水無川(中川)

水無川は三鷹市北野から千歳烏山を経由し、世田谷区船橋の希望丘公園
付近で目黒川の支流である烏山川に合流する5kmほどの河川である。
三鷹市内では中川と称されている。
現在は暗渠となり、その区間の殆どが遊歩道として整備され、気軽に散策
できる河川となっている。

水無川の由来について、遊歩道沿いにある説明板(烏山給田文化財保存会、
世田谷区土木事業担当部編)を引用してみよう。
現在は自転車道になっているこの川は、古来より水無川と呼ばれ、旧烏山
村と旧給田村の境を概ね南東方向に流れ下り、旧粕谷村を経て旧船橋村
に入ると、現在の千歳清掃工場付近で、高源院(北烏山四丁目)鴨池等を
水源とする本来の烏山川(本流)に合流していました。
この区間は、河川法上の名称は烏山川ですが、もともと烏山川(本流)とは
別の支川であり、今も地元では水無川と愛称されています。
昔、水無川沿いに帯状に広がっていた水田は、水無田圃とよばれ、江戸
時代の延宝2年(1674年)や元禄10年(1697年)調整の武蔵国烏山村検
地帳に北水無、南水無と記載され、現在も橋やバス停の名称に水無の
文字を留めています。
名の由来は、旧烏山字出井向(現北烏山八丁目付近)や旧北野村(現三
鷹市北野)の湧水と天水を水源としていたので、雨期以外は流れが細り、
いつしか「水(の)無(い)川」と呼ばれるようになったようです。
後に延享2年(1745年)に、玉川上水(1654年開削)に牟礼分水が開削
され、牟礼や北野の水田を灌漑した後、水無川に流れ落ちるようにな
りましたが、分水は稲作期のみの通水で安定した水源ではありません
でした。
時は下り、昭和39年河川法改正の際、水無川は「2級河川烏山川」(世
田谷区北烏山~池尻)の一部として公示されました。
この時より、河川行政上は水無川の名が消えて烏山川と公称される一
方、合流点以北の本来の烏山川(本流)は、無名の普通河川になると
いう捻れが生じることとなりました。(後略)
※ 原文では延享2年の西暦(1745年)が間違えていたので訂正
上記説明文で、特に河川法指定のくだりで、烏山川(本流)と指定が捻じ
れてしまったことが興味深い。

前置きはこの程度として、水無川を辿っていくことにしよう。
東八道路の三鷹台団地南口交差点脇から中川遊歩道が始まる。
前述したように中川というのは、水無川の三鷹市内における別称である。
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かつては、この北側、牟礼の地に牟礼田んぼが広がり、玉川上水から導
水された牟礼用水が3本の流れとなっていた。
その3本の水路は、東の川、中川、西の川と呼ばれ、その中川が南へと
延びていたことから、この名が残っているのであろう。

