高田馬場を過ぎると、再び川沿いを歩くことができるようになる。
護岸壁が新しく整備され、気持ちよく歩くことができる。

神田川は新目白通り、続いて明治通りと交差する。
新目白通りの高田橋では、落合付近で暗渠となった
妙正寺川、
および
高田馬場分水路と合流する。
写真右側の合流口が妙正寺川、左側が分水路である。
分水路からの水は落合水再生センターからの高度下水処理水であり、
水質が違うためなのか、その部分だけ藻が発生している。

続いて明治通りが交差する高戸橋。
下流側には都電荒川線が並行して走っており、
同線の撮影地でも有名な場所の1つである。

その先は新目白通りの北側を流れる。
高戸橋から百メートルほど行った所に落差工(段差)がある。
河川改修の際にここに魚道を設置し、魚の遡上を可能にした。
その結果、上流側にアユが確認できるようになったという。

江戸川橋までの間、川の周囲には史跡が多く存在する。
まず目につくのは面影橋の北側に設置された
山吹の里の碑。
太田道灌の逸話にもとづいたものである。

道灌が鷹狩りに出かけ雨にあい、蓑を借りようと農家に立ち寄った際、
農家の娘に一輪の山吹の花を差し出される。
「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞかなしき」
(後拾遺集)にかけたもの(貧しくて蓑はない)であり、その意味が
判らなかった道灌は自分の無学を恥じ、以後勉学に励んだというものである。
(但し、山吹の里の場所には諸説あり、必ずしもここがその地ではない)
江戸名所図会 山吹の里 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)また、面影橋も
於戸姫(おとひめ)
伝説で知られる。
戦国時代の落武者、和田靭負の娘、於戸姫という美女が暮らしていた。
或るとき、男に於戸姫は誘拐されるが、途中で失神し、男は死んだものと思い、
その場に置き去りにしてしまう。
杉山三郎左衛門に救われて育てられ、やがて近所の小川左衛門に嫁ぐが、
村山三郎武範という男が横恋慕のあまり、夫を殺害してしまう。
於戸姫は村山をみごと仇討ちするが、わが身から生じたこれらの出来事を恥じ
て、神田川に身を投げる。
村人達はその死を悼み、面影を偲んだことから、面影橋と名づけられたという。

その面影橋を北へ150mほど行くと、
高田氷川神社がある。
創建は貞観年間(859~877)と伝えられ、六歌仙の一人、在原業平も参拝し
たという。
江戸時代には氷川大明神と呼ばれていたが、明治2年(1869)に氷川神社と
改称した。

神田川を挟んで2つの日本式庭園がある。
北側には
新江戸川公園、傾斜地の湧水を生かした回遊式泉水庭園で
幕末には熊本藩細川家の下屋敷、明治期に入ってから細川家の本邸となった。
冬季には松に雪吊りが施され、見事な風景が展開される。
(平成29年3月、
肥後細川庭園と改称された。)

新目白通りの南側には、
甘泉園がある。
こちらも回遊式庭園で、清水家の江戸下屋敷であった、
新江戸川公園に比べると狭いが、その趣きは引けをとらない。

この地に回遊式庭園が2つも残されていることに驚くとともに、
江戸期より風光明媚な場所であったことが伺いしれる。
甘泉園の南西の崖の上に鎮座するのが、
早稲田水稲荷神社。
天慶4年(941)、藤原秀郷が冨塚古墳の上に稲荷大神を勧請し「冨塚稲荷」
と命名したのが創建と伝えられる。
元禄15年(1702)、大椋の根元より霊水が湧出し、眼病に利くとして評判と
なり、火難退散の神託が下ったことから、水稲荷神社と改名した。
元々は早稲田大学の西早稲田キャンパスの地にあったが、昭和38年(1963)
大学との土地交換により、この地に遷座した。

駒塚橋の脇には
水神社と
胸突坂がある。
水神社の創建は不詳だが、
水神が八幡宮社司の夢枕に立って、「我をこの地にまつらば堰の
守護神となり、村民をはじめ江戸町ことごとく安泰なり」と告げ、
この地に建立したという。
神田上水の守護神として奉られている。

右手には胸突坂という急坂があり、
自分の胸を突かれるようにしなければ上がれないことから名づけられた。
今でも階段状の坂に手すりが付けられており、上るのにはかなりの労力を要する。
その胸突坂の下には
関口芭蕉庵がある。(坂下の木戸から入る)
松尾芭蕉は神田上水の改修工事に携わり、3年間、水番屋に住んだといわれる。
芭蕉庵自体は後年、芭蕉を慕う人々により作られたようだ。
ただ、ここに住んでいた時期の芭蕉はまだ若年であり、
俳諧として有名になるのは、後年、深川に居を構える頃のことである。

園内の池は湧水池で
東京の名湧水57選に指定されている。
高戸橋から江戸川橋にかけては、都内有数の花見の名所であり、
桜の時期には多くの花見客で賑わう。
写真は駒塚橋から下流側を見た風景であり、椿山荘の建物が映える。
花見をしながら付近の史跡散策もお勧めである。

椿山荘の脇を進み、
江戸川公園に入る。
その横、大滝橋付近で神田上水を取水する
大洗堰があった。
神田上水はここで取水されて神田川の北側を通り、小石川後楽園(旧水戸藩邸)
を経て、水道橋の東側で神田川を懸樋で渡り江戸市中へ供給されていた。
江戸川公園内には、昭和八年に廃止された大洗堰の石柱が移され保存されている。

公園を抜けると、目白通りが架かる江戸川橋に達する。
既に書いたように、大洗堰より下流は、かつて江戸川と称した。
江戸川橋の右には江戸川橋分水路の流入口が見える。
江戸川橋分水路は、この先、目白通りの下を進む。

途中、何箇所かで分断されはしたものの、井の頭公園から続いてきた
川沿いの遊歩道は、この江戸川橋で終わる。
この先は、川に沿った一般道などを歩いて下流を目指すことになる。
より大きな地図で 【川のプロムナード】神田川周辺マップ を表示
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