楊柳川は東久留米市八幡町付近を水源とし、黒目川中流部に合流する
2㎞ほどの支流、全区間暗渠となっている。
かつては玉川上水から分かれた小川用水末流や、同じく玉川上水の分水
の1つである大沼田用水の分流が楊柳川の南にある前沢宿を潤した後、
川に水を落としていたようだ。
そのため小平排水溝という別称を持つ。
楊柳川は八幡町の都営アパートの西側から辿ることができる。
南側は擁壁となっており、小さな台地となっている。
この台地の南側には楊柳川と同じ黒目川の支流である落合川の源流が
あり、2つの川の源流域の距離はわずか数百メートルという近さである。

川はその後都営アパートの道路沿いの敷地を進んでいく。

暗渠沿いにはアパートの住民の方々が植えたものだろうか、鮮やかな花々
が咲いている。

川を跨ぐように古いガス管があった。
いつ頃設置されたものかは判らないが、開渠だった頃に川を渡るために
地上にガス管を引き回したものなのかもしれない。

道路沿いに北東へ進んでいく暗渠。

この先、八幡団地東という交差点を右に曲がったところに
前沢御殿跡の
史跡がある。
この辺りは尾張徳川家の鷹場であり、寛永18年(1641)から延宝4年
(1676)まで、この地にあった旧延命寺が鷹狩の際の宿泊所となっていた。
前沢御殿もしくは楊柳沢御殿と呼ばれており、楊柳沢の名は楊柳川から
名付けられたとも、尾張徳川家の名古屋城の楊柳城という別名であった
ためとも言われているという。
もし後者の説であるとしたら、楊柳川の名は名古屋城が起源ということに
なり興味を惹かれる。

現在、その一帯は墓地となっており、その入口には寛政7年(1795)建立
の地蔵菩薩をはじめとする石造物群があり、東久留米市の指定文化財と
なっている。
八幡団地東交差点から小金井街道までの300メートルほどの間、暗渠は
一般道路の下へ隠れてしまう。
蛇行している道路形状が僅かに川跡であることを認識させてくれる。

小金井街道を渡ると楊柳川は遊歩道となって現れる。

但しこの遊歩道は100メートル余りの短いもの、再び幸町の住宅街の一般
道となってしまう。

この南に臨済宗寺院の
円通山米津寺がある。
万治2年(1659)、徳川譜代の家臣、米津家の二代目米津田盛を開基とし、
米津家の菩提寺として建立された。

米津家は三河出身の家臣であり、墓域には、二代目・田盛、四代目・政矩、
六代目・政崇、八代目・政容の墓がある。
都内多摩地域に残る唯一の大名家墓所であるという。

ただ楊柳川から寺に行くには迂回を強いられ、ちょっと歩くことになる。
さて楊柳川は再び遊歩道が続く。
今度は黒目川合流点近くまで続く長い通路。

住宅街の中を蛇行しながら進んでいく遊歩道。

更に辿っていくと農地脇で遊歩道はタイル状のものから暗渠蓋へと変わる。
コンクリート蓋の間にはグレーチング蓋があり、中を覗くと水が流れている
様子を確認できる。

住宅街の中を進む暗渠、かなり広いので開渠の頃は相応の川幅をもった
河川であったのだろう。


擁壁の下にあったコンクリートの構造物、
かつての護岸壁の跡であろうか。

北を流れる黒目川の方へ転じると、その先にはガードレールが…。

そのガードレールの反対側には別の遊歩道がある。
実はここ、黒目川の旧流路であり、楊柳川はここで黒目川に合流していた
ことになる。

現在は旧流路跡の遊歩道の下を上流側へと引き回され、
幸橋と曲橋の間で黒目川へと注いでいる
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