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仙台堀川 2

引き続き仙台堀川を西へと向かう。
横十間川との交差を過ぎると。横十間川から続く親水公園が西へと延びる。
水路沿いに木々が生い茂り、今までとは違った雰囲気を楽しむことができる。
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豊住橋の下を浮橋となって渡る。
橋の下に橋があるという珍しい光景だ。
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豊住橋の先には豊住魚釣場が広がる。
前篇で紹介した砂町魚釣場に続き、仙台堀川公園の中にある2つ目の魚釣場だ。
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公園内の水路は緩やかに蛇行するように進む。
もちろん元々は直線的な運河であったはずで、親水公園として整備され
た際にこのように造られたものだ。
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旧石積橋の脇に千石地蔵尊が祀られている。
これは東京大空襲によって亡くなった人々を弔うために建立されたもの。
江東地区の川沿いには慰霊碑などを見かけることが多いが、それらの
建立物を見るとこの地を襲った悲惨な事実を改めて認識させられる。
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この付近で小名木川から続いてきた仙台堀川公園は終わり、その先で
大横川と交わる。
大横川から西側は本来の仙台堀川とも言うべき、水路が続くこととなる。
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大横川の西には仙台堀川をはさむように木場公園が広がり、南北を結ぶ
ための歩行者用の木場大橋が仙台堀川を跨ぐ。
大きな斜張橋であり、この地区のシンボル的存在となっている。
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大横川の項で紹介したが、木場公園はかつての貯木場を埋め立てて大
規模公園として設けられたものだ。

改めて仙台堀川を眺めると、川幅は広い。
かつてはここを材木輸送船が行き交っていたのだろうか。
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川沿いの遊歩道を歩いていくと、北側に水門が見えてくる。
かつてこの地に流れていた福富川の水門で、昭和42年の竣工である。
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福富川は大横川と仙台堀川を結んでいた堀であり、途中で北に分岐する
堀留を持っていた。
現在は埋め立てられて東側は木場公園の一部に、西側は福富川公園
称する細長い親水公園となっている。
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こちらは本所深川絵図に描かれた福富川。
本所深川絵図福富川
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

その先で南へ平久川を分ける。
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平久川とのT字分岐の西側にある亀久橋、昭和4年(1929)竣工の頑強な
トラス橋である。
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川沿いの遊歩道脇に植えられた桜が川へ枝を伸ばす。
桜の季節には見事な風景が広がるのであろう。
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海辺橋南詰には江東区登録史跡の採茶庵跡がある。
採茶庵は松尾芭蕉の門人、杉山杉風の庵室であり、芭蕉が奥の細道の
旅に出るにあたり、芭蕉庵を手放し、しばらくの間採茶庵に滞在したという。
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海辺橋から清澄橋にかけて芭蕉俳句の散歩道と名付けられた遊歩道が続く。
奥の細道でうたわれた有名な俳句が海辺橋から順に掲げられ、楽しみな
がら歩くことができる。
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その北側には回遊式林泉庭園で有名な清澄庭園が広がっている。
かつては豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられ、享保年間
(1716~36)には下総国関宿藩主・久世大和守の下屋敷となった。
明治11年(1878)岩崎弥太郎がこの地を買い取り、三菱の社員の慰安や
貴賓を招待する場所として、深川親睦園を開園させた。
その後も隅田川から引水するなど工事を行い、明治24年に回遊式築山
林泉庭園として完成させた。
関東大震災以降、公園用地として東京市に寄贈され、昭和7年(1932)
に開園した。
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都心から近い日本庭園として、海外からの観光客も多く訪れる。

