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仙川 3

仙川は京王線手前、甲州街道の仙川橋から世田谷区に入り、野川との合流地点
まで同区内を流れる。
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宮前橋の南側に給田六所神社がある。
府中六所宮(現大国魂神社)の御分霊を招請して鎮座、天文年間(1532~1554)
の創建と伝えられている。
祭神は大国魂大神、天照皇大神ほか六柱、明治6年(1873)に村社に列し、同
42年(1909)、給田地内にあった神明社を合祀した。
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仙川は給田・祖師谷の住宅街を通り抜け、駒大野球部グラウンド沿いを流れ、
祖師谷公園に達する。
公園は、昭和50年(1975)、旧東京教育大学(現筑波大学)の農場跡地を利用
して開園された。
仙川沿いにある公園としては最大のもので、川沿いには親水テラスも設置されて
いる。
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ここで仙川を離れ、東に位置する釣鐘池に立ち寄ってみる。
豊富湧水池であり、この付近には縄文時代中期の住居跡も確認されているという。
釣鐘池の由来は、近隣の寺院が他教との争いのあげく寺の鐘を被って池に身を
投げたという説、また日照りで農民が困窮した際、これを救うために僧が釣鐘を
抱いて池に身を沈めたところ、大雨が降ったという説がある。
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釣鐘池を出た水流は、開渠やがて暗渠となり、大石橋(だいしばし)の先で仙川
へ放流されている。
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その大石橋の右岸、橋から100mほど行くと、祖師谷観世音堂(正面)と薬師
(写真左)が建っている。
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観世音堂は承応3年(1654)祖師谷村信徒一同の誓願により建立、元禄13年
(1700)に再建、今日に至っている。
薬師堂は享保11年(1726)創立、明治中期に当境内に移設されたものという。
住宅地の中に突如現れた歴史的遺産の堂宇という感じだ。

次の稲荷山橋から先、成城学園の敷地内に入る。
木々が生い茂り、突如として渓谷に入りこんだような錯覚を覚える。
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小田急線を過ぎると、川の両岸に東宝スタジオの敷地が広がる。
昭和7年(1932)に建てられ、数多くの名作がこの地で生まれた。
両岸には桜が続き、桜の季節にはライトアップも催される。
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世田谷通りの大蔵橋の先、右岸に大仏がそびえ立つ。
世田谷東光山妙法寺のおおくら大仏で、高さ8メートルのブロンズ製である。
この大仏は回転するようにできていて、昼間は本堂方向を向き、夜は世田谷通り
の方向を向いて、交通安全などを祈念している。
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その妙法寺は日蓮宗の寺院、創建は寛永14年(1637)、大蔵本村の村民が宇
奈根の常光寺に依頼して造られた寺であるという。
日詮上人により開山された。
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その先の左岸、大蔵三丁目公園の崖下には湧水池がある。
かなり豊富な湧水であり、その一部は仙川に落とされている。
また、一部は六郷用水の親水水路(丸子川(後述))に引き回されているという。
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東名高速道路の高架橋の先には仙川の浄化施設がある。
ここでは礫間接触酸化法という方法によるもので、水中の石に付着した微生物の
働きを利用して仙川の水を浄化している。
また、仙川の水の浄化だけでなく、導水管を通して谷戸川と谷沢川に水を供給し
ている。
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左岸に自動車学校を見ながら進むと、西谷戸橋の左側に急坂を見ることができる。
この坂上には国交省関東地方整備局指定の関東の富士見100景の標識が建
てられており、『東京富士見坂』と記載されている。
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但し、東京富士見坂というのは、この坂の名称ではなく富士山が見える東京の坂
の総称である。
この坂自体に正式名称はなく、岡本三丁目の坂と呼ばれている。

