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大泉堀

大泉堀(だいせんぼり)は、西武池袋線ひばりヶ丘駅の南西付近を水源とし、
西武線の北側を流れる白子川の支流である。
その名は下保谷天神社の西、坊ヶ谷戸(北町6丁目付近)があった大泉坊と
いう寺院に由来する。
また大泉堀は「下保谷のシマッポ」とも称されていた。
現在、大泉堀は全て暗渠となっているが、暗渠蓋の歩行者道が続き、容易
に辿ることができる。

大泉堀の谷頭は西東京市住吉町3丁目、すみよし保育園の西側付近であ
ったという。
おそらく、昔は農地が広がり、小さな流れが始まっていたのかもしれない。
ただ、現在、周辺は住宅地となっており、水流の痕跡を探すことはできない。
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大泉堀の流路が現れるのは、その西側にある西武線踏切の北、緑色に塗
色された暗渠蓋の歩行者道路が始まる。
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西東京市栄町の住宅街を進んでいく緑の暗渠。
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その先、100mほど一般道と並行する。
残念だが、緑の塗装はこの手前で終わってしまう。
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暗渠沿いには空き地などが点在し、昔日の大泉堀を彷彿とさせる風景も展開する。
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二つの都道(234号線旧道、25号線)と交差し、大泉堀は更に東へ進む。
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暗渠蓋の間にあるグレーチングから中を覗くと水の流れが確認できた。
どこかの湧水が流れ込んでいるのだろうか。
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伏見通りとの交差箇所では、僅かな高低差を確認できる。
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その先、大泉堀の北側には下保谷天神社が鎮座している。
天正年間(1573~91)の創建と伝わり、下保谷村の総鎮守であった。
明治元年(1868)の神仏分離までは、日蓮宗が守護神として崇敬する三
十番神を祀り、福泉寺(後述)を別当寺としていた。。
明治以降は天神社を名乗り、現在に至る。
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下保谷3-2で南からの宮ノ脇川を合流する。
宮ノ脇川の下流には暗渠蓋が続く水路(立ち入ることはできない)となって
いるが、上流部は住宅やマンションが建ち。水路を辿ることは難しい。
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下保谷の住宅街を進んでいく大泉堀。
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保谷駅の北に日蓮宗の保谷山福泉寺がある。
天正14年(1587)、日眼上人による開山とされる。
前述の天神社にあった三十番神神像はここに移され、現在は西東京市の
指定文化財となっている。
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更には大泉堀の北側には新井山大乗院があり、こちらも日蓮宗の寺院である。
永徳2年(1382)に遷化した日讃上人の開山とされる古刹で、妙福寺
白子川1参照)の塔頭であった。
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下保谷に日蓮宗の寺院が多い理由は、中世に各宗派の布教活動が多く
行われ、日蓮宗は妙福寺を活動拠点としてこの辺りに布教していったとい
う経緯がある。
中世期には、既に下保谷に人々が居住していた証拠であり、彼等は大泉
堀を流れる水を生活の糧としていたことが判る事象であろう。

大乗院の南で、西東京市から練馬区へと入る。
練馬区へと入り、500メートルほど歩くと、大泉第四小学校に行く手を遮られる。
水路に隣接した土地を利用して学校が建設される例はよくあるが、この
小学校もその類いであろう。
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小学校を迂回すると、再び大泉堀の暗渠の通路が続いている。
その先で南側から野水(小さな水の流れ)が合流する。
野水の跡には歩行者用通路が整備され、南大泉6-10付近まで辿るこ
とができる。
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大泉堀の北に並行する一般道には、「丸山東橋」「小泉橋」といった交差
点があり、かつての橋の名が交差点名として残っている。
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道路との交差箇所にある車止め。
水路の歩行者道と道路との間には数十センチほどの段差が生じている。
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白子川へ合流する手前、200メートルほどの区間では、歩行者道が突然
広くなっている。
ここでは歩行者や自転車の交通量が多く、大泉学園駅北口への周辺住
民の通路として活用されているようだ。
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その途中、またもや野水が南から合流する。
この野水は保谷駅の北東部を水源とし、妙福寺の境内脇を流れていた
1km以上の長い水路である。
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行く手に白子川の柵が見えてきた。
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大泉堀は宮の橋の上流付近で白子川へと合流する。
白子川の左岸には大きな吐口を確認することができる。
僅かに水が出ているのを確認できる程度だが、大雨時などは排水路とし
ての役目を担っているのであろう。
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《参考文献》
『白子川を知っていますか -水辺再生に向けて-』 白子川汚濁対策協議会編
『歴史のなかの田無』 増渕和利著



