六間堀・五間堀

隅田川の東、竪川と小名木川を結んでいた六間堀五間堀を辿った。

下の写真は小名木川沿いの説明板に掲示されていた御江戸大絵図(天保14
年(1843))を写したものである。
写真上部が竪川、下部が小名木川、その竪川と小名木川に結んでいるのが六
間堀、途中から分かれてカクカクと曲がっているのが五間堀である。
なお、五間堀は途中で行き止まり(堀留)となっているが、明治10年(1977)
頃、付近の地主であった元尾張藩主徳川義宣により小名木川まで貫通した。
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その堀の名は、文字通り川幅が六間(10.9m)、五間(9m)であったことに
由来する。
開削年代は不明だが、寛文11年(1671)の江戸外絵図には記載されてい
るという。
竪川の開削が万治2年(1659)(小名木川はそれ以前の慶長年間)だから、
それと同時期もしくは数年後ということになるであろう、
主に船の係留・補修のための堀だと考えられているが、戦後、空襲の瓦礫
処理のために、二つの堀は埋められてしまった。
現在は住宅やビルに変わっているが、その道筋の形状や公園にその跡を
見出すことができる。

六間堀
竪川に架かる千歳橋の東側、ちょうど写真に移るアイボリーのビル付近か
ら南方向に六間堀が分かれていた。
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余談になるが千歳橋の北、ここから歩いて数分の場所に忠臣蔵で有名な
吉良邸跡の本所松坂町公園や、勝海舟生誕の地である両国公園なども
あるので、ちょっと足を延ばしてみたらいかがであろうか。

迂回していくと、六間堀の跡はは二本の道路の地に挟まれた地として残
っている。
ちょうど写真のビルがかつて六間堀があったところだ。
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六間堀右側の狭い道路を進んでいく。
下町らしい家屋に混ざって、マンションやビルなどが道の両側に建てられている。
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細い道を抜けた場所の六間堀児童公園という小さな公園がある。
ここで五間堀が東へと分かれていた。
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この公園付近の家と家との間に、かつての六間堀の護岸壁がある。
ただし、あくまでも個人宅の敷地内であるので、静かに観察することとしたい。
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児童公園から数十メートル行くと新大橋通りに突き当たる。
通りを渡った先も、2本の道路が六間堀挟むように南南西へと続く。
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六間堀跡に建てられた家々、道路の形状以外には六間堀の痕跡は無く、
ここが堀跡だと知らない住民の方もいるのかもしれない。
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堀の西側に八名川小学校が見えてくる。
小学校の北側の道を右へ曲がって数十メートルほど行くと、学校内に新大
橋の橋名板
が保存されているのを見ることができる。
先ほど渡った新大橋通りが隅田川に架かる新大橋が明治45年(1912)
に架けられた際の橋名板で、現在の新大橋(昭和52年(1977)完成)に
架け替えられるまでに橋のアーチに付けられたものだ。
なお架け替え前の新大橋の一部は愛知県犬山市の明治村に保存されて
いるらしい。
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八名川小学校の南に八名川公園という児童公園があるが、そこの公衆便
所の壁に六間堀の説明が記載されている。
このような形で旧跡の説明が記載されているのは、珍しい。
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八名川という地名が気になるが、これは元和2年(1616)、三河国八名
川村出身の旗本衆が神田八名川町(現:千代田区東神田三丁目)に屋敷
を与えられ、その後、火事により深川に一時的に移転したことに由来するもの。
明治期には深川八名川町という町名があったが、今は小学校や公園にそ
の名を残すのみとなっているらしい。

六間堀の東側には深川神明宮が鎮座する。
深川の地名の由来は慶長年間(1596~1614)、摂津国の深川八郎右衛
門ら6人が新田開拓を行ったことに由来する。
その八郎右衛門が持地内の小祠に神明を勧請したのが深川神明宮の始
まりだという。
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六間堀に戻り、更に進んでいく。
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六間堀はその先、小名木川と合流していた。
現在、その地には新小名木川水門があり、かつての形跡は認められない。
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五間堀
さて、先ほどの分岐点(六間堀児童公園)に戻り、五間堀を追うこととしよう。