遊歩道は北野の畑地や住宅脇を南へと進んでいく。
路面はタイル化され、また茶色の街路灯なども設置されており、感じのよい
散策路となっている。
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途中、道路と交差する部分では緩やかな坂となっており、河川部分が若干
の低地であったことを連想させてくれる。
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住宅地の中を蛇行しながら進んでいく遊歩道、道沿いには木々が植樹され、
目の肥やしになる。
千歳烏山付近から三鷹市方面への住民の通路ともなっており、自転車の
走行も多い。
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やがて、中央高速の高架橋が見えてくる。
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中央道と交差すると、その先で三鷹市から世田谷区へと入る。
緑道の名も中川遊歩道から水際の散歩道と名を変える。
記事冒頭で引用した「水無川のお話し」と称する説明板が設置されている。
(この場所以外にも設置)
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遊歩道は続いているが、三鷹市から世田谷区へと入ると車止めや路面
形状も変わる。
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給田四丁目緑地という児童遊園脇を進んでいく。
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遠くに烏山の高層マンションが見えてくる。
水無川の緑道のなかでも最も景観のいい場所の一つであろう。
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甲州街道と交差する手前、畑の脇にコンクリートの構造物があった。
かつての護岸の跡であろうか。
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甲州街道の歩道橋から、更に南へ続く緑道を撮影してみた。
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千歳烏山駅に近づくと水無川跡は駐輪場として利用されている。
そして、水無川は駅のホーム下を流れていたようだ。
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駅の先も水際の散歩道は続く。
今までとは違い、一般道との交差部には、かつて架かっていた橋の名を
記した柱が建っている。
写真は天神橋。
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こちらの柱には栄橋という名が記されている。
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緑道沿いに設けられていた人工のせさらぎ。
(秋だったためか、水は流れていなかった。)
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水無川沿いにずっと続いてきた緑道は、粕谷3丁目で終わる。
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その先は東へと一般道を進んでいく。
行く手には、ガスタンクが見えてくる。
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その道路は蘆花恒春園烏山川2参照)の南側を通っていく。
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千歳台交差点で環八を越え、数百メートルほど直進する。
希望丘公園付近で、北から烏山川が近づき、水無川は烏山川へと合流し
ていたようだ。
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空川

渋谷から京王井の頭線で2駅目、駒場東大前駅に降り立つと、そこは駒
場の谷地となっている。
今回取り上げる空川は、駒場の谷から湧く湧水を集めて目黒川へと注ぐ
かつての小河川であり、所々に暗渠として痕跡を残す。
現在でも湧水はあり、主として3つの水源を確認することができる。
1つは駒場野公園内の池、1つは駒場東大前駅北側の湧水、そしてもう
1つは東大構内の駒場池である。
それらを巡りながら、空川を追っていくこととする。

まずは駒場野公園内にある池、木が生い茂る公園内に静かにたたずむ
湧水池である。
駒場野公園は、明治11年、駒場農学校として開設され、その後、東京
帝国大学農学部や東京教育大学農学部を経て、東京教育大学がつくば
市へ移転(筑波大学)するのを機に、跡地を公園として整備され、開設さ
れたもの。
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また駒場という地は、江戸期には将軍家の鷹狩場であった。
かつては駒場野と呼ばれ、原野に放牧の馬が群れていたことがその由来とされる。
駒場野
江戸名所図会駒場野』    (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

公園の東側、井の頭線沿いにはにはケルネル田圃という水田が広がる。
前掲の駒場農学校は、ドイツ農法を取り入れ、農業技術者を送り出した。
教師として招かれたドイツ人のオスカー・ケルネル(1851~1991)は、
後に「明治三老農の一人」とも称された船津伝次平が空川上流部の谷あい
に造った実験田を利用して、土壌や肥料の改良に取り組んだ。
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現在でも、ケルネル田圃は、筑波大学附属駒場中・高等学校の農業体験
実習の場として維持されている。

さすがに田圃の中は歩けないので、迂回して駒場東大前駅の方へと足を運ぶ。
すると、駅西口の北側、東大構内へ入ったところに、湧水が流れる場所が
あり、ここが第二の水源だ。
わずか数十メートルほどの区間であるが、清らかな水が流れるのを確認
することができる。
残念だが、おそらく水はこの先、下水管へ流れてしまうのだろう。
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かつては駒場野公園からの流れに合流して、下流へと流れていたものと
想像できる。
その水路跡は駅南側の住宅街の中に確認することができる。
川跡は立ち入ることができないので、近くの道へ迂回を繰り返しながら進
むことになる。
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その先の暗渠の風景。
立ち入ってみたい衝動に駆られるが、手前にある柵がそれを許さない。
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川跡を歩けるようになるのは、駒場一丁目防災緑地脇から。
右手は急峻な崖地となっている。
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細い道がくねくねと続き、右側には古めかしい石壁もあったりする。
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暗渠道は100メートルほど続いた後、一般道へと出る。
ここで、北の駒場池からの水流と合流していたらしい。
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その三つ目の水源とである駒場池を訪れてみよう。
駒場池は東大駒場キャンパスの東端、木々に囲まれた谷地にある湧水池である。
明治の農学部時代には養魚場であったという記録もあるという。
本郷キャンパス内の三四郎池に対して一二郎池と呼ばれていたが、一二
浪に通じるとして嫌われ、2008年、駒場池という正式名称が付けられた。
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東側の崖の上には、かつて三田用水が流れており、用水が台地や尾根を
縫うように造られたものであることを、改めて感じさせる。