目次
  
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百々向川

光が丘公園北側の赤塚新町3丁目付近を水源とし、成増駅付近を通り、旧
白子川へと流れていた百々向川を紹介する。
この百々向川、難読地名ならぬ河川名であり「すずむきがわ」と読む。
百々女木川(すずめきがわ)とも称される。
現在は全区間が暗渠であるが、もともと水量は少ない川で、雨が降ると水
量が増すという程度の河川であったらしい。

百々向川は光が丘公園赤塚口の近く、赤塚新町3-28付近が水源と思われる。
とはいっても周囲は住宅街であり、想像の域を出ない。
東側に向かってやや高くなっており、おそらくこの辺りが水源であろうという
程度である。
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しかし数十メートルほど歩くと、住宅と住宅の間に暗渠道を見つけることができる。
水源の正確な位置こそわからないが、そこから流れ出る流路はハッキリとわかる。
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並んで歩くこともできないほどの細い道が続く。
宅地内からこの道に降りる鉄製の階段などもあり、暗渠の雰囲気を充分
楽しむことができる。
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その先は緑道となる。
通路の左手には下赤塚公園と称する児童公園、公園内には「こどもの池」
と称する小プールがあり、夏季には子供たちのよき遊び場となっているようだ。
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その先も百日紅の並木道が続く。
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その緑道も残念ながら、成増小学校の南側で終わってしまう、
その先の水路はおそらく小学校の敷地や近隣の住宅に埋もれてしまって
いるのだろうが、とりあえず北の川越街道へ向かって歩いていこう。
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次に百々向川の痕跡を見つけることができるのは、川越街道を渡った
治兵衛窪庚申塔
の脇からである。
この庚申塔は天明3年(1783)の浅間山大噴火ならびい大飢饉の犠牲者
を供養するために造立されたものだという。
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この辺りは小治兵衛窪(久保)という地名であり、その地名には百々向川
に因んで以下のような逸話が残っている。
昔、ここを流れていた百々向川に、丸太橋が架けられていた。とても寂しい
場所で、毎晩のように盗賊が出没し、1本橋のため逃げるに逃げられない
通行人から金品を奪うので恐れられていた。
ところがある朝、立派な橋に架け替えられていて、橋の手摺に、「たくさん
悪いことをしたので罪滅ぼしにこの橋を造る。 小治兵衛」と書かれた木
札が下げてあった。
その後は、通るのに大変便利になったばかりか盗人も出なくなり、人々は
この地を小治兵衛窪と呼ぶようになった。

(『板橋の史跡を訪ねる』(参考資料参照)より引用)