こちらは、坂の上からの富士山の光景。(200mmの望遠レンズにて撮影)
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西谷戸橋の先、左岸には六郷用水丸子川)が顔を見せる。
六郷用水はこの手前から仙川の左岸に並行して暗渠となって流れ、西谷戸橋で
開渠となり、数十メートル先の水神橋で左に折れていく。
手前の自動車学校脇では、コンクリート蓋暗渠を確認することができる。
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実は仙川は昭和三十年頃までは、野川ではなく六郷用水へと流れこんでいた。
六郷用水は現在の仙川右岸方向から左岸へと流れ、そこに仙川が流れ込むよう
な形であったことが古地図を見ると判る。
昭和三十年代前半にそれまで六郷用水に流入していた流末を分離し、野川に合
流させるための放水路を造ったのである。
水神橋から先の500mほどの区間は、この時に作られた放水路ということになる。
(『六郷用水1』参照)
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多摩堤通りの鎌田橋の先で、仙川は野川に合流して終了する。
仙川を流れてきた水は階段状に野川へと流れ落ちていく。
合流した水は2kmほど野川を流れて、多摩川へと注ぐことになる。
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仙川 2

中央線との交差した先、仙川は相変わらずのコンクリート三面張りの護岸が続く。
そしてまた、水の流れは確認できない、
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直角に曲がる水路、この先もクランク状に曲がりながら南東方向へと進む。
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途中のあけぼのふれあい公では親水施設があるが、もちろん水は流れてお
らず、虚しさを感じえない。
なお、この公園では「水源の森」と称して。公園内や付近に降った水を地下の
貯水施設に浸透させ、仙川に流するように施され、子供向けの説明板を設置し
て、自然のしくみを教えている。
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この付近の橋梁は、写真の上連雀第六之橋のように数字が付与され、1から
12まで続く、(なぜか4だけ無い。)
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上連雀4丁目で、仙川は再び暗渠となる。
その暗渠となる場所には、大きな除塵機が設置されている。
川を流れてきたゴミはこの除塵機で取り除かれ、暗渠内に入り込まないよう
に対策されている。
水流が無いので、当然のことながら稼動していない。
(以前は水門が設置されていた)
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暗渠となった仙川は南へと向きを変える。
その暗渠沿いには、禅林寺が建っている。
元は明暦の大火の翌年の万治元年(1658)、被災者であった神田連雀町の
住民がこの地に移住させられ、村民が浄土真宗本願寺派の寺院を建立した。
しかし、元禄12年(1699)の台風により倒壊、村方一同の協議を経て幕府へ
願い出て、梅嶺道雪禅師により、黄檗宗霊泉山禅林寺として翌年に開山した。
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禅林寺は太宰治の墓があることで有名、毎年6月19日の桜桃忌前後には、太
宰ファンで墓前には多くのサクランボが供えられる。
なお、太宰の墓の向かい側には森鴎外の墓もあるが、こちらは閑散としている。
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禅林寺に隣接して三鷹八幡大神社がある。
禅林寺の由緒同様、明暦の大火により移住してきた農民が、連雀村の名主松井
治兵衛を中心として幕府に懇願、寛文4年(1664)に創建された。
禅林寺は八幡大神社の別当寺(神社を管理するために置かれた寺)であったが、
明治元年(1868)の神仏分離令により分離された。
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なお、この地域の連雀という地名は、移住前の神田連雀町(現在の千代田区神
田須田町付近)から名づけられたという。

仙川は下連雀7ー17付近で再び開渠となる。
クランクの連続で、下連雀のマンションなどの建物の間を抜けていく。
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人見街道が架かる野川宿橋より、仙川の様子は一変する。
川には水が流れ、川辺には緑の草が生い茂る。
但し、この水は水循環施設により、仙川樋口取水場(中央高速との交差地点の
手前にある)からここまで約1,6kmをポンプにより送水、流しているものである。
(流水場所は写真左下)
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また、今までは場所によっては迂回を強いられながら、仙川を追ってきたが、
この先に遊歩道が設置され、一部区間を除いて野川との合流地点まで仙川
沿いを歩くことができる。

しばらく進むと、川の左岸に勝淵神社が見えてくる。
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創建年代は不詳だが、由緒については境内にある由来碑より引用しよう。