駒場池の南側から出た先も小さな谷地形となっており、池からの水路は
ここを流れていたことが容易に判る。
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駒場池からの流れを合流し、空川は南側の目黒川を目指して流れていた。
その先で淡島通りと交差する。
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淡島通りの南側の脇に松見坂地蔵尊が建立されている。
現在の淡島通りは古くは瀧坂道と呼ばれ、この付近に道玄物見の松と呼
ばれる松があったことが松見坂の由来である。
賊徒の道玄(大和田太郎道玄)が、松の上から往来する人々を狙っていた
という。
この道玄、渋谷の道玄坂にもその名を残している。
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松見坂地蔵尊は空川に架かる遠江橋付近が旧上目黒村の出入り口にあ
たるため、村へ侵入しようとする厄を除けるために建てられたようだ。
地蔵尊は昭和20年の空襲で被災し、現在の地蔵尊は旧地蔵尊を埋めた
地の上に建立されたと言われている。

地蔵尊の敷地内には明治23年(1890)に架橋された遠江橋の親柱も保
存されており、「とほとうみはし」と刻まれた文字を読める。
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遠江橋付近から、空川は二筋に分かれていたようだ。
東側の水路は、地蔵尊脇から暗渠道として辿ることができるが、その先、
山手通りにぶつかって終わってしまう。
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西側の水路は、山手通りの西側を蛇行する道路として辿ることができる。
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その道路も国道246号線との交差手前で山手通りへと出る。
この辺りで東西の水路は再び合流していたようだ。
因みに写真左にある茶色の建物は、国土地理院地形図の販売元などで
知られる日本地図センター。
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この先、空川は扇状に幾筋かの流れに分かれ、周囲の田圃を潤していたようだ。
但し、区画整理されてビルや住宅が立ち並ぶ現在では、その流路は判ら
なくなっている。
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戦前の地図には、現在の大橋JCTの南、氷川橋付近で目黒川へと合流
する空川が描かれている。
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こちらは山手通りの西側の中の橋、この辺りでも空川が目黒川へと落ちて
いたと想像されるが、その痕跡はなにもない。
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《参考資料》
『めぐろの文化財』 目黒区教育委員会


  
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羅漢寺川

羅漢寺川は目黒本町辺りを水源として東へと流れ、下目黒2丁目で目黒川に
注ぐ2kmほどの短い支流(全区間暗渠)である。
本編では羅漢寺川の支流である六敏川や入谷川も併せて紹介していくことと
したい。

羅漢寺川の水源は目黒本町1-8辺りにある湧水であったと言われている。
かつての水源付近から、細い暗渠の歩行者道が東へと続いている。
この辺りはかつて文右衛門久保と呼ばれていたらしい。
また、数十メートル西側には品川用水も流れており、落水もあったかもしれない。
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その歩行者道を入っていくと、崖下を屈曲しながら進んでいくことになる。
道脇にかつての護岸らしき石垣もみることが出来る。
この細い暗渠道は目黒区と品川区の区境であり、地図で見てみると、なぜかこ
の辺りで品川区が目黒区に食い込んでいるのも興味深い。
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細い暗渠の道は250mほど崖下に沿って進み、突然ひらける。
この地点で北側から合流していたのが六敏川(ろくせかわ)。
六敏川は北の目黒通り沿いの東急バス目黒営業所付近にあった湧水を水源と
していたとされる。
清水は枯れることなくコンコンと湧き出し、通りを往来する人々に飲み水と憩い
の場所を提供していたという。