なお、かつては小治兵衛窪の付近に共同の洗い場があり、人々が野菜な
どを洗っていたという。

庚申塔の脇から、百々向川の川跡が再び現れ、北を走る東武東上線の
線路へと向かっている。
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東上線を越えた先にも、このような川跡の歩行者道がある。
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駅の北口付近では、商業ビル等が建ち、さすがに川跡を追うことは難しい。
但し、成増駅に降り立った方はお分かりだと思うが、谷状の地形がおおよ
その川筋を示してくれる。
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その成増駅の北から百々向川緑道が始まる。
百々向川緑道は5mはあろうかという崖の下に通っている。
地質学の方は疎いのでわからないが、おそらく千年単位もしくはそれ以
上の年月で浸食された結果であろう。
冒頭で水量が少ない河川と言ったが、太古はそれなりの川だったのかも
しれない。
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川を横切る道路は盛土として造られているので、階段を上がり、そしてま
た下るということをしなければならない。
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なります児童館の手前で再び階段を上下する。
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その階段を下りるとようやく平坦な遊歩道となる。
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S字カーブを描いた先で右手を見ると、驚くような坂がある。
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さすがに坂を上るのは大変であるが、坂の上から見る風景は格別だ。
余裕があるならば、この坂を上ることをお勧めしたい。
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その坂を上ったところに菅原神社が鎮座する。
創建年代は不明、旧成増村の鎮守で祭神は菅原道真公である。
江戸期には山王社と称したらしく、明治7年(1874)に村社として定められ
た時は菅原神社となっている。
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百々向川に戻ると、旧白子川との合流地点まで残り100m余りの直線が続く。
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成増3ー47付近で百々向川は旧白子川へと合流していた。
現在の白子川はさらに数十メートルほど先を新河岸川へ向かって流れて
いるが、この旧白子川には人工水路が設けられ、親水化が図られている。
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《参考資料》
『板橋の史跡を訪ねる』 いたばしまち博友の会



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新川 2

新川のコンクリート暗渠は、如意輪寺の先も東へと向かって続く。
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しばらく一般道の歩道として進むが、泉町水源というポンプ場で一般道とは離れる。
新川沿いには、この泉町水源の他にも、この先に中町一号水源がある。
地下水からの汲み上げとはいえ、水が豊富な地域なのだろう。
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新しく出来た調布保谷線という都道を横切り、西東京市役所保谷庁舎(旧保谷
市役所)の敷地を横断する。
新川の暗渠は、保谷庁舎への来訪者の自転車置場として利用されている。
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保谷庁舎を過ぎると、新川はいったん南下する。
中町の住宅街の中を蛇行しながら突き進む暗渠、道路との交差部分では階段状
になっている場所もある。
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緑道ほどではないが、暗渠沿いには草花が咲き、目を楽しませてくれる。
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暗渠は碧山小学校で一旦途切れる。
暗渠が学校の中を通るというのは、たまに目にする光景である。
恐らく学校という広い敷地を確保するためには、川沿いの湿地などを利用するし
かなかった結果であろう。
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小学校を迂回すると再び、住宅街の中に暗渠道を見ることができる。
そこから数百メートルほど進むと、天神山交差点に突き当たり、上流から続いて
きたコンクリート暗渠はここで終わる。
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参考文献とした『白子川を知っていますか』に寄れば、このままかえで通り
沿って北上しているように記載されているが、東京の河川東京の水 2009
fragments
というサイトでは、天神山交差点付近を頂点として周囲に迂回して
いたように推測している。
実際、現地を訪ねてみると、僅かだが交差点付近では起伏があるし、交差点
の北東に位置する農地や住宅街には開渠の水路跡を確認することができる。
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新川は迂回後、かえで通りに沿って北上する。
ただ、ここでも通りの西側、東小学校の南には水路敷がある。
かつて、この辺りの田畑に利用するために、水路が何本かに分かれていたの
だろうか。
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かえで通りに戻ると、通り沿いに民族学博物館発祥の地と書かれた説明板が
立てられている。
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それによると、日銀総裁や大蔵大臣をも努めた財界人であり民族学者であった
渋沢敬三(渋沢栄一の孫)、民俗学研究者の高橋文太郎、民家研究者の今和
次郎の三人により、昭和14年(1939)に開館した。
民家などの建物を野外に配置し、民具を屋内に陳列して一般に公開されたが、
昭和37年(1962)に閉館した。
閉館後、民具は文部省資料館を経て国立民俗学博物館に継承され、野外展示
物の高倉は、江戸東京たてもの園に移築・保存されている。

説明板から100メートルほど行くと、右手に畑が広がる。
その手前で新川は右折し、畑の南端沿いにコンクリート蓋暗渠が出現する。
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ただ、この蓋暗渠も百数十メートルほどで終了する。
この蓋暗渠が終わった場所で、新川は西東京市から練馬区へと入る。

