神田川 8

神田川最大の有名スポット、御茶の水橋から聖橋方向の風景である。
アーチ橋の聖橋が素晴らしい。
聖橋は関東大震災復興事業のひとつとして、昭和2年(1927)に架けられ、
川の北にある湯島聖堂と南に位置するニコライ堂という2つの聖堂を結ぶ
という意味から名づけられた。
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聖橋の脇に顔を出し、橋で川を渡る地下鉄丸ノ内線。
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その先は昌平坂を下りていくが、坂の途中、左手にあるのが湯島聖堂
元禄3年(1690)五代将軍綱吉が儒学の振興を図るため、この地に聖堂を創建し、
林羅山が上野忍が岡の私邸内に建てた孔子廟を移設させた。
その後、幕府直轄の昌平坂学問所となり、明治期に入ってからは、
東京師範学校、東京女子師範学校なども置かれたという。
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坂を下りたところにあるのが昌平橋、
橋から上流を見るとJR中央総武線の鉄橋が見える。
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こちらは歌川広重が描いた「名所江戸百景 昌平橋聖堂神田川」。
なんとなく現在からも想像できる情景である。
昌平橋聖堂神田川

下流方向に目を向けてみると、赤煉瓦の中央線の高架が川に沿っている。
かつては万世橋駅があったが、昭和18年(1943)に廃止された。
中央線の脇にあった交通博物館跡地にはJR神田万世橋ビルが建てられ、
駅跡にはmAAch ecute(マーチエキュート) 神田万世橋と称する商業
施設がオープンした。
かつてのホーム部分には展望デッキとカフェがあり、そこに通じる階段は
旧万世橋の遺構として展示・利用されている。
13/12/23記事修正
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なお、御茶ノ水分水路は昌平橋の橋詰で終わり、本流と合流する。

次の橋は万世橋、灯篭のある親柱が特徴的である。
橋の北側には秋葉原の電気街が広がる。
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初代の万世橋は、もう少し上流にあった。
明治6年(1873)に昌平橋が洪水で流され、この地に昌平橋の仮橋が架設された。
つまり、一時的にではあるが、昌平橋と万世橋の位置は逆転していたことになる。
現在の万世橋は昭和5年(1930)に架け替えられている。

昌平橋から下流には、殆ど川沿いの道路はなく、並行する道路を歩くことにある。
秋葉原東口の近くに秋葉原公園という小公園がある。
ここは、かつて神田川と秋葉原貨物駅を結ぶ掘割であった。
鉄道輸送と水運の交流地点であったというわけだ。
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昭和通りが架かる和泉橋の上流には防災用船着場があり、その脇にはちょっとした
テラスもある。
近年は防災用船着場としてではなく、神田川クルーズの乗降場としても使用されて
いるようだ。
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川の北側に並行する道を歩いていると、神田佐久間河岸と書かれた電信柱を
見つけた。
住居表示などで新町名に変更される場合が多いなか、
このように古い町名が残っていることを見つけると、なんとなく安堵してしまう。
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美倉橋の右岸橋詰めには、小さな倉がある。
実はこれ、公衆トイレであり、美倉橋の由来(川の傍に三つの倉があり、三倉が転じて
美倉橋となる)に因んで建てられたもののようである。
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左衛門橋から下流側は、屋形船の停泊場所となっている。
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そして浅草橋から柳橋にかけては、川沿いに数軒の船宿が連なる。
浅草橋はJRの駅名にもなっているが、元々、奥州街道が通るこの地に、江戸城の
警護に築かれた門があり、浅草観音への道筋に当たることから浅草御門と呼ばれ、
橋も浅草御門橋と称された。
いつしか浅草御門橋が転じて浅草橋になったという。
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神田川最下流の橋、柳橋に達する。
橋詰には小松屋という佃煮屋がある。
神田川が隅田川に合流する地のため、川口出口之橋という橋だったが、
川のほとりに柳があったことから柳橋と称されることになったそうだ。
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柳橋といえば花街で有名であり、天保の改革で非公認の花街・遊郭であった
深川などから逃れてきた芸妓がこの地に移住したことが始まりという。
また、隅田川・山谷堀を経て吉原に至る船が柳橋から出ていた。
江戸・明治から昭和に至るまで奥座敷として賑わったが、
東京オリンピック以降衰退し、今では付近一帯は低層のビルが立ち並ぶ。

