二ヶ領用水 五ヶ村堀

二ヶ領用水 五ヶ村堀は川崎市多摩区登戸で二ヶ領本川から分水し、
高津区宇奈根で多摩川へ合流する。
五ヶ村とは登戸、宿河原、長尾、堰、久地の各村のことであり、その付近
の田畑を灌漑していた。

その始まりは、向ヶ丘遊園駅の西、府中街道沿いにある榎戸の堰、そこ
には現在「川崎歴史ガイド」の説明板が立てられている。
その説明によると、ここからは五ヶ村堀のほか、中田堀、逆さ堀の三つの
取入れ口があるという。
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ただ用水本流を見てみても、現在、そこには取水口は見当たらない。
現在の取水口は小田急線を渡った先の南橋上流に移設されているようだ。
写真右側、黄色い浮輪の箇所に小さな取水口を見ることができる。
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その先、五ヶ村堀はしばらく二ヶ領用水本流と並行して流れる。
水路沿いには歩けないので、ここは近くの道を迂回。
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稲生橋から二ヶ領本川左岸に公園が造られている。
その名も五ヶ村緑地、園内には水が流れているがこちらは人工の水路、
五ヶ村堀そのものは公園の下を暗渠として流れている。
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五ヶ村緑地の東端にある古い水門、この先で五ヶ村堀は左へと折れて本
流と分かれる。
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その先に再び水門、水路ははしご状開渠となっており、そこをゆっくりと水が流れる。
この辺りでは水路沿いを歩けるのが嬉しい。
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龍安寺(二ヶ領用水1参照)の北の住宅街を流れていく五ヶ村堀。
この辺りでは水路の中を鯉が優雅に泳いでいる。
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上の写真の一時停止標識の場所で道路はクランク状に交差しており、水
路は道の左側から右側へと移る。
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その先、五ヶ村堀は宿河原の南の住宅街の中へと入ってしまうが、今ま
で直線的な流れであったので、蛇行する水路が美しく見える。
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宿河原を南北に通る道路を渡ると、寺の墓地とゴルフ練習場の間を流れていく。
そのため、ここは大きく迂回を要する。
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その墓地がある寺は真言宗の雁楚山常照寺、詳細は不明だが、十五世
紀後半の創建のようだ。
寺が所蔵する「紙本墨画着色 松寿弁才天図」は安政5年(1858)に杜水
によって描かれたもので、川崎市の指定文化財となっている。
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大きく迂回させられたが、常照寺の南側から再び五ヶ村堀を追うことができる。
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100メートルもしないうちに、今度は宿河原八幡宮神社が同じく左岸に現れる。
もともとは多摩川北岸にあったが、安政の頃に洪水により流出、常照寺
の境内に移設・再建されて、以降、宿河原村の鎮守社となった。
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宿河原八幡宮神社から先、五ヶ村堀は一部の区間を除いて、暗渠として
続くことになる。
暗渠は稲田小学校の北側を円弧を描くように通っていく。
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その先、暗渠は道路から外れ、マンションの間を抜けていく。
暗渠の上は歩行者用通路として利用されている。
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その通路を抜けていくと、二ヶ領用水宿河原堀の脇へと出てくる。
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しばらくは宿河原堀の南側を流れ、川崎市緑化センター西園の中へと入っていく。
写真は堀の暗渠の上にもうけられたはぎのトンネル
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西園を抜けると、宿河原堀との立体交差。
宿河原堀沿いは散策路としても知られているので、この用水の立体交差
はご存知の方も多いだろう。
私もこの場所は宿河原堀沿いを何度か歩いて目にしているが、改めて五
ヶ村堀からこの交差を見てみると、何か新鮮な気がする。
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交差を越えると緑化センター本園、五ヶ村堀が流れる場所は残念ながら
立入禁止区域となっており、追うことができない。