天正11年(1583)織田信長の重臣柴田勝家は賤ヶ岳の戦いに敗れ北ノ庄城
に於て自刃したが、その折、孫の権六郎(三才)に愛用の兜を与え郎党を供
に、上野国の外祖父日根野高吉の元にのがす。権六郎十六才にして元服、柴
田三左門勝重と名乗る。
慶長4年(1599)徳川家康は勝重を召し出し、上野国群馬・碓氷両郡のうち
二千石を与える。
慶長5年(1600)勝重は関ヶ原の戦いに初陣、更に慶長19年(1614)大阪
冬の陣、翌年元和元年(1615)大阪夏の陣に従軍し、その戦功により武蔵国
多摩郡上仙川村(現新川)・中仙川村(現中原)その他合わせて五百石を加
増される。
上仙川村に入村した勝重公は村の中ほどの台地(現島屋敷)に陣屋を建て住
居とし、それより北方の台地水神の森に社殿を建立し、その傍らに祖父勝家
公より与えられた黄金の兜を鎮めて、神霊とし、社号を勝淵明神とした。
以来四百年、当社は村の鎮守として村民の崇敬の念篤く代々の氏子会により
護持されている。


その勝家の兜を鎮めた場所は本殿の脇にあり、兜塚と称されている。
戦後の一時期に荒廃したため、昭和63年に再建したという。
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勝淵神社の南に丸池公園がある。
最初に記したように、丸池はかつての仙川の源頭水源とも言われ、また仙川
の由来(千釜)の地ともされている。
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仙川の治水工事による河床の掘り下げで地下水位が低下し、湧水も枯渇した。
そのため昭和40年代には丸池も埋め立てられたが、昭和50年代以降、住民
により復活のためのワークショップが活発化し、平成12年に池が復活した
という。
現在は地下水をポンプによって揚水して丸池に導水、池の水は仙川へと流れ
出ている。

中央高速の下を通り抜け、南東方向へ蛇行しながら進んでいく。
野川宿橋以北の仙川と同じ川とは思えず、流れる水を見ながら、軽快に歩み
を進めることができる。
この辺りで調布市に入る。
仙川といえば、その街や駅は調布市であるが、実は調布市内を流れるのは甲
州街道までの僅かな区間だ。
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川の右岸沿いにある東部水再生センターから下水処理水が放流されている。
流れ出る水の量は多く、この先、流量は倍増するような感じだ。
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弁天橋を右へ数十メートルほど行ったところに、下仙川弁天坂庚申塔がある。
建立は宝永元年(1704)、青面金剛と三匹の猿が刻まれている。
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川の反対側、弁天橋の北にあるのが、仙川八幡神社
創建年代は不詳だが、江戸期には旧下仙川村と旧北野村の鎮守社であったという。
大正6年(1917)、下仙川の巌嶋社、下仙川の代官田神社を合祀した。
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さらに歩いていくと甲州街道と交差、続いて京王線の鉄橋が見える。
京王線の仙川駅からは、新宿方面へ500mほど向かった地点である。
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仙川 1

野川の支流である仙川、小金井市貫井北町を上流端とし、世田谷区鎌田で野川
に合流する河川である。
延長は20.9km、本流の野川は20.2kmであるから、僅かながら本流より長いこと
になる。
仙川という名前は京王線の駅名にもなっているので、馴染み深い方も多いかも
しれない。

仙川の由来は、川沿いにある説明板によると、以下の通りだという。
勝渕神社前の丸池(後ほど紹介)に、釜の形をした湧出口がたくさんあり、千
釜と呼ばれていた。また「武蔵国名勝図会」によると源泉のことを釜といい、
その数が多いことから千釜と呼ばれていたともいう。この千釜がなまって仙川
といわれるようになったと言われている。
また、付近に仙人が住んでいたからという説もある。

小金井市にある東京学芸大の北東、新小金井街道の脇に仙川上流端の看板がある。
さらに西側は暗渠となっているようだが、残念ながらそこは住宅街となっており、
追跡は困難のようだ。
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上流端とはいっても、川に流れる水は残念ながら皆無である。
この状態は、一部、親水化されている桜堤団地付近を除き、三鷹市新川まで続く。
というのは、かつての仙川は前述の丸池を源流とするものであり、上流部は降雨
時のみに流れていた細流を人工的に開削したものだからだそうだ。
とはいえ、現在の仙川が流域の浸水被害を軽減していることには間違いないだろう。

小金井公務員住宅の敷地内を進む仙川。
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ここには、水を流し親水公園化するという「仙川上流域整備計画」が策定されたが、
その後、ゲリラ豪雨による浸水被害が都内各地で発生し、緊急対策工事を優先して
いるため、計画は棚上げ状態にあるそうだ。

