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恋ヶ窪用水

国分寺用水の分水である恋ヶ窪用水恋ヶ窪村分水とも称される)を紹介しよう。
国分寺用水の項で記載したが、国分寺用水の開削を幕府に請願するにあ
たり、国分寺村、恋ヶ窪村、貫井村の三村共同で行われ許可されている。
そのことから、恋ヶ窪用水も国分寺用水とともに明暦3年(1657)に開削さ
れたものとみるべきであろう。

国分寺用水から分水される地点は国分寺市東恋ヶ窪4-24付近、国分寺
用水はその痕跡を残していないため、その分水口もはっきりしない。
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国分寺用水の流路跡の道路の1ブロック南に、マンションの間を南へ通じ
る道がある。
この道路沿いに恋ヶ窪用水が流れていたのであろう。
道路の右側に小さな空間があるが、東京都水道局による不法投棄禁止の
看板があり、おそらくこの場所が用水の跡地なのであろう。
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その道路を進むと道は下り、その先で畑地に突き当たる。
その畑地の中を帯状の雑用地が続いている。
早くも恋ヶ窪用水の跡地が顔を出したという感じだ。
ちなみに国分寺用水の方は宅地化などが進み、このような跡地を見つけ
ることはできない。
2017-12-16_5.jpg

畑地の中へ入っていくことはできないが、その先へと迂回すると
住宅地の中に用水を渡る橋(仲よし橋)が架かっているのを目にすること
ができる。
用水は昭和四十年代初頭まで灌漑用水として使用されていたようで、そ
の名残が住宅街の中に未だにあるということは興味深い。
2017-12-16_14.jpg

更に用水跡の水路敷は続く。
現在は水路沿いの住宅の方々が花壇や菜園として利用しているようだ。
姿見の池緑地(後述)内にある説明板によれば、かつてこの辺りに水車も
あったようだ。
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水路敷は300メートルほど続いて、西武国分寺線の線路を渡る。
ここまでの水路跡は住宅の間を貫いており、迂回を強いられてしまうのが
ちょっと残念だ。
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西武線を渡った先、恋ヶ窪用水の遺跡が現れる。
150メートルほどの区間であるが、深さ5mほどの素堀がほぼ完全な形で
残っているようだ。
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ここはつい最近、平成29年12月に国分寺重要史跡として指定された。
現在は木々が生い茂り、堀の中を伺い知ることは難しいが、訪問した際は
整備工事中であった。
堀の中に生えた木々を伐採するようだが、工事後に再訪してみたい。
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なお堀の西側に沿う道路は中世の鎌倉街道を踏襲した道で、江戸時代に
は川越街道と呼ばれる古道であったらしい。
昭和19年、府中街道の開通とともに、その役目を府中街道へと譲った。

下流側から覗き見た用水堀の様子。
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用水堀跡地から道路を渡った場所に恋ヶ窪熊野神社が鎮座する。
創建年代は不明せあるが、元弘元年(1331)新田義貞と鎌倉幕府軍の
戦いにおいて焼失されたとの記録があり、相当の古社であることがわかる。
その後、応永13年(1406)に再建、以降、何度か焼失と再建を繰り返し
ているようだ。
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神社前の道路を南に進む。
左右の地は高台であり、用水は谷地を流れていたことが判る。
昔は谷筋に田園が続いていたのであろうか。
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神社から200メートルほど歩くと、右手の段丘に真言宗豊山派寺院の
武野山東福寺が建てられている。
こちらも鎌倉時代前期の開山と伝えられる古刹で、享禄元年(1528)に中興、
江戸時代前期の元和七年(1621)に再興している。
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やはり武蔵国分寺に近いという土地柄が、古くから社寺が建てられたとい
う史実につながっているのであろう。
更には古くから集落があり、国分寺用水や恋ヶ窪用水が早期の開削され
たことにもつながるような気がする。