清川橋の手前で大島川西支川が南に分かれていく。
大島川西支川は仙台堀川と大横川を結ぶ900メートルほどの水路。
大島川とは大横川の旧河川名(河川法改正により大横川へ吸収)である。
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清川橋の先は清澄排水機場、隅田川ももうすぐだ。
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排水機場の脇を歩いていくと、セメント工業発祥の地がある。
明治8年(1875)、工部省が隅田川や仙台堀川の泥土を原料の一部とし
て使い、セメントの製造に成功した。
その後、浅野総一郎が買い取り、浅野セメント(現太平洋セメント)として
発展していくことになる。
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隅田川の手前には仙台堀川に架かっていた上ノ橋の親柱が保存している。
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隅田川の清州橋の下流、200メートルほどの地点で仙台堀川は終わる。
隅田川沿いの遊歩道脇に大きな水門が目印だ。
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《参考資料》
『川の地図辞典 江戸・東京23区編』 菅原健二著/之潮



目次
  
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仙台堀川 1

小名木川と隅田川を結ぶ仙台堀川を追った。
仙台堀川は寛永年間(1624~44)に開削されたとされ、江戸期は隅田川と
横十間川(大横川~横十間川間は十間川の別名で称される)を結ぶ水路
であった。
名前の由来は隅田川にほど近い上ノ橋北岸一帯に仙台藩の蔵屋敷があ
ったことによる。
江戸時代、仙台堀川は貯木場として、また木場への材木輸送路として使
用された。

一方、小名木川から横十間川までは砂町運河として東京運河土地株式
会社により開削された。
大正11年(1922)小名木川から東砂七丁目付近までの南北の一線が、
その後、昭和8年(1933)に横十間川合流点までの区間が完成した。
民間の手による運河として珍しいものであったが、戦後の昭和23年
(1948)に東京都に移管され、砂町川と称した。
昭和40年(1965)の河川法改正により砂町運河は仙台堀川の一部となった。
なお、昭和55年に埋め立てられ、現在は小名木川から横十間川まで
の3.7kmの区間は仙台堀川公園として親水公園化されている。

さて今回は小名木川からの分岐点をスタートとし、隅田川へ向かって
紹介することにしよう。
まずは小名木川との分岐点、現在、特に分岐していたことを示すものはない。
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ここから仙台堀川公園が始まる。
大横川交差地点手前まで、延長3700mほどある長い公園である。
公園には自転車道が続き、そこを行き交う自転車も多い。
大島や砂町などの街々への移動手段として利用されているのであろうか。
一般道を進むよりは安全で快適なのがよい。
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区道を横断すると左手に水路が出現する。
堀というよりは貯水路という感じで流れはない。
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ここで一旦公園を離れ、東側にある二軒の寺院を訪れてみる。
まずは日蓮宗の最勝山上妙寺、元和年間(1615~24)、大和国平方村
出身の萩兄弟がこの地を開墾、萩新田と称した。
寛永2年(1625)萩兄弟は一寺を建立、日財上人を迎え開山した。
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門前には文化10年(1813)、神田小柳町(現千代田区須田町)の商人
三名により建立された鬼子母神道道標が建っている。
上妙寺境内には鬼子母神堂があり、道標は小名木川沿いに建っていたが
昭和三十年代に当地へ移設されたという。
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その南には真宗大谷派の大護山因速寺がある。
こちらは元和9年(1623)に京橋竹町に建立、その後木挽町(現中央区銀座)、
黒江町(現江東区永代)を経て昭和2年(1927)当地の再建された。
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仙台堀川公園へ戻り更に南へと進む。
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旧境川橋の先には砂町魚釣場があり、近隣の太公望の憩いの場となっている。
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更には園内に旧大石家住宅が展示されている。
江戸時代後期の住宅とされ、安政の大地震や関東大震災などの災害に
耐えてきたようだ。
区内最古の住宅として江東区の有形文化財に指定され、平成8年に移
設復元された。
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旧大石家住宅のすぐ先で、仙台堀川は90度西へと向きを変える。
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曲がったところに砂町運河の説明板があるので、読んでおきたい。
(冒頭の説明はこの説明板から要約)
こちらはその説明板に掲げられていたかつての砂町運河の写真。
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西に向きを越えた先も南に沿って水路が続く。
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こちらは潮入りの池と名付けられた小さな池。
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明治通りの旧弾正橋の下をアンダーパスで潜る自転車道。
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その先JRの貨物線である越中島支線と交差する。
線路下の遊歩道は浮橋となっている。
なお線路沿いには仙台堀川公園から分岐するような形で南砂線路公園
という公園が続いている。
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旧弾正橋の次の松島橋では親柱が残る。
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尾高橋付近では親水化が推し進められた構造となっている。
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こちらは公園内に保存されている尾高水門の部品。
かつてこの辺りにマイターゲート式(両開き式)の水門があったという。
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北から流れてきた横十間川と交差する。
前述の通り、砂町運河として開削された区間はここまででである。
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《参考資料》
『川の地図辞典 江戸・東京23区編』 菅原健二著/之潮