緑化センターの北東脇から細い道が東へと延び、再び暗渠蓋が道路の中
央に続いている。
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その先で支堀が左へと分かれていた。
支堀は残念だがアスファルト舗装されてしまっていた。
ここは少しばかり迂回して右の本流へと向かうことにする。
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右手にはきらびやかな新明国上教会(大正元年(1912)開基)の塔が見えてくる。
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やがて東名高速道路の高架橋下へと達する。
高架橋下では開渠となっており、宿河原堀との交差以来の水の流れを見
ることができる。
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その先、一般道の跨線橋の下には、その橋に突っ込むような形でグレー
チングの水路が設けられており、なかなか興味深い光景である。
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短い区間だが、再び水路は開渠となり、左に曲がりながら南武線と交差、
線路の北側に出る。
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南武線を越えた後は私有地に入ってしまうが、迂回し暗渠の五ヶ村堀に再会。
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久地駅の北の住宅街を進む。
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龍厳寺二ヶ領用水2参照)の北を通って暫く東進する。
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その後は、梨畑の先を左に曲がり、北へと向きを変える。
空き地の中をカクカクと進む暗渠。
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今度はアパートの間に入り込んでしまう。
さすがにアパートの間を追っていくことはできないので、ここも迂回を強いられる。
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右から左へと道路を横切る五ヶ村堀。
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流末は高津区宇奈根の住宅街を多摩川へ向けて進んでいく。
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ずっと追ってきた五ヶ村堀は宇奈根地先で多摩川へと放流されている。
写真に映る水門は宇奈根排水樋菅
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すぐそばの多摩川土手沿いには「海から20k」の標識があった。



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二ヶ領用水 町田堀

鹿島田北部で川崎堀から分かれ矢向・尻手地区を流れていた二ヶ領用水
町田堀
を追ってみた。
鹿島田にある説明板によれば、塚越、小田、渡田、江ヶ崎、矢向、市場、菅
沢、潮田といった鶴見川一帯の各村を灌漑する農業用水として開削された
といい、町田堀から多くの水路が分かれていたようだ。
町田掘は農業用水路としての使命を終えたが、その多くは現在も道路とし
て残っている。

平間・鹿島田間の南武線の線路沿いで、川崎堀は町田堀と大師堀に分かれる。
写真右の水が流れていない方が、町田堀である。
町田堀はこの後、線路沿いに進む。
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府中街道の踏切脇には、橋の欄干が残っている。
因みにこの脇の踏切は川崎堀踏切という名が付けられているが、川崎堀
は既に町田堀と大師堀に分かれており、なぜこの踏切名となっているのか
疑問である。
また冒頭に記した町田堀の説明板は府中街道を渡ったところにあり、かな
り読み応えのある説明がなされている。
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町田堀跡は散策道として鹿島田駅方向へと整備、続いている。
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しばらくは大師堀と並行して流れていたようで、二つの堀の間隔が僅か数
メートルでしかないような場所もある。
写真手前の歩道が町田堀、左手にあるコンクリート舗装の部分が大師堀である。
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鹿島田駅を過ぎると商業施設やマンション街となり、町田堀の流路は姿を
消してしまう。
線路脇の道路沿いには人工のせせらぎが設けられているが、町田堀をイ
メージして造られたものであろうか。
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その先にも欄干が移設・保存されていた。
橋名など詳しいことはわからない。
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その先で南武線を渡る。
その場所にはコンクリートの構造物があったが、町田堀と関係があるのだろうか。
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南武線と交差後、水路跡は植え込みがある歩道として残っている。
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500メートルほど行くと、三叉路に差し掛かる。
ここで町田堀は南河原用水を分けていた。
南河原用水(左側)は矢向駅の南を抜け、南河原村方面(現在の幸区都町
付近)の田畑を潤していたようだ。
写真右の丸い石柱は「町田堀・南河原用水分水点跡」の碑。
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この先も暫くは植栽のある遊歩道が続き、南武線と横須賀線に挟まれた
住宅街も中を進んでいく。
写真奥に見える高架は横須賀線の線路。
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川崎市幸区から横浜市鶴見区へと入り、矢向の西側を南下していく。
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横須賀線(品鶴線)と南武線を結ぶ尻手短絡線という貨物線の踏切を渡る。
この踏切の名は二ヶ領踏切と称する。
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更にはその先、「二ヶ領用水路地跡」と記された石碑がある。
昭和47年(1972)、二ヶ領用水の跡地を国から払い下げを受けて緑地帯
を整備した際、矢向地区の住民が石橋を再利用して建立したもの。
石碑の脇には、鶴見区役所による二ヶ領用水の説明板もある。
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石碑から100メートル、道路は右へクランク状に曲がっている。
この付近には良忠寺、最願寺、更には日枝神社といった寺社が集中して
建てられているので、それらを訪ねてみよう。

