あけましておめでとうございます。
このブログを始めてから2度目の新年を迎えました。
本年も「川のプロムナード」をよろしくお願いします。
新春特別企画として、一文を書くこととしました。
(いつまで続くかわかりませんが(笑))
今年は、「川に歴史をみる」と題して綴ってみたいと思います。
駄文ですが、ご一読いただければ幸いです。以前、書いていたブログでは、ただ川や暗渠を追い、そこにあるものを見ると
いうスタンスで歩いていた。
このブログを始めるにあたり、史跡や神社仏閣を巡りながら歩くことにした。
中には二度目・三度目という河川もあり、史跡巡りをしながら歩いていると、ま
た違った側面を河川から感じることができる。
そこには、古代から現在まで人々の生活が詰まっているといっても過言ではな
いだろう。
当然のことながら、人が生活していく上で水というものは不可欠で、川の近くに
史跡などが集中することになる。
ということで、歴史を追いながら河川を見ていくことにしたい。
古代から中世へ川沿いの史跡を見ていくと、古くは旧石器・縄文・弥生といった時代まで遡るこ
とができる。
例えば、神田川沿いの塚山遺跡、善福寺川沿いの松ノ木遺跡、石神井川沿い
の下野谷遺跡、黒目川沿いの下里本邑遺跡など、いくつかの遺跡に触れ合う
ことができる。
古代人が川を中心として、生活を営んでいた証拠である。
人々は飲用として水を利用するだけでなく、川に水を求めてやってくる動物を
獲り、また川魚を生活の糧としていたことだろう。
さらに稲作文化が伝来すると、川との共存はますます強くなってくる。

左上:塚山遺跡、右上:松ノ木遺跡、左下:下野谷遺跡、右下:下里本邑遺跡
もっとも、公園などに展示されている遺跡はごく一部であり、実は多くの遺跡
が川沿いの住宅地などに埋もれてしまったことも事実である。
古墳時代にもその遺跡は流域に多く見られ、多摩川台の亀甲山古墳や宝莱
山古墳、朝霞の(黒目川)、三鷹市大沢の出山横穴墓群(野川)などがその一
例であると言えよう。

柊塚古墳
平安後期から貴族に変わって武士が台頭し、鎌倉・室町と武家社会が続くこと
になる。
川沿いを歩きながら神社に立ち寄ると、源頼義・義家や頼朝、また時代は下る
が太田道灌ゆかりの神社などに出会うことができる。
例をあげれば、大宮八幡宮(善福寺川)、駒繋神社(蛇崩川)、多摩川浅間神
社などである。
それは、この頃に創建された寺は、支配地域の明示といった主張のために造
営されたという性格もあるという。

左:大宮八幡宮、右上:駒繋神社、右下:多摩川浅間神社
当然のことながら、江戸期以降に建立された社寺の方がずっと多く、その多く
は、川沿いにある集落の信仰の対象として建立され、崇め続けられてきたも
のであろう。
また、川を歩きながら付近の神社や仏閣を訪ねると、多くは高台に設置されて
いることに気づく。
高台に神社を造る理由として、より高い場所に造営することにより神が降臨し
やすくするということが挙げられるが、洪水で流失する危険から守るということ
が大きいと考える。
時として、川は戦いの場ともなる。
都内であれば、多摩川沿いの分倍河原古戦場(元弘3年(1333))、野川沿い
の金井原古戦場(正平7年(1352))、妙正寺川沿いの江古田原沼袋古戦場(
文明9年(1477))などが挙げられるだろう。

金井原古戦場の碑
測量技術が未熟であった当時、川は領地の境界線としての重要な意味を持つ
ものであった。
西の方を見れば、山岳で境界が仕切られるというケースも多いが、こと関東に
おいては平野が広がっているために、河川が境界の重要な位置づけとして扱
われる傾向にあり、そこで争いが行われるのは避けられない。
もう一つ、河川沿いが戦場として選ばれるのは見通しがよく、周囲の高台に置
いた陣営からも戦況が把握しやすいという理由もあるだろう。
また、川沿いの高台に築城されるケースも見られる。
豊島氏の練馬城や石神井城(石神井川)、吉良氏の世田谷城(烏山川)などが
例として挙げられる。
川は周囲の湿地帯を含めて自然の要塞を作り上げ、また城内に多くの家来を
抱えるために水の確保が必要であったことなどが理由として挙げられる。

上:石神井城跡、下:世田谷城跡
江戸期豊臣秀吉は小田原攻めの後、徳川家康に関東への移封を命じ、天正18年
(1590)家康は江戸城へ入城する。
この頃になると、治水技術が発達し、人間は水をコントロールできるようになる。
家康は江戸に赴任すると、神田上水や六郷用水・二ヶ領用水の開削を命じる。
前者は江戸市中への上水道として、後者は農業用水として建設された。
当時の江戸はまだ日比谷入江が入り込んでいる状態であり、城下町を形成
するためには上水道は不可欠であった。
また、六郷用水などの農業用水は所領の石高を増加させる目的で開削された。