五間堀は六間堀から分かれて、北東方向へと向かっていた。
清澄通りまでの区間は一般道となっている。
なお、この付近では五間堀跡が墨田区と江東区の境界線となっているの
も興味深い。
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清澄通りを渡った先には、その名も五間堀公園という公園が道路沿いに
続いている。
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五間堀公園は堀跡上に造られた100メートルほどの公園である。
公園の東側には、五間堀の説明板も設置されている。
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五間堀公園の南側には曹洞宗寺院の長慶寺がある。
寛永7年(1630)の創建、万治3年(1660)に本所奉行の徳山重政が寺
地を除地(年貢諸役を免除された土地)としたため、重政を中興開基とす
るという。
現在の長慶寺は鉄筋コンクリート造となり、残念ながた古刹という雰囲気
ではない。
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五間堀は、公園の東側でほぼ直角に曲がっていた。
その曲がる場所には小さな祠の大久保稲荷神社が鎮座する。
この地は大久保豊後守の中屋敷であり、その屋敷神が当神社の由来である。
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南東方向へ向きを変え、堀沿いの道路が新大橋通り方面へと続いている。
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その新大橋通り沿いに菊一児童遊園という小公園がある。
ここの公衆便所も前述の八名川公園同様にユニークなもので、こちらには
江戸時代の近辺の風景が描かれている。
先に説明した長慶寺や大久保豊後守中屋敷とともに、五間堀が描かれている。
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この絵を見ると現在の新大橋通りには、伊予橋という橋が架かっていたようだ。

通りを越えて、更に南東方向へと向かう道路を辿っていく。
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150mほど行くと通りはカクっと曲がっている。
五間堀もここで再び東へと向きを変える。
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その先の交差点付近、冒頭で紹介したように江戸期にはここが五間堀の
堀留となっていたようだ。
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この先は明治以降に掘り進められた水路、南の小名木川を目指して進んでいく。
そして、小名木川北側の都営住宅の敷地を通り…。
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五間堀も小名木川へと合流、西深川橋と東深川橋の間の地点である。
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《参考資料》
『資料ノート 小名木川と五間堀・六間堀』 江東区深川江戸資料館
『ゆこうあるこう こうとう文化財まっぷ』 江東区教育委員会



目次
   
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小名木川 2

引き続き小名木川を東へ向かって歩いていく。
川の両岸に遊歩道が続き、散策を楽しむ近隣住民の方も多い。
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四ツ目通りが架かる小名木川橋の北詰には五本松跡と五百羅漢道標がある。
江戸時代、北岸の九鬼家の屋敷に老松があり、三代将軍家光が感嘆した
こともあって小名木川五本松として小名木川の名所となった。
芭蕉も「川上と この川しもや 月の友」という句を詠んでいる。
残念ながら、明治末期に松は枯死してしまった。
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こちらは江戸名所図会に描かれた五本松、芭蕉の句も添えられている。
小名木川 五本松
江戸名所図会小名木川五本松』 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

そして現地の説明板に掲載されている明治時代の写真。
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前掲の写真左端に写っているのが五百羅漢道標、もともとは50mほど東
にあった庚申堂の前に建てられていた。
大島の五百羅漢寺と亀戸天神への道を示したもの。
五百羅漢寺は明治41年(1908)に目黒へ移転、羅漢寺川の名前の由来
ともなっている。(羅漢寺川参照)
道標の建立年代は不明だが、三回ほど再建され、現在の道標は文化2年
(1805)に再建されたもの。

