稲付川(北耕地川) 2

姥ヶ橋交差点の北側の一角に下へと下りる階段がある。
この階段を下りていくと稲付川のかつての川筋へとなる。
階段脇には「稲付の小径」という散歩道の案内板が掲げられており、川跡
を含む赤羽駅への散策案内が記されている。
稲付川からやや離れるのでこの記事では取り上げないが、赤羽駅近くの
静勝寺は大田道灌が築いたとされる稲付城跡であり、機会があれば訪問
をお勧めしたい。
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階段を下りると狭い暗渠道が北東方向へとのびている。
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道路の左右は崖となっており、前項で歩いてきた用水跡とは雰囲気が明
らかに違う。
道の下からは下水道であろうか、水音が聞こえ、川跡の様相が強くなっている。
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道路右側の広めの歩道がかつての水路であろうか。
かつてはこの辺りに水車があったとされ、そのことは左手の台地へ上る
坂(階段)に水車坂と名づけられていることにその証を残す。
(水車坂は写真奥の自動車の辺りを左へと入る。)
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川跡の道路は一本道であるため、容易に辿ることができる。
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稲付川が流れる谷筋が判るように左手の丘から俯瞰してみた。
木々が生い茂る場所が向かい側の丘であり、その間を稲付川が流れていた。
現在でこそ住宅が立ち並ぶが、かつては川沿いに田圃が広がる風景が
展開されていたのではないだろうか。
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その左手の谷が途切れたところに曹洞宗の岩淵山鳳生寺がある。
文明10年(1478)の建立で、大田道灌が開基したと伝えられている。
元々は岩淵宿にあったが当地に移転、そのため岩淵山を号しているという。
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西が丘小学校の北側を通り抜けていく。
その先には、埼京線の高架が見えてくる。
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ここで再び稲付川左側の丘へと上り、稲付香取神社と法真寺を訪ねてみた。

稲付香取神社の創建は不明、旧稲付村の鎮守であった。
この神社の本殿(奥殿の中に安置)は、三代将軍家光が霊夢を見たこと
により、上野東照宮の旧本殿を移築したものと伝えられる。
また、稲付村は十七世紀半ばの郷帳に「御神領」と記され、寛永寺領に
属していたようだ。
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神社の西側には、日蓮宗の稲付山法真寺がある。
天正元年(1537)、日寿上人により開山された。
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稲付川跡へと戻り、新幹線や東北本線を越えて流れていた。
前項で記載したように、稲付川は用水路として使用されていたので、
水路はこの辺りで幾筋かに分かれ、現在の赤羽の東側の田圃を潤してい
たようだ。

ガードを越えた先に続く道路があるが、川はこの道路の右側、大日本印刷
赤羽工場の敷地内を流れていたようだ。
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稲田小学校の南を過ぎて、更に東へと向かう。
この辺りは神谷の住宅街となっているが、特に川の痕跡は見当たらない。
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都営住宅の先に、ようやく蛇行する歩行者用通路があった。
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その歩行者用通路を抜けると北本通り(国道122号線)へと出る。
道路を渡った先に古い橋の欄干があり、その先に梯子状の開渠がある。
隅田川の手前になって、稲付川はようやくその姿を現わす。
ただ残念ながら、この地は隅田川沿いの2つの工場の境界にあり、そこ
を辿ることはできない。
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仕方なく、北本通りを400メートルほど南下し、環七が隅田川に架かる新
神谷橋へと廻り、橋の上から合流地点方向を遠望してみた。
できれば隅田川の対岸から合流地点を見てみたかったが、対岸もコンク
リートの高い堤防(通称「カミソリ堤防」)となっており、橋の上から眺める
しか術がなかったのは残念だ。
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目次
   

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稲付川(北耕地川) 1

板橋区双葉町付近で石神井川から取水され、板橋本町、稲荷台、北区上
十条、赤羽西、神谷などを経て隅田川へ注ぐ稲付川を紹介しよう。

稲付川は、根村用水中用水北耕地川上郷七か村用水など、いろい
ろな名前で呼ばれていた。
上郷七か村用水の七か村とは、下板橋宿・上十条村・稲付村・赤羽村・
下村・神谷村そして岩淵本宿町であり、それら各村の田畑を潤していた。
用水の開削は、元禄8年(1695)に行われ、石神井川に根村堰が設けられた。
上十条地区に入ると稲付川は根付の谷を流れていくが(次項参照)、おそ
らくもともと、谷にある湧水を集めた川があって、そこに石神井川からの
用水堀をつなげたのであろう。

