fc2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

倉沢川

日野市百草付近を源とし、大栗川へと注ぐ倉沢川を追った。
後述するが、倉沢川本流の上流部は区画整理された住宅地の地下に埋
設管として埋もれてしまっている。
そのため百草テニスガーデンの西側付近から流れ出る支流からスタート
することにする。
2018-02-10_26.jpg
この辺りは雨乞谷戸と呼ばれていた地域であり、1ブロック西にある雨乞
公園にその名を残す。
公園内にある説明板には、「湧き出る地下水はどんな年にも涸れること
がなく、地元倉沢の人々は日照りで田の水に困ったときなどこの水を御嶽
社に供え、雨乞いの祈願をした。
」と記されている。
倉沢川流域は倉沢谷戸と称する谷戸地となっているが、雨乞谷戸はその
支谷であるのだろう。

水量は少ないが、湧水(とは言っても湧水地点は不明)は雨乞谷戸からの
坂を勢いよく下っていく。
2018-02-10_29.jpg

もぐさ観音地区広場と称する小公園の脇を流れていく。
2018-02-10_31.jpg

その後、再び一般道に沿って東進していく。
2018-02-10_35.jpg

上の写真の奥、一時停止標識の交差点で川は右に曲がるが、左へ数十
メートルほど行くと百草観音堂がポツンと建っている。
観音堂の創建年代は不明、中には平安時代から江戸時代にかけての4体
の仏像が安置されている。
2018-02-10_23.jpg

なぜ、ここに観音堂があるのか、それを語るには百草地区の歴史に触れ
なければならないだろう。
観音堂の北側、倉沢川の谷戸と多摩川に挟まれた小高い丘陵の上には
京王百草園や百草八幡神社があり、そこにある説明板を読むと、この地
域には興味深い歴史があることが判る。

こちらは京王百草園、梅をはじめとする四季の花々が咲く名所として有名だ。
2018-02-10_14.jpg

さて、その百草の歴史について軽く触れておこう。
平安末期から鎌倉時代にかけて、この一帯には真慈悲寺という大寺院
が存在していたと言われる。
鎌倉幕府の公式の歴史書である吾妻鏡にも記され、浅草寺などと肩を
ならべるほどの寺院であったという。
詳細は不明であるが、園内から瓦が出土したり、近隣の東京電力総合
研修センター内での発掘調査等でその存在が明らかになりつつある。

鎌倉末期には真慈悲寺が廃寺となったと推定され、その後、松連寺が
建立される。
松連寺は一時荒廃しするが、享保2年(1717)には、小田原城主大久
保忠増の室、寿昌尼が中興開山し、慈岳山松連寺を再建した。
明治6年(1873)、廃仏毀釈により松連寺は廃寺となるが、その後、
百草村出身の貿易商青木角蔵が買い取り、明治20年(1887)に庭園
として一般に開放、戦後は京王帝都電鉄により京王百草園として開園された。

百草園の南に隣接して百草八幡神社が鎮座する。
創建年代は不明、狛犬には天平の文字が記されている。
康平5年(1062)源頼義が奥州征伐の折に立ち寄り、再建して戦勝を
祈願としたとの言い伝えがある。
いずれにしても古社であることは間違いない。
2018-02-10_17.jpg

境内には天保12年(1841)、松連寺第八代住職魯庵により建立された
松連寺詩碑がある。
2018-02-10_21.jpg

こちらは江戸名所図会に描かれた松連寺、図の左端には百草八幡神社
も見える。
(百草ではなく茂草と記されているのも興味深い)
茂草松蓮寺
江戸名所図会茂草松蓮寺』 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

倉沢川に戻ると、川は南へと曲がり1ブロックほど進んでいる。
その先で西から水が流れてきて、今まで辿ってきた河川が合流する。
これが冒頭に記した倉沢川の本流と推測される流れで、明らかに雨乞谷
戸からの河川より規模は大きく水量も多い。
2018-02-10_39.jpg
但し、写真で見られるように、数十メートル先には地下埋設管の吐口があ
り、水はそこから出ている。
そしてその上流側は区画整理された住宅地が広がり、川跡を辿ることは
できない。
大栗川や乞田川流域の多くの谷戸が埋め立てられ開発されたのと同様、
ここでも川が痕跡を残さずに地下に埋設されてしまったのは残念だ。