小名木川橋から300メートルほど行くと、横十間川と交差、その交差箇所
には小名木川クローバー橋が架かる。
以前に記載した横十間川の項ではパノラマ写真を掲載してみたが、今回
は四方を撮影・掲載してみた。
上部は小名木川(左:西方向、右:東方向)、下部は横十間川(左:北方向、
右:南方向)である。
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クローバー橋から更に東へと歩くと、越中島支線というJRの貨物線の鉄
橋がある。
かつては、この南には小名木川駅という貨物駅があったが、平成12年
(2000)に廃止され、跡地はショッピングモールなどへと再開発された。
現在は越中島貨物駅から1日数往復程度、レール輸送の工事臨時列車
が走る程度となっている。
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鉄橋の先、南岸沿いに釜屋の渡し跡の説明板がひっそりと建っている。
上大島村(大島1丁目)と八衛門新田(北砂1丁目)を結ぶ営業渡船で、
北岸に鋳物師、釜屋六右衛門・釜屋七右衛門の鋳造所があったことが
その名の由来となっていたようだ。
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明治通りが架かる進開橋から撮影した小名木川の風景。
前項で説明した通り、内部河川の水位は引き下げられたが、橋の高さは
そのままであるので、橋は水面から高い位置にあり、見通しがよい。
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この辺りの遊歩道は小名木川が行徳の塩の運搬を目的として開削され、
塩の道とも呼ばれていたこたことに因み、小名木川しおのみちと名付けら
れている。

その遊歩道(南側)には、かつてのかさ上げ護岸が保存・展示されている。
地下水の汲み上げを原因とした地盤沈下により、小名木川の護岸は幾度
か嵩上げを繰り返した。
その嵩上げにより護岸は脆弱化し、大地震発生時には護岸崩壊の危険性
も懸念された。
内部河川の水位低下対策も、このかさあげ護岸への対応という一面もあっ
たようだ。
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丸八橋から東を見ると、小名木川の終点である旧中川との合流点、そして
その先の大島小松川公園の丘が見渡せる。
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その丸八橋の北詰に大島稲荷神社が鎮座する。
慶安年間(1648~52)の創建と伝えられ、当時、小名木川や近くの海辺
が津波に襲われ、耕地が荒廃し、悪疫が流行ったため、村人が伏見稲荷
の分霊を祀ったのが始まりという。
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境内には芭蕉像とともに女木塚句碑(写真左)が保存されている。
これは、元禄5年(1692)、芭蕉が深川から小名木川を川下りする途中、
当神社に立ち寄り、境内から川を眺めながら次の句を詠んだことに因むという。
秋に添て 行はや末は 小松川
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右岸に仙台堀川を分ける。
ただ、横十間川から東側は殆ど埋め立てられ、現在は仙台堀川公園とな
っている。
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小名木川の北に慶長15年(1610)創建の真言宗寺院、稲荷山宝塔寺がある。
境内には「塩舐め地蔵」と呼ばれる地蔵があり、現地の説明板に石井某
によって小名木川から掘り出されたと伝えられ、宝塔寺に治められたと
伝えられるという。
小名木川の開削と宝塔寺の開創がほぼ同時期であるため、小名木川開
削中に発掘され、宝塔寺に安置されたものと思われる。
供えられた塩をつけるとイボが取れると言われ、疣取り地蔵とも呼ばれる
ほか、商売繁盛、航海安全の御利益にも授かるとされる。
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現在でも地蔵の脇には塩の袋が積まれているのが印象的だ。

さて、小名木川は旧中川にT字交差して終了する。
以前はこの先、新川が更に東へと延びていたが、昭和5年(1930)、荒川
放水路の開削により分断、その後も小松川閘門・小名木川閘門で荒川と
の間を結んでいたが、地盤沈下や舟運の衰退により昭和50年代に閉鎖、
現在は荒川との間に防災市街地再開発事業の一環として設置された
立大島小松川公園
が存在する。
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旧中川との交差部の北側には、中川船番所があった。
前項で述べたように、寛文元年(1661)、隅田川側の萬年橋脇の深川口
人改之御番所から移転、明治2年(1869)に廃止されるまで、江戸に出入
りする船舶の監視・取り締まりが行われた。

こちらは江戸名所図会に描かれた中川船番所。
中河口
江戸名所図会中河口』    (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

今、その跡には旧中川・川の駅という休憩施設と中川船番所資料館が建っている。
資料館には中川船番所のほか、江戸の水運に関する展示があり、ジオラマ
などもあって楽しめる。
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小名木川を歩いた後、川の駅で足を休め、資料館で知識を深めるというの
もいいかもしれない。

