その下は船入場調節池となっている。

以前は公園内に目黒区立川の資料館があったが、残念ながら閉鎖されてしまった。
なお資料は川を挟んだ中目黒公園内の花とみどりの学習館に移され、
公開されている。
川の両岸に遊歩道が続く。
川沿いに田道広場公園や区民センター公園などがあるためか、通行量も多い。
目黒川を越すと左手に大きな建物が見えてくる。
結婚式場として有名な目黒雅叙園だ。

その手前の太鼓橋を、左岸の目黒駅方向へと辿っていくと
行人坂という急勾配の坂がある。
暑い時期ともなると、上るのに息がきれるほどだ。

行人坂の名の由来は、寛永の頃、出羽の湯殿山の行者、大海法印が大日如来堂
を開山し、次第に多くの行人が移り住むようになったからとされる。

江戸名所図会 夕日岡・行人坂 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
手前に目黒川と太鼓橋が見える。
こちらは、同じく江戸名所図会に描かれた太鼓橋。
明和6年(1769)に完成した石造りの橋で、当時としては珍しいものであったという。

(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
その大日如来堂を前身とする大円寺は、行人坂の中程にある。
明和九年(1772)、この大円寺を火元とする火事がおこり、1万5千人が死亡する
という明暦の大火(目黒行人坂大火)が起こる。
境内には、その供養を弔うために作られたとされる五百羅漢像がある。

また八百屋お七の恋人、吉三は事件後、名を西運と改め、お七の菩提を弔うために
目黒不動と浅草観音の間を往来し、江戸市民から集めた浄財を基に行人坂を石畳に、
また太鼓橋を石橋に架け換えたという。
八百屋お七の事件のもととなったのは天和の大火(天和二年(1682))だが、
江戸の大火のうちの2つがこの大円寺にまつわるというのも興味深い。
より大きな地図で 【川のプロムナード】 目黒川周辺マップ を表示

東品川付近で東京湾(天王洲南運河)に注ぐ長さ7.8kmの河川である。
池尻大橋駅の北西、烏山川と北沢川の合流点から始まる。
写真下の左側が烏山川、右側が北沢川である。
現在はともに暗渠となっており、特に下流部は烏山川緑道、北沢川緑道
として整備されており、付近の住民のウォーキングやジョギングの場と
して親しまれている。

合流して目黒川が始まるが、国道246号線までの数百メートルの間は、
暗渠区間である。
その暗渠の上は数年前、緑道として再整備され、鮮やかな花々が続く
目黒川遊歩道となっている。
遊歩道沿いの水路は烏山川緑道や北沢川緑道から続く人工水路であり、
新宿区下落合の落合水再生センターの高度処理水が流されている。

水はそのまま目黒川に落とされ、清流の復活として利用されている。
国道246号線を渡ると、目黒川は開渠となる。
川沿いには桜並木が続く。
遊歩道になったり一般道になったりするが、河口までほぼ川沿いを
あるくことができる。

左岸には首都高速 大橋JCTのループがある。
その上に、先日(2013年3月末)、目黒天空庭園がオープンした。
緩やかなスロープ状になっており、花壇には色とりどりの花が咲く。
展望が素晴らしく、今後、この周辺の観光スポットとなるだろう。

その反対側、川沿いに水車小屋のミニチュアがある。
かつて、目黒川沿いおよびその支流には多くの水車小屋があり、
精米・製粉や薬種の精製などの小工業の動力として使われたという。
とくに大橋付近の加藤の水車は有名だったそうだ。

山手通りを越えると、赤い橋梁が見えてくる。
歩行者専用の中の橋で、目黒川の橋梁の中でも移植の存在だ。
この付近で、駒場方面からの空川が合流していたが、
残念ながら合流の痕跡は見当たらない。

その先、左岸から道一本入った場所には菅刈公園がある。
江戸期には豊後国竹田城主中川氏の屋敷があったところで、回遊式庭園
は名所であった。
明治に入ると西郷従道(隆盛の弟)が別邸として洋館・和館を建造した。
公園の一画には、庭園を復元したエリアがある。

隣接する西郷山公園も旧西郷邸の一部。
園内には西郷に因んで、鹿児島県の各市町村から寄贈された樹木があり、
また桜島の溶岩で造られた記念碑がある。
展望台からは、先ほどの天空庭園に劣らない眺めを望むことができるが、
同時に目黒川が形成した谷を感じることができる。

川に戻り下流へと歩いていくと、中目黒の街に入っていく。
隣接する代官山からのためなのか、洒落た店舗が川沿いの続く。

目黒川といえば桜で有名であり、近年、マスコミにも多く取り上げられ、
都内でも有数の名所となっている。
特にこの近辺は交通の便が良いため、土日ともなると多くの観光客で賑わう。

東急東横線をくぐると、右手から蛇崩川が合流する。
世田谷区弦巻付近を水源とし、三軒茶屋の南を経てここで目黒川に合流する。
全区間暗渠であるが、最後の数十メートルだけ顔を出す。

その先で駒沢通りと交差するが、その西側、山手通りとの交差点そばに、
日蓮宗の実相山正覚寺がある。
元和5年(1619)、日栄上人によって開山された。
仙台藩4代目藩主の生母、三沢初子(1640~86)が帰依し、伊達家との
関係が深いという。

駒沢通りを過ぎると、川幅が急に広がる。
ここはかつて船入場と称され、下流から上ってきた船舶の船着場であった。
右岸には船入場公園が広がるが、その下は船入場調節池となっている。

以前は公園内に目黒区立川の資料館があったが、残念ながら閉鎖されてしまった。
なお資料は川を挟んだ中目黒公園内の花とみどりの学習館に移され、
公開されている。
川の両岸に遊歩道が続く。
川沿いに田道広場公園や区民センター公園などがあるためか、通行量も多い。
目黒川を越すと左手に大きな建物が見えてくる。
結婚式場として有名な目黒雅叙園だ。

その手前の太鼓橋を、左岸の目黒駅方向へと辿っていくと
行人坂という急勾配の坂がある。
暑い時期ともなると、上るのに息がきれるほどだ。

行人坂の名の由来は、寛永の頃、出羽の湯殿山の行者、大海法印が大日如来堂
を開山し、次第に多くの行人が移り住むようになったからとされる。

江戸名所図会 夕日岡・行人坂 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
手前に目黒川と太鼓橋が見える。
こちらは、同じく江戸名所図会に描かれた太鼓橋。
明和6年(1769)に完成した石造りの橋で、当時としては珍しいものであったという。

(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)
その大日如来堂を前身とする大円寺は、行人坂の中程にある。
明和九年(1772)、この大円寺を火元とする火事がおこり、1万5千人が死亡する
という明暦の大火(目黒行人坂大火)が起こる。
境内には、その供養を弔うために作られたとされる五百羅漢像がある。

また八百屋お七の恋人、吉三は事件後、名を西運と改め、お七の菩提を弔うために
目黒不動と浅草観音の間を往来し、江戸市民から集めた浄財を基に行人坂を石畳に、
また太鼓橋を石橋に架け換えたという。
八百屋お七の事件のもととなったのは天和の大火(天和二年(1682))だが、
江戸の大火のうちの2つがこの大円寺にまつわるというのも興味深い。
より大きな地図で 【川のプロムナード】 目黒川周辺マップ を表示


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