合流後、水を増した倉沢川は道路沿いを流れていく。
2018-02-10_43.jpg

2018-02-10_48.jpg

合流地点から250mほど歩き、南百草というバス停の先で暗渠となってしまう。
2018-02-10_49.jpg

その先で道路脇には里山の風景が広がる。
この辺りは日野市の「水辺のある風景 日野50選」の1つ、『倉沢の田ん
ぼのある風景』として指定されている。
訪問した時期が冬であったため写真のような風景だが、夏季には田園風
景が見られるようだ。
田を潤す水は暗渠となった倉沢川から導水されるのだろうか。
2018-02-10_50.jpg

さらに歩いていくと、倉沢川緑地と称する緑道が始まる。
2018-02-10_55.jpg

緑道は山裾を進み、200メートルほど続く。
川跡という感覚はあまりなく、緑地の名がなければ河川跡とは気が付か
ないかもしれない。
2018-02-10_58.jpg

倉沢川緑地を抜けるとその先に大栗川が見えてくる。
2018-02-10_60.jpg

倉沢川は新堂橋の上流で大栗川に合流する。
暗渠の吐口からは、先ほど開渠区間で見た水がかなりの量で流れ出ている。
2018-02-10_65.jpg

《参考資料》
『幻の真慈悲寺』 日野市郷土資料館



目次
  
スポンサーサイト



大栗川 殿ヶ谷戸支流(仮)

野猿峠付近を源とし、八王子市下袖木を流れる大栗川の支流を追った。
この支流に名称はないが、下袖木一帯には殿ヶ谷戸という谷戸となってい
るため、殿ヶ谷戸支流(仮)として称することにしよう。

殿ヶ谷戸支流の流路を確認することができるのは野猿街道の野猿峠交差
点から街道を200mほど下った地点、道路の南側に遊歩道が出現する。
道路の北側に小さな谷戸があり、おそらくそこからの小流があったのだろう。
その谷戸に少し入ってみたが、周囲は木々に覆われており流れを確認す
ることはできなかった。
2018-01-20_3.jpg

水路跡に設置された遊歩道を辿り、東へと向かう。
2018-01-20_8.jpg

遊歩道脇にはせせらぎと称した小さな人工の流れがある。
2018-01-20_10.jpg

さらには湧水が流れ出る小さな吐口も見られる。
辿った時期は1月であったが、夏であれば水量は多いのかもしれない。
2018-01-20_12.jpg

遊歩道を700mほど進むと由木めぐみ野公園に出る。
公園の中にはビオトープとして造られた人工池があり、水生環境が保護さ
れている。
公園の周囲には造成によって建てられた住宅が建ち並び、住民の憩いの
場として造られた公園なのであろう。
2018-01-20_18.jpg
公園の案内板の「公園に訪れる動物たち」には、鳥や虫などとともに野ウ
サギ(キュウシュウノウサギ)も描かれ、周囲にはまだまだ自然が残され
ている地域であると感じる。

公園脇から殿ヶ谷戸支流は開渠となる。、
2018-01-20_20.jpg

殿ヶ谷戸支流は野猿街道を北へと横断し、そこで西から流れてくる河川と
合流する。
この水路は合流地点から50メートルほど上流側は暗渠となってしまう。
しかも周辺は区画整理されており、残念ながら流路を辿ることはできない。
2018-01-20_28.jpg

付近の農地で農作業をしていた方にお話を伺ったところによると、
ここは殿ヶ谷戸の支谷のつぐり谷戸といい、この流れをつぐり川と称して
いたという。
北側には10メートル以上はあろうかと思われる崖がある。
崖の上には南陽台の住宅地が広がるが、宅地開発によりつぐり谷戸は
消滅したようだ。
2018-01-20_29.jpg

資料に記載されている大栗川水系の略図では殿ヶ谷戸支流はつぐり谷戸
からの流れ(以降「つぐり川」と称す)の方向に描かれ、また現地でも今まで
紹介してきた水路がつぐり川に合流する形となっている。
ここまで野猿峠付近からの水路を追ってきたが、実は殿ヶ谷戸支流の支流?
ということになるかもしれない。
ただ前述の通り、つぐり川は地下埋設管化され、追跡することができない
ため、冒頭から紹介してきた水路をを殿ヶ谷戸支流としていることをご了解
いただきたい。