その六敏川の上流付近、遊歩道沿いに清水稲荷神社が鎮座する。
明治30年(1897)頃から、東急バス車庫辺りにあったといわれる。
関東大震災以降、当地への移住希望者が多くなり土地分譲事業が行われたが、
土地の発展を祈念して、京都伏見稲荷より分霊、社殿や鳥居も奉納された。
昭和27年(1952)には土地が寄進され、現在地に移築された。
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六敏川の川跡は現在、六敏川プロムナードと称する歩道として整備され、周囲
には住宅が建ち並ぶ。
道は緩やかに蛇行しながら、徐々に下っていく。
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地形的にみると、先に記した文右衛門久保からの流れよりも谷は広い。
また、昭和30年代の地形図を見ても、六敏川は川が記載されているのに対して、
文右衛門久保からの流れには何も記載されていない。
さらには前述した東急バス車庫の湧水の話などを考慮すると、実質的な本流は
六敏川ではないかと思いたくなる。
ただし、既に両方の川筋とも暗渠化されており、今となっては確かめる術はない。

下目黒6丁目9付近で2つの流れは合流し、東へと進んでいく。
こちらも現在は羅漢寺川プロムナードという緑道となっており、周辺住民の方々
の通行路として利用されている。
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その緑道を辿っていくと、右側に大きな公園がある。
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東西700m、南北250mという広大な面積を持つ林試の森公園であり、
もとは林野庁所管の林業試験場であったことから、その名が付けられた。
明治33年(1900)、目黒試験苗圃として造られたのが始まりで、その後、林業
試験場と名を変えた。
昭和58年(1978)、試験場がつくば市に移転されたのを機に、東京都に払い
下げられ、平成元年(1989)「都立林試の森公園」として開園した。
現在は周辺住民の憩いの場として親しまれ、自然観察会などの各種イベントも
開かれている。

公園の中程に小さな谷があり、現在は池とその池がら出るせせらぎが設置さ
れているが、元々は南から羅漢寺川に通じる小さな支流があったという。
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遊歩道は林試の森公園の北側に沿って続き、その後、一般道を経て目黒不動
尊の前へと達する。
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その北側に入谷川と称する小川があった。
こちらの源は下目黒5丁目付近にかつて存在した谷戸である。
ここにはかつて目黒競馬場が存在していた。
目黒競馬場は明治40年(1907)に開設、昭和7年には第1回の日本ダービー
(東京優駿)が開かれたが、周辺の宅地化などの事情により、翌年の第2回を
最後に府中の東京競馬場へと移った。
現在では目黒通り沿いの碑や「元競馬場前」というバス停、そして住宅地の中
のカーブした外周道路の道にその痕跡を見ることができる。

入谷川は競馬場の中に谷戸として存在していたが、大正年間には塞がれて、
大きな池ができていたらしい。
戦後、谷戸は埋め立てられて住宅地となり、谷戸ののものの面影はない。
入谷川の川跡を追いかけることが出来るのは、かつての競馬場の南側、下目
黒6丁目8付近からである。
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入谷川跡の暗渠道は、東へと向かって進んでいく。
途中、銀行の社宅の下には特徴的な擁壁がある。
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暗渠道沿いにある湧水、かなりの水量である。
この先の目黒不動尊にも湧水(後述)があるが、同じ水脈なのかもしれない。
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入谷川が羅漢寺川に合流しているところにあるのが目黒不動尊、正式名を泰
叡山瀧泉寺と称し、天台宗の寺院である。
大同3年(808)、円仁(慈覚大師)の開創と言われている。
寛永7年(1630)、寛永寺の末寺となり、その後、将軍家光の庇護を受けるよう
になる。
江戸から明治、大正にかけて、庶民の行楽地としても親しまれた。
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目黒不動堂
江戸名所図会目黒不動堂』 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