《参考資料》
『ゆこうあるこう こうとう文化財まっぷ』 江東区教育委員会編



目次
   

小名木川 1

小名木川は隅田川と旧中川を結ぶ4.64kmの運河である。
途中、大横川および横十間川と交差する。

徳川家康は江戸入府直後、行徳の塩を江戸に運ぶために運河を開削させた
と言われ、それが現在の小名木川である。(旧中川以東は新川(行徳川))
当時、塩を輸送するためには海沿いに運搬するしかなかったが、江戸川など
の河口部の潮流や暴風雨による危険を避けて、安定した水路の確保が必要
だった。
開通した年は正確にはわからないが、既に慶長年間(1596~1615)には開
削されていたという。
川名の由来は開削を担当した代官、小名木四郎兵衛の名前からとも、「ウナ
ギザヤ」という地名からとも言われる。

小名木川が果たした役割は大きい。
北海道(松前藩)や東北地方から江戸へ物資を運ぶ輸送路として、東廻り航
路が設定されたが、航路は利根川・江戸川を経由してこの小名木川を通り、
江戸へと至った。
そのため小名木川沿いには船番所(後述)が設けられ、水路を往来する人
や物資のチェックが行われている。

隅田川から東へ向かって、河川沿いの史跡などを紹介しながら辿ることにしよう。

まずは隅田川からの入口にある芭蕉庵史跡展望庭園から訪ねてみる。
公園には隅田川へ向かって芭蕉像が建てられ、隅田川クルーズなどで
ご覧になった方も多いことだろう。
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松尾芭蕉は延宝8年(1680)、37歳の時に日本橋小田原町からこの地に
移り住み、元禄7年(1694)までの15年間、当地に居住した。
門人杉風が所有していた生簀の番小屋草庵の提供を受け、深川芭蕉庵
として営まれた。
有名な句、「古池や蛙飛びこむ水の音」は蕉庵で催した発句会で詠まれ、
「おくの細道」の旅もここから旅立った。
なお芭蕉の死後の元禄10年(1697)、この地は松平遠江守の屋敷となり、
芭蕉庵は深川森下町へ移築されている。
芭蕉庵
江戸名所図会芭蕉庵』   (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

公園から見た隅田川、清州橋の向こうに箱崎のビル群を望むことができる。
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展望庭園から数十メートルほどの所に芭蕉稲荷神社がある。
これは大正6年(1917)、この地から芭蕉愛好の石造の蛙が発見され、同
10年、芭蕉稲荷を創建したという。
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その手前に正木稲荷神社が鎮座する。
創建年代は不明だが、文久2年(1862)の江戸切絵図「本所深川絵図」に
記載されていることから、江戸期には存在していたようだ。
昔、柾木の大木のがあったことから、神社の名の由来となった。
また柾木の果が腫れ物によく効くことから、できものの治療祈願として、女
性の参拝が多かったという。
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芭蕉稲荷の東側に、小名木川1番目の橋である萬年橋が架かる。
現在の橋梁は昭和5年(1930)に架けられたタイドアーチ橋であり、美しい
形をしている。
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この萬年橋の北に川船番所跡(深川口人改之御番所)の説明板がある。
前述の通り、江戸へと入口として、小名木川を通る船に搭乗する人や積
載荷物を検査した番所であり、いわゆる川の関所である。
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番所の創建年は不明だが、正保4年(1647)には川番に任命が行われて
いることから、それ以前に造られたことがわかる。
明暦の大火(1657)の後、江戸市街地の拡大や本所の堀割の完成を受け
て、番所は小名木川の反対側の入口である中川口の中川番所(次項参照)
へと移転された。

萬年橋から東側を見ると新小名木川水門が見える。
この左側(北側)には、以前、六間堀という堀割が分かれ、竪川へと通じて
いたが、戦後の瓦礫処理で埋められてしまった。
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次の高橋まで、南側の道路沿いに歩いて2つの神社を訪れてみよう。
まずは深川稲荷神社、寛永7年(1630)の創建で、旧町名の西大工町に
因み、西大稲荷という俗称で呼ばれていたという。
深川稲荷神社は深川七福神の布袋尊とされている。
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その東側には小さな三穂道別稲荷神社が鎮座する。
慶長元年(1596)創建と伝えられる。
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小名木川南岸は海浜に面しており、この辺りには船大工が多く住んでいた
ことから、「海辺大工町」と呼ばれていたという。