つぐり谷戸からの流れを合流した後、大栗川を目指して更に東進していく。
2018-01-20_32.jpg


川沿いにある永林寺薬師堂、堂宇というより古民家のような造りだ。
(永林寺については後述)
2018-01-20_34.jpg

薬師堂の脇には道祖神などの石碑が立つ。
2018-01-20_35.jpg

農地の中を進む殿ヶ谷戸支流。
2018-01-20_39.jpg

再び野猿街道と交差し、道路の南側へと出る。
今度は崖下に沿うように蛇行しながら流れていく。
2018-01-20_43.jpg

川沿いを進むことはできないので、ところどころ川を確認できる場所を見つ
けては流れを追っていく。
2018-01-20_46.jpg

ここで北にある曹洞宗の金峰山永林寺に立ち寄ってみる。
永林寺の創建は天文元年(1532)、由木城主であった大石定久が滝山
城へ移るにあたり、当地を叔父の一種長純大和尚に譲渡、永麟寺として
創建した。
天正19年(1591)、徳川家康が巡拝した際に朱印十石を授かり、永林寺
に名を改めた。
2018-01-20_65.jpg

その由木城址は境内裏手の墓地脇の高台にある。
元々は鎌倉時代、由木氏によって築城されたといい、その後、山内上杉家
の重臣である大石定久(1491~1549)の居館となった。
定久は父・定重の死後、家督を継いで滝山城へと移り、その後に永麟寺が
建立されたというわけだ。
なお、定久は河越城の戦い(1546)で上杉家が敗北すると、後北条氏へ
鞍替えし家臣となっている。
2018-01-20_69.jpg
城址には石碑のほか、大石定久の銅像が建てられている。

殿ヶ谷戸支流へ戻ると、野猿街道の歩道の下を流れていく姿を目にする
ことができる。
2018-01-20_50.jpg

下袖木郵便局前交差点から、支流は野猿街道から離れ大栗川を目指して流れる。
2018-01-20_52.jpg

そして大栗川に架かる山下歩道橋の下流で、殿ヶ谷戸支流は大栗川へ合流する。
2018-01-20_56.jpg



目次
  

大田川

大栗川の支流である大田川は、小山内裏公園内の大田切谷戸を水源とす
る3.6㎞ほどの公園、上流部は開発により暗渠化されているが、南大沢か
ら下流の約1.7㎞の区間は開渠となっている。

今回のスタートは町田市小山ヶ丘にある小山内裏公園、公園内には大田
切池
があり、水を湛えている。
2018-01-04_7.jpg

この池は周囲の大田切谷戸からの湧水を集めて造られた人工池、周辺の
宅地造成に伴い、大雨時に一度に流れ出ないように流れを堰き止めて造られた。
2018-01-04_11.jpg
池の奥には大田切谷戸が続いているが、サンクチュアリ(動植物保護区)
に指定されているため、立ち入ることはできない。
因みに大田切谷戸の由来は、公園内の説明板によれば「大田川が切れ
るところにある谷戸」という意味だそうである。

公園を出た川は北東へと向かうが、暗渠化されているので河川そのもの
を目にすることはできない。
また昭和末期から開発が進んだ地域であるが故に、暗渠とはいっても
地下埋設管となっているため、都区内などで見られるような暗渠感は全くない。

小山内裏公園を出てすぐ、わきみずひろばと称する小公園があった。
湧水を確認することはできなかったが、季節的な理由(訪問時は冬)からだろうか。
ネットで検索すると、湧水が出ている時期もあるようだ。
時期を変えて再訪してみたい。
2018-01-04_15.jpg

わきみずひろばから、道の左側に人工水路が続く。
2018-01-04_18.jpg

途中、湧水が流れ出ている箇所を発見。
但し数十メートルほど行くと再び水は枯れてしまっていた。
2018-01-04_20.jpg

マンション前に設けられている人工水路。
2018-01-04_23.jpg

大田川跡の道路はやがて多摩ニュータウン通りに出る。
多摩ニュータウン通りは谷の中を通るように造られている。
南側の谷(写真右)には京王線の南大沢駅が、北側の谷にはアウトレット
が設けられ、歩道橋が谷を渡るかのように結んでいる。
2018-01-04_27.jpg