目黒不動尊は広大な敷地を持ち、文化財なども多いが、その中から三ヶ所ほ
ど紹介してみよう。
まず、不動尊の崖下にあるのが独鈷の滝、龍の口から湧水が吐き出ている。
円仁が寺を建立する際、独鈷を突き立てたところ霊泉が湧き出たという言い伝
えがある。
東京の名湧水57選の一つに指定されている。
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崖下の境内の西側には池があり、その畔には山の手七福神の一つ、恵比寿
神を祀る三福堂がある。
山手七福神は江戸城の裏鬼門守護のために建立され、江戸における最初の
七福神巡りと言われる。
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本堂の裏手に回り、数分ほど歩くと国指定史跡の青木昆陽墓がある。
青木昆陽(1698~1769)は、江戸時代中期の儒学者・蘭学者で、晩年には書
物奉行にを命ぜられた。
八代将軍徳川吉宗の命により、飢饉の際の救荒作物として甘藷(サツマイモ)
を普及させたことで有名。
墓石にも「甘藷先生」と記されているのが興味深い。
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羅漢寺川は目黒不動尊に沿って進み、川跡の道は歩行者道となっている。
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その先にあるのが、羅漢寺川の名前の由来となっている五百羅漢寺
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五百羅漢寺は元禄8年(1695)鉄眼禅師を開山として江戸本所に創建された。
松雲元慶禅師(1648~1710)によって彫られた木造釈迦三尊及び五百羅漢
像が安置されている。
(作成当時は536体あったが、毀損、流出等により現在は305体)
江戸期には内部が螺旋階段となっている「さざい堂」という建物があり、人気を
博したという。
地震や高潮の被害にあい、幾度かの移転を繰り返し、当地には明治41年(19
08)に移転してきた。
五百羅漢堂 内相之図
江戸名所図会五百羅漢堂 内相之図 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

拝観は有料だが、ずらりと並んだ五百羅漢像は壮観と言わざるを得ない。
境内は撮影禁止のためその光景を紹介できないのが残念だが、是非とも拝観
をお勧めする。

さて、ここで1つの疑問が生じた。
五百羅漢寺は記載したとおり、明治41年に当地に移転してきた。
ということは、羅漢寺川という川名はその後に付けられたものであり、それ以前
はなんと呼ばれていたのであろうか。
その答えは、参考資料とした『近代の羅漢寺川(不動川)』に記載されていた。
もとは「不動川」と呼んでいたらしいが、通常はその名前すら使われず、地元で
は「不動様の前の川」とか「林業試験場の裏の川」と呼ばれていたらしい。
現在では管理上などの都合により羅漢寺川という名が付けられているが、昔は
名もない小川であったということであろう。

五百羅漢寺に隣接して、黄檗宗の海福寺が建てられている。
万冶元年(1658)、隠元禅師が深川に開創した寺院で、こちらも明治43年
(1910)に当地へ移転した。
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門前の左手にある文化4年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑(都指定文化
財)は、文化4年(1807)、富岡八幡宮の大祭の際、橋が崩落して多数の溺死
者を出した大惨事を供養したものである。
安政3年(1856)、事件後50回忌を機に海福寺に石碑を建立、海福寺の移転
とともに碑も当地に移設された。
なお、この事件は歌舞伎の「八幡祭望月賑」や落語の「永代橋」の題材ともなっ
ている。
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山手通りを渡りその先は一般道となるが、目黒川との合流直前には再び細い
川跡の道を見ることができる。
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ちょうど目黒雅叙園の対岸で、羅漢寺川は目黒川に合流する。
そこには大きな吐口を見ることができる。
普段は水は流れていないが、豪雨時にはここから溢れんばかりの水が吐き出さ
れるのかもしれない。
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《参考文献》
『めぐろの文化財』 目黒区教育委員会編
『近代の羅漢寺川(不動川)』 郷土目黒第41集 目黒区郷土研究会編