まずは町田堀右手にある浄土宗寺院の記主山良忠寺
仁治元年(1240)、浄土宗第3代、然阿良忠上人が霊夢により鶴見川の岸
より薬師如来像を見つけ、この地の安置したことを草創とする古寺である。
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境内には矢止め地蔵尊が安置されている。
これは新田義貞の鎌倉攻めの際、多摩川付近で合戦があり、義貞の放っ
た矢が当地まで飛び、松の木に刺さった。
その矢には南無八幡大菩薩の文字が書かれており。それを見た村人が地
蔵菩薩を建立し、戦死者を供養したという。
また、当地の地名である「矢向」は矢が向かったことに因んでいる。
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良忠寺の先、左手には浄土真宗の延慶山最願寺がある。
延慶元年(1308)の創建、開基は、宇多源氏源三秀義の末流宗重という。
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本堂前には緑泥片岩の板碑があり、延慶2年(1309)の銘があることから、
当寺開山の墓碑とも伝えられている。

さらには最願寺の北方には矢向日枝神社が鎮座する。
寛永15年(1638)、滋賀県大津の日吉神社の分霊を勧請して創立した
と伝えられ、山王大権現と称し、矢向村、市場村、江ヶ崎、塚越村、古川村、
上平間村の七ヵ村の鎮守であった。
その後、天保末期に各村が分離し、矢向一村の鎮守となったという。
明治6年(1873)の村社に列格し、日枝神社と改称した。
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さて、町田堀に戻り、更に南へと歩いていく。
堀跡は相変わらず、歩道となって続いている。
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尻手駅の西側を通り、その先で尻手から浜川崎へ向かう南武支線と交差する。
十メートルほどの間隔で2つのガードがあるが、どうやら水路は写真奥の
ガードを通っていたようだ。
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その証として、ガードには「新市場用水開きょ架道橋」という名が付けられ
ている。
新市場用水という水路名は手持ちの資料にはないが、この辺りの町田掘
の別称であろうか。
また、開きょ架道橋とは、このガードが造られた時は水路が開渠として流
れていたことを連想させる。

ガードから300メートルほど進むと町田堀は右に折れる。
ここで真っすぐ流れていく小土呂堀を分け、その小土呂堀は川崎駅東口方
面へと流れていたようだ。
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その小土呂堀を少しだけ紹介しておこう。
小土呂堀は南武線の南側に沿って進み、その先で東海道線と交差する。
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京急線と市電通りが交差する日進町交差点までは、おそらく水路跡と思わ
れる道が続くが、その先は川崎駅付近の区画整理により水路は全く分から
なくなる。

ただ川崎駅の東口、新川通りには小土呂橋が交差点名で残り、その脇には
かつての橋の親柱が保存されている。
説明板では、新川通り沿いに渡田大島を経て海へ注いでいた新川堀が流
れ、この小土呂橋は新川堀に架けられた橋だという。
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資料で見る限り、新川堀はこの地点より西側、川崎駅付近で五ヶ村用水か
ら分かれていたようであるが、小土呂堀は新川堀と交差もしくは流れ込ん
でいたのかもしれない。
町田堀を歩かずとも、駅からもそう遠くはないので、川崎に立ち寄った際に
は一見することをお勧めしたい史跡である。