公務員住宅を抜けると、小金井分水築樋がある。
元禄9年(1696)頃、玉川上水(その後、砂川分水に変更)から小金井村方面へ引水
する小金井分水が造られたが、山王窪と呼ばれる仙川の窪地を越えるために、土手を
築いてその上を用水路とした。
つまり、河川と用水路の立体交差である。
現在、築樋は遊歩道となり、歩行者や自転車が往来している。
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その山王窪の南にあるのが、山王稲穂神社
承応三年(1654)五百石の開墾に当り、新田の守護神として江戸麹町山王宮より
勧請・創祀されたもの。
下小金井の産土神として崇敬され、商売繁盛の守護神や酒造の神として神徳が
あるという。
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その後、東南東へと流れて北大通りと接する。その北大通りとの併走区間(武蔵小金
井駅の北方)では暗渠となる。
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暗渠区間の中ほど、小金井街道との交差点脇には大松木之下の稲荷がある。
境内に大きな松の御神木があったことから名づけられ、赤稲荷とも呼ばれたという。
狭い境内の中には寛政4年(1792)建立の青面金剛庚申搭や、享和2年(1802)
造立の石灯篭などの石造物が立ち並ぶ。
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暗渠は数百メートルほどで開渠となり、小金井市緑町の住宅街を進む。
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その近くにあるのが臨済宗の尼寺、三光院
西野奈良栄により昭和9年(1934)に開山された寺院。
この土地は明治時代に山岡鉄舟(1836~88)が入手したとも言われ、境内には鉄舟
の業績を記した碑がある。
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やがて仙川は浴恩館公園に達する。
浴恩館は昭和3年(1928)、京都御所で行われた昭和天皇即位大嘗祭で使用された
建物を、(財)日本青年館が譲り受けて移築したもの。
昭和6年に開設され、青年団の指導者養成所として開設された。
昭和8年~12年には作家の下村湖人が講習所長として就任、指導の傍ら、彼の代表
作である『次郎物語』を執筆した。
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市史跡となっている空林荘の建物は、現在は小金井市の文化財センターとして使用
され、文化財を保存・展示している。
展示の中には小金井市内の河川や用水に関するものもあり、川好きにとって興味
深い。

その先、仙川は緑町・梶野町の住宅街の中を梯子状開渠となって進む。
川沿いを歩ける道はない。
仙川は一度、武蔵野東中学校付近まで南下した後、西進して、再び梶野通り沿い
を北上する。
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迂回は小高い場所があるためだが、その地には市杵島神社がある。
享保17年(1732)の鎮座と伝えられ、新田開拓でこの地に住んだ人々により、創建
された梶野新田の鎮守である。
「梶野の弁天さま」とも称されている。
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市杵島神社の東側、仙川が梶野通りに沿って北上している脇には庚申塔(宝永2
年(1752)建立)があり、市杵島神社の境内別社として邪気から神社を防いでいる
という。
その庚申塔脇に立つ2本の黒松は、明治3年(1870)に起きた御門訴事件(前年に
品川県から布達された社倉制度に反対した武蔵野12ヶ村の農民たちが品川県庁へ
門訴した事件)で捕縛された若者が放免され帰ってきた時に記念に植えたものとさ
れている。
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梶野通りに沿って北上した仙川は、北東へと向きを転じる。
その先にあるのが、梶野新田分水築樋
梶野新田分水は享保17年(1732)、梶野新田の開発にあたり玉川上水から導水し
た用水で、下流は深大寺用水につながる。
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前出の小金井分水の築樋では歩行者道となっていたが、こちらは草地が続き、仙川
との交差部ではコンクリート製の樋が残っている。

築樋の先で武蔵野市に入り、周囲には桜堤のマンションや団地が建ち並ぶ。
仙川も河川改修工事が施され、きれいになっている。
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以前は木板の暗渠蓋も見られたが、河道が付け替えられ消滅してしまった。
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(写真は2009年6月撮影)