この用水も多分に漏れず、用水を巡ってしばしば争論を起こしている。
それは中用水の上流域と下流域の村々間の騒動だけではなく、石神井
川下流の石堰(現王子付近)から取水された石神井用水(下用水、下郷
二十三か村用水)沿いの村々とも争いが起きた。
なかでも明治9年(1876)に起こった争いは、大きな騒動に発展したという。
従来、用水の管理は中用水、下用水の両組合の協議によって行われて
いたが、下用水側への相談もなく、根村堰の改修を行ったことが事の発
端である。
双方の組合の協議でも決着がつかず、最終的には東京府の裁断を仰ぎ、
仲裁により決着をみた。

東武東上線の中板橋駅近くの石神井川、向屋敷橋付近から下流方向
を撮影してみた。
この付近に根村堰と呼ばれる取水口があったらしい。(根村とはこの辺
りの字名)
明治期、この辺りの石神井川は大きく蛇行しており、河川整備されて直線化された。
(戦前の地形図で確認すると、既に石神井川は真っすぐに流れている。)
そのような事情から、堰の跡など残っているはずもない。
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向屋敷橋から下流へ2つ目の山中橋の北側から川跡らしき道路が始まる。
蛇行する形状が僅かに川跡だと感じさせる。
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道沿いには真宗大谷派の松浦山即得寺がある。
昭和40年(1965)に新潟市より移転してきた寺院のようだ。
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更に石神井川の北に広がる住宅地を進んでいく。
左手がわずがに高くなっており、現地を歩いていると、石神井川がつくっ
たであろう小さな谷地であることが判る。
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道を辿っていくと、左手に真言宗の光明山日曜寺が見えてくる。
正徳(1711~16)の頃、宥慶比丘が小堂を営んだのに始まり、その後、
田安家初代徳川宗武(八代将軍吉宗の第二子)をはじめとした田安家の
人々から帰依を受けた。
愛染明王を本尊とし、愛染が藍染に通じることから、染色業の人々から
信仰を受けたという。
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日曜寺の門前に、かつて稲付川(中用水)に架かっていただろう小さな橋がある。
親柱には「昭和二年五月改修」の文字が残る。
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日曜寺から100メートルほど行ったところに、龍光山智清寺がある。
室町時代初期、見誉上人智清によって創建されたと伝わる。
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こちらの山門脇にも正徳4年(1714)の石橋が残され、板橋区の登録文
化財に指定されている。
明治5年(1872)に起こった水騒動では、板橋の農民が竹槍を持って智
清寺に立てこもり、下流の6ヶ村の農民との間で対峙したという。
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国道17号線を越え、旧中山道を横切る。
そこはちょうど板橋上宿にあたる場所であり、稲付川との交差箇所には
板橋宿上宿の碑が建っている。
街道沿いの縁切榎石神井川5参照)も近い。
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板橋本町の住宅街を蛇行しながら東へと進んでいく。
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帝京高校グラウンドの北側を通る。
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その帝京高校グラウンドを過ぎると、ちょっとした高台に差し掛かる。
明治期の地形図には水路として描かれているので、切り通しで抜けてい
たのだろうか。
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そこを過ぎると下り坂となる。
道脇の公園が水路跡なのか。
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環七の姥ヶ橋陸橋の手前のマンション脇に、突如として川の痕跡の空間
が現れる。
稲付川の殆どの区間が道路となってしまっているので、貴重な場所である。
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川は姥ヶ橋交差点を斜めに横切る形で流れていたようで、姥ヶ橋は稲付
川に架かっていた橋の名である。
交差点脇には、享保9年(1724)の銘文がある姥ヶ橋延命地蔵尊が建っ
ている。
地蔵脇の説明文によると、誤って川に子供を落として死なせてしまった乳
母が、自ら責めを負って橋をから身を投げたという伝説があり、この供養
のために建立されたと伝えられているが、実態は石橋の安全供養のため
の地蔵であるという。
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また、この地は、十条・板橋道と王子道が合流する交通の要所であり、二
つの道が出合うことから、「出合地蔵」とも呼ばれたようだ。

《参考資料》
『北区史 通史編 近世』  北区史編纂調査会
『北区史 通史編 近現代』 北区史編纂調査会



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田柄川 2

川越街道を渡り、田柄川は川越街道に並行するように東南東へ向きを変える。
かつて橋が架かっていた箇所には、橋名を記した柱が立てられている。
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田柄川緑道と川越街道の間の住宅は、陸上自衛隊の官舎である。
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田柄川を一旦離れて、北の東武東上線東武練馬駅沿いの商店街へと坂を上る。
線路の南側沿いの商店街の道は、江戸と川越を結んでいた旧川越街道であり、
この付近には下練馬宿が置かれていた。
川越街道を通行する大名は川越藩主のみで宿泊することはなかったが、本陣
と脇本陣、馬継の問屋場などがあったという。