さて、再び町田堀へ戻ろう。
先ほどの小土呂堀との分岐点を右へ曲がると、一方通行の道路が南へと
進んでいる。
ここが町田堀跡の道であるが、この道は川崎市と横浜市の市境でもある。
町田堀を市境として設定した名残であろう。
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こちらも小土呂堀と同様に東海道線を越える。
その先、旧東海道と交わる市場上町交差点脇に「東海道 市場の夫婦
(女夫)橋
」という説明板があった。
その説明では、ここには夫婦橋という二つの橋が架かり、潮田堀市場堀
が流れていたと書かれている。
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ただ、下記に挙げた2つの資料の地図には二本の流れがあるとは書かれ
ていない。
しかも、「二ヶ領用水環境マップ」では市場堀は、尻手付近で町田堀から分
かれもっと南の方を流れていたとように描かれている。
現地の説明板と資料のどちらが正しいのか疑問が残る。

市場上町交差点から100メートルほど進むと、京浜急行線の踏切に達する。
その手前に三角地帯があり、「二ヶ領用水環境マップ」が正しいとすると、
ここで町田堀は、菅沢潮田用水(潮田堀?)と、池田堀・小田堀に分かれて
いたようだ。
もし先ほどの夫婦橋の説明が正しいとするあらば、堀の名前はともかく、水
路はもっと上流で分岐していたのだろうか。
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最後がうやむやで終わってしまい申し訳ないが、ここを一応の町田堀の流
末と位置づけたることとしよう。。

《参考資料》
『二ケ領用水環境マップ』 二ケ領用水ワークショップ編
『二ヶ領用水支流水路復元図』 和田茂/作成・調査



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二ヶ領用水 久地・溝ノ口村堀

久地円筒分水から流れる二ヶ領用水 久地・溝ノ口村堀を追ってみた。
名前が示す通り、久地村、溝ノ口村の多摩川沿い地域に配水していた水路である。
円筒分水から出る4つの堀の中で、一番北に位置する堀であり、円筒分水
に流れる水のうちこの堀に分けられる水量は僅か3%である。
とはいっても、わずか1.5kmの用水路であり、その割合は他の堀に比べれ
ば余りあるものなのかもしれない。

久地円筒分水で分けられる久地・溝ノ口村堀、写真の真ん中に設けられて
いるのがこの堀である。
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久地・溝ノ口村堀は川辺六ヶ村堀とともに円筒分水を出る。(久地・溝ノ口
村堀は左側)
この後、水路は住宅の裏を通り川辺六ヶ村堀と別れ、東へと進む。
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府中街道から上流方向を見た久地・溝ノ口村堀、暗渠となって流れている。
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その府中街道を渡った先、開渠となり清々しい水がそこを流れている。
残念ながら、久地・溝ノ口村堀で開渠となっているのは、ここの100メート
ルほどの区間だけだ。
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その先は再び暗渠となり、住宅街の中を進んでいく。
所々にある点検口の中を覗くと、水が音をたてて流れているが見え、水路
として生きていることを確認できるのが嬉しい。
殆ど雨水排水路と化した都市河川の暗渠と違い、用水路の暗渠はこのよ
うな楽しみがある。
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途中、右へと支堀を分けていく。
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その先もまた右へと水路を分けている。
支堀には水は供給されていない。
この辺りは殆ど宅地化されており、畑があったとしても狭い場所で、野菜
やかつての特産品であった梨が栽培されている程度であるため、農業用
水としての機能は殆ど失われている。
国登録有形文化財である円筒分水がなければ、久地・溝ノ口村堀にも水
は流れていなかったかもしれない。
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水路脇のマンションにあった地下雨水流出抑制施設の説明板。
民間の管理のようだが、民間でこのように説明しているのは珍しいかも。
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その先で暗渠道は終了、この先は普通の道路となってしまい、水路に流
れる水を目にすることはできない。
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国道246号線(厚木街道)との交差する手前、写真のような謎の空間が。
恐らく用水跡地かなにかだろうが、なぜここだけにあるのかわからない。
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国道246号線と交差後、マンションや住宅が建ち並ぶ二子1丁目の道路
を進んでいく。
先ほどまでは暗渠とはいえ、流水を確認できたのに、もう用水の痕跡はない。
(道沿いにあるコンクリート蓋は単なる排水路)
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僅かながら道が蛇行している、
ゴール地点の多摩川はもうすぐ先だ。
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そしてその先、多摩川の土手に出ると、そこには水色の水門があった。
そこは新二子橋と二子橋の中間地点、多摩川の対岸には二子玉川の街
を望むことができる。
土手沿いの自転車道には多くの自転車が往来しているが、この水門が何
者なのかを知る人はほとんどいないだろう。
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ということで久地・溝ノ口村堀を追ってきたが、最後に水門のすぐ南にある
二子神社と岡本かの子文学碑を紹介しておこう。