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大横川 2

小名木川と交差した後、大横川は更に南下する。
前項冒頭で説明したように、ここは亥ノ堀と呼ばれていた区間である。
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途中、福寿橋という鋼製トラス橋が架かっている。
昭和4年(1929)、震災復興橋として架けられた橋で、今なお重厚な趣き
のある橋梁である。
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福寿橋の次の大栄橋の南で、今度は仙台堀川と十字交差する。
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仙台堀川と交差した先、大横川の右手には木場公園が広がる。
(公園は仙台堀川の北側にもあるが、大横川沿いからはやや離れている)
木場公園はもともと貯木場であった場所。
昭和44年(1969)、新木場への移転を受けて防災都市計画の一環として
大規模公園の設置が決まり、平成4年(1992)に開園した。
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江戸時代初期、材木置場は日本橋に設けられていたが、寛永18年(1641)
の大火により焼失、それを契機に深川に木場が設けられ、その後、猿江
を経て元禄14年(1701)、当地に移った。
以来、新木場への移転までの約300年間、木材流通の中心地として機能した。

木場公園の南端付近で、左から横十間川が合流する。
合流とはいっても、ポンプを利用して横十間川の水を大横川へと放流している。
そのため、川底から泡が湧き出しているのを見ることができる。
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この辺り、川沿いには河津桜が植えられている。
訪問時、ちょうど満開の時期であり、早春の街に鮮やかな彩りを添えていた。
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永代通りが架かる沢海橋を越すと、川は右へ90度カーブして西へと向き
を変える。
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そのカーブが終わった場所で、大横川南川支川を分ける。
支川は汐浜運河までの400メートルほどの水路、残念ながら水路沿いを
歩くことはできない。
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なお、かつては支川との分岐点付近で、東から洲崎川が合流していたが、
現在、洲崎川は埋め立てられ、川跡には洲崎川緑道公園が続いている。

支川と分岐した先の左岸に洲崎神社が鎮座している。
五代将軍綱吉の生母桂昌院の守本尊である弁財天を、元禄13年(1700)
江戸城中紅葉山より遷宮、洲崎弁天社とした。
当時は海沿いにあり、潮干狩りなど行楽の名所であったという。
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州崎弁財天社
江戸名所図会州崎 弁財天社』 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

境内には東京都指定有形文化財の波除碑がある。
寛政3年(1791)、深川洲崎一帯に襲来した高潮により、多くの死者・行
方不明者を出した。
幕府はその後、弁天社から西方一帯を買い上げ、空き地としたという。
波除碑はその空き地の北方の両端に2基建てられたもので、寛政6年頃
の建立である。
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洲崎神社からすぐ先、大横川に赤い橋が架かっている。
新田橋という名前の橋で、木場の開業医、新田清三郎氏が、亡くなった
夫人の供養の意味を込めて、昭和7年(1932)に架橋したものである。
元々は新船橋という名であったが、人望が厚い新田医師は地域の人々
から愛され、新田橋と呼ばれるようになったという。
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現在の橋は平成12年に架け替えられたものだが、以前の橋は八幡堀
遊歩道(後述)脇に移築・保存されている。
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大横川は西へと直線的に進む。
先ほどの支川分岐点あたりからは、大島川と呼ばれていた区間だ。
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今度は平久川と交差、平久川は仙台堀川と汐浜運河を南北に結ぶ水路である。
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平久川を渡ると、もう1基の波除碑が保存されている。
洲崎神社内の波除碑より破損が激しい。
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東富橋の南岸に松平定信の海荘跡に説明板がある。
寛政の改革で知られる松平定信(1759~1829)は造園家としても有名
だったようで、隠居後の文化13年(1816)に抱屋敷を入手した。
園内には二つの池を掘り、築山を配して、桜やツツジ、松や楓などの草木
を植えて楽しんだという。
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海荘の様子は『深川入船町御邸松月斎真写之図』に描かれている。
深川入船町御邸松月斎真写之図
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