街道沿いには北町観音堂(石観音堂)があり、天和2年(1682)銘の北町聖観
音座像をはじめ、馬頭観音や庚申塔などの石造物がある。
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商店街を東へと進むと、左手に北町浅間神社がある。
創建は明治前後と伝えられるが、下練馬宿には、五代将軍綱吉が将軍就任前
に脚気の療養のために移住していたとされ(後述)、当時から町をあげての祭
礼もあったという。
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社殿の左側には、練馬区の有形民族文化財に指定されている「下練馬の富士
塚」がある。
丸吉講(江戸後期から明治にかけて、現在の新座市周辺で隆盛した富士講の
一講社)によって明治5年(1872)に築かれたものだという。

田柄川緑道に戻ると、北町小学校前に徳川綱吉御殿跡之碑が建てられており、
その碑文には下記のように記載されている。
この付近一帯はかつて「御殿」と呼ばれた土地であった。
後に江戸幕府第五代将軍となる徳川綱吉が寛文年間(17世紀後半)にこの地
を鷹場とし、宿泊所として「鷹狩御殿」を建てたことに由来する。

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後年、生類憐れみの令を発令した綱吉が、この地で鷹狩りを行っていたという
ことは興味深い。

その先で田柄川緑道は環八と交差し、続けて川越街道を渡って南へと向きを
変える。
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川越街道を渡ったところには、「あやとり」と称する少女の彫像がある。
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その先、右手に100mほど入ったところにあるのが、真言宗豊山派の金乗院
行栄が開山、開基は大木大炊介、文禄年間(1592~96)の創建とされる。
山門は徳川家光使用の門とされ、高さ18mになる境内の銀杏(写真左)
は家光のお手植えと伝えられる。
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更にその先、緑道沿い、瀬戸橋跡の脇に建つ東本村庚申塔は、貞享2年(1685
)に建てられたもの。
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庚申塔から200mほど進むと左手に、同じく真言宗豊山派の円明院西光寺
ある。
開基の賢栄阿闍梨の名を刻した文亀2年(1502)の板碑が裏山の土窟から
発掘され、また寺宝として文亀元年(1501)の弁財天座像を線刻した板碑が
あることから、その頃の開山とされる。
造立当時は田柄川の清流が門前を流れる風景が美しく、村人たちは穴守弁
財天として祀ったという。
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また門前には「血の道地蔵」と刻んだ明治25年(1892)の地蔵菩薩立像がある。
別名「いぼ地蔵」と呼ばれ、この地蔵菩薩に祈るといぼがとれるという。
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緑道の行く手に、城北中央公園の森が見えてくる。
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その手前の南には、氷川台諏訪神社がある。
創建年代は不明だが、江戸期に勧請されたものだという。
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田柄川は城北中央公園の周囲を北から東へと迂回する。
板橋区に入り、緑道の名も桜川緑道へと変わる。
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桜川とは、田柄川合流付近の石神井川の両岸をはさむように多くの桜が
咲き誇ることからつけられたこの辺りの地名であり、田柄川とは直接関係
ない。
私自身も以前は田柄川の別称と誤解していたが、ややこしい緑道名である。

そして、城北中央公園の東南端、桜橋のたもとで田柄川は石神井川へ合流
する。
石神井川の岸壁には大きな流出口が開いており、少量の水が流れ込んで
いた。
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《参考文献》
『ふるさと練馬探訪』 練馬区立石神井公園ふるさと文化館編


 
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田柄川 1

練馬区の光が丘から田柄・北町を経て、桜橋にて石神井川に合流する田柄川
紹介する。
現在は全区間が暗渠であり、田柄川緑道として整備されている。

田柄川は、土支田、光が丘付近の天水(雨水)を集めて流れる自然河川であった。
しかしながら、この付近は武蔵野台地上にあって水利にはあまり恵まれず、上保
谷、下土支田、上練馬、下練馬などの村々の要望により、明治4年(1871)、
玉川上水の分水である田無用水から田無付近で水を分ける田柄用水が開削さ
れた。
田柄用水開削以前の土支田地域には田柄川の源流があり、土支田3丁目付近
の浅い谷まで遡れることができるが、降雨がない時は枯れ川であったという。
用水開削にあたっては、その水路を利用して建設された。
そして光が丘以東では、田柄用水は田柄川の北側を流れ、北町1丁目地内で
田柄川に水を落としていたようだ。