二子神社の創建年代は不明、武田家の旧臣、小山田兵部が当地に居住し、
天照皇大神を守護神として祠を立てたという伝承がある。
江戸時代には神明社と称し、二子宿の鎮守として敬われてたという。
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また境内には岡本かの子文学碑が建立されている。
岡本かの子(1889~1939)は『母子叙情』『老妓抄』などの作品で知られ
る小説家、幼時を二子の地で育った。
長男は大阪万博の太陽の塔などの作品で有名な岡本太郎である。
昭和37年(1962)、地元有志の発案により、岡本太郎および建築家の丹
下健三の協力を得て文学碑が建てられた。
また文学碑の脇には、文芸評論家の亀井勝一郎の文を川端康成の書に
よって記した碑も建てられている。
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神社から数分ほど歩けば、東急田園都市線の二子新地駅に行きつく。



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大丸用水押立堀

今回は大丸用水押立堀を紹介する。
資料には押立用水堀や新田堀という文字も見えるが、本ブログでは押立堀と
称することにしよう。

まず、用水を辿る前に、押立という地名から簡単に説明してみよう。
その由来は、
・多摩川の洪水で村内の水田が押し切られたことから押田、転じて押立となった。
・押立左近太夫資能がこの地に住み、鎌倉将軍家に仕えた。
・多摩川の堤防工事で人夫を大勢押し立てた。
など諸説あるという。

もともと、押立村は多摩川の北岸(現:府中市押立)にあったが、江戸時代に
度重なる洪水に襲われ、多摩川は流路を変え、南北に分断されてしまった。
それでも北側の「押立本村」と南側の「向押立」は同一の村として扱われて
いたという。
行政上、押立村が分断されたのは戦後、多摩川南岸地区の稲城村への編
入・合併の動きが強くなり、昭和24年(1949)、村議会および都議会の議決
を経て稲城村へ編入された。

南武線の南多摩駅から、菅堀沿いを歩くこと500m、菅堀から押立堀へ分
岐する箇所がある。
写真の左側が押立堀である。
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住宅沿いを流れていく押立堀、暫くは南の菅堀と並行して流れていく。
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耕整橋の手前で、末新田堀が押立堀の上を越えていく。
末新田堀は、押立堀の始点より数十メートルほど上流で菅堀から分岐、暫
くこの用水の北側を流れて、この場所で交差、再び菅堀へと水を戻す。
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田圃の脇を流れる用水、訪れた時はちょうど田植えが始まる時期であった。
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市道(いちょう並木通りと言うらしい)と交差する手前のタチアオイが綺麗だ。
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その市道を渡ったところで、右に水路を分ける。
『稲城市文化財地図』ではこの水路は新田堀一派と記載されている。
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暫くはその水路と並行するが、実はその手前、先ほどのタチアオイの先で
左に小さな水路を分けており、ここから先は押立堀を中心に3本の水路が
並行して流れているのである。