その先、しばらく川跡は確認できない。
周辺にはブルーベリーの摘み取り農園が広がる。
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このブルーベリー、日本における発祥は小平市花小金井である。
東京農工大学の故 岩垣駛夫教授が、ブルーベリーをアメリカから取り寄せて
研究、昭和43年(1968)教え子の実家である小平市内の農家に栽培を託し
たのが始まりという。
ブルーベリーというと高原での栽培のイメージが強いが、平成22年の特産果
樹生産動態等調査(農水省)によると、東京は、長野、群馬に続いて3位の生
産高となっている。

南大泉1-49からは、新川は緑道となって現れる。
新川の最下流の数百メートルの区間は、この緑道となっている。
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緑道はタイル舗装され、脇にはグレーチングの蓋をされた雨水溝がつづく。
さすがにコンクリ蓋の道とは異なり、散策を楽しむ人とすれ違う。
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写真奥のスロープを上ると、そこは白子川最上流の橋、七頭橋だ。
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《参考文献》
『白子川を知っていますか -水辺再生に向けて-』 白子川汚濁対策協議会編


より大きな地図で 【川のプロムナード】白子川周辺マップ を表示

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新川 1

白子川の上流部には、西東京市北原町および谷戸町からの新川という支流がある。
その新川はごく一部を除いて暗渠であり、上流部から中流部にかけてコンクリート蓋
が続く。

新川沿いの窪地を新川窪地と称し、この窪地の底を走っている小溝をシマッポ(もし
くはシマッポリ)と呼んでいたという。
このシマッポは、常時流れるものではなく、豪雨の後に水が流れる程度のもので、
好天が続くと水は流れなくなる程度のものだったらしい。

新川は北原町3丁目付近からの流れと、その北、谷戸町1丁目付近からの流れの
2本の水流で始まり、如意輪寺の西、泉町2丁目で合流する。
前者を南支流、後者を北支流と呼ぶことにして、それぞれの流れを追うことから始め
よう。

まずは南支流から。
田無駅の北にある東京大学農学部農場の東、北原町3丁目の住宅街の一画に
コンクリート蓋暗渠が始まる。
すぐ西側は東大農場があるが、おそらく農場の中から続いているのであろう。
このコンクリート蓋暗渠を東へと辿っていく。
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田無とひばりが丘を結ぶ谷戸新道を渡り、その先も蓋暗渠が続く。
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田無第二中学校の東側で、すぐ北にあるフラワー通りという商店街から来る短い
水路と合流し、東へと流れていく。
この先は残念ながら住宅の中へと入ってしまうので、迂回せざるをえない。
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迂回した先の泉町1-11の水路脇には、小さな三角地がある。
ここにはエドジマ池と称する溜があったとのこと、その溜は豪雨の後の遊水池
程度のものであったらしい。
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さらに新川を下流へと歩いていく。
コンクリ蓋を辿っていけばよいので、追跡は容易い。
道路との交差地点では、橋跡も確認できる。
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途中、僅かな区間ではあるが、開渠となっている場所もある。
但し、水流は確認できない。
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その先、泉町2-13で、左側から北支流が合流する。
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今度は北支流を追ってみよう。
先ほどの南支流から500mほど北、谷戸新道脇の谷戸小学校に向かい側から
暗渠道が始まる。
こちらも南支流同様に、コンクリ蓋暗渠が続く。
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暗渠沿いの谷戸一丁目第一公園という児童公園の北側にはツルマの弁天池
という湧水池があり、弁天の小社が祀られていたという。
頭に鳥居の形を印したウナギが棲息しており、これが池の主だったという。
後に池を埋められた時、埋めた人に祟りがあったという言い伝えもある。
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道路との交差部にある柵、錆付いてはいるが、かえって古めしい雰囲気をかもし
出している。
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暗渠道は住宅街や畑の中を進んでいく。
北支流の暗渠道は、住民の通路として利用されているようで、時折、自転車が
カタカタと音をたててコンクリ蓋の上を通っていく。
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そして、先ほどの合流地点に達する。
合流地点の北、如意輪寺の西には、かつてマツバ池という池があったという。
この池は地下水が地表に現れる沼沢池で大マツバ・小マツバと呼ばれる2つ
の池から成り立っていたそうだ。
今は住宅街となっており、その存在をうかがい知ることはできない。