東福寺の東側、姿見の池を中心とする国分寺市立姿見の池緑地が広が
っている。
姿見の池は付近の湧水や用水の水が流れ込む池であったが、昭和40年
代に一度埋め立てられ、平成十年度に環境庁や東京都の井戸・湧水復
活事業の補助金を受けて再整備されたものである。
事実、平成元年より数年間、私も近隣に住んでいたが、この地は洗車場と
なっており、度々洗車で利用した記憶がある。

池の西側から、かつての恋ヶ窪用水をイメージした人工水路が公園内
へ流れている。
この水路を流れる水は付近を通り武蔵野線トンネルに湧出する水を利
用したもの。
1991年、地下水が大量に新小平駅へ流れ込み、数か月にわたって運休
するという事態が発生、その対策として導水工事が実施された。
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園内の遊歩道沿いに流れる水路。
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こちらがその姿見の池、鎌倉時代、恋ヶ窪が鎌倉街道の宿場町であった頃、
遊女達が自らの姿を水面に映し出してみていたという言い伝えに由来する。
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またこの池は「一葉松」の伝承にも登場するが、現地にある説明板に言葉
を借りて説明することにしよう。
源平争乱の頃、遊女の夙妻太夫と坂東武者で名将といわれた畠山重忠
とが恋におちました。
ところが太夫に熱をあげるもう一人の男がいて、その男は重忠が平家と
の西国の戦で討ち死にしたと嘘をつき、あきらめさせようとしましたが、
深く悲しんだ太夫は姿見の池に身を投げてしまったと言い伝えられています。


この辺りの風景は江戸名所図会にも描かれており、用水と思われる流
れや池が描かれ、先ほどの東福寺の文字も記載されている。
恋が窪阿弥陀堂傾城松牛頭天王
江戸名所図会恋が窪 阿弥陀堂 傾城松 牛頭天王
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

池を出た水はJR中央線の線路沿いに流れていくが、こちらは先ほどの
事業によって整備されたもの。
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本来の恋ヶ窪用水の水路跡は、その北にある住宅と住宅の間に水路敷
の空間として残っている。
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JR沿いを流れてきた水路もやがて暗渠となり、築堤で通る西武線の下を
流れている。
西武線を交差すると日立中央研究所の敷地内を流れ、野川の源流付近
に水を落とす。
もちろん研究所内の流路を確かめることはできないが、水の流れる音は
この付近に広がっている。
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目次
  
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国分寺用水

国分寺用水は鷹の台駅の東、久右衛門橋付近で玉川上水から取水されて
現在の東恋ヶ窪、国分寺市本町および南町を流れ、国分寺崖線を落ちて野
川に至る用水である。
国分寺用水の開削は明暦3年(1657)と早く、玉川上水の開通(承応2年
(1653))から4年後のことである。
数ある玉川上水の分水に中で野火止用水、小川用水に次いで3番目(砂川
分水も同年の開削)である。
砂川分水や小川用水は吞用水として造られたが、国分寺用水は田用水で
あり、国分寺村、恋ヶ窪村および貫井村の懇願によるものである。
これは国分寺村が野川や崖線からの湧水を利用して古くから存在した村で
あり(武蔵国分寺に近いということもあっただろう)、玉川上水の開通を契機
に台地上の開発のために国分寺用水が造られたものと思われる。
元々は玉川上水から直接取水されていたが、明治3年(1870)、玉川上水
の通船事業のために分水口改正(統合)が行われ、砂川用水経由で取水
されることとなった。

分水口改正以前は玉川上水の久右衛門橋(府中街道との交差)辺りで取
水されていたようだが、現在その取水口を確認することはできないし、また
そこからのルートも不明である。
そこで今回は砂川用水からの分水口から辿っていくことにする。

最初に断っておくが、国分寺用水の跡は殆どなく、僅かに用水跡に造られ
た道路を辿っていくこととなる。
(国分寺用水から分かれた恋ヶ窪用水にはその痕跡がいくつも見ることが
できるのだが)