水路沿いを歩くことはできないので、迂回して水路を眺める。
草が生い茂っているため、3本の水路を同時に写すことはできないが、3
本の水路は並行して流れ続けている。
この辺りは素掘であり、大丸用水の原風景が残っているようだ。
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その先で住宅が途切れ、目の前に畑が広がる。
畑の向こうに見える道路は多摩川の土手を通っている。
ここで一度、用水は限りなく多摩川へと近づくのである。
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並行していた新田堀一派はここでお別れ、畑の手前の道路を右へと曲が
っていく。
その新田堀一派は道路沿いに暗渠で進み、大丸用水本流の菅堀へと水
を落とす。
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さすがに畑の中に入って追いかけるわけにもいかず、大きく迂回してその
先の住宅地へ足を運ぶ。
家の間を清流が流れており、清々しい。
この辺りで東長沼から押立へと入っていく。
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その先は100メートルほどの区間、暗渠となる。
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その区間を抜ける再び開渠、ちょうど季節が良かったのか水路脇にアジ
サイが咲き乱れていた。
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ここで、多摩川土手沿いにある天満天神社に立ち寄ってみた。
由緒は不明、木の茂みに囲まれた小さな祠といった神社ではあるが、昔
日の面影を残すようでかえって興味深い。
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先ほどの紫陽花脇の水路を抜けると、住宅の間、そしてその先は畑の
中を進む水路が見える。
こちらは押立堀から分かれた本田堀という水路であり、押立堀の本流
は暗渠となって左折、1ブロック先の梨花幼稚園脇から開渠となる。
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ただ、水量は本田堀のほうが明らかに多い。
事前に調べていなければ、この本田堀をそのまま追いかけてしまうだろう。
本田堀は、稲城大橋の都道を越えた後は暗渠となって進み、稲城第四
小学校の西で北堀へと合流する。

稲城大橋の南を通り、押立堀はその先も開渠となって進む。
写真奥に見える小さな小屋は、水路を跨いで建てられており面白い。
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この北に押立地区の鎮守である島守神社が鎮座する。
創建は年代不明、江戸時代には押立村の西のはずれにあったが、明治15
年(1882)、この地に遷座したという。
俗に天王様と呼ばれている。
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島守神社から東へ100メートルほど行ったところに押立の渡しの説明板がある。
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現在の稲城市押立と府中市押立町を結ぶ渡しで、人の往来や農作物の
運搬に利用されたという。
但し、多摩川の流路変更に伴い、上流もしくは下流方向へ若干の移動は
あったようだ。
昭和10年に下流の多摩川原橋が、同17年に上流の是政橋が架設され、
その昭和17年(1942)に廃止された。

押立堀は民有地に入ってしまうが、押立の渡し説明板がある市道(四中
通り)に顔を出してくる。
そこには押立堀公園という小公園がある。
公園のシンボルとして建てられているのが火の見櫓、用水が櫓の下を潜
るように建てられている。
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実はこの火の見櫓は、別の場所にあったものを平成10年(1998)にこの
地に移設したものである。
櫓の下には説明板があり、それによると押立地区では大正8年(1919)に
大火があり、翌々年に火の見櫓が設けられたという。
戦時中には鉄材供出により一時は撤去されたが、戦後、櫓が再建された。
その歴史を刻むために公園内にて保存しているようだ。

また、この押立堀公園は市民の手によって開設された公園で、近隣住民
が企画から工事まで携わった珍しい公園だという。
公園内にはこのことを報じた当時の新聞記事が貼られていた。
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公園の東、水路はいったん市道から離れ、堀沿いには遊歩道が設けられ
ているが、市立四中脇で再び道路へ出てくる。
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その後は市道の下を暗渠となって流れている。
但し、道路はきれいに整備されており、水路を感じさせるものは何もない。
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市道を400メートルほど歩いていくと、右側から別の水路が合流してくる。
これは先ほど分けた本田堀から更に分かれた支流であり、押立堀と本田
堀の間を流れている用水である。
合流後、その北側で少しだけ顔を見せるが、また暗渠となってしまう。
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鶴川街道を越えた先で、押立堀排水機場という建物があった。
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排水機場を過ぎると、押立堀はそのまま多摩川へと向かい、多摩川原橋
の下流側で多摩川へと放流される。
上流の大丸用水堰で取水してから、5kmほどの地点である。
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《参考資料》
『稲城市の歴史と文化財』 稲城市教育委員会
『稲城市文化財地図』 稲城市教育委員会