  
目次
   

森厳寺川・だいだらぼっち川

森厳寺川は、世田谷区北沢5丁目付近を水源とし、下北沢の東を流れて代沢
で北沢川に合流する2kmほどの暗渠河川である。
北沢川下北沢東支流とも称する。
途中、代田6丁目方面からの支流を下北沢の南で合わせる。
支流はだいだらぼっち川という通称名で呼ばれている。(下北沢西支流)
今回は、だいだらぼっち川を含めて森厳寺川を辿っていくこととしよう。

森厳寺川 (北沢川下北沢東支流)
京王線の笹塚駅から数百メートルほど歩いていくと、小さな窪地がある。
ここが森厳寺川の水源とされる。
その窪地から、更に南方向へ暗渠道が通じている。
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暗渠道を辿っていくと、北沢中学校に行く手を遮られる。
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中学校の南には井の頭通りが通っており、その南から遊歩道が始まる。
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遊歩道は北沢4丁目の住宅街を蛇行しながら進む。
遊歩道沿いには、もみじ広場、もくせい広場、あおぞら公園などの児童遊園が
点在し、また道路には傘のあるユニークな街灯が設置されている。
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もう一本、北沢小学校沿いには、三田用水から分水された水路跡の暗渠道がある。
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その先にはにはかつて暗渠ファンには有名な銭湯があり、水路沿いには薪が
積まれていた。
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残念ながら銭湯は廃業、取り壊されてしまった。
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森厳寺川の本流を進み北沢3丁目に入ると、緑地帯のある道路が出現する。
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地下化された小田急線を越えると、森厳寺川は下北沢の東側を南下していく。
水路跡は駅に近いこともあって、駐輪場に利用されている。
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京王井の頭線の手前には、草地となっている区間もある。
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井の頭線の築堤の先、こちらも駐輪場となっている。
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その駐輪場の南から緑道が始まる。
駅から近いこともあって人通りも多く、代沢方面への通路として利用されている
ようだ。
また、遊歩道の左手は、高い崖となっている。
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代沢三叉路交差点の東側で、だいだらぼっち川(後述)と合流する。
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遊歩道は500メートルほど進み、川の名ともなっている森厳寺の脇に出てくる。
浄土宗の八幡山森厳寺は、慶長13年(1608)、徳川家康の次男である結城
秀康(1574~1607)の位牌所として孫公和尚により建立された。
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江戸時代には灸、針供養および富士講で知られ、特に灸については「淡島の灸」
として名を馳せた。
その灸については、次のようないわれがあるという。
開山した紀州出身の孫公和尚は腰痛に悩み、ある夜、故郷の淡島明神が夢
枕に立って灸をすることを霊示し、その灸により腰病から救われた。
それにより、紀州の淡島明神を森厳寺に勧請し、以来、灸を始め、遠くから訪
れる人も多くいた。
門前には淡島大明神と書かれた道標や、常夜灯が保存されている。
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森厳寺の南、数百メートルほどの地点で森厳寺川は北沢川へと合流する。
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だいだらぼっち川 (北沢川下北沢西支流)
京王井の頭線の新代田駅の北東、守山小学校付近に窪地がある。
この窪地には、日本各地に残る巨人伝説「だいだらぼっち」の一つが残っている。
ある夜、大男が代田の丘と荒地を歩き回って畑や田を作り、一夜明けると、大き
な窪地が出来て、水も湧き出る田圃ができたというものだ。
代田という地名もこのだいだらぼっち伝説から由来するものという。