砂川用水からの分水口は五日市街道沿い、東戸倉二丁目地先の交差点
の辺りにあったと思われるが、やはりその痕跡は何も残っていない。
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その交差点から南東方向へ真っすぐ続く道がある。
ここに国分寺用水が流れていたようだ。
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その先、道路の左手には窪東公園が広がる。
園内には人工水路があるが、これは関係なさそう。
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やがて道路は府中街道と交差する恋ヶ窪交差点に達するが、その手前に
厳島大弁財天が祀られている。
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その由緒は不明であるが弁財天は水の神であり、この先で用水が貫井村
分水や恋ヶ窪用水に分かれることを考えると、水の要所に建てられたとい
うのが実情であろう。
以前訪れた時(写真左下)のものより祠が新しくなっていたが、これは2013
年頃に道路工事に伴う一時的に移され、新築の祠に戻ってきたということらしい。

その恋ヶ窪交差点で貫井村分水を左に分けていた。
貫井村分水の跡は現在の連雀通り(写真左側の道路)であり、国分寺市
本多を抜けて貫井村の田畑へ水を供給していたようだ。
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国分寺用水は府中街道沿いを150メートルほど流れた後に東へと向きを
変え、その先で恋ヶ窪用水を分ける。
こちらは現在の府中街道を南下し、JR中央線の北にある姿見の池付近
で東へと向きを変え、野川に注ぐ。
西武国分寺線を越えた辺りには水路跡が残され、また姿見の池緑地内には
用水を再現した水路も造られている。
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国分寺用水跡の一般道に沿って東進する。
住宅街の一本道を進んでいくだけとなるが、道路沿いには昔ながらの建
築の銭湯(孫の湯)があり、目の保養ともなる。
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道の右側に歩道が続いているが、この歩道が用水だったのであろうか。
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国分寺市立第三小学校の手前で向きを南へと変え、S字カーブとなり、よう
やく水路跡らしい道筋となる。
左手には東京都水道局東恋ヶ窪浄水所がある。
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S字カーブを抜けると新しいマンション群が建ち並ぶ。
個人的な話で恐縮だが、筆者は平成元年から数年間、東恋ヶ窪付近に住
んでおり、その頃はこの付近には畑地が広がっていた。
道路形状は現在と変わらず、畑地の中にある道路であった。
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その先、日立製作所中央研究所の東側の道路を南下していた。
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日立製作所中央研究所の敷地内には野川の水源である大池がある。
野川1参照)
普段は立ち入ることはできないが、毎年春と秋に1日ずつ行われる一般公
開には多くの来場者で賑わう。
研究所の正門から200メートルほど行くと本町四丁目公園があり、公園内
柄鏡形敷石住居跡の復元模型が展示されている。
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古代史跡には疎いので、ここは国分寺市教育委員会による説明板の一部
を引用させて頂く。

ここに展示された「柄鏡形敷石住居跡」は都営国分寺本町4丁目アパート
建設に伴う事前調査によって発見された5軒の内、最も保存状態が良好で
あった第19号住居跡を再生復元しました。大きさは南北約5.6m、円形の
部分で直径約3.8mあり、深さは約50cmです。
「柄鏡形敷石住居跡」は、今から約4千年前、縄文時代中期末葉から後期
初頭の頃のもので、関東地方から中部地方にかけての広い範囲で発見さ
れています。市内ではこれまでの調査で恋ヶ窪遺跡に2軒、羽根沢遺跡に
3軒、恋ヶ窪東遺跡に1軒の合計11軒が発見されています。この住居の特
徴は、床面に平らな河原
石を敷き、入口となる長い張出し部を持っていることで、その形が丸い鏡面
に長方形の柄をつけた「柄鏡」に似た形をしていることからこの名前が付け
られました。