柳橋の先、数十メートルで神田川は隅田川に合流する。
隅田川の対岸には首都高6号線が通り、すぐ下流には両国橋が架かる。
24.6kmに及ぶ神田川の終焉、そこには清々しい空と水の青さが輝いていた。
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神田川 7

江戸川橋わきの左岸に大きな排水口がある。
水窪川および弦巻川の合流地点である。
(現在は下水化しているので、大雨時以外は川に流れ込まない)
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水窪川は東池袋を源流として南大塚を廻って流れる支流、
弦巻川は池袋西口付近を源流として雑司ヶ谷を経て流れる支流であり、
現在は共に全区間暗渠である。
神田川への合流直前で2つの河川は合流し、そして神田川へ注いでいた。

江戸川橋より下流は首都高5号線が寄り添うように続く。
この先、右岸には、歌舞伎町付近から流れる蟹川が合流していたが、
こちらには合流口はない。
並行する目白通りの下にある江戸川橋分水路に合流しているのだろうか。
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左手に大きな青い凸版印刷のビルが見えてくる。
印刷博物館も併設されている。
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この付近には大企業から中小に至るまで、多くの印刷・出版業の事務所・
工場があり、文京区の地場産業となっている。
今後、出版物の電子メディア化が進むにつれてどうなるのか、心配になる。

白鳥橋手前で、左手に今度は水道橋分水路が口を開けている。
この付近で川は90度曲がり、南へ向きを変える。
そのことから、この付近は大曲という地名があった。
今でこそ、住所としての大曲という名は無いが、
交差点名・バス停名にその名を残す。
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大曲を過ぎると、首都高速が川を覆いかぶせるようになる。
奥に見える橋は隆慶橋。
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更に歩いていくと飯田橋の交差点に達し、
神田川は首都高速とともに左折する。
飯田橋は神田川に架かる橋ではなく、外濠からの水路の橋
である。(写真手前)
神田川の橋は船河原橋(写真奥)といい、船河原橋の下で
外濠からの水路と神田川は合流する。
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ここからはしばらく外堀通り沿いを歩いていく。
飯田橋から水道橋付近にかけて、市兵衛河岸といわれる荷揚げ場があった。
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その名は、付近に岩瀬市兵衛の屋敷があったことに由来する。
下流の昌平橋との間を結ぶ船着場であり、荷物を岸に上げる物揚場でも
あったという。
陸軍東京砲兵工廠(現:小石川後楽園付近)があった頃は、工廠用の
荷揚げ場としても利用されていた。

小石川橋の手前で水道橋分水路の中程に位置する流出口が見える。
首都高速は日本橋川へと曲がり、神田川の上に再び空が広がる。
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日本橋川との分流地点は、その小石川橋のすぐ下流。
元々の神田川は(当時は平川といった)、現在の日本橋川方向に流れ、
日比谷入江へと注いでいた。
家康は、江戸入城後、御茶ノ水付近の台地(神田山)を切り崩し、
隅田川方向へ流す放水路をつくることを命じた。
切り崩した土砂は、江戸城の東部の低湿地や海の埋め立てに使用された。
実際の工事は家康の死後で、約40年間を要する大工事だったが、
工事を請け負ったのが仙台の伊達藩だったので、仙台掘とも呼ばれた。
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分流する箇所にある建物は千代田清掃事務所三崎町中継所で
此処から不燃ゴミが東京湾岸の処理場へと、はしけによって運ばれる。
この先の川では、はしけが往来する様子がよく見られる。

東京ドーム一帯へ向かう人々を見ながら歩いていくと、
水道橋駅の向かい側に防災船着場がある。
ここにも先ほどの市兵衛河岸の説明板があった。
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そしてもう一つ、ここには谷端川小石川)という支流が合流していた。
現在の地下鉄千川駅付近の粟島神社境内の弁天池を水源とし、
椎名町、板橋、大塚などを通る全長約11kmの支流である。
現在は外堀通り地下の分水路へ合流しているようである。