桜堤団地内では、仙川のせせらぎ再生事業が行われ、親水公園化されている。
周辺の建物の屋上などに降った雨水を地下貯水池に集め、桜堤公園から放流して
いる。
写真の時期は冬であったため流れは殆ど無かったが、春から秋にかけては、水辺は
植物や昆虫などであふれ、子供たちの格好の遊び場となっている。
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桜堤団地を抜けると仙川は亜細亜大学のキャンパスの北端をかすめ、更に東へと
進む。
仙川は再び三面コンクリート護岸に戻り、流れる水も無くなってしまう。
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この先、武蔵境通りと交差するみずかけ橋で仙川は暗渠となり、南下する。
再び開渠となるのは武蔵境北口の東側。
JR中央線に向かって水路が真っ直ぐ南下する。
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中央線までの途中、左手にある公園は東京都水道局専用線の廃線跡。
武蔵境から玉川上水北側の境浄水場まで、資材などを運ぶための専用線だった。
(境浄水場付近は玉川上水の項でも取り上げた)
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上流端から中央線の北側を流れ続けてきた仙川は、この先で中央線と交差、
南側へと移る。

《参考文献》
『小金井市の歴史散歩』 小金井市教育委員会編


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逆川(北の川)

深大寺一帯の湧水を集めて流れ、野川に注ぐ約1.5kmほどの逆川、またの名を
北の川と称する。
逆川の名は、東京西部の川は西から東へと流れるのに対し、東から西へと流れる
ことから名付けられたという。ただ、地図を見る限り、全体的に逆川は西から東
へと流れている。

深大寺一帯は国分寺崖線に沿っていることもあり、多くの湧水地点があるようだが、
逆川の水源とされているのは、本堂の西、深沙大王堂の裏手にある湧水である。
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その水源から数分ほど歩いた場所に深大寺水車館がある。
かつてこの地に水車があり、明治末期に地元住民が水車組合をつくり、金を出し
合って建てた水車小屋があったという。
水車館は無料の展示施設で、かつて深大寺周辺の農村の風景写真や道具を
中心に展示物が陳列されている。
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水源から流れ出た逆川は、門前の道路に沿って深大寺方向へ向かう。
道沿いには深大寺名物の蕎麦屋や土産物屋が立ち並ぶ。
水車のある蕎麦屋もあるので、逆川そのものは知らなくても参道脇の水路を思い
浮かべる方も多いかと思う。
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右手には亀島弁財天池がある。
池の中には小島があり、弁財天を祀る小さな祠がある。
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そのまま逆川を進むと、左手に深大寺の山門が見え、入ると正面に本堂がある。
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深大寺は天平5年(733)満功上人が法相宗の寺院として開創、その後、貞観年
間(859~877)に天台宗に改宗している。
深大寺という名は水神である深沙大王に由来する。さすがに湧水が豊富なこの地
ならではの名前であろう。

深大寺
江戸名所図会深大寺』         (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

境内の池に流れ込む湧水、この池の水も逆川へと流れ出ている。
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逆川は山門の東側で南へと向きを変え、バス通りを越える。
道路を渡ると道路沿いに流れ、開渠を確認することができる。
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その先は神代植物公園分園の水生植物園へと続く。
本園は有料だが、こちらは無料で入園することができる。
この地は、かつては水田として利用されていたが、その後はヨシやガマが生い茂る
休耕田となっていた。
昭和44年に調布市が環境保全の目的で買収、その後、東京都の湿生植物
園として計画が進められ、昭和60年に開園した。
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園内は湿地帯が広がり、木製の遊歩道が続く。

水生植物園の西側の丘陵の上には、深大寺城址公園が広がっている。
深大城は「ふるき郭」と称する古城を、扇谷上杉朝興が天文6年(1537)に再
築したものと言われる。
当時、江戸城を北条氏綱に奪われた朝興は挽回を期するため、、多摩川対岸
の小沢城(稲田堤付近)に対抗するために古城を再築したが、氏綱が直接本拠
地の川越城を攻めたことから、その軍事的価値は失われ、そのまま廃城となったという。
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城址は公園として整備され、芝生広場には発掘した屋敷跡の柱を石で表現している。
また写真右の盛り土は、再現された空堀である。