この辺りは、かつて「上宿」もしくは「大門」と呼ばれていた地域で、横山道に
沿って集落があり、市もたったといわれる。
その上宿には尉殿神社および四軒寺と呼ばれる4つの寺院がある。
その神社・寺院を順に紹介してみよう。

まずは尉殿神社、新川の北方、数百メートルの場所にある。
谷戸・宮山(現在の田無第二中学校付近)の尉殿大権現から、元和8年(1622)、
分祀され、上保谷村の鎮守として創建された。
(尉殿大権現はその後、青梅街道沿いに遷座、明治期に田無神社と改める)
祭神は級長戸辺命で、水の神として祀られたという。
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次に紹介するのは四軒寺の一つ、真言宗の慈光山宝樹院
他の寺院から南へ数百メートル離れ、南支流の西側、泉町2丁目にある。
創建年代は不明だが、源空法印(1711年寂)の開山と伝えられる。
江戸初期の寺院本末制(各宗派の寺院を本山・末寺の関係に置くことで、統制
を図った制度)により、石神井の三宝寺(『石神井川2』参照)の末寺となった。
旧字上宿にあったが、昭和6年(1931)に移転した。
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次は金輪山宝晃院、北支流が本堂と墓地の間を横切っている。
創建年代は不明だが、明治維新までは前述の尉殿神社の別当寺を務めてい
たという。
境内には明和8年(1771)造立に水子地蔵菩薩立像があり、西東京市教育委
員会の説明板によればその4年前に幕府は堕胎と間引きを禁する法度を出して
おり、その頃の農民の困窮の様子も説明されている。
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その宝晃院から北東へ100メートルほど歩くと、曹洞宗の祥高山東禅寺がある。
保谷村由緒年代記によれば、文禄3年(1595)の創建とのこと。
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こちらの境内には、万延元年(1860)造立の六地蔵菩薩立像がある。(写真左
の赤い屋根の下)
檀家信徒が念仏講を結集して造立したものであるという。

そして、四軒寺の最後に紹介するのが、真言宗の如意輪寺
北支流と南支流が合流した後の新川に沿って、北側に境内が広がる。
創建年代は不明、四軒寺の中では最も規模が大きく、寺格も上に位置されて
いたという。
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境内には気になる物件があった。下の写真の赤い橋である。
南を流れる新川からは数十メートルほどの位置にポツリと存在する。
特に説明板もないため、この橋が実際に使用されたものなのかは不明であるが、
新川に架かる赤い橋を想像するのも悪くはない。
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《参考文献》
『白子川を知っていますか -水辺再生に向けて-』 白子川汚濁対策協議会編



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白子川 3

白子川は、新東埼橋および東埼橋で、川越街道・旧川越街道に達する。
橋名の由来は、東京と埼玉の境にあるからであろう。
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この辺りは古代、朝鮮からの渡来人が入植した土地で新羅郡と呼ばれ、その新羅
が白子へと変化したものと言われる。
(大化の改新以後、大和政権は律令制度の整備の過程で、東国経営の一環として
 新羅・百済・高麗からの渡来人を武蔵国へ配置する政策をとった)
川越街道の白子宿として栄え、そのためか寺社もいくつか見られる。
また、家康が本能寺の変に遭遇して三河の帰る際、伊賀忍者が道案内をしたこと
をきっかけに、伊勢の白子に因んでこの白子一帯に領地として与えられた。