水道橋駅の南側には、三崎稲荷神社がある。
寿永元年(1182)、当時の神田山山麓の丘陵地(現:文京区本郷一丁目)に
三崎村総鎮守として祀られたのが創建とされる。
その後、神田川掘割工事や甲武鉄道の敷設などの理由により、数度の遷座
を経て、明治38年(1905)現在地に落ち着く。
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徳川家光が江戸城に出入りをする際に三崎稲荷神社に参拝し、諸大名にも参
拝を促した。
それを機に、参勤交代で登城の際、諸大名は三崎稲荷神社で祓い清めること
を恒例としていたことから、「清めの稲荷」とも呼ばれていたともいう。

水道橋から下流方向を眺めてみる。
御茶ノ水に向かって両岸は上っていくので、深い谷となる。
先ほど書いたように人工の谷であるので、改めて江戸期の土木工事の偉業に
驚きを感じる。
写真左に見えるのは御茶ノ水分水路の流入口である。
その上は小公園となっており、その一画に御茶ノ水分水路の事業記念碑もある。
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通りを上っていくと、その途中に神田上水懸樋跡の碑がある。
神田上水については、前回でも記載したが、大洗堰で取水した神田上水は、
ここで懸樋で神田川を渡り江戸市中へ給水していた。
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水道橋
江戸名所図会 お茶の水 水道橋  (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

左手に順天堂大学・東京医科歯科大学といった、医科大付属病院の建物
が見えてくる。
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その順天堂大学の北側に東京都水道歴史館がある。
神田上水や玉川上水をはじめとして、江戸から現代に至る水道の歴史の
展示などがある。
移築・復元された神田上水石樋の遺構(下記写真)や、
先ほどの懸樋の再現模型などの展示もあり、立ち寄ることをお勧めしたい。
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神田川 6

高田馬場を過ぎると、再び川沿いを歩くことができるようになる。
護岸壁が新しく整備され、気持ちよく歩くことができる。
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神田川は新目白通り、続いて明治通りと交差する。
新目白通りの高田橋では、落合付近で暗渠となった妙正寺川
および高田馬場分水路と合流する。
写真右側の合流口が妙正寺川、左側が分水路である。
分水路からの水は落合水再生センターからの高度下水処理水であり、
水質が違うためなのか、その部分だけ藻が発生している。
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続いて明治通りが交差する高戸橋。
下流側には都電荒川線が並行して走っており、
同線の撮影地でも有名な場所の1つである。
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その先は新目白通りの北側を流れる。
高戸橋から百メートルほど行った所に落差工(段差)がある。
河川改修の際にここに魚道を設置し、魚の遡上を可能にした。
その結果、上流側にアユが確認できるようになったという。
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江戸川橋までの間、川の周囲には史跡が多く存在する。
まず目につくのは面影橋の北側に設置された山吹の里の碑
太田道灌の逸話にもとづいたものである。
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道灌が鷹狩りに出かけ雨にあい、蓑を借りようと農家に立ち寄った際、
農家の娘に一輪の山吹の花を差し出される。
「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞかなしき」
(後拾遺集)にかけたもの(貧しくて蓑はない)であり、その意味が
判らなかった道灌は自分の無学を恥じ、以後勉学に励んだというものである。
(但し、山吹の里の場所には諸説あり、必ずしもここがその地ではない)
山吹の里
江戸名所図会 山吹の里     (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

また、面影橋も於戸姫(おとひめ)伝説で知られる。
戦国時代の落武者、和田靭負の娘、於戸姫という美女が暮らしていた。
或るとき、男に於戸姫は誘拐されるが、途中で失神し、男は死んだものと思い、
その場に置き去りにしてしまう。
杉山三郎左衛門に救われて育てられ、やがて近所の小川左衛門に嫁ぐが、
村山三郎武範という男が横恋慕のあまり、夫を殺害してしまう。
於戸姫は村山をみごと仇討ちするが、わが身から生じたこれらの出来事を恥じ
て、神田川に身を投げる。
村人達はその死を悼み、面影を偲んだことから、面影橋と名づけられたという。
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その面影橋を北へ150mほど行くと、高田氷川神社がある。
創建は貞観年間(859~877)と伝えられ、六歌仙の一人、在原業平も参拝し
たという。
江戸時代には氷川大明神と呼ばれていたが、明治2年(1869)に氷川神社と
改称した。
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神田川を挟んで2つの日本式庭園がある。
北側には新江戸川公園、傾斜地の湧水を生かした回遊式泉水庭園で
幕末には熊本藩細川家の下屋敷、明治期に入ってから細川家の本邸となった。
冬季には松に雪吊りが施され、見事な風景が展開される。
(平成29年3月、肥後細川庭園と改称された。)
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新目白通りの南側には、甘泉園がある。
こちらも回遊式庭園で、清水家の江戸下屋敷であった、
新江戸川公園に比べると狭いが、その趣きは引けをとらない。
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この地に回遊式庭園が2つも残されていることに驚くとともに、
江戸期より風光明媚な場所であったことが伺いしれる。