小名木川沿いには一部の区間を除いて遊歩道が設けられており、川沿い
を歩くことができる。
付近住民の散策やジョギングなどの場として利用されている。
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やはり川沿いを歩くのは気持ちがよい。
川面を渡る風を浴びながら歩くのは楽しいものである。
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新高橋を過ぎると、南北に流れる大横川と交差する。
大横川の北方面を見ると、遠くにスカイツリーを望むことができる。
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大横川との交差箇所の東、新扇橋の北詰に猿江船改番所跡の説明板が
ひっそりと建っている。
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その説明板によると、元禄から享保期(1688~1736)、ここには中川番所
の出先機関である猿江船改番所が設置されていたという。
さきほど説明したように、江戸への物資輸送を取り締まるために川船番所
が設けられたが、この船改番所はそれとは別に川船行政を担当する機関
であったようだ。
江戸を出入りする船には極印が打たれ、年貢・役銀が課せられていた。
船を新造や売買した場合には届け出が義務づけられており、船改番所
の仕事は船稼ぎを統制し、年貢・役銀を徴収したり、川船年貢手形や極
印の検査を行うことだったそうである。

さて新扇川の先には、大きな水門がある。
新扇橋と小松橋との間に、小名木川の名所ともいえる扇橋閘門である。
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江東地区では地下水の汲み上げを主因とする地盤沈下により、いわゆる
江東デルタ地帯というゼロメートル地帯が生じ、たびたび洪水や高潮の被
害に見舞われることとなった。
その対策として、江東東部の内部河川では水位を下げて一定に保つ(A.P.
-1.0m)という対策がとられた。
当然のことながら、外部とは水位差が生じ、船舶の航行に障害が生じる
ことになる。
そこで約5年の歳月をかけて、昭和52年(1977)に閘門施設が造られた。

閘門の仕組みは、船を中(閘室)に入れて扉を閉め、閘室内の水位を上
下させるというもので、パナマ運河で採用されている方式と同様のものである。
閘門脇の説明板に描かれた絵を掲載しておこう。
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外からでは残念ながら閘門内の様子を伺うことはできない。
毎年8月の土日には見学会(無料)が開催されるので、ご覧になりたい方
は東京都のホームページをチェックすることをお勧めする。
下の写真は以前、見学会に訪れた際の写真である。
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閘門によって川沿いを歩けなくなるため、ここは迂回をしなければならない。
北側への迂回の途中、閘門の北東に猿江神社が鎮座する。
創建年代は不明、源頼義・義家による奥州討伐(前九年の役(1051~
62)で活躍した猿藤太という武将の屍が附近の入江に漂い着き、村人が
丁重に葬ったことに始まるという。
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なおこの地の猿江という地名は、猿藤太の「猿」と入江の「江」を結合して
付けられたとのことである。

小名木川へと戻り、水位が下がった川を更に東へと辿っていく。
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《参考資料》
『資料ノート 小名木川と五間堀・六間堀』 江東区深川江戸資料館編
『ゆこうあるこう こうとう文化財まっぷ』 江東区教育委員会編



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横十間川 2

引き続き、横十間川沿いには「水辺の散策路」という散策道が続く。
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大島橋の先、一風変わった橋が見えてくる。
小名木川との交点に架かる小名木川クローバー橋で、四方の川岸からX字状に
架けられた歩行者自転車専用橋である。
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橋の中央に立つと、横十間川、小名木川の両方を見渡すことができ、東京スカイ
ツリーも遠くに望むことができる。
撮影した写真をつなげてパノラマ化してみた。(クリックで4方向表示)
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前項で記載した通り、ここまでが当初(万治2年)に開削された区間であり、ここか
ら先は元禄期に延長された区間である。