ここで、少し北にある富岡八幡宮に立ち寄ってみる。
寛永4年(1627)、永代島と呼ばれていたこの地に長盛法師により創建された。
江戸時代、将軍家の手厚い保護を受け、庶民にも信仰された。
現在でも多くの参拝客で賑わいを見せる。
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富岡八幡宮の東側には八幡堀遊歩道が200メートルほど続く。
八幡堀は北を流れていた油川(現:首都高速深川線)の支堀であり、
八幡宮を取り囲むように造られていた。
震災復興事業などで埋め立てられたが、東側の一部だけ遊歩道として
整備されている。
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遊歩道の中ほどに架かっているのは八幡橋、もとは楓川(現在は首都高
速都心環状線の一部)に架けられていた弾正橋を昭和4年(1929)に移
設したものだ。
明治11年(1878)に製造された単径間アーチ形式の鉄橋であり、国の
重要指定文化財に指定されている。

大横川へと戻ろう。
東富橋から川沿いに遊歩道が設けられている。
木場公園の南から暫くは川沿いを歩けない区間が続いているので、久々
の水辺の遊歩道という感がある。
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巴橋の南に牡丹住吉神社と称する小さな祠が鎮座する。
享保4年(1719)、佃島漁民の網干場の土地が与えれれ、深川佃町と称した。
当地に佃島住吉神社から分霊した小祠を祀ったと言われる。
深川佃町はその後、「つくだ」または「あひる」と呼ばれる花柳街へと発展
し、明治維新まで繁栄した。
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石島橋の親柱は異色の存在、思わず目をひかれる。
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石島橋の先、東側には古石場川親水公園がある。
古石場川は大横川と平久川を結ぶ短い堀で、河川名の古石場は江戸時
代に石置場があったことに由来する。
古石場川は埋め立てられたが、現在、公園内には人工水路が設けられて
おり、憩いの場となっている。
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清澄通りが架かる黒船橋から西側を望む。
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越中島橋の先、左岸には古い倉庫が並んでいる。
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隅田川の手前、右から大島川西支川が合流する。
現在、支川は屋形船などの停泊地として利用されている。
仙台堀川と結ぶ800メートルほどの支堀、前項記載の通り、大島川は河
川法改正により大横川に改名されたが、なぜかここだけは旧名称が残っている。
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そして大島川水門、昭和33年(1958)、高潮の侵入などから地域を守る
ために造られた。
水門の先で大横川は隅田川へと合流する。
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《参考資料》
『ゆこうあるこう こうとう文化財まっぷ』 江東区教育委員会編
『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』 菅原健二著 (之潮)



目次
  

大横川 1

大横川は、業平橋付近で北十間川から分岐してそのまま南進し、東西線
木場駅付近で西へと向きを変え、隅田川へと達する河川(運河)である。
途中、竪川、小名木川、仙台堀川、、平久川と交差する。
江戸城から見て横に流れているため、横十間川と同様、河川名に「横」の
文字が含まれている。

明暦の大火(1657)の後、徳山五兵衛重政と山崎四郎左衛門重政は本所
奉行に任ぜられ、本所一帯を整備した。
このとき、大横川は竪川や横十間川、源森川(現;北十間川)などとともに
開削された。
このときに大横川として開削されたのは小名木川までの区間であり、その
先、木場までの区間は元禄8年(1695)に延伸された。
その年は乙亥であったため、この区間は「亥ノ堀」と呼ばれた。