JR中央線および西武国分寺線を跨ぐ花沢橋に出る。
鉄道は堀割を造ってここを通しているが、当然のことながら用水より鉄道の
方が後にできている。(中央線の前身である甲武鉄道が開通したのは明治
22年(1889)である。)
鉄道を通すにあたり、なんと用水をサイフォン式の伏越にして線路の下を通
していたようである。
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中央線を越した後も更に南下していくが、そこには国分寺崖線が続いており、
おそらく用水を流れていた水は急速に落下していたに違いない。
なお、崖線付近では坂を上下しやすいように道路が通されているので、流
路を見失う。
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崖線下の道路を進むと野川が見えてきた。
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国分寺用水は不動橋付近で野川に水を落としていたようだ。
こちらも合流部の跡は見当たらず、この付近であろうと想像するしかない。
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【参考資料】
『国分寺市史』 国分寺市
『国分寺村の用水路について』 内藤 豊三郎
『玉川上水の分沿革と概要』 小坂 克信



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三田用水 鉢山口分水

西郷橋の南東で三田用水から分かれ、鉢山町、鶯谷町を経て渋谷川へ注
いでいた田用水 鉢山口分水を取り上げる。

資料とした『「春の小川」はなぜ消えたか』添付の地図によると、その分水口
は現在の都立第一商業高校の辺りかと思われる。
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分水は用水をちょっと戻る形で西郷橋下の切り通しへと下る。
写真は下から見た西郷橋、現在は旧山手通りの道路橋であるが、かつて
は三田用水がこの切り通しを越えていた。
三田用水から分かれた水は急流となって下っていたのであろう。
この辺りには製綿工場の水車があったらしい。
なお製綿工場は明治期の地形図にも描かれており、この周辺では目立っ
た存在であったようだ。
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鉢山口分水は鉢山町を北東へと進んでいた。
実際は右手の住宅地の中を流れていたらしい。
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鉢山町交番前交差点まで歩き、右へ数十メートルほど行った地点から、
用水跡の暗渠道が始まる。
周囲は宅地造成のための盛土が行われたためであろうか、暗渠の入口に
は数段の階段が設置されている。
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鉢山公園という児童公園脇を進む分水跡の暗渠道。
右手は高台となっており、分水はその崖下を流れていたのだろう。
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その先は一旦途切れて北側の道路に迂回することとなるが、1ブロック
を歩いた先から再び細い道が出現する。
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この辺りは用水に沿って長い谷戸が続いており、かつては長谷戸という
小字で称されていた。
水路は複数に分かれ、水田が広がっていたらしい。
今では住宅が建ちこむ街となってしまい、そのような風景を想像するだけ
でも難しい。

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乗泉寺の北で暗渠道は終わってしまう。
かつてここには鶯橋という橋が架けられており、鶯谷町の名はこの橋名
から命名されたという。
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鉢山口分水に位置する妙正山乗泉寺は元和年間(1615~24)に創建さ
れた本門佛立宗の寺院である。
江戸西久保(現在の神谷町の辺りか)に一庵が建立したのを始まりとし、
その後麻布桜田町へ移転、戦後この地に移った。
広大な敷地の寺院の中に近代建築の本堂が建つ。
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暗渠道が終わると、その先、正確な流路は殆ど判らなくなってしまう。
住宅などが建ち並び、既に鉢山口分水の跡は絶たれてしまっている
ためだ。
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ただ用水跡付近は相変わらず谷となっており、地形の高低差を楽しむこと
ができる。

鶯谷児童遊園という児童遊園、南側の中学校との間には数メートルほどの
段差がある、
かつて鉢山口分水はこの辺りを流れていたのだろうか。
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さらに東へと進み、猿楽橋で山手線を渡る。
この近くで分水も山手線と交差していたはずだ。
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そして渋谷川の並木橋付近に達する。
以前は吐口があったようだが、平成になって河川改修工事が行われた際
に吐口は無くなってしまった。
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暗渠として確認できる区間は数百メートルほどの僅かな区間であるが、
都会に埋もれたかつての谷戸の地形を実感できる水路であった。