クローバー橋を渡ると、大横川水門があり、水が排出されている。
おそらく親水公園内の池の水を排出しているのではないだろうか。
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水門の南側から、横十間川親水公園が始まる。
大横川への合流点まで約2km続く、細長い公園である。
この付近では水上フィールドアスレチックなどもあり、子供たちの良き遊び場となっている。
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清州橋通りが架かる岩井橋、清州橋通り沿いにはかつて境川と呼ばれる堀が存
在していたという。
小名木川から分岐して、中川(現、荒川放水路)へと流れていたという。
昭和5年(1930)に埋め立てられて、道路となった。
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そしてこの岩井橋については、鶴屋南北作『東海道四谷怪談』における第三幕
「砂村隠亡堀の場」の舞台となったところであるという。
作品中で、戸板にくくりつけられた、お岩さんと小仏小平が流れついた場所がこの
岩戸橋の辺りであるという。
この作品自体はフィクションであるが、「不貞をはたらいた男女が一枚の戸板に釘
づけにされて神田川に流された話」「心中者の死体が砂村に流れ着いて大騒動
となった話」を下地にして書かれたものという。

公園をさらに進むとボート池と称する水路が見えてくる。
普段はボートが貸し出されているが、和船友の会による和船乗船体験が行われ
ている日もある。
無料で乗船できて、昔ながらの和船を体験できるのが嬉しい。
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なお、体験会開催日は開催期日が限定されているので、江東区のサイトで日時
を確認してから訪れることをお勧めしたい。

その先、今度は仙台堀川と交差する。
交差地点には、「野鳥の島」と称する島があり、小名木川のときのように両河川を
同時に見渡すことは難しい。
周囲も木々が植えられ、鳥のさえずりも多い。
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旧豊砂橋で葛西橋通りをアンダークロスした後も、さらに親水公園は続く。
公園には池があるが、上流側とはつながっていない。
旧豊砂橋近くに水車のオブジェから、水が供給されているようだ。
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横十間川はこの付近で向きを南から西へと転じ、合流する大横川を目指す。
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その先で再び水流が復活するが、こちらは下水道局木場ポンプ所から放流されて
いる処理水であろう。
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横十間川沿いに再び散策路が続く。
散策道は周囲より数メートルほど高い場所に設けられており、ここが江東ゼロメー
トル地帯であることを実感できる場所でもある。
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平住橋が架かる場所に旧橋の橋名板が保存された記念碑がある。
説明文によると、平住橋は関東大震災の復興事業として、昭和4年(1929)
に架橋されたもの、その後、周囲の地盤沈下に伴い護岸の嵩上げが必要に
なり、昭和34年(1959)に架け替えられ、太鼓橋のような形状になったという。
現在の橋梁は、急勾配解消のために平成21年に架け替えられた。
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更には、その先、富士見橋においても旧橋の鋼材を利用したベンチが設置されている。
このように旧橋がなんらかの形で残され、かつて橋や木場として賑わった川の風景
を紹介する試みは、後世に土地の記憶を伝えるものとして大いに評価したい。
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富士見橋の先で、横十間川は大横川へと合流する。
横十間川への逆流を防ぐためなのか、横十間川を流れてきた水を一度地下へ落
とし、ポンプを利用して大横川へ放流するという形がとられているようだ。
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《参考資料》
『資料館ノート 江戸近郊農漁村の掘割』 江東区深川江戸資料館編


  
目次
  

横十間川 1

北十間川から分岐して、江東区を南北に流れる横十間川(延長=3.66km)を
取り上げる。

横十間川の名前は、江戸城方向から見て横に流れていたこと、そして川幅が十間
(約18m)であったことに由来する。
小名木川との交差付近に釜六・釜七という著名な鋳物師が住んでいたことから
「釜屋堀」とも呼ばれたという。

横十間川が開削されたのは万治2年(1659)のことで、徳山五兵衛重政と山崎四
郎左衛門重政によって開削された。
翌年の万治3年、徳山重政と山崎重政両名は、新たに設置された本所奉行の職
任命され、本所一帯の掘割の整備、湿地の埋立てなどを任務とした。
但し、このときの開削は小名木川以北であり、小名木川以南に延伸されたのは、
元禄14年(1701)のことであったという。