植物園を出た逆川は暗渠で中央高速を潜るが、その中央高速の南側へ廻ると、
開渠となって流れていく川を確認することができる。
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はしご状開渠が下流に向かって続くが、残念ながら住宅の間を流れていくの
で、川沿いに進むことはできない。
そのため、川に並行する住宅街の中を進むことを強いられる。
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柏野小学校の西側ではコンクリート蓋の暗渠道となる。
この柏野小学校、西側をこの逆川、東側をマセ口川という2つの野川支流に
挟まれた形で立地している。
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小学校の前を通る佐須街道と交差すると再び開渠となるが、ここでも住宅の
間を抜けるように流れていく。
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その先、やっと川に沿う一般道が現われるが、すでに野川との合流点の150
メートルほど手前。
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逆川は、一の橋と大橋の間で野川に合流する。
清流が勢いよく流れ出て、階段状に落ちて野川へと流れ出ている。
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マセ口川

調布市深大寺南町四丁目にある都立農業高校神代農場を水源とする野川の支流
マセ口川(ませぐちがわ、別名:佐須用水)を追ってみた。
マセ口とは、付近の小字名から名づけられたものだが、そのマセ口という字名
の由来は不明のようだ。

まず、神代農場と三鷹通りを挟んで向かい側、青渭神社に立ち寄ってみる。
祭神は水波能賣大神・青沼押比賣命、創建年月は不明であるが、古代の先住民
が水を求めて居住した際に、祠を建て水神を祀ったと伝えられる。
かつて社前には湧水から出た大池があり、青波をたたえていたことから青波天
神社とも称されていた。
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境内には樹齢数百年という大欅があり、江戸名所図会にも描かれている。
青渭神社2
      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

さて都立農業高校神代農場からマセ口川を追い始めてみる。
前身は青年学校の射撃用地、昭和23年(1948)に農業高校の付属農場として
譲渡された。
毎週木曜日には一般公開しているそうだが、この日は土曜日のため入れず、
仕方なく西側沿いに歩いていく。
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農場沿いに歩いていくと、柵の下に池(心字池)を望むことができる。
農場内にはかなり深い谷となっており、湧水を湛えていることが想像される。
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歩いていくと中央高速手前、右手に小さな池ノ上神社がある。
絵堂(旧字名)の鎮守社で創建は不詳、明治40年(1907)に里の稲荷社と
池ノ上の稲荷社を合祀して、池ノ上神社となったとのこと。
池ノ上という名前が興味をそそる。
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その中央高速の手前から左手、谷(池ノ谷)へ下りていく階段がある。
谷へ下りると、神代農場から流れ出るマセ口川の清流を見ることができる。
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その脇、別の湧水からの小さな流れも合流している。
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ここから南へ深大寺自然広場が続くが、残念ながらマセ口川は暫く暗渠と
なってしまう。

中央道のガードを潜ると広場内に野草園がある。
園内には約300種類1万本以上があるとのことだが、開園期間は3月か
ら10月まで、また期間内においても休園日が多いので、訪問時には注意
が必要である。

その野草園の入口近くには湧水があり、かなりの水量が湧き出ている。
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また野草園の北側、中央道の盛土下から、小さな湧水がある。
野草園の係の方の話では、数年前に突如として湧き出したとのこと。
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本流は暗渠であるが、野草園内と盛土下からの湧水は、園内の水路を
流れていく。
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なお、この水路も野草園の端までいくと地下に吸い込まれ、本流の暗
渠と合流しているようだ。

自然広場を出て南へ向かうと道沿いに暗渠を確認できる。
周囲には田園風景が広がり、爽快な気分で川を追っていくことができる。
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クランク状に暗渠が曲がり、道路の蓋暗渠となる。
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柏野小学校の脇(一部校内を通る)を通り、佐須街道を渡ると、その先
マセ口川は開渠となる。
ここでも周囲は農地が広がり、マセ口川が農業用水として利用されてい
たことを実感できる。
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水門があり、その先は梯子状開渠が続く。
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駐車場の脇を流れていくマセ口川。
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野川へ近づくにつれ、周囲は住宅街になる。
水路には草が生い茂り、蔓がフェンスにからみついている。
130914_077.jpg

細田橋の脇でマセ口川はに合流する。
流出口から水が流れ落ち、1.2kmほどの小河川は終了する。
130914_081.jpg


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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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