《参考文献》
『「春の小川」はなぜ消えたか』 田原光泰著
『歩く渋谷川入門』 梶山公子著



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田無用水 2

田無用水は鈴木町交差点の北で小金井街道を越えると、花南一丁目通
り(せいぶ通り)という一般道沿いに北東へ向けて流れていた。
現在は暗渠となりその痕跡は認められないが、道路右側に続く歩道が用
水の暗渠という証であろう。
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田無の橋場まで2kmほど続く一般道を淡々と歩くことになる。
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花小金井駅の東側と西武新宿線と交差する。
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小平市から西東京市へと入る。
ここが田無用水の暗渠であることは、全く感じることはできない。
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途中、この交差点で芝久保分水を右へ分ける。
芝久保分水は田無村芝久保へ開削された吞用水、いつごろ掘削されたの
か記録はないが、おそらく明治以降に造られたものと推察される。
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通り沿いには畑も見られる。
この辺り、所々に新しい住宅も見られるが、以前はこのような畑が広がって
いたのであろう。
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道路はその先で左へとカーブし、青梅街道の橋場交差点に突き当たる。
ここは青梅街道と東京街道の分岐点でもあり、橋場という名前は田無用
水に架かる橋があったことに由来すると思われる。
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橋場の先、田無用水は青梅街道を挟んで2本の水路に分かれている。
用水跡には遊歩道が続き、周辺住民の通行路となっている。
なぜここで2本に分かれるのか、それは田無用水が田無宿の吞用水とし
て開削された経緯を考えば容易に想像できる。
ここから東側に田無宿があり、街道の両側に建つ家屋に水を供給するた
めであろう。

便宜的に北側水路南側水路と称して、それぞれに追っていくこととしよう。

北側水路
青梅街道の北側に「やすらぎのこみち」と称する歩行者道が東へと延びている。
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水路跡の歩道はタイル敷の舗装が続き、マンホールは花や昆虫などのデ
ザインが施されている。
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「やすらぎのこみち」沿いにあった馬頭観音、天保15年(1844)建立のも
のだそうだ。
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遊歩道沿いにスーパーがあるためなのか、歩行者や自転車の通行量も多い。
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田無駅の北東にあたる地点で、遊歩道がT字交差している場所がある。
ここが前項冒頭の説明に出てきた田柄用水の分水口、田柄用水は北へ
と向かい、その後富士街道沿いに石神井方面へと流れていた。
2017-04-30_32.jpg

田柄用水分水口を過ぎると、遊歩道は総持寺沿いに進む。
寺の仁王門前を横切るように流れていたようだ。
(歩行者専用道の標識がある道が「やすらぎのこみち」)
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真言宗の田無山総持寺、創建年代は不詳だが、元和年間(1615~24)、
田無村字谷戸に法界山西光寺として創建、慶安年間(1648~51)に当地
に移転したと伝えられる。
明治8年(1875)、密蔵院、観音寺と合併し、総持寺と改称した。
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なお観音寺は、総持寺の境外仏堂となっており、寺の西側、遊歩道沿い
に広がっている。

更にはその先、田無神社が鎮座する。
田無神社は鎌倉時代の創建と伝えられ、谷戸に尉殿大権現として鎮座していた。
その後、元和8年(1622)、上保谷村に尉殿神社(新川1参照)を分祀、
寛文10年(1670)に現在の地に遷座する。
明治5年(1872)に田無神社と改称、現在に至る。
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境内には田無用水が横切っており、その史跡を残すように参道に小さな
橋が架けられている。
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田無神社の東に続く暗渠道。
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青梅街道を南へと渡ると、住宅地の中に用水の流末の痕跡を見つける
ことができる。
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再び西武線と交差、その先で田無用水は石神井川と合流していた。
現在、線路の南側は石神井川の調節池となっており、正確な合流地点を
見出すことはできない。
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南側水路
橋場の分流地点へと戻り、青梅街道南側の水路を追っていこう。
こちらは「ふれあいのこみち」と名付けられた歩行者道が橋場から続く。
2017-04-30_62.jpg