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大丸用水新堀

大丸用水菅堀から分かれて稲城長沼駅周辺を流れ、再び菅堀へと戻る
1.5kmほどの水路、大丸用水新堀を紹介しよう。
南武線南多摩駅から大丸用水親水公園沿いに歩くこと約1km、大丸地区
会館の先で、菅堀から新堀が分かれていく。(駅は稲城長沼の方が近い)
写真左側が新堀である。
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短い区間ではあるが、水路沿いに遊歩道が設けられている。
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その先の橋の脇では、宿堀からの水が流れ込んでいる。
宿堀は大堀の上流部で水を分け、南武線と交差した後は、線路北側の道
路沿いを暗渠で流れる水路である。
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その橋から西へ100mほど歩いた場所に但馬稲荷神社が鎮座する。
創建年代はわからないが、社殿の扁額には文久2年(1862)の文字が見
えるので江戸期からあった神社であろう。
赤い小さな社が印象的な神社である。
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南武線の脇まで来ると、その先は暗渠となってしまう。
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稲城長沼の南口に水が流れていない堀をみることができる。
駅南口の整備事業に伴い、流路変更が行われたためである。
現在は空堀となっているが、今後の行方が気になる。
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流路変更された水路は線路沿いにながれ、駅前広場を過ぎると、真新しい
開渠となって現れる。
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その先、新堀は再び暗渠として続いている。
所々にある点検口から水の流れを確認しながら歩いていく。
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左手に石橋供養塔や庚申塔、馬頭観世音塔などを集めた石塔群がある。
説明板などは特にないが、集められた石塔は見ごたえがある。
多摩川近くの北堀沿いにも馬頭観世音塔を集めた場所があるが、このよ
うに集められて大切に保存されているのは嬉しい。
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途中、何本か新堀からの支流が分かれていくのを目にする。
ただ、分水された支流には水は流れていないようだ。
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稲毛大橋へ続く都道と交差した先には、蔵がある旧家などもある。
この新堀に沿う道は旧川崎街道であり、かつては相応の往来があったの
かもしれない。
今は住宅地の中の道路となっており、時折、自動車が通る程度である。
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その旧川崎街道をなおも歩いていくと新堀は開渠となり、道路脇に清らか
な流れを見せる。
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道路の左側に、北を大きく迂回してきた菅堀が接近してくる。
写真左、ピンクの花が咲いている脇に菅堀が流れている。
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そこで新堀が菅堀に合流しているのが判る。
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ただ、合流の様子は水が多い農繁期よりも、水が少なく周りの緑も少ない
農閑期の方が見やすいかもしれない。
(上の写真は5月中旬、下は3月下旬の様子である。)
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ただ、道路脇の水路はさらに続き、そこを水が流れ続ける。
ここから先は新堀の支流である落堀という区間である。
資料等で予備知識がないと、依然として新堀が続いていると誤解してしま
うだろう。
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その落堀は100mほど流れると暗渠となり、南武線高架化に伴い新しく造
られた道路の下を進んでいる。
残念ながら道路下に隠れて、その様子を確認することはできない。
落堀は新設された線路沿いに進み、300メートルほど東、菅堀が南武線と
交差する箇所で合流しているようだ。
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そこは菅堀も暗渠となっている場所で、地下での合流を道路の上から想像
するしかない。
《参考資料》
『稲城市文化財地図』 稲城市教育委員会

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Author:リバーサイド
善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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