一方、木場から西は大島川と称していた。
大島川のある地はもともと海岸線であったが、元禄期に南の越中島の埋
め立て整備とともに河川として成立することになる。
大島川は昭和40年施行の河川法により、大横川とまとめて呼ばれるよう
になり、今日に至る。

まずは業平橋の北側、北十間川との分岐点からスタートする。
残念ながら竪川合流地点までの区間、大横川は埋め立てられ、なおかつ
分岐部は柵で囲まれて立ち入ることができない。
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その南には船の形を模した公園管理事務所があり、長い滑り台など児童
遊具が設置され、子供たちの声が響き渡る。
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この公園の南、浅草通りに架かる業平橋は、在原業平を祀る業平天神社
(現存せず)が近隣にあったことに由来する。
業平橋は近くの東武線の駅名ともなっていたが、平成24年、「とうきょうス
カイツリー駅」と改称された。
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その業平橋から大横川親水公園が、大横川跡に続く。
30メートルほどの幅で、竪川合流地点の北まで1.7kmほど続く細長い
公園となっている。
両側にはマンションなどが立ち並ぶが、開放感がある公園である。
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こちらは水路ではなく、釣り堀。
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かつて大横川に架かっていた平川橋の一部が記念碑として残されている。
平川橋は昭和4年、関東大震災復興事業により、トラス橋で架橋された。
戦時中の金属供出のための高柵が撤去されたが、昭和27年に復旧された。
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その説明板に掲載されていた昭和50年代の大横川の様子。
写真奥に見えるのが平川橋である。
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その先、公園内に親水用の人工水路が設けられている。
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水路は園内を流路は蛇行しながら流れていく。
夏季には子供たちが水浴びをしている微笑ましい風景を見ることができる
のだろう。
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紅葉橋で、一旦公園を出て東へと向かうと、常在山霊山寺がある。
慶長6年(1601)駿河台にて創建、明暦の大火により類焼し、その後、浅
草を経て元禄2年(1689)当地に移転した。
芝の増上寺や小石川の伝通院とともに関東十八檀林(江戸初期に指定さ
れた浄土宗の学問所)と指定された古寺である。
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その南には、日蓮宗の平河山法恩寺がある。
長禄2年(1458)、太田道灌が開基となり、江戸城築城の際に江戸城の
丑寅の方向の平河村(現在の平川門の辺り)に本住院を設立、道灌の孫
資高の代に寺号を法恩寺と改めた。
その後、神田柳原、谷中清水町と移り、元禄8年(1695)に当地に移転してきた。
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南へと続く参道沿いには法泉院、陽運院、千栄院、善行院という末寺が
建ち並びちょっとした寺町となっている。
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霊山寺と法恩寺は江戸名所図会にも描かれている。
押上法恩寺霊山寺
江戸名所図会押上法恩寺霊山寺(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

大横川へ戻る。
園内にはなおも人工のせせらぎが続いている。
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途中、交差する道路脇には、先に紹介した平川橋と同様、旧橋梁の記念
碑がところどころ設置されている。
写真左は清平橋、右は長崎橋、説明板によると、長崎橋は大横川開削の
頃からあった橋で、その後幾度となく架け替えられたようだ。
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総武線の橋梁を潜り、京葉道路を望む。
なおも広い公園が続いている。
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京葉道路を越えた先、西側に五柱稲荷神社が鎮座している。
享保13年(1728)、植村土佐守正朝が京都伏見稲荷より勧請、創建した
と伝えられる。
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大横川親水公園の南端、鐘撞橋の由来を記した説明板がある。
大横川河岸には「本所時之鐘」と呼ばれる鐘撞堂があり、説明板にもその
レプリカがデザインされている。
竪川との交差辻だったので元々、北辻橋と言う名前であったが、俗称とし
て鐘撞橋と呼ばれ、その後、正式名称として改称されたという。
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そして首都高速小松川線の下を流れる竪川と交わる。
交差地点に立ち入ることはできないので、南辻橋から眺めるしかない。
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竪川交差部から、大横川は開渠となる。
ようやく本来の大横川と出会うことが出来るといった感じである。
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川沿いには遊歩道が続いており、桜が植樹されている。
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菊川橋の西岸に夢違之地蔵尊が建立されている。
昭和20年(1945)三月十日の大空襲により、この地は焦土と化し、この
周辺だけでも三千余名の殉難者が出たと言われている。
殉難者供養とともに、大空襲の惨禍を後世まで伝えるために地蔵尊が建立された。
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開渠となって900メートルほど歩くと、小名木川と交差する。
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《参考資料》
資料館ノート第72号『江東の掘割・川④ 本所の開発とふたつの大動脈』
資料館ノート第73号『江東の掘割・川⑤ 深川南部の海岸線を形成して
                      ―大島川・洲崎川―』
                      江東区深川江戸資料館編