この白子の地では左岸の和光市側には段丘が迫り、湧水も多く見られる。
主な寺社、湧水を紹介しながら、この先を進むことにしよう。

旧川越街道を数百メートルほど行くと、白子熊野神社と清龍寺不動院がある。

白子熊野神社の創建年代は不明であるが、社伝によるとおよそ一千年前の発祥
と言われ、白子村の鎮守として栄えていた。
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隣接する清龍寺不動院は、天長7年(830)慈覚大師円仁の開創とされる。
滝行や護摩修行、坐禅などが行われる修行寺としても知られる。
境内には洞窟もあり、短いながらも洞窟巡りをすることもできる。
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白子熊野神社の社殿の裏手には、龍神池という湧水池を見ることができる。
崖下に広がる林の中に静寂した雰囲気が漂う。
明治9年(1876)には、境内に湧水を利用した日本初の養魚場ができたという。
(明治23年に閉鎖)
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清龍寺では湧水を利用して滝行が行われている。
滝行が行われる滝は「不動の滝」と称するが、乃木将軍が日露戦争への出陣に
先立ち修行したとのことから、「乃木大将修行の滝」とも言われているようだ。
残念ながら修行のために立入禁止となっていたので目にすることは出来なかっ
たが、同寺のサイトでその様子をうかがい知ることができる。

白子熊野神社の北東には滝坂という坂があり、坂の中途にある小島家湧水
から水が流れ出ている。
滝坂の由来は、湧水が滝のように流れ落ちていたことから呼ばれたものだが、
現在も滝坂脇の側溝を音を立てて水が流れ落ちている。
側溝を流れる水はドボドボというぐらい水量は多い。
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東武東上線の線路の南側にあるのが、天台宗の瑞應山地蔵院地福寺
永延年間(987~988)、尊恵上人による開基と言われる。
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この地福寺にも地蔵池という湧水池があり、池には多くの鯉が泳いでいる。
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これらの湧水は、白子川に水を落とす。
写真は東上線の高架橋脇で白子川に流れ出る地蔵池などからの湧水。
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東上線の下の寺子橋の先、右手に旧白子川児童遊園地という小さな児童遊園
がある。
その児童遊園の名が示す通り、そこは旧白子川の川跡である。
旧白子川は、現在の河川の東側を流れ、笹目橋脇で新河岸川へと合流していた
ようだ。
またこの川には、成増方面から百々向川小井戸川といった支流も流れ込んで
いた。
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現在、旧白子川緑道として整備され、一部区間には人工水路も設けられている。
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先ほどの地福寺から、線路を挟んで北側に成田山神護寺
説明板が無かったので由緒は不明であるが、成田山新勝寺の末寺の1つである。
不動明王を本尊とし、「田んぼの不動様」ともいわれた。
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東上線を越えた先、白子川は直線的な流れとなる。
三面コンクリートの護岸が続き、川沿いには住宅やマンションが建ち並ぶ。
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成増橋を左に行くと吹上観音として知られる臨済宗の福田山東明寺
天平年間に行基菩薩が観音堂として開創されたのが始まりとされ、室町初期に
智覚普明国師により開山された。
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吹上観音は江戸名所図会にも描かれ、絵の下部には蛇行する白子川も見える。
吹上観音
江戸名所図会 吹上観音  (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)

再び笹目通りと交差し、その先の右岸には三園浄水場がある。
水道水と工業用水併設した浄水場で、志木市の秋ヶ瀬取水堰で荒川より取水し、
練馬給水所及び板橋給水所に送水する。
2014-04-27_191.jpg

落合橋で白子川は終了し、新河岸川へと合流する。
対岸の土手の向こうは荒川の河川敷、土手の上は散歩する周辺住民が行き交う。
写真右に見える橋は新大宮バイパスの笹目橋である。
2014-04-27_195.jpg

《参考文献》
『白子川を知っていますか -水辺再生に向けて-』 白子川汚濁対策協議会編
『江戸の川 東京の川』 鈴木理生著


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善福寺川沿いのウォーキングから始め、東京や近郊の中小河川・用水・暗渠を巡る。
07年「善福寺川リバーサイドブログ」を綴り始め(14年6月閉鎖)、13年2月から当ブログを開始。

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