本項では、自然河川としての光が丘以東の田柄川を辿ることとし、田柄用水に
ついては、機会があれば別に取り上げることとする。

川を辿る前に、源流部の光が丘について述べておきたい。
光が丘は戦前まで田柄用水を利用した農村地帯であった。
昭和17年(1942)4月18日、米軍のB25による日本本土初空襲に襲われる
と、帝都防衛のための飛行場建設計画が進められ、光が丘一帯の農家は立
ち退きを強いられた。
翌18年8月までに農家は立ち退き、その後昼夜兼行で工事が行われ10月に
は、成増飛行場として完成した。
千葉県柏の陸軍飛行中隊が移駐し、延長1200mの滑走路のほか、格納庫、
掩体壕、高射砲陣地なども構築されたという。
現在の公園通り付近がかつて滑走路があった場所という。
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戦後は米軍に接収され、軍家族宿舎としてのグランドハイツが造られ。昭和48
年(1973)の全面返還まで続く。
光が丘公園が開園したのは昭和56年(1981)、その後、光が丘パークタウン
が形成され、現在に至る。

光が丘公園にはバードサンクチュアリの池があり、野鳥観察の環境が整備さ
れているが、この池は人工池であり、雨水を貯水(渇水時には工業用水で補
給)しているとのことである。
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前置きが長くなった。
田柄川を下っていくことにしよう。

田柄川の最上流を確認できるのは、光が丘の東側、秋の陽公園である。
公園内には、田柄川をイメージしたと思われる人工の水路があり、子供たちの
よき遊び場となっているほか、水田が設けられて、稲作が行われている。
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公園の東側の田柄高校前交差点から田柄川緑道が始まる。
緑道とはいっても、北町8丁目までの2kmほどの区間は、一般道の歩道として、
整備され、緑地帯が続いている。
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途中、北側から何本かの細い暗渠道(水路敷)が合流する。
田柄用水からの細い用水路の名残であろうか、田柄地区の往年の田園風景
が偲ばれる。
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北側を流れる田柄用水跡の道路脇には、田柄天祖神社がある。
上野伝五右衛門等が慶長3年(1598)伊勢神宮の分霊を勧請し、神明宮とし
て祀ったのが始まりとされる。
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境内には「水神宮」と書かれた田柄用水記念碑がある。
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明治26年(1893)に建てられたもので、用水開削後20余年の歳月がたって
いるが、これは同年に大幅な増水が実り、それを記念して建てられたことによる。
田柄用水開削当初は用水の流量が少なくて思ったほどの成果が得られず、た
びたび、増水願いが出されていたが、石神井川下流の板橋や王子に火薬製作
所や製紙工場が造られ、そこからの請願もあって、増水が認められたのだという。

天祖神社前の田柄用水跡の道路を150mほど進むと、右手に田柄阿弥陀堂
が見えてくる。
創建は不明、練馬春日町にある愛染院に合併されるまで長松山地蔵院泉蔵寺
と言ったという。
豊島八十八ヶ所霊場の第42番札所である。
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更にその先、100mほど行くと左手に田柄愛宕神社がある。
古い社がポツンとあるだけだが、境内は広い。
慶長年間(1596~1615)、吉田家の祖弥五衛翁が京都の愛宕大明神を勧請
して中田柄郷の鎮守としたといわれる。
境内末社には市杵島神社があり、火防の神として水神宮も祀られている。
毎年7月24日には金魚市が開かれるそうだが、これも水に関係があること
から、家の火防として金魚を持ち帰るという意味があるという。
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田柄川緑道に戻ると、やがて道路の真ん中に緑道が続くようになる。
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その先にあるのが田柄川幹線水位状況表示板、下水道の水位を表示してい
るものだが、かつて河川であったこと、更には田柄川が下水道幹線となっても、
脈々と存在していることをを再認識させてくれるものだ。
この表示板は、川越街道を渡った先の自衛隊官舎付近にもある。
また、同様のものは神田川の支流の桃園川でも見ることができる。
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さらに続く田柄川緑道。
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その先で自動車道は途切れ、歩行者専用の遊歩道となる。
遊歩道となって100mほど進んだ先、現在、都市計画道路(放射35号線)の
建設が進んでいる箇所付近では、かつて東武啓志線が交差していたという。
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東武啓志線は、昭和18年上板橋と上板橋と陸軍第一造兵廠(現陸上自衛隊
練馬駐屯地)の間に建設された路線を、戦後の昭和21年、グラントハイツま
で延長させたものである。
建設資材輸送用として敷設されたが、一時期は旅客営業も行われていたが、
昭和34年(1959)に廃線となった。
なお、啓志線の名前は、グラントハイツ建設工事総責任者のケーシー中尉の
名前から採られたものだという。
かつて田柄川を啓志線の列車が渡る風景が展開されていたのであろうが、
川は暗渠に、鉄道は廃線となり、その面影を見出すことは残念ながらできない。