目次
   

六間堀・五間堀

隅田川の東、竪川と小名木川を結んでいた六間堀五間堀を辿った。

下の写真は小名木川沿いの説明板に掲示されていた御江戸大絵図(天保14
年(1843))を写したものである。
写真上部が竪川、下部が小名木川、その竪川と小名木川に結んでいるのが六
間堀、途中から分かれてカクカクと曲がっているのが五間堀である。
なお、五間堀は途中で行き止まり(堀留)となっているが、明治10年(1977)
頃、付近の地主であった元尾張藩主徳川義宣により小名木川まで貫通した。
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その堀の名は、文字通り川幅が六間(10.9m)、五間(9m)であったことに
由来する。
開削年代は不明だが、寛文11年(1671)の江戸外絵図には記載されてい
るという。
竪川の開削が万治2年(1659)(小名木川はそれ以前の慶長年間)だから、
それと同時期もしくは数年後ということになるであろう、
主に船の係留・補修のための堀だと考えられているが、戦後、空襲の瓦礫
処理のために、二つの堀は埋められてしまった。
現在は住宅やビルに変わっているが、その道筋の形状や公園にその跡を
見出すことができる。

六間堀
竪川に架かる千歳橋の東側、ちょうど写真に移るアイボリーのビル付近か
ら南方向に六間堀が分かれていた。
2016-08-21_2.jpg

余談になるが千歳橋の北、ここから歩いて数分の場所に忠臣蔵で有名な
吉良邸跡の本所松坂町公園や、勝海舟生誕の地である両国公園なども
あるので、ちょっと足を延ばしてみたらいかがであろうか。

迂回していくと、六間堀の跡はは二本の道路の地に挟まれた地として残
っている。
ちょうど写真のビルがかつて六間堀があったところだ。
2016-08-21_18.jpg

六間堀右側の狭い道路を進んでいく。
下町らしい家屋に混ざって、マンションやビルなどが道の両側に建てられている。
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細い道を抜けた場所の六間堀児童公園という小さな公園がある。
ここで五間堀が東へと分かれていた。
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この公園付近の家と家との間に、かつての六間堀の護岸壁がある。
ただし、あくまでも個人宅の敷地内であるので、静かに観察することとしたい。
2016-08-21_26.jpg

児童公園から数十メートル行くと新大橋通りに突き当たる。
通りを渡った先も、2本の道路が六間堀挟むように南南西へと続く。
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六間堀跡に建てられた家々、道路の形状以外には六間堀の痕跡は無く、
ここが堀跡だと知らない住民の方もいるのかもしれない。
2016-08-21_31.jpg

堀の西側に八名川小学校が見えてくる。
小学校の北側の道を右へ曲がって数十メートルほど行くと、学校内に新大
橋の橋名板
が保存されているのを見ることができる。
先ほど渡った新大橋通りが隅田川に架かる新大橋が明治45年(1912)
に架けられた際の橋名板で、現在の新大橋(昭和52年(1977)完成)に
架け替えられるまでに橋のアーチに付けられたものだ。
なお架け替え前の新大橋の一部は愛知県犬山市の明治村に保存されて
いるらしい。
2016-08-21_34.jpg