横十間川は、北十間川に架かる十間橋の50mほど東側から南へと分岐して始まる。
東京スカイツリーからも700mほどの地点であり、ツリーも大きく望める。
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北十間川の項でも取り上げた歌川広重の名所江戸百景柳しま』を取り上げてみよう。
北十間川と横十間川が交差している場所が描かれ、横十間川に架かる橋は柳
島橋である。
遠くに描かれているのは筑波山、但し方角からするとこの位置には筑波山は望めない。
川の分岐点脇に描かれている建物は「橋本家」という当時の高級料亭とのことだ
が、風光明媚を表現するために、広重はこの位置に筑波山を配したのだろう。
柳島
        (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

江戸名所図会の左端に描かれているのは柳嶋妙見山法性寺、現在でも柳島
橋脇に存在する。
明応元年(1492)建立の日蓮宗寺院であり、江戸期には霊験著しく柳島妙見
と呼ばれ、参詣者も多かったという。
本堂は新しくなっているが、境内には同寺に信仰のあった葛飾北斎や近松門左
衛門の供養碑などがある。
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横十間川を南下していこう。
川とは言っても、もともとは開削された堀(人工河川)であり、仙台堀川との交差
までは直線である。
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分岐点から250mほどいくと、左岸に天台宗の慈雲山龍眼寺がある。
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応永2年(1395)の創建と伝えられ、元禄の頃、全国から萩を集めて多くの萩が
植えられていたことから、「萩寺」として呼ばれて親しまれた。
その様子は江戸名所図会にも描かれている。
現在では、亀戸七福神の布袋尊として親しまれ、参拝客も多い。
また境内にある庚申塔(写真手前)は万治2年(1659)の造立で江東区内最古
のものである。
龍眼寺
江戸名所図会龍眼寺』  (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

その先に今度は臨済宗の瑞亀山長寿寺がある。
臨済宗の寺院で、創建は文明元年(1469)、もとは柳島円命寺と称した。
その後、南本所川端や本所石原町へ移転の後、元禄4年(1691)、当地に戻
ってきたという。
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そして、蔵前橋通りが横十間川に架かる天神橋に達する。
亀戸天神至近の天神橋とあって、欄干にも意匠がこらされている。
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さきほどから寺社紹介が続いて恐縮ではあるが、亀戸天神社を紹介しないわけに
はいかないだろう。
寛文2年(1662)、菅原道真公ゆかりの飛び梅の枝で天神像を創り、祀ったのが
創建と言われる。
湯島、谷保とともに関東三天神の一社とされ、学業成就の祈願に多数の参拝客
が訪れるころで有名だ。
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江戸名所図会にも横十間川や天神橋が描かれている。
亀戸宰府天満宮其二
江戸名所図会亀戸宰府天満宮 其二』  (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

天神橋南側付近からの光景。
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やがてJR総武線と交差する。
その手前には、ちょっとしたテラスがあり、ベンチが設置され休憩することもできる。
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JR線と交差した後は、首都高速7号線と交わる。
首都高の下には竪川が流れ、かつては横十間川と竪川の交差地点という風景
が見られたのであろうが、今は竪川は暗渠となりその面影を想像するのは厳しい。
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清水橋を東へ行くと、住宅街の中に大島愛宕神社が鎮座する。
創建年代は不明、もと本所中之郷(墨田区)の成就寺境内に祀られていたもの
を、村民の移住とともに当地に遷座したものだという。
小林一茶が40代前半の一時期、愛宕神社に仮住まいしていたとされ、境内には
一茶の句碑も設置されている。
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先ほどの首都高辺りから、横十間川の川沿いには水辺の散策路と称する木造
の遊歩道が設置されている。
遊歩道には散策する付近住民のほか、亀戸・錦糸町方面へ往来する自転車が
通り、往来は激しい。
川の西側に広がる公園は猿江恩賜公園である。
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その猿江恩賜公園、もとは猿江貯木場で享保18年(1733)に幕府の材木蔵
として造られたのが始まりで、明治以降は皇室の御用材の貯木場として御木蔵
と呼ばれていたという。
現在は14.5haの大きな公園として、区民に親しまれている。
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《参考資料》
『資料館ノート 本所の開発とふたつの大動脈』 江東区深川江戸資料館編
『ゆこうあるこう こうとう文化財まっぷ』 江東区文化観光課編


  
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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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