甘泉園の南西の崖の上に鎮座するのが、早稲田水稲荷神社
天慶4年(941)、藤原秀郷が冨塚古墳の上に稲荷大神を勧請し「冨塚稲荷」
と命名したのが創建と伝えられる。
元禄15年(1702)、大椋の根元より霊水が湧出し、眼病に利くとして評判と
なり、火難退散の神託が下ったことから、水稲荷神社と改名した。
元々は早稲田大学の西早稲田キャンパスの地にあったが、昭和38年(1963)
大学との土地交換により、この地に遷座した。
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駒塚橋の脇には水神社胸突坂がある。
水神社の創建は不詳だが、
水神が八幡宮社司の夢枕に立って、「我をこの地にまつらば堰の
守護神となり、村民をはじめ江戸町ことごとく安泰なり」と告げ、
この地に建立したという。
神田上水の守護神として奉られている。
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右手には胸突坂という急坂があり、
自分の胸を突かれるようにしなければ上がれないことから名づけられた。
今でも階段状の坂に手すりが付けられており、上るのにはかなりの労力を要する。

その胸突坂の下には関口芭蕉庵がある。(坂下の木戸から入る)
松尾芭蕉は神田上水の改修工事に携わり、3年間、水番屋に住んだといわれる。
芭蕉庵自体は後年、芭蕉を慕う人々により作られたようだ。
ただ、ここに住んでいた時期の芭蕉はまだ若年であり、
俳諧として有名になるのは、後年、深川に居を構える頃のことである。
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園内の池は湧水池で東京の名湧水57選に指定されている。

高戸橋から江戸川橋にかけては、都内有数の花見の名所であり、
桜の時期には多くの花見客で賑わう。
写真は駒塚橋から下流側を見た風景であり、椿山荘の建物が映える。
花見をしながら付近の史跡散策もお勧めである。
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椿山荘の脇を進み、江戸川公園に入る。
その横、大滝橋付近で神田上水を取水する大洗堰があった。
神田上水はここで取水されて神田川の北側を通り、小石川後楽園(旧水戸藩邸)
を経て、水道橋の東側で神田川を懸樋で渡り江戸市中へ供給されていた。
江戸川公園内には、昭和八年に廃止された大洗堰の石柱が移され保存されている。
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公園を抜けると、目白通りが架かる江戸川橋に達する。
既に書いたように、大洗堰より下流は、かつて江戸川と称した。
江戸川橋の右には江戸川橋分水路の流入口が見える。
江戸川橋分水路は、この先、目白通りの下を進む。
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途中、何箇所かで分断されはしたものの、井の頭公園から続いてきた
川沿いの遊歩道は、この江戸川橋で終わる。
この先は、川に沿った一般道などを歩いて下流を目指すことになる。


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神田川 5

淀橋を過ぎると、神田川は新宿を避けるように北上する。
川は中野区と新宿区の区界となっていて、左岸が中野区、右岸が新宿区となる。

川沿いには桜並木が続く。
この桜並木は下落合まで、延々、2.5km続いていており、神田川沿いの有名な
花見スポットである。
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まだ3月初旬だったので、当然のことながら花や葉はついていない。
2008年の春に撮影したこの付近の桜の風景を掲載しよう。
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この辺りの川沿いは遊歩道が続いており、歩行の邪魔になるので宴会は禁止
されている。
ゆっくりと歩きながら花見を楽しみたいむきにはお勧めである。