神田上水遺構(東京都水道歴史館内)
同時に家康は江戸を水害から守るために駿河台を切り崩し、神田川を隅田川
へ直接通すという工事を行った。
現在の神田川の水道橋以東の区間であり、仙台藩が施工を担当したので仙台
堀とも呼ばれる。(完成は家康の死後)
江戸市中の拡大に伴い、承応2年(1653)には羽村の取水堰から多摩川の水
を取り込んだ玉川上水が開削される。
当初は江戸市中への給水が主目的とされたが、以後、野火止用水をはじめと
する分水が造られ、武蔵野台地にある農村へと供給、農業用水・生活用水とし
ても利用されることとなる。

玉川上水(羽村堰付近)
神田上水や玉川上水が開削され、江戸市中の飲用・生活用水は確保されたと
はいえ、江戸を離れると、依然として水を河川に求めざるをえない。
その典型的な例として、街道の宿場町は川との交差地点にあったことが挙げ
られるだろう。
東海道の品川宿は目黒川や立会川との交差部に形成され、同様に中仙道の
板橋宿(石神井川)、川越街道の膝折宿(黒目川)も川との交点に設けられた。
再び江戸市中に目を向けると、川と川との間に堀が設けられ。川や堀には河岸
が設けられた。(武家専用のものは物揚場と称する)
日本橋の魚河岸には江戸市中で消費されり鮮魚や塩干魚が荷揚げされ、拡大
する江戸の台所として大商業地として発展した。(日本橋の魚河岸は大正期
まで日本橋魚市場として続き、関東大震災を契機に築地へと移転する。)

江戸名所図会 『日本橋魚市』
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載)河川は各地からの物流のルートとして利用され、小名木川(川と名づけられて
いるが、開削された運河である)は新川、江戸川、利根川を経由する航路とし
て整備された。
現在に例えれば、トラックが往来する高速道路の役割を果たしていたのである。
このように見ると、世界一の人口を有したといわれる江戸の発展は、河川なくし
ては語れない。
近代そして現代明治以降、鉄道の開通や船舶の大型化により流通事情は変化していくこと
になる。
とはいえ、現在のように流通網が張り巡らされたという状況ではないため、
河川を利用した舟運は依然として続いていた。
また、明治10年(1877)から15年(1882)にかけて流行したコレラを契機
に、近代上水道設置の機運が高まり、明治31年(1898)、玉川上水から
導水した淀橋浄水場が完成する。
江戸初期から市民の飲用水として機能してきた神田上水は同34年、その
機能を停止する。
一方、石神井川流域では明治9年(1876)火薬製造所が操業を開始、河川
が近代工業の発達を助けたといってよいだろう。

圧磨機圧輪記念碑(加賀西公園内)
そんな中、大正から昭和にかけて、河川に影響を及ぼす二つの大きな事案が
発生する。
関東大震災と太平洋戦争である。
関東大震災では西堀留川などが、戦後は竜閑川、浜町川、六間堀などが残土
処理場の対象として選ばれ、姿を消していった。
さらには東京の市域拡大に伴い、河川は生活排水や工業排水により汚染され、
都内の河川は汚染されていった。
そのような中。昭和36年(1961)、「東京都市計画河川下水道調査特別委員
会 委員長報告」、いわゆる「36答申」が都知事に提出され、呑川・九品仏川・
立会川・北沢川・烏山川・蛇崩川・目黒川・渋谷川・古川・桃園川・長島川・前堰
川・小松川・境川・東支川・田柄川を下水道幹線化することを推挙された。
一部は残存したものの、多くの河川に蓋が架けられ、暗渠化された。
また東京オリンピック開催に向けて首都高速が建設され、都心の楓川、築地川
などの掘割が道路、また日本橋川や古川などでは現在でも河川の上に首都高
が覆いかぶさっている。
このようにして、東京の河川は一変し、現在に至っている。
昭和50年代後半以降、都市緑化ならびに自然回帰が訴えられるようになった。
河川沿いでは親水と称して水辺の環境を整備し、水と触れ合えることができる
ようになった。
生活用水で汚染された河川には再び清流が流れ、野鳥たちが飛び交う姿が
みられるようになった。
一時期は、多摩西部まで生息域を後退させたと言われるカワセミも、現在では
都内の河川に戻ってきており、自然の復活を感じることができる。

野川
一方、暗渠化されてしまった河川でも緑道整備が行われ、地域住民の散歩道
として利用され、緑道脇には四季折々の花が咲く。

烏山川緑道
しかしながら時として河川は牙を向き、河川流域では度々浸水被害が起こって
いる。
そのための対策として各地に調整池などが造られ、また河川改修工事が行わ
れている。
ただ、現在の対策の多くは時間雨量50ミリを想定としたものであり、時とし
て100ミリといったゲリラ豪雨も発生し、対策が追いつかないというのが現
状であろう。
河川改修によって垂直護岸化された河川を目にすると無機質な感覚を覚える
ことさえあるが、自然の脅威への対抗措置として仕方がないことかもしれない。

妙正寺川
とはいえ、水というものが人間にとって不可欠である以上、我々は川と巧く付き
合う方法を選択するしかない。
一散歩人としてはその対応を見届けることしかできないのかもしれないが、今
後も人間と川の共存がよりよい方向で進むことを望む次第である。