「やすらぎのこみち」と同様に花や虫が描かれたマンホールが所々にあり、
それらを見ながら歩いていくのも楽しい。
写真は市の花タナシツツジが描かれたもの。
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こちらの歩行者道も田無駅および周辺地区への通行路として利用され、
自転車や歩行者に利用されている。
青梅街道などの自動車の往来を気にせずに歩くことができ、田無用水は
現代では期せずして地域の交通安全に一役買っているということができ
るかもしれない。
2017-04-30_66.jpg


病院の建物の間を抜けていく歩行者道。
2017-04-30_67.jpg

駅北口の繁華街を抜けた先、住宅やマンションの間を通っていく。
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向きを南へ転ずると、暗渠の雰囲気が漂う空間となる・
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「ふれあいのこみち」は西武線の北側で終わる。
2017-04-30_73.jpg

その先、田無用水の流路はわからなくなってしまうが、おそらく線路の南、
文化大橋付近で石神井川へと流れこんでいたのではないだろうか。
こちらも北側水路同様、かつての合流地点を確認することはできない。
2017-04-30_77.jpg



目次

田無用水 1

玉川上水(新堀用水)から分かれる田無用水を取り上げる。

まずは田無用水開削の経緯について簡単に説明するが、その前提として
田無村の成立について触れておきたい。
慶長11年(1606)、幕府は江戸城改築のために青梅から運搬するために、
青梅街道(成木街道)を開設する。
田無村は中野、箱根ヶ崎などとともに街道の継場として設けられた。
しかしながら、当時は武蔵野の逃げ水と言われるほど水利が悪く、朝夕、
谷戸(現:西東京市谷戸町のことか)から水を汲み運んで飲み水とした。
承応2年(1653)に玉川上水が開通し、その3年後の明暦2年(1656)に
小川用水が開削されて、青梅街道の馬継場として新たに小川村が開村さ
れても、田無村の水事情は改善されないままだった。

田無用水開削の嘆願書が提出されて許可が下りたのは元禄9年(1696)
のことである。
田無用水は当初、田無村一村のための吞用水として開削された。
喜平橋下流で玉川上水から分水されたが、その樋口は四寸四方と他の
用水に比べて小さいものであった。(ちなみに野火止用水は六尺×2尺、
小川用水は一尺四方である。)
その後幕末から明治にかけて、吞用水だけではなく、廻田新田や田無村
の田用水としても利用されることとなる。

明治3年(1870)、玉川上水の通船を目的とした分水口改正が発せられ
て新堀用水が造られると、田無用水は小川用水や鈴木用水と同様に、
新堀用水から分水されるようになる。
また翌明治4年には上保谷村、関村、上石神井村、下石神井村から田無
用水の延長願いが提出される。
この願いをもとに現在の田無駅の北から田柄用水が開削され、その機に
田無用水も拡幅された。

開削から二百数十年間利用されてきた田無用水であるが、上水道の普及
とともに都市化の波が押し寄せ、生活排水が流れる水路と化してしまう。
昭和38、9年には田無駅付近の南北の用水路は暗渠化され、現在では
水路跡は遊歩道化されて市民に利用されている。

田無用水は喜平橋の北東付近から始まる。
新堀用水からの分水口周辺は個人宅の庭先となっており、残念ながら近
づくことはできない。
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喜平町の住宅の中を流れていく田無用水。
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その先は畑地と林の間を縫うように流れていく。
用水沿いの道路はないため、迂回しながら用水の流れを確認していく。
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ここは何度か訪れているが、水が流れていない時もあった。
常時、水が流れているわけではないようだ。