遊歩道を辿っていくと、やがて川越街道に突き当たる。
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《参考文献》
『ふるさと練馬探訪』 練馬区立石神井公園ふるさと文化館編
『ねりまの川 -その水系と人々の生活-』 ねりま区報


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貫井川 2

西武池袋線の高架を越えて、貫井川の暗渠道ははさらに北東へと進む。
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100メートルほどの区間だが、貫井川は環八の西側に出て、また東側へと戻る。
貫井川の暗渠を環八が分断してしまった結果である。
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さらに辿っていくと、ゆっくりカーブしながら南東へと向きを変えていく。
道沿いの家々の敷地は道路より数十センチ高い場所にあり、川底を歩いている
ような感覚を味わうことができる。
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またこの道路は貫井3丁目と4丁目の境界ともなっている。

やがて道の真ん中に排水溝が現れる。
周囲は谷となっており、降雨時には貫井川の暗渠に水が集まってしまうのだろう。
また、この付近の道路の地下には冠水対策のために雨水貯水槽が埋設されている。
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その先、富士見台駅の西側、貫井3-26付近からの支流(富士見台支流(仮))
と合流する。
この支流の暗渠は西武線の北側から始まる。
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支流の下流付近では、本流と同じく排水溝が続いている。
写真左の説明標識は、この下に雨水貯水槽が埋設されているので、道路掘削
時に注意喚起しているものだ。
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富士見台支流と合流した貫井川は、貫井中学校の南に沿って進む。
この辺りは、かつては「貫井の沼」と言われた場所で、沼の広さは七町歩(約
69,000㎡)あったという。
弘法大師が日照りに苦しむ農民のために杖でついて湧き水を出したという伝
説があるらしい。
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貫井川は北へと転じ、目白通りまでの区間は緑道となる。
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目白通りを越えて数十メートルほど行くと、右側の空き地に2つの鳥居が見える。
囲いがあるために中には入れないが、右側が貫井弁財天、左の赤い鳥居が
御嶽神社である。
弁財天は貫井の沼にあった弁天で文政9年(1826)の碑があるという。
また、隣接する御嶽神社も移転してきたものだという。
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この西側にあるのが南池山円光院貫井寺、真言宗豊山派の寺院で豊島八十
八ヶ所霊場第11番札所にもなっている。
寺の南に大きな池があったので「南池山」と号し、土地の名が貫井であるので
「貫井寺」と称したという。
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創建年はわからないが、円長法師(天正13年(1585)寂)が腰脚痛を患い、
七日間の断食をして平癒を祈願したところ、満願日の暁、霊夢により宝石を得
て患部を撫でさすると、たちまち快癒したので、感きわまってここに堂合を建て
貫井寺と称し、その近くに子聖大権現を勧請して霊石と共に奉安したと伝わる。

その先、貫井川は真っ直ぐ北へと、石神井川を目指して流れる。
神路橋と西田中橋の間で貫井川は石神井川に合流する。
石神井川の右岸には、大きな合流口が開いている。
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ここで少し戻って、先ほどの貫井弁財天の地から右へと分かれる分流(向山
分流
(仮))を追ってみよう。
分流はしばらく一般道となって向山の住宅街を進むが、向山4-20からは暗
渠道がみられるようになる。
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その先の遊歩道には、児童遊具も置かれている。
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さらにこの向山分流には、南の目白通りからの支流(向山ヶ谷戸支流(仮))
も流れこんでいたようで、600mほどの暗渠道が続いている。
目白通りの向山小前交差点近くには暗渠へと降りる階段がある。
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暗渠道は蛇行しながら北へと進む。
この東側の小高い丘は、かつて「田中の森」と呼ばれており、豊島城(現:としま
えん内)の出城で、家老がいた所という言い伝えがあるらしい。
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向山ヶ谷戸支流を合流した向山分流は、石川橋付近で石神井川に流れ込んで
いたようだ。
下水道台帳をみると、雨水管が橋の下流側にまで伸びており、そこには小さな
排水口が開いている。
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《参考文献》
『ふるさと練馬探訪』 練馬区立石神井公園ふるさと文化館編


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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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金太郎(杉並の暗渠)
神田川の桜 2008
善福寺川の桜 2008
目黒川の桜 2012
三島の湧水
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