アウトレットモールの東側に南大沢八幡神社が鎮座している。
創建年代は不明、境内には樹齢600年以上と言われるオオツクバネガシ
があり、八王子市の天然記念物に指定されている。
2018-01-04_39.jpg

南大沢神社から大田川沿いに戻った所でいよいよ大田川は開渠となる。
こちらがその吐口、かなり大きいものでそこから結構な量の水が流れ出ている。
2018-01-04_45.jpg
駅の南側にも柏木谷戸、清水入谷戸という谷戸があり、そこからの流れ
がこの辺りで合流していたようだ。
現在、この谷戸も多分に漏れず開発の波に埋もれてしまい、河川の姿を
見ることはできない。

ここから大栗川との合流地点まで川沿いを歩くことができる。
2018-01-04_49.jpg

おかんどう橋から川の左岸に由木緑道と名付けられた遊歩道が続く。
2018-01-04_52.jpg

その緑道の入口にある道祖神と地蔵尊群。
2018-01-04_55.jpg

大田川はゆっくりと右へカーブする。
2018-01-04_58.jpg

緑道にはジョギング、散策を楽しむ人とすれ違うことが多く、市民の憩いの
場となっているようだ。
2018-01-04_60.jpg

カーブした後、400メートルほど行くと大栗川と合流する。
2018-01-04_64.jpg

大栗川と大田川に挟まれた地にある大栗川公園から見た合流地点。
2018-01-04_67.jpg
その先の大栗川橋を右手に行くと、京王堀之内駅も近い。
南大沢~京王堀之内の一駅区間を大田川沿いに散策するのもお勧めである。



目次
  

中沢川

多摩センターから乞田川を500メートルほど遡上していくと、川が二手に
分かれる場所がある。
一方は南西方向へと曲がり唐木田方面へと向かう乞田川(以前は唐木
田川と称していた)であるが、直線方向には暗渠となっている河川の吐
口から水が流れ出ている。
この暗渠となった河川は、中沢池から流れ出る中沢川である。

中沢川の水源である中沢池はその合流点から西へ1kmほど行った谷戸
の中にある。
2017-11-12_4.jpg
この池は江戸時代に造られた溜池、その歴史を池の脇にある説明板から
引用してみる。

落合旧記より、寛文年間(西暦1665年)時の領主土屋但馬守が江口加
右門を奉行にして落合の領民が之を築くとあります。
風土記には横二十五間(約45m) 竪四十三間(約76m)の堤あり、
長さ二十五間(約45m)の伏樋をもって水田にそゝげりとあります。
昭和9年地元有志9名により大改修工事が行われ、現況の池となっています。


現在、中沢池は釣り場として開放されており、多くの太公望が糸を垂れて
休日を楽しんでいる。
2017-11-12_6.jpg

中沢池がある中沢谷戸の周囲は府中カントリークラブというゴルフ場にな
っており、残念ながらその先を探索することはできない。
府中カントリークラブは昭和34年(1959)の開設、多摩地区のゴルフ場
の草分け的存在となっている。
2017-11-12_9.jpg

中沢池から出た水は、中沢池公園の中をせせらぎとして流れていく。
2017-11-12_12.jpg

その先、川が崖沿いへと流れていく。
多摩地区にある谷戸を流れる小河川ではコンクリート護岸が施されている
場合が多いが、ここでは本来の川の姿を見ることができる。
2017-11-12_16.jpg

2017-11-12_20.jpg

途中、崖から流れ出る湧水もある。
2017-11-12_22.jpg

公園を出ると中沢川は暗渠となってしまう。
おそらく道路の下を埋設管となって流れているのであろう。
2017-11-12_26.jpg

島田療育センターの入口に出ると、その脇に農地が広がるがその農地の
中を暗渠となった中沢川が流れているのが判る。
2017-11-12_29.jpg

農地の下流側には、盛土を施された新しい住宅が立ち並ぶが、河川部分
だけ住宅地からは除かれ、更地になっているのが興味深い。
2017-11-12_32.jpg

この先は合流部までは普通の道路となり、京王線とクロスする。
2017-11-12_33.jpg

暗渠であることを示すものは特になく、住宅街にある普通の道路ではあるが、
僅かにマンホールから聞こえてくる水音が河川歩きの手がかりとなる。
2017-11-12_34.jpg