大久保通りが架かる末広橋手前で、桃園川緑道が合流する。
その合流地点に、かぐや姫の「神田川」の歌碑がある。
歌そのものは、山手線の東、面影橋付近の情景を唄ったものだとされるので、
この場所に歌碑があることはちょっと場違い感を覚える。
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桃園川の合流は末広橋の先になる。
荻窪の北、杉並区天沼の弁天池を水源としてこの地で合流する。
かつては開渠だったが、水質悪化や氾濫を回避するなどの理由から、昭和40年
代前半に暗渠化されてしまった。
今は下水道の桃園川幹線と化しているが、大きな合流口を見ると、かつての桃園
川の大きさを想像できる。
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新宿区による川沿いウォークの案内板。
ウォーキングやジョギングを楽しむ人々が行きかう。
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こちらは可愛い人魚姫の銅像。
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東中野の東側でJR中央線と交差する。
線路の北側には、結婚式場の日本閣が広がっていたが、2007年、その一部が
高層マンションとなってしまった。
(日本閣はリニューアルされて引き続き営業中である。)
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大東橋から小滝橋まで右岸には神田上水公園が続く。
人工の流水路もあり夏季には水が流れる。
(この時期は水は流れていないが、前日の雨水が溜まっていた)
先ほど、川沿いでは花見の宴会が出来ないと述べたが、ここだけは別で、狭い公
園ながらも花見客で盛り上がる。
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神田上水公園を抜けると小滝橋
かつてこの橋の下に小さな堰があり、小さな滝のようになっていたのが、橋名の由
来だという。
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写真の橋の対岸にあるのは、都営バスの小滝橋営業所だ。

さらに北上していくと、左岸に落合水再生センターが見えてくる。
中野・新宿・杉並など都区内西部の下水を処理している。
高度処理された水は、高田馬場分水路を経由して神田川に放流されるほか、
渋谷川目黒川呑川へ、清流復活事業として活用・送水されている。
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水再生センターの上部は落合中央公園となっており、野球場、テニスコートがある。
また隣接してせせらぎの里公苑もあり、子供連れの家族など周辺住民の憩いの
場となっている。
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神田川から落合中央公園へ続く階段を上った場所から見る桜の眺望も素晴らしい。
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新堀橋の手前、左岸に大きな取水口が見えてくる。
高田馬場分水路である。
分水路は妙正寺川とともに暗渠となって新目白通りの下を通り、高田橋で再び
神田川に合流する。
かつてはこの先の高田馬場付近で発生していた水害を防ぐために設けられた。
普段は水再生センターからの処理水が流れ、大雨時には神田川から水が流れ
込む構造になっている。
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西武新宿線の下落合手前で神田川は90度曲がって東進する。
かつてはこの地で妙正寺川と合流していたが、今は分水路とともに暗渠となって
高田橋まで続く。
滝澤橋の先でかつての合流地点を確認することができる。
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落合という地名も神田川と妙正寺川が合流して落ち合うことが由来とされている。

その先は高田馬場まで、川沿いの道はない。
仕方なく北側の並行する道路を歩いていくこととなる。
その道路が神田川と交差する橋が田島橋。上流側に東京富士大学があり、川を
挟んだ校舎を結ぶ橋を見ることができる。
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田島橋を渡ると、高田馬場の街に入る。
神田川は、その北側を急流となって、JR山手線の下を流れていく。
この急流を見ると、この地がかつて水害に悩まされていたことがわかるような気
がする。
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神田川 4

環七を越え、次の上水橋の北側に東運寺(通称:釜寺)がある。
釜寺は。環七を通る都バスのバス停名にもなっているので、通称名の方が馴染み
深い。
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本堂の屋根の上に大きな釜が乗っている。
その由来を、杉並区教育委員会による説明板から引用しよう。

戦国のころ、天正元年(1573)備前の僧一安上人が、安寿と厨子王の守り本尊
「身代わり地蔵尊」を奉じてこの地に来ました。これに帰依した方南の大地主鈴木
伊兵衛が屋敷を寄進して念仏堂としたのが、当寺の開創と、元禄14年(1701)
もと住職であった祐梵上人筆の由緒書は伝えています。
この「身代わり地蔵尊」は、山椒太夫に釜ゆでにされそうになった厨子王を、お坊
さんの姿になって助けたという言い伝えがあり、それにちなんで当寺本堂の屋根
に釜を置いたといわれます。



川は左にカーブし、杉並区から中野区へ入る。
それと同時に川にはU字溝が設置され、様相が変わる。
河川を管轄する都の建設事務所(第三)が変わるわけでもないので、区の意向が
反映されているのだろうか。
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方南通りを越えると、右手に東京メトロ中野車両基地(丸ノ内線)が広がる。
1961年の方南支線開業とともに、発足した。
丸ノ内線だけでなく、銀座線車両の検査・修繕も担当しているので、運がよければ、
黄色い車両を見ることが出来る。
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この車両基地は神田川に隣接されているため、
栄橋と和田見橋の間は右岸には道路は設置されていない。