八名川小学校の南に八名川公園という児童公園があるが、そこの公衆便
所の壁に六間堀の説明が記載されている。
このような形で旧跡の説明が記載されているのは、珍しい。
2016-08-21_36.jpg

八名川という地名が気になるが、これは元和2年(1616)、三河国八名
川村出身の旗本衆が神田八名川町(現:千代田区東神田三丁目)に屋敷
を与えられ、その後、火事により深川に一時的に移転したことに由来するもの。
明治期には深川八名川町という町名があったが、今は小学校や公園にそ
の名を残すのみとなっているらしい。

六間堀の東側には深川神明宮が鎮座する。
深川の地名の由来は慶長年間(1596~1614)、摂津国の深川八郎右衛
門ら6人が新田開拓を行ったことに由来する。
その八郎右衛門が持地内の小祠に神明を勧請したのが深川神明宮の始
まりだという。
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六間堀に戻り、更に進んでいく。
2016-08-21_46.jpg

六間堀はその先、小名木川と合流していた。
現在、その地には新小名木川水門があり、かつての形跡は認められない。
2016-08-21_48.jpg

五間堀
さて、先ほどの分岐点(六間堀児童公園)に戻り、五間堀を追うこととしよう。

五間堀は六間堀から分かれて、北東方向へと向かっていた。
清澄通りまでの区間は一般道となっている。
なお、この付近では五間堀跡が墨田区と江東区の境界線となっているの
も興味深い。
2016-08-21_51.jpg

清澄通りを渡った先には、その名も五間堀公園という公園が道路沿いに
続いている。
2016-08-21_55.jpg

五間堀公園は堀跡上に造られた100メートルほどの公園である。
公園の東側には、五間堀の説明板も設置されている。
2016-08-21_56.jpg

五間堀公園の南側には曹洞宗寺院の長慶寺がある。
寛永7年(1630)の創建、万治3年(1660)に本所奉行の徳山重政が寺
地を除地(年貢諸役を免除された土地)としたため、重政を中興開基とす
るという。
現在の長慶寺は鉄筋コンクリート造となり、残念ながた古刹という雰囲気
ではない。
2016-08-21_69.jpg

五間堀は、公園の東側でほぼ直角に曲がっていた。
その曲がる場所には小さな祠の大久保稲荷神社が鎮座する。
この地は大久保豊後守の中屋敷であり、その屋敷神が当神社の由来である。
2016-08-21_61.jpg

南東方向へ向きを変え、堀沿いの道路が新大橋通り方面へと続いている。
2016-08-21_64.jpg

その新大橋通り沿いに菊一児童遊園という小公園がある。
ここの公衆便所も前述の八名川公園同様にユニークなもので、こちらには
江戸時代の近辺の風景が描かれている。
先に説明した長慶寺や大久保豊後守中屋敷とともに、五間堀が描かれている。
2016-08-21_70.jpg
この絵を見ると現在の新大橋通りには、伊予橋という橋が架かっていたようだ。

通りを越えて、更に南東方向へと向かう道路を辿っていく。
2016-08-21_77.jpg

150mほど行くと通りはカクっと曲がっている。
五間堀もここで再び東へと向きを変える。
2016-08-21_79.jpg

その先の交差点付近、冒頭で紹介したように江戸期にはここが五間堀の
堀留となっていたようだ。
2016-08-21_79.jpg

この先は明治以降に掘り進められた水路、南の小名木川を目指して進んでいく。
そして、小名木川北側の都営住宅の敷地を通り…。
2016-08-21_82.jpg

五間堀も小名木川へと合流、西深川橋と東深川橋の間の地点である。
2016-08-21_86.jpg

《参考資料》
『資料ノート 小名木川と五間堀・六間堀』 江東区深川江戸資料館
『ゆこうあるこう こうとう文化財まっぷ』 江東区教育委員会



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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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