高岸公園という小公園を右に見て都道を越えると、乞田川との合流点に出る。
2017-11-12_36.jpg

《参考資料》
『大栗川・乞田川 流域の水と文化』 小林宏一著



目次
  

乞田川 2

引き続き乞田川を東進していく。
2017-11-03_57.jpg

青木葉川に続き、右岸から貝取川が合流する。
貝取川は貝取谷戸から流れ出てきた川であるが、上流域は暗渠化されており、
開渠として辿れるのは下流域の800メートルほどの区間である。
2017-11-03_60.jpg

コンクリート護岸の中程に遊歩道が整備され、歩きやすい。
2017-11-03_62.jpg


貝取川合流部から250メートルほど行くと、今度は瓜生川が合流する。
短い間隔で支流が合流しているということは、乞田川の南岸には小さな谷
戸が点在しているということを示しているのであろう。
瓜生川は暗渠となっているが、その上には瓜生せせらぎ散歩道と称する
緑道が続いている。
2017-11-03_65.jpg

遊歩道を歩いていると散策やジョギングを楽しむ方々とすれ違う。
周辺住民の憩いの場として利用されているようだ。
2017-11-03_66.jpg

永山橋脇にある庚申塔(中央)と二体の地蔵尊。
中央の庚申塔は享保12年(1727)の建立、左の地蔵尊は宝永7年(1710)、
右の地蔵尊は文政7年(1824)の建立である。
2017-11-03_70.jpg

乞田川はゆっくりと左へカーブし、北を流れる大栗川を目指す。
2017-11-03_73.jpg

諏訪下橋の手前で馬引沢川が右岸から合流する。
こちらも開渠は合流部付近の数百メートルほどだけだが、乞田川脇の道路
からは急流を下っていく姿を見ることができる。
2017-11-03_75.jpg

諏訪下橋からは大栗川合流部までほぼ直線、ラストスパートといった感がある。
2017-11-03_76.jpg

熊野橋を左へ行くと小高い丘の上に関戸熊野神社が鎮座する。
延徳元年(1489)、紀州熊野三社を勧請したと伝わる。
2017-11-03_86.jpg

神社の参道脇には東京都史跡に指定されている霞ノ関南木戸柵跡がある。
霞ノ関は建暦3年(1213)に起こった和田合戦の後、横山党の残党に備
えて鎌倉街道に設けられた軍事的な関所。
昭和30年代の発掘で丸柱の痕跡が45㎝間隔で16箇所確認され、現在
はその柱が再現されている。
周辺の地名の関戸は霞ノ関が由来となっている。
2017-11-03_82.jpg

熊野神社の北側には真言宗豊山派の慈眼山観音寺がある。
創建は、建久3年(1192)唐僧が聖観世音菩薩を草庵に安置したのがは
じまりとされる。
狩野派系の画師相沢五流、生花允中流の創始者相沢伴主親子の墓所がある。
2017-11-03_89.jpg
なお、熊野神社の南側は暗渠となっている関戸川が流れており、旧鎌倉
街道との交差点脇に暗渠を確認することができる。

そろそろ大栗川との合流地点が見えてくる。
2017-11-03_93.jpg

右岸から連光寺地区を流れてくる大谷戸川が合流する。
町名となっている連光寺は現存せず、その場所や由縁も不明らしい。
2017-11-03_96.jpg

向ノ岡橋を過ぎると、左手から流れてくる大栗川と合流し、乞田川は終わる。
2017-11-03_102.jpg

《参考資料》
『大栗川・乞田川 流域の水と文化』 小林宏一著



目次
  
ごあんない
目次
過去記事はこちらから。
水系ごとに体系化しています。

橋マップ
Google Mapを利用して、
橋の位置と写真を紹介します。
INDEX

Twitterボタン
Twitterブログパーツ
プロフィール

リバーサイド

Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
フォトアルバム
外部のサイトを利用して、フォトアルバム(スライドショー)を表示します。
以前のブログから引き継いでいます。

金太郎(杉並の暗渠)
神田川の桜 2008
善福寺川の桜 2008
目黒川の桜 2012
三島の湧水
リンク
QRコード
QR
検索フォーム
アクセスカウンター
おすすめ
リバーサードがお勧めする本
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。