その栄橋・和田見橋間で左側から善福寺川が合流する。
善福寺池を水源とし、杉並区を横断する延長10.5kmの河川だ。
以前は合流部に家屋があって合流部の写真は撮りづらかったが、家屋はコインパ
ーキングへと変わり、このように俯瞰できる写真が撮れるようになった。
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中野富士見町駅脇の富士見橋。
中野富士見町・中野新橋間は川沿いの道は無く、近くの道路を進むことになる。
写真左下に見える白いコンクリートは、杉並区堀ノ内から流れる小沢川の合流口
跡だ。
現在は合流口は富士見橋手前に移設されている。
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中野通りが架かる寿橋の南側に、京王バスの中野車庫がある。
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河川沿い(暗渠を含めて)には、バスの車庫が意外と多い。
かつて川沿いには田畑や湿地が広がり、広い土地が確保できたことによるもの
だろう。
学校や団地なども同様の理由から河川沿いに多い。
ちなみに、神田川沿いには、下流にも都営バスの小滝橋車庫がある。

川沿いを歩けないので、時々、橋に立ち寄り、川の様子を観察する。
柳橋では川沿いに梅が綺麗に咲いていた。
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中野新橋の街に差し掛かる。
かつて昭和40年代まで、この付近は花街として栄えたという。
今でも若手芸人が多く住む町として有名だ。
神田川に架かる中野新橋は、赤い欄干が特徴的だ。
2011年に架け替えられたが、赤い欄干のデザインは継承された。
(同時に橋名も「新橋」から「中野新橋」に改名された。)
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橋詰の小公園には架替前の親柱に取り付けられていた青銅の擬宝珠が保存され
ていた。
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中野新橋からは川沿いの遊歩道が復活する。
下流方向に都庁を中心とする西新宿の高層ビル群を望むことができる。
此処からの眺め、夜景もまた格別である。
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向台小学校前に、神田川を1/1000スケールで表現したタイルがある。
子供達に神田川の興味を持たせるために作ったものだろう。
今までの、そしてこれから先の行程が判り、見ているだけで楽しい。
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その先、二百メートルほどで山手通りが架かる長者橋に到着する。
2007年、首都高速中央環状線開通時に、橋の脇に中野長者橋ランプが設置され、
橋の名が知られるようになった。
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その名は橋の北方、多宝山成願寺を開創した鈴木九郎の中野長者伝説に由来する。
鈴木九郎は悪行の末、富豪となり中野長者と呼ばれるまでになった。
しかしその報いのため、愛する一人娘が蛇の姿となり、十二社熊野神社の池に
入水して絶命したと伝えられる。
改心した九郎は仏門に帰依し、自宅を建て替え成願寺を建立した。

菖蒲橋の先で、南から和泉川神田川笹塚支流)が合流し、
その場所には大きな合流口を見ることができる。
和泉川は、杉並区和泉(代田橋駅の北方)を源とし、笹塚、幡ヶ谷の北部を通り、
ここで神田川と合流する暗渠である。
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この付近で河川は北へと向きを変える。
青梅街道との交差する橋は淀橋
橋の東側で、近年、都道302号線(職安通り)が青梅街道と繋がった。
その周辺では開発も行われており、何年か先には風景も変わるかもしれない。
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淀橋の名を冠する淀橋町と、大久保町、戸塚町、落合町が東京市に編入して、
1932年に淀橋区が発足、新宿区の前身となった。(1947年に淀橋区、四谷区、
牛込区が合併して新宿区が発足した)
ヨドバシカメラは、その淀橋から名をとったのであろう。
橋自体はあまり知られていなくとも、橋名だけは全国的に有名となってしまった。

こちらは江戸名所図会に描かれた淀橋、大橋、小橋と呼ばれた2つの橋が記さ
れ、青梅街道を行き交う多数の人々を見ることができる。
また、絵の下には水車も描かれており、この付近の賑わいを伺うことができる。
2つの橋があったということは、神田川が二筋に分かれていたのだろうか。
淀橋水車
江戸名所図会淀橋水車』    (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)


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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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