新宿から甲州街道を西へ500mほど行くと、文化女子大学の南の代々木3丁目
付近に十メートル弱の谷のがある。
この谷を水源とし、北参道を経由して神宮前に至る渋谷川の支流の
代々木川、
かつて玉川上水から分水されていたこともあり
玉川上水原宿村分水とも称される。
原宿村分水は、もともと自然河川として存在していた代々木川に補水したもの
であり、水路の殆どを人工的に開削した玉川上水上中流部の分水とはやや異
とする。
そのため、ここではあえて代々木川と称することとしたい。
なお、他にも
原宿川とか
千駄ヶ谷・代々木支流と記載されているものもある。
玉川上水から分水していた取水口は、現在の文化女子大学の付近とされる。
享保9年(1724)の開削とされ、分水口の断面積は3寸四方である。
文化女子大前には玉川上水のモニュメントはあるものの、それ以外の痕跡は
皆無である。

文化女子大の東側の道を入っていくと谷を下り、かつての代々木川の存在を
感じさせてくれる。
その谷を下っていくだけで、甲州街道の喧騒とは別世界のような静寂が漂う。

代々木川の最上流部は公務員住宅下の道路に確認することができるが、その
道路も文化女子大の敷地で行き止まりとなってしまっている。

かつては分水の取水口付近には水車があったという。
当初は精米用の水車であったが、明治20年(1887)に製紙工場の生糸製造
用に転用、その後、明治29年(1896)に藤倉電線が当地に移転し電線用糸製
造用に再転用された。
代々木川は緩やかに右へカーブし、南東方向へ向きを変える。

その先、JR東京総合病院方面からの流れもあったとされる。
現在、病院の敷地となっている地点には、江戸時代に宇都宮藩戸田家の下屋
敷(明治以降は徳川家(旧和歌山藩主)屋敷)があり、その庭園内の池から代
々木川に水を排出していた。
なお、この池の水も玉川上水から引き込んだものである。
代々木川には2つの並行した流れがあった。
水田が広がっていた時代にはおそらく給水用と排水用に利用されていたのだろう。
この2本の水路を区別するために、この先、
東側流路・
西側流路とそれぞれ称し
て紹介することとしよう。
今まで紹介してきた水路は東側流路であるが、西側流路は代々木小学校の南
側から暗渠道となって現われる。

その西側流路が小田急線と交差する南新宿駅のホーム下には、線路を潜る水
路の隧道の遺構がある。

東側流路に戻ると、こちらは相変わらず一般道となっており、南新宿の商店街
(千代通り)が続く。
僅かに蛇行しているのは水路跡の特徴でもある。
ただ、東側流路は一般道が続き面白味に欠けるので、この後、しばらくは西側
流路を追っていくことにしよう。

西側流路は住宅街の中を進んでいく。
その脇にあるポンプは暗渠ファンの中では有名、古めかしいがまだまだ現役の
ようである。

代々木駅へ向かう通りを渡ると、その先は幅員の狭い道路となる。

右側に段差のある地形となり、擁壁が見られるようになる。
後述するが、代々木川の暗渠化は主として戦前に行われていて意外と早い。
そんな中、この付近の西側流路は戦後まで残っており、昭和30年代前半、護
岸の破損や衛生上の理由から暗渠化されたという。

また、この辺りで明治神宮北池からの流れが合流していたようである。
現在は明治神宮との間に首都高速4号線が通っており、その痕跡を見つける
ことはできない。
こちらがその
北池、周囲には芝生が広がり、芝生の上でくつろぐ人々も見かける。

同じ神宮内でも観光客を含めた参拝客で賑わう本殿周辺とは別世界のように
静寂につつまれている。
この北池、明治神宮建立時に造られた人造湖であり、それ以前の明治期の地
図を見ると、湿地が広がる御料地内の谷戸であったようだ。
北参道の手前で、一旦、東側流路と西側流路は一本の流れとなっていたようだ。
そこには石垣も残存している。
おそらく山手線を建設した際に交差する代々木川を一本にまとめたのではない
だろうか。

そして山手線や埼京線と交差して線路の東側に出るが、そこには通る築堤を潜
る代々木川の抗口跡を見ることができる。

数十メートルほど山手線沿いを流れ、その後、明治通りへと南東方向へと向き
を変える。
そして明治通り付近で再び2本の流路に分かれていたようだ。
こちらは明治通りを渡った先の西側流路跡の道路、南西方向へと真っ直ぐ進ん
でいる。
この付近では、この地域の土地を所有していた徳川公爵家(宗家)によって大正
期に宅地造成が行われ、その結果、直線状の川になった。

ここで川筋を離れて、北東にある
鳩森八幡神社に立ち寄ってみよう。
貞観2年(860)、慈覚大師(円仁)が関東巡錫の途中、村民の懇願により、神功
皇后・応神天皇の御尊像を作り添えて、正八幡宮として奉ったのが始まりと伝え
られている。

そしてこの神社が有名としたものが境内にある
千駄ヶ谷の富士塚。
寛政元年(1789)の築造といわれ、都内最古の富士塚で、東京都の有形民族
文化財に指定されている。

鳩森八幡神社は『千駄ヶ谷八幡宮』として江戸名所図会に描かれており、中央
には富士塚も見える。
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)代々木川に戻り、更に辿っていくと西側流路の路上に燈孔蓋が数個残っている。
燈孔とは、ランプを吊るして管渠内の点検作業をするためのもので、管渠が湾
曲している箇所などに設置されたもの。
燈孔が設置されたのは戦前で、戦後には設置されなかったという。

ということは、代々木川が暗渠化された時期は古いという証拠でもある。
この付近では昭和7年(1932)に、また上流部の東側流路でも翌8年には暗渠
となり、公共下水道化された。
代々木地区の宅地化がその頃に進んでいったということなのだろう。
その先で東側流路と西側流路は再び合流する。

代々木川は原宿橋付近で
渋谷川に合流していた。
元々はもう少し下流で合流していたようだが、明治39年(1906)に河川改修が
行われ、こちらで合流するようになったという。

(写真は原宿橋の親柱と、下流方向の様子)
《参考文献》
『玉川上水の分水の沿革と概要』 小坂克信
『「春の小川」はなぜ消えたか』 田原光泰著 (之潮 刊)
『「春の小川」の流れた街・渋谷-川が映し出す地域史-』
白根記念渋谷区郷土博物館・文学館編