また、この付近では寛文年間(1661~72)の頃から開拓が始まり、谷沿いに
水田が作られたが、湧水が豊富で凶作に見舞われることは少なかったと伝え
られる。

川の名前は特にないが、いつしかだいだらぼっち川と呼ばれるように
なり、本項でもその名称を使用することとする。

守山小学校の北、代田6丁目16付近から、南へと深い谷の底を一般
道が続いている。
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道路は緩やかに蛇行しており、川跡を感じさせる。
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井の頭線の下北沢~新代田間で、だいだらぼっち川は線路と交差する。
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線路を踏切で越えた先、なおも代田5丁目の住宅街を進んでいく。
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更に小田急線を越え、下北沢の南側を進む。
ここも窪地となっており、そのためか駅至近ながらも静かな住宅街となっている。
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やがて下北沢駅南口から続く商店街へと達する。
だいだらぼっち川は商店街沿いに進み、代沢三叉路の先で森厳寺川と合流し
ていたようだ。
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《参考文献》
『ふるさと世田谷を語る 代田・北沢・代沢・大原・羽根木』 世田谷区



目次
  

烏山川 3

東急世田谷線を越えた後、烏山川は更に東へと進む。
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その北側に曹洞宗の豪徳寺があり、訪れる人も多い。
世田谷城主吉良政忠が、文明12年(1480)に亡くなった伯母の菩提のために
城内に建立したと伝える小庵、弘徳院を前身とする。
当初は臨済宗の寺院であったが、天正12年(1584)に曹洞宗に改宗した。
寛永10年(1633)彦根藩世田谷領の成立後、井伊家の菩提寺となった。
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招き猫発祥の地とされ(他にも台東区の今戸神社や京都の伏見稲荷という説も
ある)、多数の招き猫が供えられている。
彦根藩第二代藩主・井伊直孝が鷹狩りの帰りに寺の前を通りかかった際、門前
で寺の飼い猫が手招きをし休憩をした。その後、雷雨に見舞われ、直孝は濡れ
ずにすんだという逸話から来ている。
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また豪徳寺内には、井伊家代々の墓所がある。
写真の墓は桜田門外の変で散った井伊直弼の墓であり、都史跡に指定されている。
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こちらは江戸名所図会に描かれた世田谷豪徳寺
豪徳寺
                      (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

豪徳寺の東側にあるのが世田谷城阯公園
貞治5年(1366)、吉良治家により築城されたとされるが、定かではない。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めに伴い、世田谷城も廃城となる。
烏山川が大きく蛇行する地点の北の台地上に築かれ、川とその周辺の沼地を
利用した要塞であった。
南北120m、東西60mほどの郭を中央に据え、土塁に囲まれている。
豪徳寺も元々は世田谷城の一部であり、吉良氏館があったと推定されている、
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公園内には掘(空掘)と土塁の一部が残され、往年の世田谷城の一画を見ること
ができる。

ここで、吉良氏について簡単に触れておこう。
吉良氏は清和源氏・足利氏の一門で、鎌倉前期、足利家3代目当主、足利義氏
の子、吉良長氏およびその弟、吉良義継から出る。
長氏の系統は後に元禄赤穂事件で有名となった三河吉良氏、義継の系統は奥
州吉良氏と称する。
奥州吉良氏の流れをくむ吉良治家が世田谷の地に居館を構え、室町・戦国期を
通じて、吉良氏は足利氏御一家として家格の高さを誇った。
頼康の時代には小田原北条氏と縁戚関係を持つが、その子、氏朝の時代の天
正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻略に際して上総国生実(現千葉市)に逃
亡する。
関東が徳川氏の支配下に入ると、氏朝の子、頼久は上総国寺崎村(現千葉県
長生郡)に所領を移され、以降、旗本として幕末まで存続する。

