日野市百草付近を源とし、大栗川へと注ぐ
倉沢川を追った。
後述するが、倉沢川本流の上流部は区画整理された住宅地の地下に埋
設管として埋もれてしまっている。
そのため百草テニスガーデンの西側付近から流れ出る支流からスタート
することにする。

この辺りは
雨乞谷戸と呼ばれていた地域であり、1ブロック西にある雨乞
公園にその名を残す。
公園内にある説明板には、「
湧き出る地下水はどんな年にも涸れること
がなく、地元倉沢の人々は日照りで田の水に困ったときなどこの水を御嶽
社に供え、雨乞いの祈願をした。」と記されている。
倉沢川流域は倉沢谷戸と称する谷戸地となっているが、雨乞谷戸はその
支谷であるのだろう。
水量は少ないが、湧水(とは言っても湧水地点は不明)は雨乞谷戸からの
坂を勢いよく下っていく。

もぐさ観音地区広場と称する小公園の脇を流れていく。

その後、再び一般道に沿って東進していく。

上の写真の奥、一時停止標識の交差点で川は右に曲がるが、左へ数十
メートルほど行くと
百草観音堂がポツンと建っている。
観音堂の創建年代は不明、中には平安時代から江戸時代にかけての4体
の仏像が安置されている。

なぜ、ここに観音堂があるのか、それを語るには百草地区の歴史に触れ
なければならないだろう。
観音堂の北側、倉沢川の谷戸と多摩川に挟まれた小高い丘陵の上には
京王百草園や百草八幡神社があり、そこにある説明板を読むと、この地
域には興味深い歴史があることが判る。
こちらは
京王百草園、梅をはじめとする四季の花々が咲く名所として有名だ。

さて、その百草の歴史について軽く触れておこう。
平安末期から鎌倉時代にかけて、この一帯には真慈悲寺という大寺院
が存在していたと言われる。
鎌倉幕府の公式の歴史書である吾妻鏡にも記され、浅草寺などと肩を
ならべるほどの寺院であったという。
詳細は不明であるが、園内から瓦が出土したり、近隣の東京電力総合
研修センター内での発掘調査等でその存在が明らかになりつつある。
鎌倉末期には真慈悲寺が廃寺となったと推定され、その後、松連寺が
建立される。
松連寺は一時荒廃しするが、享保2年(1717)には、小田原城主大久
保忠増の室、寿昌尼が中興開山し、慈岳山松連寺を再建した。
明治6年(1873)、廃仏毀釈により松連寺は廃寺となるが、その後、
百草村出身の貿易商青木角蔵が買い取り、明治20年(1887)に庭園
として一般に開放、戦後は京王帝都電鉄により京王百草園として開園された。
百草園の南に隣接して
百草八幡神社が鎮座する。
創建年代は不明、狛犬には天平の文字が記されている。
康平5年(1062)源頼義が奥州征伐の折に立ち寄り、再建して戦勝を
祈願としたとの言い伝えがある。
いずれにしても古社であることは間違いない。

境内には天保12年(1841)、松連寺第八代住職魯庵により建立された
松連寺詩碑がある。

こちらは江戸名所図会に描かれた松連寺、図の左端には百草八幡神社
も見える。
(百草ではなく茂草と記されているのも興味深い)
江戸名所図会『
茂草松蓮寺』
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)倉沢川に戻ると、川は南へと曲がり1ブロックほど進んでいる。
その先で西から水が流れてきて、今まで辿ってきた河川が合流する。
これが冒頭に記した倉沢川の本流と推測される流れで、明らかに雨乞谷
戸からの河川より規模は大きく水量も多い。

但し、写真で見られるように、数十メートル先には地下埋設管の吐口があ
り、水はそこから出ている。
そしてその上流側は区画整理された住宅地が広がり、川跡を辿ることは
できない。
大栗川や乞田川流域の多くの谷戸が埋め立てられ開発されたのと同様、
ここでも川が痕跡を残さずに地下に埋設されてしまったのは残念だ。
合流後、水を増した倉沢川は道路沿いを流れていく。


合流地点から250mほど歩き、南百草というバス停の先で暗渠となってしまう。

その先で道路脇には里山の風景が広がる。
この辺りは日野市の「水辺のある風景 日野50選」の1つ、『倉沢の田ん
ぼのある風景』として指定されている。
訪問した時期が冬であったため写真のような風景だが、夏季には田園風
景が見られるようだ。
田を潤す水は暗渠となった倉沢川から導水されるのだろうか。

さらに歩いていくと、
倉沢川緑地と称する緑道が始まる。

緑道は山裾を進み、200メートルほど続く。
川跡という感覚はあまりなく、緑地の名がなければ河川跡とは気が付か
ないかもしれない。

倉沢川緑地を抜けるとその先に
大栗川が見えてくる。

倉沢川は新堂橋の上流で大栗川に合流する。
暗渠の吐口からは、先ほど開渠区間で見た水がかなりの量で流れ出ている。

《参考資料》
『幻の真慈悲寺』 日野市郷土資料館
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