一般道を渡り、その先は店舗の駐車場に沿って流れていく。
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その先、氷川通りと称する道路沿いに流れていく。
暗渠と開渠を繰り返し、開渠部分には水生植物などが植えられており、環
境に配慮した歩道が続く。
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その途中、道路の右側に回田氷川神社が鎮座する。
この辺りにあった廻田新田は、廻り田村(現東村山市)の斉藤忠兵衛が中
心となり、天保11年(1726)玉川上水北部の野中新田の土地を取得して
発足した新田である。
但し、新田といっても当初は草刈場(秣場)であったため、移住してくるもの
はなく、屋敷も皆無であったらしい。
2017-04-22_19.jpg
この氷川神社は宝暦5年(1755)、新田の有力者である弥兵衛が土地を
提供し、氷川明神と稲荷明神を勧請して建てられた。
現在の社殿は安政6年(1859)に再建されたものと言われる。

道沿いの水路は更に続いている。
2017-04-22_22.jpg

やがて氷川通りは新小金井街道に突き当たる。
ここで新小金井街道を南へ数分ほど歩いたところに鈴木遺跡資料館があ
るので立ち寄ってみた。
2017-04-22_25.jpg
昭和49年(1974)、現在の鈴木小学校付近から多数の石器などが出土し、
発掘調査の結果、約3万年前から一万四千年前までの旧石器時代の遺跡
であることが判明した。
遺跡は南北670m、東西600mの範囲で馬蹄形に広がっている。
遺跡の東は窪地となっており、かつての石神井川の源流部であったとされ
ている。

資料館には数々の遺跡の他にも地層標本があり、新田の水路跡などを見
ることができるので、訪問することをお勧めしたい。
(開館日注意)

新小金井街道の東に広がる畑の中を田無用水は流れていく。
2017-04-22_28.jpg

畑のために水路沿いに歩くことは出来ず、迂回しながら用水を追っていくこ
ととなる。
但し、武蔵野の新田の特徴である縦に長い区割を残した道路となっている
ため、大きく迂回することとなり、追跡に苦労する。
2017-04-22_30.jpg

畑を過ぎると、再び住宅地の中に入っていく。
ただ、その水路を見ると水が流れていない。
畑の中を流れている間に排水されたのであろうか。
ちょうど水路沿いの雑草を刈っている近隣の方にお話を伺うことができたが、
住宅地の中には殆ど水は流れてこないという。
2017-04-22_37.jpg

水は流れていないとはいえ水路としては残っており、その水路は住宅地の
中を続いて進んでいる。
2017-04-22_40.jpg

2017-04-22_43.jpg

用水は北東方面に進んでいき、やがて鈴木用水と交差する。
そこには「昭和五年十月成」と書かれた掛樋がある。
掛樋で上を通っているのが鈴木用水、但し鈴木用水にも水は流れておらず、
2つの用水の往年の姿を残す貴重な遺跡である。
2017-04-22_48.jpg
鈴木用水は田無用水と同じく玉川上水から分かれる用水であり、この辺り
では鈴木街道の南と北に分かれて流れており、この掛樋は南側の水路と
の交差である。
田無用水は北側の水路とも交差していたが、その交差箇所は鈴木町交
差点の北側の道路(小金井街道)にあたると推定され、その姿をみるこ
とは出来ない。

鈴木街道に出てくる田無用水、歩道を暗渠蓋が横切る光景に出くわす。
2017-04-30_1.jpg

その反対側、駐車場脇にある水路敷。
この先、田無用水は暗渠となってしまうため、往年の水路として確認でき
る最後の地点となる。
2017-04-30_2.jpg

《参考資料》
『小平市史 近世編』 小平市史編さん委員会
『歴史のなかの田無』 増渕和利著
『鈴木遺跡解説』 小平市教育委員会



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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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