烏山川緑道はS字を描く様に蛇行しながら進み、国士舘大学世田谷キャンパス
の中を突き進む。
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国士舘大学の南にあるのが、真言宗の青龍山勝国寺、吉良政忠の開基と伝え
られる。
薬師堂には木造の薬師如来立像が安置されており、吉良頼康のもとに北条氏か
ら嫁いできた室の持仏という。
胎内に天正20年(1592)修復の文書が見つかり、世田谷区の指定有形文化財
に指定されている。
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この辺りの緑道には、橋のモニュメントとともに、付近の地図を記した行き先案内
板があり、緑道を歩く人に優しい。
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松陰橋を右に曲がり、坂を上ったところにあるのが松陰神社、その名の通り、
吉田松陰(1830~1859)を祀る神社である。
吉田松陰は、安政の大獄により伝馬町牢屋敷(『竜閑川』参照)で刑死された
後、千住小塚原回向院に埋葬されたが、文久3年(1863)、高杉晋作や伊藤博
文らによって、長州毛利藩主毛利大膳大夫の所領で大夫山と呼ばれたこの地に
改葬された。
明治15年(1882)、松蔭門下の人々により、墓畔に社を築いたのが松陰神社の
始まりとなる。
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境内の墓所には吉田松陰の墓に隣接して、頼三樹三郎、小林民部などの烈士の
墓もある。
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前述した豪徳寺とは、歩いても十数分の距離しかない。
安政の大獄に関わった井伊直弼と吉田松陰が、僅か1kmほどの距離をおいて、
眠っていることになる。
至近距離に両者が埋葬された理由を何人かの関係者に尋ねたが、わからなかった。
ただ、奇しくも豪徳寺の地は井伊家の所領であり、こちらは毛利家の所領であった
ことは確かだ。

烏山川は世田谷線若林駅の北側で環七を越える。
そこには、若林橋の欄干の一部が残されている。
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行く手には三軒茶屋のキャロットタワーが見えてくる。
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こちらはキャロットタワーの展望台から眺めた烏山川緑道(写真中央)。
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烏山川の北には太子堂八幡神社がある。
創建年代は不詳、別当寺である円泉寺(後述)の縁起によれば、文禄年間(1592
~1596)とあるが、源義家が父頼義と共に朝廷の命をうけ陸奥の安倍氏征討に
向う途中、八幡神社に武運を祈ったと伝えられているという。
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やがて三軒茶屋近隣に差し掛かるが、その手前の目青不動教学院最勝寺)を
紹介しておこう。
慶長9年(1604)、玄応和尚の開基により江戸城紅葉山付近に建てられ、青山
南町を経て、明治41年(1908)当地に移された。
江戸五色不動の1つとされ、不動堂には慈覚大師・円仁の作とされる不動尊(非
公開)が安置されている。
不動尊はもともと。麻布谷町の観行寺の本尊であったが、同寺が廃寺となったこ
とにより、明治15年(1882)、最勝寺に移されたという。
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三軒茶屋の北側で、茶沢通りを越える。
世田谷有数の商業地域とあって、この付近では緑道を行き交う人も多い。
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その先の北側にある真言宗の寺院、円泉寺は玉川八十八ヶ所の第51番霊場
にもなっている寺院である。
文禄4年(1595)に建てられたもので開基は賢恵僧都という。
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境内には聖徳太子像を安置する太子堂があり、その草創はさらにさかのぼり、
南北朝時代末期にはならびに小堂(円泉寺の前身・円泉坊)が建てられていた
と推察されるという。
付近の地名である太子堂は、ここに由来する。
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また、明治4年(1872)、円泉寺境内に郷学所が設けられ、世田谷の教育発祥
の地となった。

緑道は玉川通りの北側を太子堂から三宿へと進んでいく。
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緑道沿いの左側にあるのが三宿神社
道路から林の中の参道を階段を上っていくので、烏山川と北沢川に挟まれた台地
を感じることができる。
明治維新後、廃寺となった多聞寺の跡地に創建されたと伝えられ、その多聞寺
の毘沙門天が受け継がれて祀られている。
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また、三宿神社の北側、多聞小学校付近には三宿城があったという。
残念ながら詳細は不明だが、前出の世田谷城の出城だったと言われている。

そして、烏山川は、北側から流れてくる北沢川と合流して終わる。
2つの河川が合流し、その先は目黒川となる。
現在は緑道の三叉路となっており、散歩やジョギングを楽しむ人や田園都市線
の池尻大橋駅への往来をする人で賑わう。
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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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